「こまちいいいいいいいいいいい!」
また始まった、と。
僕が頭を抱え、溜息を深くついたのに、彼女は果たして気付いただろうか。
「小町はっ!小町はどこに居ますか!?」
やや緑がかったショートヘアーを、仰々しい王冠の様な帽子で押さえつけた、小さな体躯の少女――のような風貌の、女性。彼女はぜえ、ぜえ、と荒く息を吐きながら、やや血走った目で僕を睨みつける――思わず僕は、身をこわばらせた。何もやっていないはずなのに。さっきの溜息が良くなかっただろうか。
「……さあ。少なくともここには来てませんよ」
「そうですか。見たら、すぐに私に!」
平常心で答えたのが功を奏したのか、彼女はその僕の言葉を聞くやいなや、すぐさま身を翻して部屋を後にした。
「こまちいいいいいいいいいいい……」
遠くなっていく叫び声と足音、それが完全に消えたのを確認して、改めて大きく、はあ、と溜息をつく――手馴れたように、手の平で額の汗を拭った。
「ああ、言い忘れていましたが」
先ほどの彼女とは全く違った声音――けれどそれは、間違いなく彼女のものであった――それが響いたので、僕の体が石のように固まる。
「溜息二回で、二点減点です。現在は二十四点、留意しておくように」
聞かれていたのか、それもさっきのも。乾いたような笑いしか出ない。どこまで目ざといんだ、この人は。
「それでいいのです。一点追加」
彼女――四季映姫・ヤマザナドゥは、何時も手に持っている悔悟棒を僕の眼前に突き出し、言う。
「貴方はそうやって、ずっと笑っていればよろしい」
そんな彼女の死刑宣告のような言葉に、僕はやはり苦笑いを浮かべた。
そんな僕を見て、彼女は満足そうに笑った。
そしてまた、かくれんぼへと戻っていった。
僕は人間だった。
そうやって胸を張って言えない位、人間としては不適格だったけれど、人間だった。
けれど今は、なんでもない。
命を落として、裁判にも掛けられていない今の僕を呼称するような言葉を、僕はとんと知らない。
唯一つ言えることは、僕は既に人間では無いこと。
そして、その『人間ではない何か』である僕には、役職がある。
命も、名前も、種族も無いのに、職はある――死んで無になってからも働かされるなんて、とんだワーカホリックだ、僕という奴は。
そして、その役職が。
『閻魔補佐』だなんて言うんだから、まったく性質が悪い。
僕は。
『人間ではない何か』は。
他の『人間ではない何か』を裁く人のそばに立って、一緒にその罪を暴くなんて、そんなご立派なものではないのに。
生前も、死後も。
僕には――手に余る。
いつの間にか、寝てしまったようだった。目をしぱしぱさせながら、机の上に目をやる。散らかった書類、その多くは、僕のこなすべき事務。
「……やるかな」
あまり気乗りはしないが、これも仕事である。これを僕がほっぽりだしてしまえば、他に迷惑がかかる。生前には、苦労して誰にも迷惑を掛けないように生きていたのに、死んだ先で迷惑を掛けてしまったら、どうにもやりきれない。
それとも、こういう性格だったから。
四季映姫は僕の願いを、聞き入れてくれなかったのだろうか。
扉がノックされる。
「……はい?」
そう言いながら、まとめた書類の束を机の上に置く。誰だろう、まさかまた四季映姫が来たのだろうか。妙な事を考えていたのを、咎めにでも来たのか。
ゆっくりと、扉を開ける。
「ちょりーっす」
「………………」
扉を閉める。
「ちょっ!?た、頼むよ!映姫様に追われてるんだ、ちょっと匿ってくれるだけでいいから!な、な!お願い!先っぽだけだから!」
何の先っぽだ。とは、言わない。聞いたら本当に言いそうだ。この、小野塚小町という死神ならば。
「わかったわかった、開けるから」
「おーう、さんきゅーさんきゅー」
これ以上危ない発言が飛んでくるのも御免なので、僕は堪忍して扉を開け、小町を迎え入れると、すぐさま扉を閉める。
「……それで、今回は何?」
「あれ、美味しそうなお菓子あるじゃないか。丁度いいや」
「丁度良くない。質問に答えること」
視界の端っこで、RPGの主人公の如く戸棚を荒らす小町の手から、戦利品の菓子を奪い取る。
「えぇー。だって、それ言ったらお前、映姫様にあたいのこと突き出すじゃんか」
「解んないでしょ。理由によっては、突き出さないで一緒に謝ってあげるかもしれないし」
「謝る事確定!?」
何をいまさらなことを言うんだろう。
「小町が四季映姫に追い回される理由なんて、そう幾つも思い当たらないから。どうせまた、仕事サボって遊んでたとか、居眠りしてたとか、そんなとこなんでしょ?」
「ちげーし、全然ちげーし。あたいがサボってたって、それどこ情報?どこ情報よー?」
「四季映姫ー」
「うわああああああ!止めて止めてお願いしますもうしませんからああああああ!」
扉を開けて大声で叫ぶ僕を、小町が慌てて制止する。そこまで焦るのなら、最初からそういうこと言わなきゃいいのに。
「解った、言う。言うよ」
そう観念したように言うと、小町は今、四季映姫に追われている理由を話し始めた。
「実は、サボってました」
「四季映姫ー。ホシはここにいるよー」
「ご協力、感謝いたします」
「うわああああああ!」
そしてまた、いつもの時間が始まる。
本当に反省しているのですかガミガミガミガミ。
大体貴方という人はガミガミガミガミ。
聞いているのですかガミガミガミガミ。
私は貴方が憎いんじゃなくて怒っているのではガミガミ。
「……はい、はい。すみませんでした」
正座をさせられ、顔を俯かせて映姫の説教を聴く小町。頭部には、漫画か何かに出てきそうなほど、大きなこぶが出来ている。
「貴方も貴方ですよ!小町を一瞬でも招き入れようとしたということは、上司である私の命令に背いたということになるのです!解っているのですか!?」
「はい、その通りです」
矛先が僕に向いたので、すぐに頭を垂れる。こぶのない、まっさらな頭。元々僕はついでに怒られているようなものなので、小町のように悔悟棒で殴られずに済んだ。まあ、一緒に謝る、と言いはしたものの、罰まで同じものを受ける義理は無いし。
「……まあ、今回はこの程度で済ませましょう。今後このようなことがあったら、これで済みませんから、そのつもりで」
「はい……はい……すみませんでした……」
「………………」
四季映姫は、無言で再び悔悟棒を振り上げる。
そして、息をするように、それを振り下ろした。
「……頭がっ!割れるように痛いっ!」
ごろんごろん、とのた打ち回る小町。
「説教中に寝るのがありますか!いいですか小町、私は貴方のそういった不真面目な態度が――」
ガミガミガミガミ、と。
再び始まる説教に、僕は呆れたように肩を落とした。
『これを』
四季映姫・ヤマザナドゥが、そう言って僕に手渡してきたのは、一枚の四つ折にされた紙であった。何の変哲も無い、飾り気も無い、味気も無ければ情も無い。そんな、一枚の和紙。
僕はそれを何も言わずに開く。恐らくその紙には、僕に下される判決が記されているのだろう。そして中に何が書いてあろうと、僕は驚かない自信――というか、覚悟があった。
僕が生きている時。
いわゆる『生前』というやつだった時。
一体何をしてきただろう。
一体何を残しただろう。
思い返せど、何も思い返すことは無い。
いや、言葉が足りない――思い返すことなど、出来るはずが無い。
何も成さず、ただ怠惰に生きていた。
それならいっそのこと、人生を最後まで全うしたかった。
けれどそれさえ出来なかった――死んでも死に切れない、そんな浅はかな感情しか浮かんでこない僕なんかには。
『地獄に行かせて下さい』
四季映姫・ヤマザナドゥと初めて会った時、そして彼女が閻魔という役職に就いていると知った時――気がつけば僕は彼女に真顔で、こう口走っていた。
こんな僕でも。
痛みは感じる。
辛さは感じる。
罪を償える。
たとえ僕に、犯した罪が無くとも。
罪の意識を償う事は、出来る。
けれど、それを聞いた四季映姫は。
口を開く。
『貴方は地獄には行けません』
悪行を働いていませんから、と。
続ける。
『かといって、天国へも行けません』
善行を積んでいませんから、と。
僕は答える。
『それなら僕は、どうすれば』
どこに行けば、いいのですか。
四季映姫は答える。
『今の貴方は、灰色です』
ここから白くもなれる。
ここから黒くもなれる。
『そのような半端者を、天国や地獄に送る訳には行きません』
天国で悪行を働かれては困ります。
地獄で悔い改めないのも困ります。
ですので、と。
『貴方はしばらく、こちらに留まっていただきます』
『しばらくって……』
僕の言葉に、四季映姫は少し考え込む素振りを見せた後、手に持った悔悟棒を、机に立てた。
どちらかに倒れる、と思われたその棒はしかし、どちらにも倒れず――しゃんと背筋を伸ばして、直立不動でいた。
四季映姫はそれを見て、一瞬笑みを見せた。
そして、言う。
『半端は半端でも、こうなれる程度までには』
かぁん、と。
裁判終了の音が響いた。
『判決。貴方は今日付で、私の部下です』
四季映姫は僕に、ある基準を設けた。
子供でも理解できる、単純なもの。
『笑ったら一点追加、落ち込んだら一点減点』
五十に達したら、天国へ。
ゼロになったら、地獄へ。
持ち点は二十五点。
今の点数は、変わらずの二十五点だ。
増えたと思ったら減って。
減ったと思ったら増える。
点数は二十三から七の間を、行ったり来たりしている。
なぜかって、そんなもの。
原因は解り切っている。
「もしもし、聞いていますか!?」
は、っと覚醒する。四季映姫の顔がすぐ目の前にある。そうだった、今は説教の途中だった――失念して、思案に耽っていた。
「聞いていなかったのですね?」
「………………」
こっくり、と頷く。
ああ、これは減点を食らう――と思うのは、一瞬である。
「うん、素直でよろしい。一点追加」
……ほら。
「映姫様ー。それってちょっと甘くないですかー?」
小町がそう言って、四季映姫を煽る。その顔は何だかにやついていた。
「わ、私のことはいいんです。それよりも、小町。貴方は自分の心配をしていなさい」
少しどもりながら、小町のほうを向き直る。その顔はまた、すっかり説教モードへと摩り替わっていた。それを見た小町が、思わず「うげ」と漏らしてしまい、また四季映姫の火に脂を注ぐ結果となる。
再び激しくなった四季映姫の口調に――僕は、苦笑いを浮かべる。
「む」
それを目ざとく、四季映姫が見つけた。
そして、また――。
「説教中に笑うとは、なっていませんね。一点減点です」
僕の持ち点が、二十五に戻ったので。
僕と小町は、思わず顔を見合わせ、笑い合う。
そしてまた、今日何度目かの、説教が始まって。
一言、呟いた。
「僕は、いつになったら、ここから出られるのかな」
それを聞いてか聞かずか――四季映姫は一つ手を叩き、言う。
「さあ、説教はまだまだ続きますよ」
――四季映姫は、まだまだ、僕をここから出す気は無いようだ。
その事実に、僕はまた、苦笑いを浮かべて。
「一点追加」
四季映姫は、もはやお決まりの台詞を言う。
「貴方はそうやって、ずっと笑っていればよろしい」
その方が、溜め息をつくよりも、楽だとは思いませんか?
そう言って、四季映姫が微笑みかけるので。
僕はもう、白旗を掲げるように頭を垂れるしかなかった。
「落ち込んではいけませんね。一点減点」