A remnant of the past   作:速水亜希

5 / 5
大変遅くなりました。昨年から続くシリーズの最終章です。
今までの倍くらい文章量が多いので休みながら読んでくださいー


We Need Each Other

 薄暗く、狭い店内。

 常夜灯のような赤黒い光が点々と辺りを照らすだけの世界。

 人々の姿を象った石像のようなものが、あるべき場所にあるだけの、無機質で──ぞっとするような静寂。酒場には似つかわしくないほどの静寂。

 その中で俺は一人ぽつんと突っ立っていた。どの人型の像を見ても、顔の輪郭がぼんやり彫られた彫像のようだった。記憶の中でその輪郭が留められてないことを象徴するかのように。

 ホワイトチャペルとマグノリアは在るべき場所で在るべき事をしている最中、時間というものが奪われたかのように動作の途中で止まっていた。マグノリアはマイクスタンドを片手に添えるような形で、もう片方の手を腰に当てて。ホワイトチャペルはグラスを磨いているようで、挟める二本のアームでグラスを持ち上げていたまま、動きを停止していた。

 普段以上に薄暗い店内を、常夜灯のみが照らす中を見渡しながら、俺はつ、と首と体をそちらへ向ける。

 鉄製の扉がつけられていたであろう枠の上にある壁に、どっかからか持ってきた木の板を組み合わせて「VIP」の文字がでかでかと書かれてある。この先はVIPルームだ、といわんばかりの主張だ。……もっとも俺はこの先の部屋にVIPが待ち構えてたり、なんて見たことがなかった。

 この先に居たのは──口が悪く、所々煤けて裾がぼろぼろに破れたダスター・コートを纏った、軍用帽子を目深に被る男一人だけだった。……いや、初めて見たときはそいつともう二人ほど居たか。そいつが元々身を寄せていたガンナー一派の頭二人。

 この場所に導かれた以上、マクレディが居るのはそこしかない──突っ立ったままの足を一歩、VIPルームへ向けて踏み出すと同時に足元がぐらり、とふらつく。何だ、と思うより前に足元に目をやると──さっき、18歳のマクレディを助けた後に見た時よりも足元の輪郭が消えかかっていた。足元を透けた地面が目に入ってくる。

「……何がおきてるんだ?」

 言いながら両手を見ると、さっきは指先がうっすら消えていただけだったのが、指先は既に輪郭を失っているばかりか、手のひらまでぼんやりした半透明の状態になっているではないか。──明らかにさっきより消えかかっている。それも、徐々に。

『アマリ、Dr.アマリ、聞こえるか?』

 原因が何か分かるかもと彼女に呼びかけてみるものの、何も頭に飛び込んでこない。──また移動したせいで彼女の声が届かなくなっちまったのか。肝心のときに役にたたないもんだ。……今は自分の事はほっとこう。マクレディを助けないと。

 輪郭を失い、透明になった状態でも地面を歩く感触はする。見えなくなっているだけの事じゃないか、と自分に言い聞かせながら──俺はVIPルームへ続く続く扉をくぐった。

 扉の枠をくぐると、狭い入り口とはうってかわって大の男二人が並んで歩いても肩がぶつからない程度の広く短い通路に出る。通路脇の壁と天井の当たる場所に引っかかるように釘で打ちつけ、その下をくぐらせるようにして引っかかっている常夜灯の鈍く赤い光が妖しげに通路と、その先の部屋を煌々と照らしていた。元々は地下鉄の待合室だったのだろう、通路には戦前に貼られた、くたびれたように所々よれよれになったポスターが見受けられる。

 かつっ、と音を立てながらタイル状にしきつめられた床を歩いていく。──が、すぐに違和感を覚えた。VIPルームまでは歩いて数歩の距離しかないのに、歩いても歩いても部屋に辿り着けない。

 見えないランニングマシーンを延々一人で歩いている感覚といえばいいか、……いや、歩いている。実際通路を進んでいる感覚はする。背景も流れている。それなのに通路の先に辿り着けないのだ。

 何者かに阻まれているのだろうか? ──後ろを振り返っても、さっき通った入り口の枠が見えるだけ。一人通路の真ん中で立ち往生しているかのようだった。こんな感覚は今までの記憶の中ですら感じたことがないのに。

「くそっ……何が起きてるんだ」

 拒絶、という言葉がふいに浮かんだ。──拒絶だと? 何でマクレディが俺を拒絶する必要がある? 第一俺は彼の記憶の外──マクレディの記憶の中から生み出された存在じゃない。

 だから拒絶されるのか? それだと今までやってきた事の理由にならないじゃないか。俺はマクレディを助けてきた。ここにだって彼の記憶から導かれて来たんだ。拒絶される理由なんて無い。……と、なると。

「マクレディ!」

 声を張り上げた。俺だということを認識してもらうためだった。──もしこれが、拒絶の意味なら。彼の脳が彼自身を防護するために行っている「防御反応」だとしたら?

「この先にお前が居るのは分かってる。だから俺を通せ。俺はお前を殺しに来たんじゃない、助けにきたんだ! 助かりたいなら俺を受け入れろ、ここから進ませろ!」

 叫んで届くかは分からなかったが、こんな場所で立ち往生している余裕はなさそうだった。どんどん自分の手足が消えている。その理由だって分からないのにマクレディ自身に拒絶されるなんてあほらしい。一発殴っても気がすまない位だ。

 と、叫びが通じたのかわからないが──辺りがざざっ、と砂嵐のようにぶれた。リトル・ランプライトで見た時と同じだ。彼の記憶が躍動する感覚。──もしや、と思って足を踏み出す。違和感なく進める。先ほどまで延々歩いても辿り着けなかったVIPルームの入り口に難なく辿り着くことが出来た。

 部屋を見渡す。──VIPルームといってもせいぜい10坪程度のこぢんまりとした室内に、ちょっとした調度品や棚、椅子が無造作に置かれているだけの殺風景な部屋だ。壁にはどっかから拾ってきた風景画の絵画が額縁に嵌められた状態でこれまた無造作にかけられている。傾いていたりするのはご愛嬌だろう。

 通路同様、四方の壁を囲むように赤い常夜灯が電飾のように括り付けられてあった。──そんな赤い光の室内の真ん中、壁に寄りかかるようにしておかれている一人用の椅子を囲むように、二人の人物が視界を遮っている。心なしか、人物の大きさが大きく感じられるのは、記憶の中の世界のせいか、それとも……。

 この状況、覚えている。俺が初めて彼と会った時。

 彼は声を荒げた状態で、相手を罵っていた。罵りながら、その声に怯えが若干、含まれていた事も覚えている。それでも虚勢を張って怒声を張り上げていた。そうでもしないと自分が潰されてしまいかねなかったのだろう──恐怖という感情に。

「マ……」

 名前を呼ぼうとした時だった。声が飛んできたのだ。……俺に向けてではない、二人の姿の先、恐らくマクレディが座っている椅子に向かって。

「お前は嘘つきだ」

「弱虫だ」

「誰もお前を必要としない」

「お前はいつも一人。親しい相手は皆お前と関わると身を滅ぼす」

「誰からも必要とされない、哀れな奴だ」

 ……聞いたことのある声だった。おかしなことに、声は一人分の声しか耳に入ってこない。目の前には二人──ウィンロックとバーンズ──が立っているのにも関わらず。

「おい、やめろ!」

 俺がウィンロックであろう人物の方に手をかける、と同時に触れた部分からぴしっ、と相手の身体に亀裂が走った。──えっ?

「なっ、何だ?」

 亀裂が走った部分はどんどん広がり、やがて身体を二分するまで達したと同時にがらがらと音を立てて床に崩れ落ちていく。──先ほどサード・レールの中で見たホワイトチャペルや客と同じだ。輪郭がぼんやりと施されただけの彫像。

 バーンズであろう人物にも触れてみると、同じように音を立てて崩れ落ちていった。──僅かにたつ煙に混じってその先、一人の男が突っ立っている。その正面、向かうように椅子に座って膝を抱えるように身を屈めているのは──見紛う事なきマクレディだった。

「マクレディ!」

 近づこうとする、が──不思議な事に、見えない壁に阻まれているようで、彼に触れる事も出来なければ、その座っている椅子に近づくことも出来ない。

 どうやらそれは彼の正面に突っ立っている男も同様で、相変わらず彼に対してぶつぶつと酷い事──というより子供だましの悪言にしか聞こえないのだが──をつぶやいている。もしやこいつがアンハッピーターンの影響で具現化した姿か?

「やめろって言ってるだろう!」

 荒々しく、ぐいと肩に手をかけると今度は亀裂が走ることはしなかったが──ふ、とこちらを振り向いた姿に俺は目を剥いた。

 肌はやや褐色、髪の色は山吹色で、口には下卑たにやにや笑いを含ませ、凝視するようにぎょろりと目線をこちらに向けた。──ぞくっとする。こんなにも嫌らしい顔つきが出来るのか、俺って奴は?

 自分自身を鏡以外で見たことなんかなかった。それも俺が知ってる俺らしい顔じゃなく、歪にゆがめられた表情は明らかに悪夢の影響を帯びて変化したそれそのものだった。──アンハッピーターンが俺の姿を模してそこに突っ立っていた。

 

「な……なんで」

 思わず漏れる言葉を他所に、“ジュリアン”は顔をさらに歪に歪ませた。怪訝そうにこちらを舐めるような視線を配り、

《……お前、誰だ? この姿を借りているのは俺だけの筈だが》

 俺の存在が分かっていない様子だった。……無理もないだろう。どの記憶の中でもアンハッピーターンは俺の存在を知ってる様子はなかったしな。

「俺はあんたみたいに他人の姿を借りてるんじゃない。あんたが借りてるその姿の張本人さ。俺はマクレディを助けに外から来た。そこを退け、ガキの悪口みたいな事をぶつぶつ言ってんじゃねーよ」

 自分に対して毒を吐くというのも変な感覚だ──が、俺の姿を模したアンハッピーターンはこちらの言い分の何が面白いのか、くすくす笑い始め、やがてあははと声を上げて笑い出す始末。自分の姿を第三者から見てるとはいえ、さすがにイラっときて、

「何がおかしい!」

 声を荒げると、相手──“ジュリアン”はぴたっと笑いを止め、すっ、と椅子に座って身を屈めているマクレディを指差した。

《……分かるか? こいつ、最後の抵抗してんだ。あんたの姿を模した状態で近づいたら一瞬許したようなそぶりを見せたのにな。また自分の殻に閉じこもっちまった。それもどこまで持つかわからんが、こんな状態でこいつを救うことなんてできねーだろ、え?》

 明らかに今まで対峙してきたアンハッピーターンとは様子が違う。……自分と対峙しているせいか? マクレディにとって俺の存在がどこまで影響を及ぼすのかは分からないが、今までは彼の記憶の存在の中から現われていた小さな少女や奥さんの姿よりも、過去よりも現在に近い存在だ。……そして、今俺は実際自分の姿をした悪夢と向き合っている。これが今までの悪夢と何が違うかもしれないし、そうじゃないかもしれない。いずれにしても、未知数の存在なのは間違いなかった。

「……出来るさ。少なくとも彼を傷つけるあんたの存在を消す事位はな」

 虚勢を張って見せる。そうでもないと、自分自身が影に取り込まれそうな、飲み込まれてしまいそうな……そんな気がした。

 これは放っておけないと思ったのか“ジュリアン”がこちらに向き直った。面倒くさそうに首をぐるりと一回転させ、すっとこちらに右手を伸ばす。

《邪魔をするな》

 言ったかみなかで手のひらから現れたのは黒い霞。何度となくあれに襲い掛かられたが、俺には全く効かないことも分かっている。

 だから相手に掴みかかろうと足を踏み出した、その時だった。ぐっ、と何か強い力に足を掴まれたのは。

 えっと声を出す間もなかった。視界に飛び込んできたのは黒い霞が、俺の脚──殆ど半透明で見えなくなっているそれ──を掴み、走った方向と反対側の壁に叩きつけられるまで、俺は自分に何が起きているのか理解できなかったのだ。

「──っ!」

 背中の衝撃と痛みで意識が僅かながら混濁する。矢継ぎ早に黒い霞が俺の身体にレーザーの光線の如く襲い掛かってくるが、不思議な事に身体の見える部分──即ち、実体がまだ確認できる顔や胴体だけは霞の影響を全く受けなかった。

《……? 身体を貫通するだと?》

 怪訝そうにごちる“ジュリアン”を他所に激痛に顔をしかめながらもよろよろと立ち上がろうとする──俺の足を、とぐろ状に絡みついた黒い霞は、開放させまいとばかりに再びぐいっと身体ごと引っ張り上げ、またしても俺はVIPルームの壁にたたきつけられた。

「ぐあぁぁっ!」

 先程よりも痛みが激しい。叩き付けられた衝撃でぱらぱらと壁のタイルなどが頭に落ちてくる。……いくら相手の攻撃が効かなくても、掴まされてこうされちゃこっちもたまったもんじゃない。先ずはこの足に絡みつく霞を切らないと。

 念じるだけでほぼ実体のない右手に炎を纏った片手剣──シシケバブ──が具現化されて俺の手に収まる、と同時に俺は脚を掴む黒い霞に向かって一気に刃を突き立てた。じゃっ、と燃える音を立てて霞が焼かれ霧散する。

 拘束が剥がれると同時に立ち上がり、俺は悪夢の姿を借りた自分に向かって一気に間合いを詰めようと地面を蹴った。霞が再び押し寄せてくるも薙ぎ払いながら相手に向かってもんどりうつように飛び込む。勢いで俺は“ジュリアン”と同時に倒れこんだ。

 頭をしたたかに打ったのか、痛そうにしかめる悪夢に向かって、

「マクレディの頭から出て行け! これ以上俺の姿で彼を傷つけるんじゃねぇ!」

 シシケバブの柄を相手の顔にめりこませた。痛みを堪えきれず呻くように低くくぐもった声を出す。もう一度、と腕を振り下ろしたが、さすがに何度も殴られる訳にはいかないとばかりにがっ、と腕を握ってくる。離そうと腕を引っ込めると同時に、どこにそんな力があるのか、相手はシシケバブを持った俺の腕を軽々と振り回す。視界が半回転したと同時に床に叩きつけられた。……何かの格闘技にこんな技があったような気がするが、一瞬何故自分のほうが床でのびてるのか理解できなかった。

 僅かに身体の自由が利かないと感じる間もなく再び襲ってくる激痛。輪郭が殆どなくなっている手の指からシシケバブが離れた。からからと音を立ててタイルの床を滑っていく。

「……くそっ」

 よろめきながらも立ち上がるより先に、相手がこちらに近づきしな右手首をがっ、と掴んできた。ぎりぎりと握力で手首を潰そうとしてくる。痛みに顔が歪む。

《手にも俺の攻撃が通じるみたいだな……こっちは、》

 言いながら彼は足を持ち上げ、蹴ろうとばかりに大きく足を振りかぶった。思わず目を瞑ってしまう……が、何も起こらない。

 薄目を開けて見ると、鳩尾を蹴り上げようとしたのか相手の膝は俺の胴体にめりこんでいた。痛みも何もなく、突き抜けている……リトルランプライトで、俺がプリンセスの手からマクレディを離そうとした時と同じだ。互いの攻撃は干渉されない──筈だった。俺の両手足の末端を除いては。

《……やはり無理か。なら手足だけでも潰せば》

 足のほうに気をとられている相手の隙を俺は見逃さなかった。──そうやられてばかりいられるか! 

 掴まれてないもう片方の手で俺の右手を掴む“ジュリアン”の手をがっ、と殴りつける。今までならさっきの相手の蹴り同様に俺の手が突き抜けていただろう攻撃も、今度は難なく相手の手にヒットし、殴られた衝撃でぱっと手を離した彼の隙をついて、俺は床に落ちてるシシケバブに向かって走り出そうとした──が。

《──逃がすか!》

 黒い霞が両足を掴んだと同時にバランスを失って倒れてしまう。立ち上がろうとするもそれだけでは終わらず、いとも簡単に俺の身体を足から持ち上げたかと思えば、ぶんと振り回しながら俺の身体を強烈に床に叩きつけた。ばん、ばん、と何度も何度も俺の脚を持ち上げては軽々と地面に叩きつける。顔の皮膚が裂け、血が飛び散るのが嫌でも分かった。

 痛みに全身が悲鳴を上げたが、何度も何度も俺は持ち上げられては床にばんばんと叩きつけられる。意識を失いそうになるのを必死に堪えた。身体はジャンプスーツで覆われているためさほど影響はなくても、血の通った身体がこんな攻撃を何度も受けていたら確実に死んでいただろう。全身打撲で。……いや、意識下でもこの痛みは耐えられそうにない。

「はぁっ……はぁっ……」

 何度も何度も叩きつけられたせいか、口の中まで切ったようでにわかに鉄の味がする。意識の中でもこんな感覚を得るなんて思いもしなかった。すぐに倒して、マクレディを開放してやらなければと思っていたのに……そうだ、マクレディ。マクレディはどうした?

 《……ちっ、こいつみたいにあいつもさっさと折れてくれりゃいいのによ》

 ぐったりとした俺を見て戦意喪失したと判断したのか、黒い霞が俺の脚をふっと開放した。支えていたものがなくなったためどさり、と身体がぼろ雑巾のように床に落ちる。痛みが全身を覆い、立ち上がることすらままならない。

 こちらを一瞥し、“ジュリアン”はふん、と鼻をならしながらマクレディの座る──正確には座ったままじっとうずくまっているだけだが──正面に立つと、掴みかからんばかりの勢いで彼の方へ両手を伸ばした──が、見えない何かに弾かれたように、それが勢いよく引っ込められる。まるで……熱いものに触れたときびくっとして手を引っ込めるような所作で。

 その時、俺は確信した。なぜ“ジュリアン”がマクレディに触れることが出来ないのか。そして──触れることが出来るのは恐らく俺だけだ、という事実を。

「そうか……あいつの最大の敗因は、俺の姿に扮したせい、って事か……っててて」

 独白を漏らすだけで切った口の皮膚から痛みが走る。──そうだった、俺と彼には道が繋がっていたんだよな。

 そしてこの場所はDr.アマリが言うように言い換えれば「第22セクター」の中のマクレディの世界。現在進行形で進む記憶の中、ごく最近の記憶の一角だ。最近の記憶の中で存在する俺が二人居たとしても、俺とマクレディを繋げる唯一の手段があるじゃないか。

 ──左手に嵌った指輪を見ようとするも、指の輪郭が薄れているせいで判別がつかないが、感触は確かにそこにある。心なしか、それが非常にありがたかった。

 左手でならあるいは──触れられるかもしれない。俺はずるずると床を這いながら、マクレディに近づこうとした。

「……マクレ、ディ」

 ほんの少し腰を浮かそうとするだけで激痛が走る。思わず目から涙が零れた。それは受けた痛みからではなく、ここまで来て助けられないなんて考えたくない、という悔しさから来たものだったのかもしれない。

 僅かに少しずつ這いながら、俺はマクレディに呼びかけた。俺の姿を模したアンハッピーターンはこちらを睨むも、最早何も出来まいと鷹を括っているのか、彼の正面でぶつぶつと先程と同じことを言い続けているに留まっている。言いながら何度も手を近づけるも、弾かれていた。……それもいつまで持つか分からない。

「……マクレディ。お前を、たす、けに、来たんだ」

 はぁはぁ息を荒げながら徐々に近づいて、なんとか椅子に触れるかみなかのところで俺は左手を伸ばした。……が、先程と同じでやはり触れることが出来ない。透明な壁に阻まれている。けど、俺は──あいつとは違う。

《いじらしい事してるけど、あんたじゃできねーと言ってるだろ》

 床に這いつくばっている俺に一瞥しながら、舌打ちを打つ“ジュリアン”。どうせ出来ないと思ってるのか、先程みたく霞で手足を掴んではこない。弱っていると見られているのが幸いだった。

「マクレディ。俺を、覚えているな? 俺は、ここで初めてお前と出会った。

 会ってすぐに、人に頼ること、なんて出来ない、と言ったな。出会った人間は、俺を騙すか、背中にナイフを突き立てようとしてきた奴ばかりだったと。

 ……そんなあんたの、凍りついた心を融解させて、今もこうしてお前を助けに、危険な旅をして来たのは誰だと思ってる? ……目の前に居る奴は、俺じゃない。再び殻に閉じこもるな。分かるだろう? マクレディ」

 這っているだけで呼吸が荒れたため、最初の方は息も絶え絶えの酷い呼びかけになってしまったが──その声に反応したのか、つっ、と、椅子に座って身を屈めたままぴくりとも動かなかったマクレディが僅かに動いたのだ。

 聞こえているんだ、マクレディ、と──呼びかけるように伸ばした俺の左手が、さっきまで見えない壁に阻まれていたのが嘘のように、彼の身体に触れたと同時に周りが瞬時に暗転した。一切の音もなく、だ。

 しかし暗いのは俺達の周りだけで、俺と彼の頭上には頭上から一筋の光がすっと落ちている。辺りが暗転した舞台の中で、俺達だけがスポットライトの当たる真ん中に突っ立っているかのようだった。不思議な事に、さっきまで彼の正面に居たアンハッピーターンの影響も見えない。

 何が起きたのか分からない俺を他所に、ずっと座っていたマクレディは膝を抱くようにしてうずくまっていた身体をゆっくりと動かしはじめた。痛みを堪えつつ、這いながら彼の座る椅子に向かうように対面した──その時初めて、俺は何でマクレディがうずくまるようにして椅子に座っているのかを知った。耳を塞いでいたのだ。

 彼は目から涙を零しながら耳を塞いでいた。が、その手をそっと耳から離すと、瞼を開けて俺を見る。酷い顔になっているであろう俺を見て、彼は涙を零しながらふふっと笑って、ぽつりと言った。「……来てくれると思っていた」

 18歳の姿の彼が泣いた時も胸潰される思いがしたが、今はそれ以上に胸が痛かった。

 俺は自然と彼に近づき、ゆっくりとその身体を抱きしめた。ふわりと全身が軽くなる感覚がする。痛みが引くのと同時に、暖かな気流が身体全体を覆った。

 不思議な事にマクレディは照れも拒否もせず、抱きしめられるに任せていた。……普段の彼なら絶対にやめろとか自分から逃げていくだろうに、と思うと同時にはたと気づいた。ここは彼の記憶の中だ、記憶の中では誤魔化しも嘘も通用しない。だから彼は逃げないのだろう。

「すまない。……ようやく俺の知ってるお前の姿が現われてほっとするよ。今までずっと俺を知る訳がないお前の記憶を辿ってきたからな」

 彼は分かっているのか、黙って数回頷いて見せた。「眠ってからずっとここに居て、ずっと繰り返し繰り返し同じ悪夢を見ていたんだ。もう駄目か、って諦めていると、あんたが記憶の中を旅しているのが分かったんだ。必ずここにも来てくれると思って、俺はずっと悪夢に耐えていたんだ。……けど悪夢もあの手この手でやってきて、最初はウィンロック達だったのが、ホワイトチャペルやマグノリア、仕舞いには……ジュリアン、あんたの姿を借りて現われたんだ。一瞬その手にやられそうになった。何とか耐えたけど……悲しくて辛くて、他の奴ならどうとでも言い返せたのに、あんただとそれが出来ないのが、すごく……情けなかった。耐えてたけど、正直もう限界だったよ。

 耳も目も塞いでたから、あんたの話は飛び込んでこない筈だったけど……心に届いたんだ。不思議だよな。血の繋がりも何もない他人同士なのに」

 洟を啜りながら笑ってみせた。「ここは悪夢から逃れるために俺が作った夢の中の世界だ。ここなら悪夢の影響は受けない。……あいつを倒せば、俺は長い悪夢から開放されるんだよな」

「ああ。……俺一人だとかなりやられたが、二人の力があれば倒せるさ」

 そうなのだ。さっきまで一人で戦っていたから俺はあんなにやられたんだ。繋がりだけを頼って外部から来た俺にとって、マクレディの協力無しにアンハッピーターンを倒せる筈がない。

「俺にやらせてくれないか、今までずっと──助けられっぱなしだったから」

 マクレディが強い口調で言った。俺の姿を慮っての事かはわからないが、そう言うなら──と俺は黙って首肯して見せ、既に指先は殆ど消え、掌までうっすらとしか見えない位消えている手をマクレディのそれにそっと添え──念じるとすぐにマクレディの手に輝く炎の剣が光と同時に現われる。彼はその炎纏う刃を呆けたように見つめていた。

「それを、目の前に突っ立ってお前に対して心ない言葉言ってる俺に向けて突き刺せばいい。それで終わる」

 彼を抱きしめただけで、さっきまで全身を覆うように訴えていた痛みも何もかも消えていた。難なく立ち上がることも出来る。マクレディは相変わらず座ったままだったが、彼は俺を仰ぎ見てふっと微笑んだ。

 俺に対してそんな顔をするのは初めてだ、と言ってもいい程の穏やかな笑顔──この顔を俺は一度見たことがある。……そう、18歳の彼が妻に向けて見せてくれたあの笑顔。

「あんたが本物だと分かっているからな、躊躇う事なく倒せるさ。……この椅子から立ち上がると、俺達は悪夢が居座るサード・レールに引き戻される。あいつが俺を襲ってくる前にこちらからやってやるさ」

 さっきまで泣いてた癖に、とからかいたくなったがやめておいた。茶化すのは目覚めてからでも遅くはない。

 マクレディはシシケバブを持ち、椅子から腰を浮かそうか、とした時に何かを思い出したかのように座りなおし、「立ち上がる前に……あんたに言っておきたい事がある」とだけぽつりと言った。心なしか照れくさそうな感じで。

「ん? 何だ?」

 促すと、マクレディは照れくさそうに左手でがりがりと頭をしごいて見せながら、「……今話してる事は多分、目覚めた俺は覚えていないと思う。悪夢を見ている状況で、目覚めたら覚えているなんてないだろうからな。

 だから、あんたが俺を助けるために頑張った事も多分……忘れてる。でも、受けた恩は必ず返すと心に深く刻んでおくよ。……ありがとう」

 正面切ってお礼をこいつ(失礼)から言われるなんて思ってもいなかった。何だろう、ものすごく気恥ずかしい。何で俺が照れなくちゃならないって思うくらい、動揺してる自分が面白く、そして情けなかった。自分から行くと言って飛び込んだのだから、礼よりも本来ならば見られたくない過去を見られて迷惑と思われても仕方ない事をしてきてるのに、ありがとうなんて言われるなんて想像すらしていなかったせいだ。

「礼なんて要らない。……だから、忘れないでくれよ」

 無茶な願いだと思いながらぽつりとそう言うだけに留めておく。マクレディは困ったように力なく笑った。

「……じゃ、始めよう」

 ぽつりと彼はそう言って──立ち上がる。と同時に暗転していた世界に光が飛び込んできた。赤い光。煌々と光る常夜灯の光。眩しさに目が眩む中、俺とマクレディの前に立ちはだかる人物の影が視界に入ってきた──俺の姿を借りた悪夢。

 “ジュリアン”は明らかに動揺していた。いきなり突っ立っている俺とマクレディが出てきたせいだろうか? それとも──彼と俺達の間に輝く炎の刃があるせいか?

 マクレディは両手でシシケバブを持っていた。手首まで消えかかっている手を再度彼の手に添えてやった。──炎の輝きがいっそう強まる。輝く炎の光に照らされながらマクレディはちら、と俺の方にその目を向けた。

 ──大丈夫だよ、マクレディ。俺はそう心の中で言うと、彼にそれが伝わったのかは知らないが、一気に刃を目前に憑き立てた。

「俺の身体から出て行けぇぇぇぇえええ!」

  悪夢は完全に隙だらけだった。身構えようともせずいとも簡単に炎の刃をその身に受ける事になるまで、何が起きてるか全く分かっていない様子だった。

 マクレディの鬨の声に押されて悪夢の“ジュリアン”が顔を歪ませる。ぐぅっ、とヒキガエルのような声を上げながら刃を引き抜こうとするも、刀身に触れるだけで手が黒い霞へと変わっていく。貫いた部分から、黒い霞が零れるように溢れだした。

《ぐっ、ぐあぁぁぁあああっ! 貴様、よくも……よくもぉぉぉっ!!》

 うめき声を上げながら、俺の方へと手を伸ばすその姿は俺の顔ではなく黒い霞へと変貌していく。自らの内側から幾重にも亀裂が現われ、そこから筋状の光が漏れていく。

 最早原形を留めなくなったところでばんっ、と音を立てて黒い霞が霧消した。──後には何も残らず、サード・レールのVIPルームは俺とマクレディだけが立っているだけになった。

「……やった」

 ぽつりと声を漏らすマクレディ。見ると、マクレディは目をきらきらさせて俺の方を見ていた。はっきりと頷いてみせ、

「お前がやったんだ。俺は何もしちゃいないさ」

 そう言いながら掌を見ると、手首から先は完全に消えていた。消えているのに感覚があるのが不思議ではあるのだが。何で消えているのか未だに原因が分からないけど……ともかく悪夢の影響は絶やす事ができたんだ。

「そんな事ない。あんたが来てくれなかったら俺はやられていたんだ。礼を言い尽くしても足りない。またあんたに命を救ってもらった。……目覚めてからも覚えていたら、必ずあんたに礼を言うよ。約束する」

 是非ともそうしてもらいたいものだ。俺がそう言うと彼はばつの悪い顔で笑った。覚えているなんて保証できないのは分かってる。……しかし、俺はこれからどうやって帰ればいいのやら。

 今までは彼の記憶が俺を導いてきたけど、正直帰り方なんて分からなかった。Dr.アマリと連絡がつかないまま悪夢を倒してしまったのも気がかりだ。心の中で彼女に向けて呼びかけてみたものの、全く応答がない。困ったな。

「……で、これから俺はどうやってお前の記憶の中から自分の身体へ戻ればいいんだ? マクレディ何か知らないか?」

 何とはなしに彼に呼びかけるのと、世界がテレビの砂嵐のようなざざっ、とノイズ混じりのようにぶれたのはほぼ同時だった。

 えっ、と辺りを見渡すと、ざざっ、ざざっ、と何度も小刻みに世界が砂嵐混じりのそれに変わっていく。嫌な予感がした。今まで全く恐怖すら感じなかったノイズ混じりの世界がひどく自分が居たらいけない場所のように思えてくる。

 マクレディ、と彼の居る方に目を向けると、彼はノイズ交じりの世界の一部分と同化していた。呼びかけても返事もしなければ、時が止まったように瞬き一つしない。何が起きたんだ──と思うと同時に救いの手ならぬ救いの声が飛び込んできた。

『ジュリアン! ジュリアン! 聞いてる?』

 アマリか! 俺はその声に即座に反応した。

『アマリ! アンハッピーターンの影響を倒したぞ、これで全部か?』

 しかしアマリは俺の返事を返そうともせず、『マクレディの意識が目覚めようとしてるの、そこにいると危険だわ。……分かってる。意識が目覚めようとしてるって事は貴方が彼を救ったという事。本当によくやったわ、ジュリアン。

 でも今はあなたをマクレディの脳内から脱出させないと。……あなたの意識を戻そうとしてるけど、おかしな事に身体があなたに対して反応を示さないのよ。いったいどうしちゃったっていうの?』

 俺の身体が反応を示さない? どういう事だかさっぱり分からなかったが──もしかして、両手足が消えかかっていることが原因だとか……ないよな。

『身体が反応を示すってどういう事だ?』分からないので聞いてみる。

 こうして問いかけている間にも、世界はどんどんノイズでまみれていく。暗いような、明るいような、見ていると目がやられる気がして俺は敢えて目を閉じた。

『んーと、端的に言えば、幽体離脱と同じ原理だと思ってくれていいわ。意識はその肉体を通して繋がっているから、帰り道は容易な筈──だと思ったんだけど、なんでかあなたの身体が意識を戻そうとする反応を示さないの。肉体との繋がりが希薄になってるみたいで』

『まさかそれって、俺の両手足が消えかけてる事と関係ない……よな? アンハッピーターンの影響と戦ってるときもさ、その両手足だけが奴の攻撃食らって、四苦八苦したけど』

 関係ないと思いたかったから言っただけだ。それは違うだろうと、何か別の原因があるのだろうと。

 しかしDr.アマリはしばし、押し黙ってしまった。まさかこの期に及んでまた通信が切れたのかと思ったが、

『ジュリアン──あなた、何をしたの?』

 ぽつりと言ってきた言葉はそれ以上に重みのある言い方だった。世界が崩れていく中でそういう口調はどんだけ心ざわつかせる原因になるだろう──何をしたって言われてもな、俺は彼を助けるため……

『……聞きたくない事を敢えて聞くけど、悪夢に犯されてない正常な記憶の中で、あなたが介入した事があるわね? 無いとは言わせないわ。あるわよね?』

 正常な記憶の中で、俺がマクレディに介入した事──考える間も与えず、一つの場面が脳裏に映し出される。

 

「マクレディ!!」

 声を張り上げる。名を呼ばれて反射的に彼はこちらを仰ぎ見──目を丸くした。何であんたがここにいるんだ、といわんばかりの表情だった。

 俺は一気に階段を下りると彼の手を握り締め、

「お前も食われたくなかったら逃げるんだ! いくぞ!!」

 空いている片方の手を握り締め──

 

『……ある』

 というと、アマリが神よ、と呟くのが聞き取れた──後。

『言ったでしょ、正常な記憶に手を出すのは許されないって! マクレディの記憶を混乱に落とすかもしれないって!』

『そうかもしれないが、見てみぬ振りなんて俺には出来なかったんだよ。……それと手足が消える事なんて言ってなかったじゃないか。何の関係があるんだ』

 おおありだ、と彼女は金切り声同然の声を響かせた。そしてとんでもない事を口にしたのだ。

『なんで身体のほうが反応示さないのかようやくわかったわ。手足がそっちに縛られているせいよ。分かる? あなたは悪夢に冒されていないマクレディの記憶に介入した、その件で彼はあなたがその場所に居た、という記憶を植えつけてしまった。──即ち、ジュリアンはマクレディの記憶の一部に溶け込んでいるの。だからアンハッピーターンの攻撃も受けたのよ』

 俺がマクレディの記憶に溶け込むだって? さすがにその言葉には背中を嫌な汗が伝うくらいぞっとした。自分の意識が第三者の記憶に埋め込まれるなんて、下手な三文SF小説じゃあるまいし。

『……ああ、もう彼の意識が目覚めようとしてる。そうなったら最後、どこに飛ばされるかわからない。最後まで諦めちゃだめよ、何とかやってみるから』

 諦めるなとか言われても……俺は消えかかっている両足と手を仰ぎ見た。足は脛部分がうっすらと見える程度まで、手は手首と肘の真ん中あたりまで消えかけていた。

 自分が蒔いた種でやられる、か。さっきはぞくりとしたが、見ず知らずの奴の意識の中で消えるよりマクレディの中に溶け込むならそれもいいかと思ってる自分がいる。目覚めようとしているとDr.アマリが言ってる辺り、悪夢の影響から脱したのだろう。即ち──彼は助かるんだ。

『アマリ』呼びかける。世界は既にノイズにまみれてサード・レールなのか何なのかすら判別がつかない。

『どうしたの?』呼びかけてくる彼女に、俺はこう言った。

『マクレディが目覚めたら、────』

 しかし、言う事は出来なかった。

 砂嵐に世界が飲み込まれ、俺もまたその嵐の中に意識を奪われていったのだ。

 

「……ちは……う?」

「だ……だ、ちっ……れない」

 遠くから漣のように声が響いてくる。……聞いた事のない声だ、とぼんやり考える。俺のよく知ってる声じゃない。

 うっすら目を開けると、自分と世界の間に、透明のプラスチックの板のようなものが仕切りのように覆っているのが分かった。ぼんやりした世界に、見慣れない室内がぼんやりと映し出される。……ここはどこだ?

 自分が起きたのに気づいたのか、誰かがプラスチックの板の向こう側からこちらを確認しているのが分かった。……これまた知ってる奴の姿じゃないのは分かる。青いジャンプスーツを着ている奴なんて、そうそうお目にかかれるものじゃないから。

「アマリ」

 自分を見ていた奴が不意に誰かを呼んだ。……アマリ? 聞いた事ある名前だ。確か……グッドネイバーの……

 呼んだ奴はそいつの声を聞き取れなかったのか、はたまた何か別の作業に追われているのか、全く気づいた様子がないため自分を見ていた奴は、仕方なくアマリという人物がいるほうへ歩いていった。……何か話し合ってる声ののち、ぱたぱたと靴音を鳴らしながら、プラスチックの板を通して覗き込んだ人物は今度は三人に増えていた。

「脳波、心拍数共に正常。バイタルもいたって正常だ。……奇跡としか言いようが無いな」

 医者らしい事を言う……男だろうか。もう二人は女性なのか、こちらに向かって呼びかけている。うぃぃん、と音を立ててプラスチックの板が視界後方へと押しやられていく。その時初めて、自分は何かの装置の中に入っていた事を知った。

 額や頭中に変な感触がある。触ってみると、なんか細い線が幾重にも束ねられたシートが貼られていた。何があったか分からないだけに、自分は今まで何をされてきたのだろう、と不安になる。

「……マクレディ君、自分が誰だかわかる? ああ、動かないでいいわ。疲弊してるのは目に見えて分かっているし、まだその頭につけた装置は外さないでいてもらいたいから」

 知らない顔が雁首そろえて並んでいるのは、どうにも居心地が悪い。俺の知ってる奴はどこにいるのだ──と首を左右に振ると、部屋の反対側、向かい合うようにして同じ装置だろうか。の中に──よく知った顔を見つけた。ジュリアンだった。目を瞑り、眠っているようにも見える。

「俺は……マクレディだ。そこにいるジュリアンと一緒に行動している。……けど、何で俺こんなところに居るんだ? ジュリアンはあんなところで寝てるし、一体何が……」

 言ってる間に、先程話しかけてきた女性は聞き終わる前に慌しく何処かへ行ってしまった。ジュリアンの名前を呼んで何かを思い出したかのように。……後に残った二人の男女は互いに顔を見合わせて、話し始める。

「初めましてが正しいかな。そこにいるジュリアンには何度も世話になっているんだ。……私はDr.キャリントン。レイルロードで医者をしている。さっき君に話しかけていたのはDr.アマリだ。こっちに居るのはレイルロードエージェントのグローリー」

 いきなりレイルロードの名前が出てきたので面食らった。なんでレイルロードの連中がここにいるんだ?

 透明プラスチックのハッチが開いたため、マクレディはゆっくりと上体を起こす。自分が横たわってるに近い状態で覗き込まれるのはいい気がしないせいだ。ましてレイルロードの医者とエージェントが居るなんて……

「キャリントン、ジュリアンの脳波を見ててちょうだい。こちらの応答に気づけば何かしら信号を送ってくるかもしれないわ!」

 装置の後方からDr.アマリの声が飛んできた。先程名乗った男はやれやれといった様子で返事を返し「詳細はグローリーから話してやってくれ」と行って後方へ歩いていく。

 グローリーと紹介された女性は、褐色の肌に目立つ銀色の髪を短く刈って分け目から片方へ受け流すようにしてある。傍から見たら女性には思えないが、小柄な身体つきからそうなんだな、と判断するに至る位か。

 役目を負わされた彼女ははぁ、とため息をつくと、

「あんた、自分が何をされたか覚えてるか?」と威圧的な態度で話し始めた。……いきなり質問形式かよ、とマクレディは内心舌打ちする。

「何をされたかって? ……ここに来るに至った原因、てことか?」

「あんたは薬を打たれた。人造人間用の薬だ。アマリから聞いたけど、サード・レールで見ず知らずの者に打たれたらしい。そこは覚えているな?」

 薬を打たれた、と言われて何かを思い出したのか、マクレディはぶるっと身震いをしながらも右腕に自然と視線を移している。覚えているんだな、とグローリーは判断した。

「その薬は人造人間の記憶中枢を瞬時に破壊する劇薬なんだ。ヒトにもその効果は発揮した。あんたの身体が身をもってそれを体感した。……ただ、ヒトの記憶は瞬時には破壊されないと踏んで、さっき自己紹介したアマリがジュリアンに提案したんだ。……あんたの頭の中に入って薬の影響を打ち破れば、助けられるかもしれない、と。

 あそこに眠ってるうちのエージェントは即座に行くと言ったそうだよ。そして、あいつはそれをやっつけた。だからあんたは目覚める事が出来たんだ……ここまで理解できる?」

 ぶっきらぼうな説明だったが、注射を打たれた後からの記憶がさっぱり無いため、その間の経緯を話してくれたのはぼんやりと理解できた。……けどジュリアンは、どこに行ったって?

「ジュリアンは……そこに居るじゃないか」

 目線で彼の方に向けると、グローリーははぁとため息をついてから「アマリ……私には荷が重過ぎる」と見た目に反して泣き言のような言葉を放った。にわかにマクレディの心はざわつく。……荷が重いって?

 急にこんな所で座っているのももどかしくなり、マクレディは腰を動かして装置から足を投げ出した。探るように足を動かすと爪先が床につく。僅かに動くだけで頭にべたべたくっついている何かの装置が引っかかりそうでひやひやしたが、とりあえず立ち上がる事はできた。……まだ足がふらつく。

「マクレディ君、まだ立ち上がらなくていいのよ、というより頭についてる装置を絶対に外さないで頂戴。あなたと彼を繋ぐものなのだから」

「俺の事はいいから、ジュリアンに何が起きてるのか教えてくれ。今そこに居るあんたが荷が重過ぎるって言った意味はなんだ?」

 顎でしゃくるようにグローリーを指しながら声高に言うと、グローリーとDr.アマリは互いに目配せするようにした後──アマリがぽつりと言った。

「……さっき彼女が話してくれたこと理解できたかしら。ジュリアンは、あなたを助けるためにあなたの脳内に入った。そこにいる彼は──眠っているように見えるけど、意識はそこには無いわ。

 結果を言えば、あなたはジュリアンの助けによって薬の影響を体内から除去し、長い悪夢から目覚める事が出来た。……でも、まだジュリアンはあなたの脳内に居る。連れ戻そうと試みてるけど、何処に居るのか分からない……あなたが目覚める少し前から反応が無いの。今は昏睡状態に陥っている。

 どうやら、少々マクレディ君の記憶の中で彼が取った行動の一部分が、結果としてあなたの脳内に取り込まれてしまう事態になってしまったみたいでね。……それがどういう記憶なのかは分からない、ジュリアンは語ってくれなかったから。

 けど、間違いなく彼は何らかの記憶の一部に干渉した。──マクレディ君はさほど混乱した様子も見受けられないから、それはほんの僅かな記憶の一部分に干渉しただけだったのかもしれない。でも、脳はそうは思わなかったみたいね。結果、脳は彼を記憶の一部と認識し、自らの中に取り込もうとした。──それに私と彼が気づいたのはあなたが目覚める直前だった。通信が取れない以上、もう彼はあなたの記憶の中に取り込まれている可能性も否定できない。

 ジュリアンの事は……私はまだ諦めてない、必ず見つけてみせる。だから──」

 話し続けるアマリの言葉は後半、マクレディの耳に入っていなかった。

 ジュリアンが俺を助けに……俺の脳内に入った? 薬を除去して俺は助かった? けど……彼は、こうしてる今も俺の中に居るという。俺の記憶の一部に干渉して俺が彼を取り込もうとした? 俺の頭の中の何処かにいるだって? ちっとも理解できない……それなのに、何でか胸がぎゅっと潰される位苦しかった。

 ──どうして? どうしてあいつはいつもこう……

「なんで……」

「え?」

 ぽつりとマクレディが漏らした言葉を神経質そうにアマリが聞きつけた。聞き返してこなければいいのに、と思ったのは感情が口を突いて飛び出てしまった後だった。

「なんであいつはこう……身勝手なんだ。なんで俺を助けになんか……勝手に一人で決めやがって、俺の事なんていつも意見を聞こうとしないし、今だって──なんだよ、即座に行くって決めたって、おかしいだろ? どうして赤の他人にそんな事出来るんだよ」

 後先考えずまくしたてるマクレディの悪態めいた言葉に、さすがに聞き捨てならないとでも思ったのか、アマリの隣で聞いていたグローリーの片眉がくいと持ち上がり、「おい、いくらなんでもその言い方は──」彼に詰め寄ろうとするも、Dr.アマリが慌ててそれを静止した。

「アマリ、何するんだ──」抱え込むように掴むアマリの腕を引き剥がそうとするグローリー。

「落ち着いてグローリー。マクレディ君は混乱してるのよ。……無理も無いわ。こんな話聞かされてすぐ信じるなんて出来やしないもの。……けどね」

 グローリーの肩を両手で掴むポーズのまま、アマリはマクレディの方へ顔を向け、

「ジュリアンはあなたを助けてほしいって、はっきり私に言ったの。自分の危険を顧みる余裕も時間も無かった。それなのにすぐ即断をしたの、それがどういう意味か分かるでしょう? 今あなたがここで会話できるのも、彼のおかげなのよ。そうでなければあなたは今頃アンハッピーターンによって脳を破壊され、死んでてもおかしくなかった。

 それにね……マクレディ君、本当は言いたくはなかったし、言うなんて考えてもいなかったけど……あなたに言伝があるの。ジュリアンから。

 あなたの脳内に入る前、私に言ってきたの。もし自分に何かあった時、あなたに伝えて欲しいって頼まれたのよ。

 彼がどういう気持ちでそれを言ったか、理解して欲しいから言うわ。彼はこう言ったのよ──」

 

 ……静かだ。

 何も……聞こえない。

 けど、瞼の裏からでも分かる。何かが……煌いている。

 瞬いていると言ってもいいだろうか。ちか、ちか、と明滅が瞼を閉じた瞳にも伝わってくるのだ。……目を開けば何が光っているか見る事が出来るだろうか。

 重たい瞼を開く。───何かが空中を舞っていた。

 おかしいな、と思う。さっきアマリと話していた時、世界はノイズだらけだった。無音のノイズに俺は飲まれて、気づいたらこんなところに来ている。……ここは何処だろう?

 アマリ、と呼びかけてみるも何の返事もない。

 瞳を開けた世界はノイズではなく、暗いようで、明るい世界だった。……言ってておかしいという事は俺だってわかっている。けどこう、暗いところをじっと見ていると目が明るくなった感じがして目を逸らしてしまう、そんな場所だった……先程まで居たマクレディの記憶の世界とも違う。

 そして、その暗く明るい世界と俺の間に舞っている、きらきらとしたものは何処からか落ちてきては、空中を漂うようにふわふわと浮いていた。

「何だろう」

 浮いているものに手を伸ばそうとした時はっとした。掴もうとする手が最早原型がないどころか、腕の殆どが消えていたのだ。

 視線を下げ、足を見ると足のほうは大腿部の半分以上が消えている。胴体部分はうっすらと消えた半透明状態だった。傍から見れば顔も半透明状態かもしれない。マクレディの記憶に溶け込んでいるってことか。

 全く落ち着き払っている自分が不思議だった。普通なら泣いたりわめいたりしてもいいはずなのに、それをすんなり受け入れてる自分に笑いそうになる。遣り残した事だってまだ沢山あるだろうに、ショーンの事、ミニッツメンの事。そして……マクレディの事も。

 でも、もうどうすることも出来ない。そういう諦めの気持ちがあるのも事実だった。せめて、俺が俺じゃなくなる前に、目覚めたマクレディに会いたかったな、それだけが気がかりだった。彼が助かってくれてるなら、俺は報われただろうに、と。

 頭を振って変な考えを追い払う仕草をし、俺は伸ばした手できらきらしたそれを一つつまんで目前に持ってくる。見てみると、四角形に切り取られた薄っぺらい板状のものだった。何とはなしにそれをじっと見ると──マクレディの姿が目に飛び込んできたので思わずおっと声を出してしまう。

 彼は何人かの男と行動を共にしていた。……すぐにその連中がガンナー一派の連中と察しがつく。何処かの居住地を襲ったのか、殺戮と略奪を楽しむ連中とはうって変わって辟易した様子でマクレディは彼らを見ている。忌々しい、そういう感情が欠片を手にした自分にも伝わってきた。

「これ、記憶の……」

 マクレディの記憶の世界を行き来する際に何度も自分の周りを渦を巻くように舞っていた記憶の欠片だ。あの時はセクター間を移動する時しか見えなかったため触れる事すら出来なかったものが、今はこうしてその一部が俺の指につままれている。別の欠片を手にしてみても、やはり記憶の一場面を目にする事が出来た。……マクレディがキャラバンと旅をしている。恐らくこれは、キャピタル・ウェイストランドからコモンウェルスへ向かう道中──

 見ているとふふっと笑ってしまう記憶もあったりと、あれこれ欠片を覗き込むのは楽しかった。が、ある一つの欠片を覗き込んだとき──背筋がぞわっとしたのだ。

 それはマクレディと彼の妻がフェラルに襲われている記憶だった。震える彼を鼓舞しようと彼自身の名前を呼び、現われたのは──俺。マクレディの手を掴み、地下鉄から脱出している──

 自分が本来居る筈のない時間軸で彼を助けた事が、記憶に埋め込まれてしまった……結果、俺はこうなってる訳だ。

「でも……俺は後悔なんかしてないさ」

 ほんの少しの干渉だった。そう思っていた。

 けどマクレディにはその存在は強すぎたのだ──まして、彼はあの時俺のことをVault101のジュリアンと思い込んでいた。その時点で違うと否定すればもしかしたら俺は助かっていたかもしれない。

 掌を見る。……確かに目前に手を突き出しているのに、それは輪郭を持たずその先の、暗く明るい世界に舞い落ちる記憶の欠片が見えているだけだった。俺もやがてあの欠片の一片になってしまうのか。もう自らの行動や意思で、記憶や思い出を作る事もできない、過去の一部分に。

 欠片はきらきらと明るく暗い部屋の光をその身に反射させながら、俺の周りを漂うようにしていた。最初受けたような渦状になったり、纏わりつくような感触もない。優しく、ゆっくりと俺の周りに漂っているだけ。……それが妙に心地よかった。

 おかげでついうとうととしてしまう。眠ったら駄目だと本能が訴えてくる。……けど、もう助かる手はなさそうだぜ。とも別の自分が本能を諭す。十分がんばったじゃないか、休んだって誰も文句は言わないさ、と。

 正直なところ、俺は疲れていた。だから本能の訴えを退けて眠りたかった。眠れば嫌な事も忘れるだろう。眠るように消えて行く方が……少なくとも心に負担はかからないだろうさ。

 再び目を閉じ、俺は意識を委ねた。さっきまで立っていたような気もするのが今は横になっているような……気もする。少しずつ自分の肉体と精神が分離しているって事なのだろうか。

 眠ろうとする前、俺はマクレディの事を思った。残された彼は今どうしているだろう。

 目覚めてから俺のことをアマリに聞いていたりするだろうか。

 泣いていたり……するだろうか。

 

「……は?」

 それしか思い当たる言葉がなかったかのように、マクレディは驚愕の表情を浮かべ──口から漏れたのはそれだけだった。……無理も無いわ、とアマリは思う。私だって聞いたときは目を疑ったんだから。

 ジュリアンはあの時こう言ったのだ──

 

『……でももし、万が一、マクレディが目覚めても俺が戻らなかったりしたら──彼に一言、伝えて欲しい事があるんだ。さっき申し訳ないと言ったばかりで失礼とは思うんだが、頼まれてくれないか』

 真剣な表情で言う彼の剣幕に圧され、Dr.アマリは渋々了承した。ありがとう、と付けたしてから彼が放った言葉は、彼女の予想を反してあっさりしたものだった。

『俺の……ここ、111のジャンプスーツと、コンバットアーマーの間に隠れた部分に』彼は言いながら、大腿部を覆うコンバットアーマーをくい、と開くように持ち上げてその裏側をアマリに見せた。『俺の全財産のキャップが入ってる。財布に入れてるのはここから取り出したごく一部ってわけだ。荷袋とかに入れてるといつ誰かに掏られるか分かったもんじゃないからな、こうやって身に着けていつも感触が分かる場所に隠しているんだ』

 アマリが覗き込む。……確かに、平べったく潰された、しかしかなり分厚い袋がコンバットアーマーの大腿部を覆う箇所に貼り付けられてあった。大体10万キャップはあるんじゃないかな、と彼は言う。ちょっとした財産だった。

『もし俺が戻らなかったら、これをマクレディに渡して欲しいんだ。……俺が居なくなったせいで、彼を一文無しで連邦に一人放り出すのは辛すぎるだろ? 

 これだけあれば少し位贅沢も出来るし、元気になったダンカンに会いに故郷のキャピタル・ウェイストランドへ戻る事だって出来る。何不自由ない生活がしばらく送れる位の額だ。戻らない俺には無用の長物さ、これを渡してやってくれ、それだけでいい』

 本当にそれだけでいいのか、とアマリが問いただす。彼は何も言わず黙って頷いただけだった。あいつはキャップが大好きだからな、とだけ付け足すように、ぽつりと言って、笑ったのだ──

 

「……そう言伝を頼まれたの。内容は今話した通りよ。

 彼はどうしてそんな事を言ったか分かる? あなたの事をそこまで考えて、自分に何かがあっても不自由しないようにしてくれた事も、理解できるかしら?」

 それ以上続けようとしたが、アマリは口を噤んだ。マクレディの身体がわなわなと震えていたからだ。

 彼はジュリアンを見ていた。記憶シミュレーターの中で目を閉じ、眠るようにして椅子にもたれかかる彼を。いつ目が覚めてもおかしくないようで、顔だって血色はいいし、呼吸も乱れていない。けど──彼はそこに居ない。

 ふと、マクレディは思い出していた。……つい半日ほど前。あの事件が起きる前のサード・レールの中だ。

 ホワイトチャペルに話しかけたジュリアンが、彼からキャップと引き換えにビール瓶を二つ受け取り、一つを俺に投げて寄越してくれた。ジュリアンはマグノリアに目を奪われていて、そんなあいつを俺はじっと見ていた。

 面白くない、そう思いながら彼を見ているとあっさりビールを飲み干してしまい、もう一つ買おうにも俺の財布にはキャップが一枚も無くて。

 その時俺はこう思ったんだった、『ジュリアンが居なければ俺は無一文で連邦を彷徨うのか、考えただけでも末恐ろしいな』──と。

 でも、それは違う。無一文で連邦を彷徨う事が恐ろしいんじゃない。

 彼が俺の目の前から居なくなるのが恐ろしいのだ。

 あれほど沢山欲しいと希ったキャップよりも、彼がこの世界から──俺の傍から、居なくなる方が、怖い。けど、俺はそれに気づいていなかった。

 当然さ、今まで一緒に居た人が突然居なくなるなんて想像も出来ないだろう? こんな事になるなんて。……自分だけが助かって、結果、ジュリアンが……居なくなってしまうなんて。

 しかも、俺の脳の中に取り込まれてしまうとかいう。記憶の一部として。

 それがどういう事か、足りない頭を使わなくたって分かる。──二度と会う事が出来ない──という事実。

 身体はそこに在るのに、彼は居ない。もう、呼びかけても返事をしてくれない。──突然、ぱたっ、と何かが手に落ちた気がして、マクレディは自分のそれを見た。……光る雫が一つ、手に落ちている。何だろう、と目線を下げるだけで、再び目からぱたぱたっ、と雫が数滴、手と服の袖に落ちて染みを作った。……それが涙の粒だと気づくまで、彼は泣いている事も気づいていないようだった。

 袖の染みがじわり、とにじむのを見ているだけで、彼は無性に悲しくなり、呼応するように涙が再び手に落ちた。染みの上に幾つも涙の粒が落ち、色を変えてどんどんそれは広がっていく。

「どうして……どうして、そんな事を、そんな事しか……」

 もっと伝えたい事はなかったのかよ、と悪態をつきたい気分なのに、それに反して涙がぼろぼろ落ちた。おかしいな、おかしいな、と思うだけで涙が頬を伝い落ちていく。

 Dr.アマリとグローリーは黙っていた。茶化しも口も挟まず、涙を流すマクレディから目を逸らしているのは、力及ばずだった自らも責めているのかもしれない。キャリントンも黙ったまま、離れた場所でターミナルを操作しつつ彼ら三人をじっと見ていた。

「もっと他に言う事は無かったのか? 息子を探す事とか、他にも……どうしてそんな事しか言い残さないんだ。どうして……そこまで俺を助けようとしたんだ。俺だけ生きて居たって仕方ないじゃないか。あんたが」

 居なければ、と口から出す寸前、マクレディは悟った。

 一人で居るなんて恐ろしくて仕方がないと素直に告白した時、ジュリアンは笑いもしなければ黙ってこちらの話を聞いていた。こいつは俺の事をからかったりしない奴だ、と思った。だから頼ったんだ。ガンナー連中の事も、ダンカンの事も。

 頼っていいんだ、と言わせる何かが彼にはあった。それにずっと甘えていた。甘えながら俺はそれがずっと続くと思っていた。だから──気づけなかったんだ。もっと早く気づいているべきだった。自分の中でそこまで存在が大きくなっていただなんて。

 涙の雫が落ちるたびに、素直じゃない部分──いつもは照れ隠ししたり、悪態をついたり、そういう部分が剥がれ落ちるように零れ落ちた。頬を伝う涙を手で拭おうと、思わず左手を顔に近づけたときだった。──指の間に何かがきらりと瞬いた。

「…………何だ、これ」

 見慣れないものが左手の指に嵌っている。……よく見ると、金色の輪っかのようなものが左手の薬指にあった。こんなもの、見た覚えがない。いつ何処で自分の指に嵌められたものなのだろう──と考えている時、あっと大きな声が部屋中にこだました。──Dr.アマリの声だった。

「マクレディ君! それを」

 えっ、と言い返す暇なく彼女はマクレディに近づき、涙で濡れた左手とその輪っかを見ると一言「──出来るかもしれない」とだけ言ってぱたぱたと狭い部屋の端に並べるように複雑な機械の並んでいる場所に戻っていく。マクレディとグローリーはそんな様子を気が抜けた表情で見ていたが、次の一言でにわかに表情が変わった。

「マクレディ君、最後の手段があったわ。これが駄目ならジュリアンはもう──あなたの記憶に取り込まれてしまったと思うしかない。けど試してみる価値はある。

 その指輪を通して信号を送るの。彼の意識に向けて。──指輪を外せ、と」

 流していた涙がぴたりと止まる。慌ててごしごしと涙の跡がついた頬を両手で擦ると、「何をすればいいんだ。俺にできる事ならなんでもする」マクレディはまっすぐ彼女を見て言った。

「……その指輪には絶えず微弱な静電気が流れているの。指輪を通して、赤の他人同士であるあなた方二人の道を一時的に繋いでいるわ。それでジュリアンはマクレディ君の脳内へ侵入できたのよ。

 指輪の電圧を上げて、彼に信号を送る。そうすればこちらから脳に直接通信が届かなくても分かるかもしれない。

 肉体から流れる電流が、肉体を通じて意識体のジュリアンに通じる事が出来たなら、それを外せばあなたとジュリアンの繋がる道が絶たれる。即ち──彼の意識があなたの中からはじき出される可能性があるってこと。それに賭けるしかない。……身体の中に電気が通るから少しつらいかもしれないけど、出来る?」

「彼の身体から直接指輪を外しても意味が無いのか?」それのほうが楽な気がしたのでマクレディは提案してみるも、それは逆効果だという。肉体同士には指輪を嵌めておかないと、意識が戻る際に身体に通じる道がなく意味が無い……という説明を受けてもマクレディには到底理解できなかった。駄目ならしょうがない。

「キャリントン、ジュリアンのバイタルを見てて頂戴。グローリーはマクレディ君を見てて。彼に何かあったら意味がないから。……マクレディ君、いいわね?」

 マクレディは再度記憶シミュレーターに座った。深くは座らず、普通に座るくらいまで腰をずらし、上背を立てた上体を保つ。「いいぞDr.アマリ! やってくれ」

 アマリの位置からマクレディを見る事は出来ないため、グローリーが彼の体調を見張る番になったわけだが、じっと見られているのは正直好きじゃないな、と彼は内心舌打ちした。ジュリアンなら別かもしれない、と思うと同時に、彼が俺の為にしてくれた事に比べたらこの位──

 考えている最中に左手の薬指がびくっと震えた。……徐々にその震えは強くなっていく。

身体の中を電気が通っているのか、雷に打たれた時はこんな感触なのかと場違いな考えが浮かんだ。

「ぐっ……ぅ」

 手の震えは収まったものの、身体が小刻みに震え始めた。収まれと思っても自分の意思で震えてる訳じゃないため、身体がぶるぶる震えるに任せるしかなかった。

「マクレディ君、もう少し電圧を上げるわ。……ああお願い、ジュリアン、気づいて」

 アマリの祈りを捧げるよりも先に、全身を貫くような電流に耐えながらマクレディは必死で呼びかけていた。

 ジュリアン、行かないでくれ。俺はまだあんたの近くに居たいんだ。あんたと一緒に居たいんだ。

 

 ふっ、と何かが耳に届いた気がした。

 何だろう? ……もう、身体もだるくて仕方がない。動きたくない。──という身体の意思に反して、俺は閉じていた瞼を開けた。

 いつの間にか俺は横たわっていたらしい。きらきらと輝く記憶の欠片は先程と変わらず、瞬くように空中をふわふわ舞っている。暗く明るい空間に、実体があるのは俺だけ……いや、その身体ももうほとんど消えている。

 身を起こそうにも、肩から伸びているであろう両腕は完全に消えている。けど腕は確かにそこにある……なのに見えないのが今では逆に奇妙だった。俺の目はまだ俺の意識として繋がっているのだろう、全てが終わればこの身体が再び目で確認する事が出来るのだろうか。

 などとぼんやり考えていると、──まただ。何かが耳に響いてくる。音か? いや、音じゃない。……何かが震動して、それが俺に伝わってきているのだ。それが音のように感じただけか。

「……震動?」

 言ってる自分が変だと思った。……だって、俺の身体は消えているのだ、消え行く身体が──いや、これは俺の身体じゃない。意識だ。俺は外の世界──俺の身体から離れて、マクレディの脳内へと侵入したんじゃないか──そんな事まで忘れてしまったのか、俺?

 頭を振る。震動音は徐々に強くなってきていた。殆ど消えかけてる身体を首を回しながら、何処か音を発している場所が分かるんじゃないだろうか、と見ていると──それはすぐ見つかった。

 左手の指の一部が光っている。金色の輝きだった。鈍く光っていたものがどんどん強くなっていく。自分の目前に左手を突き出しているのに、よくよく見なくても何も無い場所の一部が金色に光っているだけなのだが。

 こんなところに何かあったっけか? と思うより先に口から言葉が出ていた。

「指輪……そうだ、俺はここに、左手の薬指に指輪を嵌めてた」

 確か、アマリ……Dr.アマリが俺に渡してくれた指輪。

 溶け込むように自らの身体が消え行くのと同様、俺は自分に起きた記憶そのものすら徐々に忘れている事実に今頃気づかされた。マクレディの記憶に取り込まれるというのは、俺が俺じゃない記憶の欠片の一部分になるということ。意思も、行動も何一つ自分から作り出せない、枠にとらわれた世界の一部分に入ってしまう事に。

 ──けど、今まで何も起きなかった指輪が今更どうして光ったりしているのだろう?

 右手で触れようとした時、指先にびくっと震動が伝わった。それと同時にきぃん、と全身を貫く甲高い音。間違いなくこれが震動を放っているのだ。触れるだけでじりじりと痛みも感じる。──意識なのに痛みが感じるって、おかしいな、と思ったとき、あれ? と疑問に思った。何で意識なのに痛みを感じるんだ?

 その時アマリが、この指輪を俺に渡したときの台詞を思い出した。確か彼女はこう言っていた──

 

『……その指輪には微弱な静電気を発する装置が組み込まれてあるわ。その静電気があなたとマクレディに一時的な“道”を作る標になる。ジュリアンはマクレディと血縁関係でもなければ婚姻してる訳でもない。その為マクレディの記憶があなたを拒否する可能性も出てくる。それを防ぐものだと思っていればいいわ』

 

「静電気──道……まさか」

 輪郭はなくとも、左手の薬指に嵌っていたその指輪は輝きを放っていた。──これを外せ、はずせば道が外れる……そういう事か。俺とマクレディを繋げる一時的な道が外れると言う事は、自分の身体に戻れるかもしれない──と。

 その輝きはDr.アマリの、そして──マクレディからのメッセージだった。本来微弱な静電気が通るだけのものを、こうして消えかけている俺の意識のなかでも震動となって伝わって輝いているのだから、今俺の身体とマクレディのそれには相当負担がかかる電流が流れているのだろう。

 無茶しやがって、と俺は内心呟いた。本当は嬉しかった。言葉では言い表せないくらい、俺の事を諦めてくれないDr.アマリとマクレディに感謝していた。

 なぁ、マクレディ? ……また会えるなら、話が出来るなら。俺は今まで辿って来た話をしたい。お前は過去の話なんて、と嫌がるかもしれないけど、俺はお前の記憶を辿ってきたんだ、絡み合わない時間軸を巻き戻して、年の割りに密度の濃い経験ばっかりしてきたお前を、ずっと見てきたのだから。

「帰ろう。……在るべき所に」

 右手を再度輝く指輪のある場所に触れてみた。ばちっ、と弾く感触に思わず右手ごとびくっと痙攣する。……が、諦めない。再度ぐっと右手の親指と人差し指でそれをつまみ、力を込めた。左手薬指の根元に嵌っていた指輪が少しずつではあるがその身をずらしていく。

 本来ならすっと抜けるはずなのに力が入らないせいなのか、それとも電気が体中を貫いているせいか、なかなか外れようとしない。──いや、違う。肉体はこれが嵌ったままなのに意識がそれを外そうとしているのだから、うまくいかないのだろう。無意識に認識している服やPip-boyを外そうとしても意識下では出来ないのと同じ感覚かもしれない。けど、これを外さないと俺は帰れないんだ。俺の身体に、彼らの居る場所に──

「はず、れ……ろぉっ!」

 右手の指が電流によって痙攣しながらも何とか力を込めて引っ張ると──ピィィィン! と音を立てて左手の指から一気に指輪が抜けた。引き抜こうと勢いづいていた右手の指からそれは離れていくと虚空へと姿を消してしまう。

 と同時に──本当に瞬時の事だった。指輪が抜けたと同時に俺の身体がふわっと現われたのだ。手も、足も、輪郭がはっきりどころか透けてもおらず、しっかりと血の通った身体に戻っていた。

「身体が──」

 その様子に驚いている暇はなかった。

 ついさっきまで暗く明るい世界の中を、きらきらと舞うようにしていたマクレディの記憶の欠片が、狂ったように俺を中心にして回り始めたのだ。それはどんどんスピンをかけて早く、強く、強固な渦となっていく。

「何が、何が起きるんだ?」

 口から声が漏れたと同時に思い出した。──記憶シミュレーターから俺の意識が肉体と分離した直後、俺はこの渦の中に身を投じていた。欠片が舞う渦の中をもみくちゃにされて俺は彼の記憶の中へと入っていったのだ。しかし今はもみくちゃにされないどころか、身体の回りをぐるぐると円状に回っているだけだった。

 渦はどんどん強固になっていくうち、俺はふわっと身体が浮いたのを感じた。自分では帰り道なんて分からないのに、さほど動揺していない自分が居る。この渦が導いてくれる、そんな気がしたからだ。

 どんどん上昇していくにつれ、見上げるその先、暗く明るい世界の一端に一筋の光が見える。もしかして、あれが俺の戻る道だろうか? 思うと同時に回っていた記憶の渦はふわっと俺の身体から離れていく。

 その時俺の意識はマクレディの脳内から出ていたのだろう。光に包まれた瞬間、自分の意識はそこで……途切れているから。

 

「……これ以上続けていてはマクレディ君もジュリアンも危険だわ。一旦電流を弱くするしかない」

「駄目だ! このままでいい。弱めないでくれ。弱めたら彼に伝わらなくなるかもしれないじゃないか。俺は大丈夫だ。だから続けてくれ」

 アマリの声に重なるように、マクレディが怒声を放った。既に20分以上、身体にあまりよろしくない程度の電流を流し続けている。マクレディの身体はもちろん、ジュリアンの身体も幾度と無く痙攣するため、その度にシミュレーターがぐらぐらと小刻みに揺れた。

 アマリは駄目よ、と言ってから「一度正常値に戻して、休憩したらまた再度やりましょう。そうじゃないとあなたの身体が──特に心臓が持たなくなる。そんな無茶させられないのよ。分かって頂戴」

 ターミナルを操作し、流している電流を少しずつ弱くしていくが、マクレディは再度叫んだ。「俺はどうなったっていいんだ。だから続けてくれ。ジュリアンに指輪を外せと伝えてやらなくちゃいけないんだろう? 頼む」

 アマリはマクレディの発言を無視して傍らに居るDr.キャリントンに「マクレディのバイタルは正常?」と問うと、呼ばれた彼は顔をしかめ、

「心臓に相当負担が掛かってる。殊勝な事を言っているが身体の方はもう限界だろう。たとえ心臓がよくても血管が破裂でもしたらそれだけでお陀仏だ。

 ジュリアンのほうは……相変わらずだ。脳波は脳死状態の人間と変わらず平坦脳波の状態を維持。昏睡状態のまま……脳波が一定になってからもうすぐ2時間になるな。おかげで然程電流に対する負担は見受けられないが、まぁ、こっちも同様だろう」

 と返すキャリントン。はぁ、とアマリは大きくため息をついて、電流ゲージをくい、と回して流す電量を下げた。……遅かった。もう少し早く気づいていればよかった。私が指輪の存在をすっかり忘れていたせいで、

 シミュレーターからマクレディが「おい! 何で電流を下げた! 俺は大丈夫だって言っただろう!」と声高に叫んでいる。……納得できない、だからむきになっている。分かっているのだ。事実を受け入れたくないから、自分が納得するまでやってもらいたい、そういう気持ちなのだと痛い程アマリは理解できた。

 彼女はターミナルから離れ、シミュレーターの傍に近づいた。マクレディを見張っていたグローリーは無表情のままだったが、どこと無く物悲しげだ。黙ってアマリに自分の居た場所を譲り、グローリーは部屋の端、壁に疲れた様子で凭れ掛かる。

 マクレディはアマリが近づいてきたのに気づき、座りながらきっ、と彼女を睨み付け、

「何で電気を流すの止めたんだよ。ジュリアンが助かるかもしれないなら流し続けたほうがいいに決まってるじゃないか? 何故止める?」

「分かって頂戴って言ったでしょう。あなたの身体が悪くなったら元も子も無いわ。微弱な静電気は流れ続けているから、指輪に気づけばもしかしたら……」

「気づかなかったら? ……頼むよ、あんただけが頼りなんだ。ジュリアンが戻るなら俺はどんな事だってするって言っただろう? お願いだ」

 同じだ、とアマリはぼんやり思っていた。彼も、そしてジュリアンも。助かるならどんな事でも厭わないと言っていた。失いたくない、その気持ちは分かる──けど、彼らは赤の他人同士だ。どうしてそこまで互いを求める? 恋人同士や男女ならその理由は明白だろう。けど、彼らは男性同士だ。どちらも傭兵。一人で生きていく事だって出来る能力と腕前を持っている。それなのに、どうしてこうもお互いがお互いを失う事を恐れているのだ? それほど強固な結びつきが、彼らの中にはあるのだろうか?

 その時──キャリントンが叫んだ。後にアマリは生涯、この一日を忘れないだろうと思った。奇跡と言う言葉があるのなら、この日を於いて他はないだろう、と。

「アマリ! 脳波だ、ジュリアンの脳波が戻ったぞ! なんということだ、昏睡状態から目覚めようとしている。意識が戻ったのか?」

 キャリントンを見るアマリとは対照的に、マクレディはすっと足を上げてシミュレーターから足を出すと、再度床について立ち上がった。そのまま一歩、ジュリアンの眠るそれに近づこうとするが、頭中いたるところにべたべた貼ってある装置が忌々しかった。

 一瞬、躊躇うもそれをべりっ、と額から外し、何枚も何枚も細い線が幾重に巻きついたそのシートをはがしていく。何をするんだとアマリに引き止められるかと思ったが、全くそんな事はなく──全て剥がし終えると、黙ったまま無言で、よたつく足でジュリアンの眠るシミュレーターに近づく。ほんの数歩歩いただけなのに、マクレディの身体はぜいぜいと息を弾ませ苦しがっていた。

 アマリとキャリントン、グローリーもマクレディに近づき、シミュレーターのプラスチックの覆い越しにジュリアンを覗き込む。……じっと見ていると、彼の瞼がぴくっ、と動いた。

 何度か同じように瞼を動かしたのち──すっ、と瞳が開く。寝起きで目がぼやけているのか、焦点が合ってなさそうだったが、

「………マクレディ」

 彼の名を呼んだ。彼の姿はぼやけた世界でも認識できているのだ。やはり自分には窺い知れない何かが二人の間にはあるのだとアマリは確信した。

 グローリーがハッチを開けるボタンを押し、ハッチが開く。……と、ジュリアンの手がすっと伸びて、マクレディの頬にそっと触れた。涙の跡を見ているのだ──そう思うとマクレディは急に恥ずかしくなったのか、

「寝ぼすけ。……いつまで寝てるんだ。心配かけさせやがって」

 これだけ言うのが精一杯だった。堪えた心が再び涙となって瞼から落ちそうで、そうなったら恥ずかしいどころか、もう外を大手を振って歩けなくなるかもしれないなどと場違いな考えまで沸いてしまう始末。

 そう返事を返すマクレディに、ジュリアンはふっと笑うと──頬に当てていた手が力なくぱたり、と落ちて再び目を閉じてしまう。かくん、と首が頭を支えきれなくなったようにうつむくような姿勢になった。

 まるでそれが死んだ姿にも見えて、えっとマクレディは声を出す。アマリ達も同じだったのだろう。慌ててキャリントンが聴診器を持ってジュリアンの心臓部に押し当て、

「……大丈夫だ。寝ているだけだよ。身体もそうだが意識も相当消耗したに違いない。まぁ、我々には与り知れない世界を渡って、これまた与り知れない敵と闘ってきたんだものな」

 ぽつりと付け足したキャリントンの言葉で、マクレディは不意に思い出した──俺が長い悪夢を見ていたと彼らは言っていたが、実際何を見ていたのかまでは起きたときも覚えていなかったし、覚えている訳がないとさえ思っていた。

 けど俺は確かにそこに居た。サード・レールで──ジュリアンに会った。そうだ、確かに彼を見たんだ。──ずっと待っていたんだ。助けに来る彼の姿を。そして、その姿を模した悪夢が現われた事も。

 アマリがグローリーと抱き合いながらきゃあきゃあ言っている。奇跡よ、とか、二人とも助かるなんて、とかそんな事を言いながら抱きつくアマリを他所に、グローリーはそうだなと努めて冷静に対応していた。その表情はにわかに微笑んでいる。キャリントンはターミナルに戻ってジュリアンのバイタルを確認している様子の中、マクレディはジュリアンを覗き込み、先程自分の頬に当てた手を握り、ぽつりと言った。

「……無茶しやがって」

 その目には再び涙が光っていた。

 

 ぐぅ、と音が鳴る。

 何だろう、と思いつつ無視していると、再びぐぅ、という音。身体のどこから鳴っているのかと思う前に、目を閉じながらも頭が訴えてきた。──腹が減ったと言っているのだ。

 さすがに無視できず俺は目を開けた。──薄暗い室内だった。古ぼけた天井、窓にはブラインドの代わりなのか、無味乾燥した板が窓框に無作為に打ち付けられ、そこから差し込む僅かな光が室内をぼんやり照らしている。……昼か。今何時だろう。どんくらい俺は眠っていたのだろうか。

 しかもこの場所。Dr.アマリの居るメモリー・デンではない。一ブロック先にあるホテル・レクスフォードの室内だと気づく。何度か泊まった事があるから覚えていたのだ。

 けどどうやって俺はここまで移動したのだろうか、アマリは居るのか、と思いながら身を起こそうとすると、下半身の一部、左太腿付近がなぜか重い。よじるように身を起こし、上半身を起こすとその原因がすぐ分かった。

 ベッドに上半身だけ投げ出すようにして、うつ伏せで寝ている人物が居る。被った帽子は外れかけて毛布の上に転がっている。腕を顔の上にあてがい、こちら側に顔を向け、すぅすぅと穏やかな寝息を立てていたのは──マクレディだった。

 表情は穏やかで、悪夢も見ている様子なく眠っている様子に驚きつつも……思わず笑ってしまう。右手を伸ばして彼の頬に触れると、ひんやりとした肌が眠っていたおかげで体温が上がっている指先に心地よかった。

「……誰のおかげでこんな風に穏やかに眠っていられるんだか」

 思わず頬の肉をむに、とつねってみる。痛みに反応してんん、と声を出したので慌てて手を引っ込めると、マクレディは目を覚ましたのか、あくびを一つし、身体を捻るようにして伸ばしながら、眠ってたのかと一人ごちてから俺の方を見た瞬間──その表情が固まった。

「よぅ、すっかり元気そうだな、マクレディ」

 軽く声をかけるも、マクレディはこちらを凝視したまま固まっている。おい、いくらなんでも命の恩人に向かってその態度はないだろ、と言おうとした時彼は音も無くすっと立ち上がった。

 何をするのかと思うと、俺の方へ一歩近づき、次の瞬間──ぱん、と音を立てて俺の頬を手で叩いていた。

 突然頬を打たれた事に俺はぽかんとしてしまう。ひりひりと痛みを訴える頬を片手で押さえ、叩いてきた当人の顔を見ると──なんともいえない表情を浮かべていた。口はわなわなと震え、目はぎらぎらと光っている──けど怒っているのではなく、何かを必死に堪えている様子だった。……前にもこんな顔を見た覚えがあるな。

「ば……っ、馬鹿野郎! なんで俺に勝手に黙って危険な場所に行ったりするんだ! 一つ間違えればあんたは死んでたかもしれないんだぞ! 勝手に一人で決めて、俺の意見なんて聞こうともしないで……」

 聞くも何も。「死にかけてたお前に意見も何も無理だろ。勝手に決めたのはまぁ、悪かったにしても、死んでいくお前を黙って見てろとでも?」

 そうじゃないとばかりに頭を振るマクレディ。自分でも何を言っているか分からない様子だった。ただ、言わずにはいられないのだろう。そういう性格だというのも知っている。黙って人の優しさを受け取るような奴じゃないと。

「俺は、俺はもっと……一緒に居るんじゃないか。一緒に居るのに独断で判断してもらいたくないんだ。大事な事を。何でも一人で決め付けないでさ、俺に相談してくれたって……」

 最後の方は照れくさいのか何なのか、消え入るような声で終わっていた。頬を染めてぷいとそっぽを向いてしまう。

 さっきまで威勢のいい声はどうしたと言おうとした時、こちらに近づくぱたぱたとした足音が止まると同時に扉をノックもせずに開けて入ってきたのは──Dr.アマリだった。

「マクレディ君、これジュリアンの薬。キャリントンが──って」

 そこで声を止め、俺とマクレディを交互に見た。何か話していた空気を読み取りながらも彼女は敢えてそれ無視し、

「ジュリアン! 目覚めたのね。何処もおかしなところはない? 体調はどう?」

「あ、ああ、俺は大丈夫だ。ただ……腹が減ったな」

 腹の虫の音で目が覚めたくらいだからな。……ちら、とベッド脇を見ると、マクレディが所在なさげに突っ立っていた。話の腰を折られて気分を害した様子はないが、何処と無く落ち着きがない気もする。

「ああ、もう何日も何も食べてないものね。すぐに下に行って何か買ってくる。……あれから三日も経ってるんですもの。無理ないわ」

 三日?! 我が耳を疑った。「俺は三日も寝てたのか?」

「ええ、そうよ。ホテルには一週間分宿泊代を出しておいたから心配ないわ。私はメモリー・デンと行き来してあなたの様子を見ていたのよ。Dr.キャリントンとグローリーが来てくれたおかげで、ここまであなたを運んでくれたのよ。その後はずっとマクレディ君がつきっきりであなたの看病をしてくれてたから、助かったわ」

「おい、アマリ、そんな事言わなくていいから」慌てた様子で言うマクレディ。頬を赤らめて明らかに動揺しているのは自明の理だった。

「あらいいじゃない? 実際ずっと離れなかったのよ、ジュリアン。ずーっとあなたの寝ている傍から離れずに三日も居たんだもの。Dr.キャリントンも私も助かったわ。

 ああ、先に言っておくけど、マクレディ君は目覚めてからはどこも変わったところはない。健康そのものよ。アンハッピーターンの影響は完全に抜けたみたいね。何もかもあなたのおかげだわ、ジュリアン。……本当に無事に戻ってきてくれてよかった」

 言いながら涙ぐんだのか目尻を押さえるアマリ。泣くなよ、と言いながら「あんたとマクレディが俺にメッセージを送ってくれたおかげだ。……この指輪、まだ嵌ってたんだな」

 左手を見ると、血の通った指の一つに金色の指輪が嵌っていた。ちらり、とマクレディの手を見ると、彼の指にもまた同じものが嵌っている。ああ、それね、とアマリは言いながら、

「それはあげるわ。試作品だったし、もう静電気は流れてないからただの指輪よ。今回の記念にあげる。次はもっと改良して、しっかりしたものを作って見せるわ。……でも、もう今回のような事は起きてほしくないわね」

 違いない、と言いながら俺とアマリは笑った。しかしマクレディはにこりともしない。そんな様子にただならぬ気配を察したのか、

「……何か話してたみたいだから、私は退散するわ。あとで食料持ってくるから待っててね、じゃマクレディ君、邪魔したわね」

 そう言ってアマリは部屋を辞していった。……再び部屋に俺とマクレディが取り残される。……何か話しかけてくるかと思いきや、マクレディはじっと黙っていた。

「俺の事、ずっと看病してくれていたんだってな、ありがとう」

 水を向けてやっても、マクレディは何も言ってこない。見上げると、そっぽを向いてこっちを見ようともしない。本来なら、俺は怒っていいはずだった。助けてやったのにその態度はなんだ、と。

 でも、怒る気なんてなかった──考えもしなかった。ベッドから起き上がると、俺はマクレディの隣に立った。それでもなお、彼は目を合わせようとしない。

 だから……言葉の変わりに、俺は彼の身体をぎゅっと抱きしめた。

「えっ、……えっ?」

 突然の事に動揺したマクレディの声を他所に、俺は彼の暖かさと、はっきりとした感触に浸っていた。

「生きていてよかった。お前が……生きていてよかった」

 そう言われてさすがに黙っているのは分が悪いと判断したのか、やや逡巡した様子の後、マクレディが発した言葉は俺の予想を超えるどころか外れていた。

「……思い出したよ。あんたが俺を、悪夢の中から俺を救ってくれた事を」

 今度は俺の方がえっと言う番だった。腕をほどいてマクレディの顔を見ると、彼は顔を真っ赤に染めている。さっきまでそっぽを向いていたのに、今はまっすぐと俺の方を見ているその目は涙をいっぱいに溜めていた。

「悪夢の中で……俺はジュリアンを待ってたんだ。俺の記憶を辿ってきて、あんたが悪夢を退治しているのを、俺は悪夢の中で必死に耐えていたのを。

 目が覚めてからは……覚えてなかった。どんな夢を見ていたかなんて、全く。だけどあんたが一度目覚めてから──思い出したんだ。もし覚えていたら、俺はあんたに言わなくちゃいけない言葉があるって。

 でも、俺をおいて自分勝手に危険な場所に行くなんて事がどうしても許せなかった。やむを得ない事だったと分かってても……それに、なんだよ。俺への向けた言伝がキャップの在り処だけって。おかしいだろ。……それだけしか俺に言う事はなかったのかよ」

 言いながら涙がつっと尾を引いて頬を流れ落ちた。やれやれ、泣き虫だな──なんて言う代わりに、俺はそっと涙を指で拭ってやった。触れた指に反応したのかますます彼の顔が赤くなっていく。

「だって、お前キャップが好きだろう?」笑って言ってみせたが、マクレディは憮然とした表情を浮かべた。

「そりゃ、……キャップは好きだ。けど……だからって、もっと言う事はなかったのかよって俺は言いたいんだ! 俺の、事とか……」

 また口ごもる。……まぁ、確かに本当にそれだけだったら、そう思われても仕方ないだろうな。と俺も思った。

「まぁ、……言伝なんてしたけど、俺は最初からお前と一緒に戻るつもりだったし。結果としてお互いこうして無事だから、いいじゃないか。

 悪かったよ、自分勝手に行動したことは謝る。一緒に行動してる以上、もうお前を置いていったりなんかしないよ。約束する」

 しっかり伝わるよう、ゆっくりと噛み締めるように言って聞かせる。マクレディは納得してくれたのか、僅かに首肯して見せた。

「……目覚めた時、覚えていたら、俺はあんたに言う言葉があったよな。……助けてくれて、ありがとう」

 青い瞳は涙を帯びたせいで光り、泣いているのに口元は笑っていた。本当に覚えているんだな──そう思うと一つだけ確かめたい事があった。

「なぁ、18歳のお前とその家族がフェラルに襲われたとき、誰か助けに来てくれたりしたか?」

 言っただけで察したのか、ああと返事を返しながら俺をじっと見据え、

「──あんたが助けにきてくれた。……もちろんそれが事実とは異なってるのは知ってる。けど、俺はこの記憶を大事にしていきたい。だって、ジュリアンはその場にいながら、俺とダンカンを見捨てようとしなかったんだろ? 実際はそうじゃなくても、俺は嬉しかった。だから……俺は忘れないよ」

 ふふっと笑ってみせた。それが結果として俺がお前の脳内に取り込まれる原因になったんだよ、と言うのはやめた。気づいているかもしれないし、知らないかもしれない、けど今となってはもう──どうでもいい。

 アマリが部屋にやってきた。先程とはうってかわった空気に、彼女はぽかんとしていた。俺とマクレディは互いに笑っていた。

 

 五日目に俺達はホテル・レクスフォードを出た。

 足取りはすっかり五日前のそれと変わらない。もちろん俺の傍らにはマクレディが立っている。きらきらと輝く陽光が、廃墟としたビル街の一角にあるこぢんまりとしたグッドネイバーの町並みを照らしている。

 アマリから聞いたが、例のマクレディを襲った一般人風の男は、やはりガンナー連中の一人だと判明した。グローリーがレイルロードの連中を使って調べさせたらしい。それらの情報はアマリを通してグッドネイバーの市長、ハンコックへ届けられ、サード・レールで起きた事件はガンナー連中の暴走と言う事で片付けられた。結果、マクレディには何のお咎めも無し。俺も勿論無実と言う事で──というか俺達の名前なぞ伏せられていたのは当然だが──こうしてグッドネイバーの街中を大手を振って歩いているという訳だ。

 俺達が悪夢と闘っていたことなぞ、知っているのはほんの僅かな人しか知らない。仮に知ったとしても、悪夢などという姿形もよくわからない、夢の中の世界で闘ったことなぞ御伽噺でもしているか、もしくはジェットやサイコのキメすぎだと笑われるのがおちだ。だからこれらの記憶はほんの僅かな人だけが知っているだけでいい。例の薬は未だにガンナーの連中が持っているようだが、それもいずれ入手ルートが見つかり次第、レイルロードが動くのは間違いないだろう。

 そんな暗い話とは他所に久しぶりの外は新鮮で、声を掛けてくる自警団の連中やならず者の声が、生きている実感をかみ締めさせてくれた。そのまま町を出ようとはせず、俺はマクレディを伴いながらサード・レールに入る。地下へ伸びる階段を降りると、いつもと同じ静かな空間に響くマグノリアの美声が演奏と共に流れていた。勿論、ホワイトチャペルもマグノリアも、めいめい座って酒を嗜んでいる連中も動いており、マクレディの悪夢の中で見たような世界ではない。

 階段を折りきってかつてのプラットフォームに立つ、カウンターへ近づき、

「よっ、久しぶりだな」

 声をかけるとホワイトチャペルが「ああ、あんた達か。あれから処理とか色々あって本当に参ったぜ。まぁ結果、あいつが悪いって事で片付けられたようでよかったな。──で、何か飲むか?」

 ああ、と言いながらビール瓶二本を頼むと、ホワイトチャペルはいつもと変わらぬ常温のビール瓶を二つ差し出してきた。代金を支払い、片方は俺が、そしてもう片方を──マクレディに投げて寄越す。おっと、と慌てて伸ばした手にビール瓶を受け取りしな、

「危ないって前にも言っただろう、ジュリアン……ったく」

 そんな悪態をつきつつ、キャップを指で弾き飛ばしながら笑っている。ははっと笑いながら俺も同様、キャップを外して瓶の中の液体を口に流し込んだ。いつもと変わらぬ味、いつもと変わらない場所。

 互いに笑っている俺とマクレディを怪訝そうにアイセンサーを動かすホワイトチャペルを他所に、サード・レールはいつもと変わらない緩やかな時間に包まれていた。




冬コミ受かったせいで最終章を上げるのが遅くなり本当にすいません。
なんとか最終章上げる事ができました~~ 楽しんでいただけたら幸いです!

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。