走れセリヌンティウス 作:せりぬん
セリヌンティウスは激怒した。
――野郎、帰ってこねえ。
※
俺の名前はセリヌンティウス。シラクスの市でしがない石工をしている男だ。
そう、あの《セリヌンティウス》である。
前世の記憶を持つ俺は、俺と同じ立場の人間ならきっと誰もが知っている名作文学――あの『走れメロス』の世界に転生を果たした。
自分でも何を言っているのかよくわからないが、事実なので仕方がない。もう明らかに俺のいた時代より過去になっているのだが、そうなんだからどうしようもなかった。
まあ、とはいえ、しかし。
なんの因果か、いや時代的にもう因も果もない感じなのだが、ともあれ俺はこうして、古代の時代でも上手いことやっている。せっかくの第二の人生だ、楽しまなければ損だろう。
そんな風に思っていた。
――さて。
そんな俺にはひとりの友がいた。
メロスだ。
そりゃそうだ。だって俺、セリヌンティウスだし。
彼はここから離れた村の出身なのだが、幼い頃から長い時間を共にした無二の――竹馬の友である。羊と仲がいい。
善良な男だ。羊と仲がよく、村では羊と遊んで暮らしながら、けれど邪悪には人一倍に敏感で……あと羊と仲がいい。半ば羊だ。
このところ会っていないのだが、元気にしているだろうか。
――いや、わかっている。
もちろん俺は、『走れメロス』の筋書きを承知だ。いつかはわからないが、やがて俺は王城に連れ出され、縛られることを知っている。
とはいえそれを理由に、メロスと関わりを断つのは申し訳ない。何より俺は自分が助かることを知っている。
メロスは、俺――つまりセリヌンティウスにとって友人だ。
最近では評判の悪い王が、この一件を機に改心することだって初めから知っている。そのためならば三日三晩縛られるくらいのことは、まあ我慢してやろうという気持ちだった。
繰り返すがメロスは善良な男だ。
羊と仲がいい。
かつて俺がジンギスカンを祝いの場に出した際に思わず喧嘩となったほどだ。
原作『走れメロス』の開始がいつになるのかわからないが、きっとそろそろだろう。俺があの名作の一シーンを演じることになると思うと、感動もひとしおである。
イメージプレイは欠かしていない俺だ。
原作通り、友情に篤い男として振る舞うことができるだろう。
――その夜、王城から兵が派遣されてきた。
「セリヌンティウスだな?」
俺は叫んだ。
「ひえっ」
「王がお呼びである。ついて来い」
「え、あ、え……今日?」
「何をしている、早くしろ!」
兵はとても怖かった。
※
王城で、俺はメロスと抱き合った。
「――つまり私が三日目の日没までに返ってこなかったら、身代わりとして君が絞め殺されることになったのだ」
冷静に考えるととんでもねえこと言いやがる。
俺は思ったが、ここは無言でメロスをひしと抱き締めるシーンである。余計なことは言わないでおいた。
俺はその場で縄打たれ、メロスはすぐに出発することとなった。
王が言う。
「はは、身代わりよ。おまえはきっと死ぬぞ。おそろしくはないか」
俺は答える。
「王よ。人の心を疑うでない。メロシュはきっと帰ってくる」
「声が上ずっておるぞ」
「…………」
「しかも噛んだ」
「……それは王の心が見せた幻影的なアレみたいな」
王は笑って帰っていった。
ちくしょう。グッド・バイ。
※
セリヌンティウスの縛られ生活一日目。
昼。
――つらい。
もうすでにつらいしやばいし、あとつらい。マジきっつい。
俺は磔にされるということのつらさをなんにも理解していなかった。腕とかめっちゃ疲れるし、ぜんぜん寝れる気しない。お腹空いた。たすけて。
そういえば縛られる特訓とかあんまりしなかった。
「クッソ邪智暴虐の王め……あいつマジで邪智暴虐だよ。やばい。もう腕とか蒼くない? やばくない? これ鬱血してない? 大丈夫、ねえ?」
独り言がものすごく増えた。
見張りの兵は怪訝な顔で俺を睨んでくる。
そんな目で見るな。
磔刑で晒されているのは非常につらい。
身体もそうだが、心もつらい。気分はキリストである。今ならメロスとの再会のとき、左の頬を殴った上で、抉り込む形で右のコンボへと繋げる自信があった。つまり超イエス。
そんなことを思う俺の頬に、強烈な一撃が加えられた。
「ぶぇあ」
俺は呻いた。痛かった。泣いちゃいたかった。
すわ天の裁きかと辺りを見渡すと、近場に住むガキンチョどもが見えた。
俺に向かって石を放ったのだ。
「やい、罪人め!」
ガキンチョが言う。
「王様に逆らうからそんな目に遭うんだぞ!」
俺は叫ぶ。
「ああテッメざけんじゃねえぞコラ、顔覚えたからな! おまっ、あとで見とけよ!」
「うるさい罪人!」
「いたっ! 痛いちょやめっ、唇切れたテメ許さねえ覚えてろこのマジこのっ」
ボキャブラリーが死んだ。
アイツらあとで見とけよマジでお前ホント、メロスさん帰ってきたらヤベーからなこの。メロスさんマジ走るからなクッソ。クッソ!
※
午後。弟子のフィロストラトスが訪ねてきた。
石工の弟子であるフィロ(愛称)は、とても真面目な男だ。真面目さではメロスと張る部分があるくらいだが、それでもメロスよりはまあ融通が利く。
「セリヌンティウス様!」
フィロストラトスが言った。
「ああ。よう、フィロ」
「フィロではございません。フィロストラトスです、セリヌンティウス様」
「長いじゃん。俺のこともセリヌンとかでいいよ」
「セリヌンティウス様!」
フィロストラトスが顔を覆う。聞いちゃいない。
「おいたわしや……どうしてセリヌンティウス様が縛られているのです!」
「ん、ああ。実は――」
俺は状況を語って聞かせた。
聞いているうち、次第にヒートアップし始めたフィロストラトスは瞳に涙を滲ませる。
「どうしてそのような危険なことを!」
「いや、ほら……」
どうしても訊かれても。
……どうしてだろう。
「まあ、友のためだからな。俺はメロスを信頼している」
美談っぽく俺は言う。
実際には、帰ってくるとわかっているからなのだが。そりゃ普通なら断るっつーの。
これで王が改心するのなら、三日くらい縛られてやろうと思っただけだ。
「おお、なんという心意気でしょう!」
フィロストラトスは感激のあまり滂沱の涙を流す。
一方、俺は手首がめっちゃ痛い。
「なあフィロ」
「フィロではございません、セリヌンティウス様!」
「やっぱ融通利かんな、お前」
と、そこで俺にあるアイディアが浮かぶ。
そうだ。頼めばちょっと縄とか緩めてくれるんじゃない?
「うん……あのさ、ところでフィロストラト、」
「感激いたしました! お任せください、皆には私からわけを話しておきましょう」
「え、あ、ああ。ありがとう。それはそれとしてフィロストラ、」
「私にできることがあればなんでも言ってくださいませ、セリヌンティウス様!」
「うん。だからね、あの、フィロスト、」
「まったくあの邪智暴虐の王と来たら! なんたる非道! なんたる無軌道!」
「すげえこと言うな。ところで話聞いてね? あの、フィロス、」
「場合によっては、私がメロス様の元まで向かうことも厭いませぬ!」
「おい。おい、聞けや、おい。おい、フィロ」
「フィロではございません。フィロストラトスです、セリヌンティウス様」
「そこは聞いてんのかよ」
「ヒトの名前を間違うのはよくありませんぞ、セリヌンティヌス様」
「間違ってる。間違ってるよ、フィロ」
「フィロではございません」
「ティロ・フィ○ーレしてやろうか畜生が」
「ティロでもございません」
では私はこれにて、とフィロストラトスは去っていった。
嘘だろ。
※
縛られ生活、夜の帖。
そんなこんなで一日目の夜が来た。当然、俺は野晒しである。
……寒い。
身体っつーか心が。なんで俺は磔刑に処されているというのだろう。
これが本当の富岳百刑ということか。何がだ。
右腕の痺れはすでによくわからないところまで来ている。やばい。俺の右大臣が実朝している。もうこれはダメですね。腕じゃなくて頭が。
眠い。だから寝たい。だが寝られない。どうやら俺はそこまで図太くないらしい。
俺は羊を数えた。早く眠るには、やはりこれに限る。
メロスに一発、メロスに二発、メロスに三発、メロスに四発……これは俺の分! これも俺の分! そしてこれがセリヌンティウスの分だ――っ!
それ俺っ! きゃはっ!
※
――そしてメロスと八十八夜(意味不明)。
新しい朝が来た。絶望の朝だ。
だって二日目だぜオイ。まだ二日目。まだ半分も行ってない。マジかよ。
眠れなかった。それはもうぜんぜん眠れなかった。
考えてみれば数えていたのは羊ではなく、メロスの横っ面に何発の拳を打ち込めるかだったため、気を休めるどころかむしろ昂らせてしまった勢いがある。むしろ勢いしかない。
吊るされ、縛り上げられた状態の俺は――ああ見なくても自覚している。
眼球がギラッギラに血走っている。
だって、道行く人間が皆、こちらを一瞥してはさっと目を逸らして去っていくからだ。
見張りの兵すら俺を見ていない。それ見張りじゃなくない? 見張ってなくない?
しかし、眠れなかったことが逆に功を奏したのか。
曇りなきセリヌン・アイは、このとき世界の真実をその双眸に映すことに成功していた。
世界には絶望しかない。
謂われなき罪によって無辜の民が苦しめられ、一部の特権階級だけが甘美な蜜を搾取するのだ。嗚呼、世界とはかくも美しく、ゆえに残酷である――。
邪智暴虐のセリヌンティウスが爆誕した。
「あああああああ! もうヤダ、ヤダヤダヤダ! おうち帰りたいー!」
俺は駄々を捏ねた。それはもう捏ねっ捏ねに捏ねた。一笑。
ああ、私のなんとあさましきものであることか。
友と交わした約束を、こうもあっさり疑うとは――自分で自分が笑えてくる。
「――あ、あの!」
声をかけられたのはそんなときだった。
俺は答える。誰でもいい、とにかく誰かと話したい。
そんな気分だった。
「だ、大丈夫ですか……? ずいぶんとご気分が優れない様子ですが……」
今の俺の醜態を、《ご気分が優れない》程度で流すとかどんだけ心が広いのか。
俺は驚きながらも答える。それは知らない娘さんだった。可愛かった。
「いえ。この程度、いかほどのものでもありません。どうかなさいましたか、可愛いお嬢さん? 何か私にご用ですかな?」
豹変した俺に、可愛い娘さんはだいぶ引いている様子だった。
あっれー。おかしいなー、今かなり決まったと思ったんだけどなー。
「あ、いえ……お話を伺いまして、それで……」
「お話?」
「セリヌンティウス様、ですよね?」
「いかにも私がセリヌンティウス。そういう可愛い娘さん、あなたは?」
ここに長く暮らしていると、喋り方が徐々にこうなってきてしまうのだ、自然と。
「わたしは、その、この近くに住んでいる者で……その」
娘は顔を赤らめている。
ははん? さては俺に惚れてますねこれ?
「あの……、セリヌンティウス様」
「――何かな?」
キメ声で言った。
キメ声で言ったが、キメ声の俺は状態が磔獄門なうなので、決まっているというよりキマっている。
「その……これを」
と、少女は俺に何かを差し出す。
それは布――いや、どうやらマントのようだった。緋のマントだ。
俺ははっとする。
「も、もしかして君は――」
「は――はい?」
「――あの可愛い娘さんっ!?」
「はい!?」
「あ、いやそうじゃなくってね?」
――この子、あの、あれだ。あのほら、名前わかんないけど!
ラストシーンでメロスに緋のマントを渡した子! 駄目だ、可愛い娘さんとしか覚えてない! 名前出てたっけ?
気づく前から可愛い娘さんって呼んでたのに気づいたあとも可愛い娘さんとしか呼べない辺り可愛い娘さんすごく可愛い娘さん。
は?
「その……さきほど、その、ずいぶんと荒れていらっしゃったご様子だったので」
可愛い娘さんが言う。
荒れていたというか完全に狂っていた気がするが。まあ気のせいだ。もしくはメロスのせいだ。
しかしめっちゃ可愛い。メロスの野郎、俺を人質にしておいてこんな可愛い娘さんとフラグ立てるとかどうなってんだよ。ふざけんなよ。ぶっ飛ばすぞ。
馬鹿げたことを考える俺の前で、顔を真っ赤にして娘さんは言う。やっぱ惚れてる?
「その……セリヌンティウス様」
「はは、何かな?」
「…………前、が……」
「うん?」
俺は下を見た。
そこには、肌着が肌蹴て完全に露わになった逞しいセリヌンのティウスが地獄変。
……なんか泣けてきた。
瞳を流るる芥川。これは裸生門ですね。
「……違うんだよ!?」
「いえ、その……わかっておりますので。あの、お召し物を、と……」
いい子だった。わざわざセリヌンのティウスを隠すものを持ってきてくれたのだ。そりゃ顔も赤くなるよ。道理でみんな目を逸らすわけだよ。走ってるメロスと同じことを走ってないセリヌンティウスがやってどうするというのか。
ぐい、と手渡される緋のマント。
それを受取ろうとして、はたと俺は気がついた。
「……あの」
俺は言う。娘さんは可愛らしく首を傾げた可愛い。
「はい?」
「えっと、その……私その、手を繋がれているわけでありまして」
「あっ」
「できれば、恐縮なのですが、えっと……腰に巻いてくださったりとか、その」
「えっ」
一瞬、かなりやばい表情を見せてくれる、可愛い娘さんだった。可愛くなくなってた。
もうアレだもの。「えっ」に完全に濁点がついてたもの。引いてるもの。俺だって引いてるよ、貧乏くじを。
その後、優しい娘さんは、それでも俺に布を巻いてくれた。女神か。
下半身を露わにして磔にされている男の腰に、いたいけな少女が布を巻くという極限の羞恥プレイ。いろいろとやばかった。
危うくセリヌンのティウスが邪智暴虐の王になりかけていたが、その場合おそらく激怒した娘さんに邪智暴虐の王を除かれてしまうため、それだけは死ぬ気で堪えた。覗かれるのはいい、だが除かれるのはダメだ。俺は何を言っているんだろう。
ともあれ俺は、なんとか全裸の磔男から、半裸の磔男にまで回復した。
心が雪国。目から川端。
ドン引きの娘さんは、おそらくもうメロスにマントを持ってきてくれないだろう。
俺は人間としての尊厳と引き換えに、メロスのフラグを叩き折ることに成功した。
代わりに人生を失敗している、というか人間を失格している風味があったが、気にしたら負けである。気にしなくても負けである。
どちらでも同じということは、論理的に考えて俺はもう何も気にしなくていいということだ。
ところで論理ってなんでしたっけね。
※
夕方が近づいてきた。
この頃になると、俺はもうなんか一周回って頭が冴えてきていた。
むしろ全身が冷えてきたまである。
冷静だ。とてもクールである。クールセリヌン。
冷静になると、だんたん縛られているのが少し気持ちよくなってきていることがわかる。
おそらく長期間のストレスに曝されたことで、脳が防衛機能を働かせたのだろう。それがわかる辺り超クール。もう少しキツめでもいいのよ?
というか、やることが何もなさすぎて考える以外にないのだ。
おそらく俺は《可愛い娘さんに恥部を曝け出して辱めたクソ野郎》としてすでに名が通っているはずなので、……どうしようねこれマジで。解放されても行くとこなくない?
職場に復帰しても言われるんだぜ、セリヌンのティウスがティンって。
本当に言われたら死のう。
というわけで、俺は現実逃避も兼ねて思索に耽った。
しかし、なんだろう。考えてみるとアレだ。
――なぜ俺はメロスの妹の結婚式に呼ばれていないんだろう?
妹さんとは二、三回しか会ったことがないとはいえ――なんなら名前も覚えていないとはいえ――それでも俺だよ? セリヌンティウスだよ?
メロスの竹馬の友。英語で言うとバンブーホースフレンド。いや絶対違うけれども。
普通、こう、呼ばない? 二、三回しか会ったことないとはいえ、逆を言えば二、三回は顔を合わせる機会があった、兄の大親友だよ? それは呼ぼうよ。
呼ばれていれば、俺は今頃、きちんとメロスの住む村のほうにいたはずだ。
そうなれば、俺がこうして縛られることもなかったということになる。
……まあよく考えればこの時代はそんなものなので、よく考えるまでもなくあり得ない仮定だとはわかっていたのだが。
よくない傾向だ。頭が冴えすぎて、現実逃避が逆に上手くいかない。
このまま行くと世界の真理みたいなものに到達してしまいかねない気がする。
涅槃だ。
ニルヴァーナだ。
解脱する。
だが俺は仏教徒ではなかった。
結局、耐えきれなかった命の水は、そのまま地面へと垂れ流すことになった。
寒さで体が震えた。ぶるぶるってなった。
せっかく貰った緋のマントが今や卑のマントになっている。
いやむしろよく耐えたでしょ。
褒められていいくらいの勢いあるでしょコレ。
すげえ寒い。
※
――そして。
縛られ生活最後の日――三日目が訪れた。
やはり一睡もしていない俺は、無我の境地で最後の一日を過ごした。ぼくもうなにもわからない。
知性を棄てたのだ。
それから、どれほど経った頃だろう。
王城側から近づいてくる足音に気がついた(知性復帰)。
そちらから、わざわざ俺の元にやって来る存在など限られる。磔にされている俺は当然、そちらに目を向けることはできない。だが、相手が誰かなどわかりきっていた。
しかし終わりが近づいてくると、この生活もそう悪くないものだったような気がしてくるわけねえだろ畜生。
どれだけのものを、俺が失ったと思っているんだ。
だが、それも今日で終わり。
近づいてきた足音に、俺はせいぜいニヒルに、声だけで言った。
「――王よ。今日が約束の日だ」
「は?」
「え?」
なんか声が違った。
……アレだなコレ王じゃねえな。
「何か口にしたかね、罪人」
兵士のひとりだった。やっべえなこれ、見張りの交代とかだったんじゃねえのこれ。
前を向いたまま《後ろから来た人に気づいて話しかけるヤツ》をやろうとしたのだが、盛大に失敗してしまった。まずい。恥ずかしい。誤魔化さなければ。
どうする。これ以上の恥の上塗りは、本格的に俺の今後の人生に響く。
だが今さら舌が漏らしたものはもう戻らない。
下に漏らしたものが戻らないように。
濡れるのはもう、瞳だけで充分だった。
お手洗いくらい行かせてくれてもよかったじゃないですか……。
しかし、ここで俺は妙案を思いついた。
今さらひとつやふたつ恥が増えたところで困らない。だが開き直るのも何かが違う。
だいたい恥ずかしさの種類が違うではないか。
ほかの恥はこう、なんていうか、俺ではもうどうしようもないところの恥だったとしか言いようがない。
だってそうだろう?
娘さんに恥部を晒したのは俺が悪いのか?
違う、俺を磔にした王が悪い。
耐えきれない液を(涙とか)流したのは俺の責任か?
否だ、俺を人質にしたメロスの責だ。
なら翻って今し方、格好つけて盛大に外したのは誰の問題か。
……これはまあ俺ですね。
ほかもなんなら俺ですね認めないけど。
古来より、こんな格言がある。
曰く――木を隠すには森の中だと。
いやまあ下手したらその言葉が生まれるより過去にいる可能性に若干の否めなさを残しているが、その点はもういい。知ったことではない。
重要なのはあくまで内容だ。
似たものの中に埋没させてしまえば、そのうちのひとつが目立つことはなくなる。
つまりだ。
恥を隠すには恥の中ということではなかろうか?
「はっはっは。王よ、せっかく人質となった我が話しかけているのだ、答えくらい返してくれても構わないだろう」
だから俺は言った。
目の前に、仮想の王を用意して。
「――何言ってんだコイツ?」
兵が言う。そう、俺はもはや兵に話しかけていない。
ということにしてしまった。
彼に声をかけたのではなく虚空に向かって話しかけたことにしてしまえばいい。
なんという発想だろう。
自分で自分が恐ろしくなってくる。
マジで。
マジで戦慄する。
大脳に重大な支障をきたしているとしか思えない。
大脳(オーノー)!
懊悩しちゃうねっ!
……。
話を続けた。
「もうじきメロスが帰ってくる。そうなったら王よ、貴方はこれまでの行いを心より悔い、再びかつてのような賢き王として君臨してくれたまえ」
もうなんか不敬の極みみたいなことを言っている気がする。
「っと、ほら、見てみるがよい! こちらへ駆けてくるあの男を! そう、メロスだ! メロスが帰ってきたのだ! おおいメロスよ、我が竹馬の友よ! 君の友、セリヌンティウスはここにいるぞ! はは、王よ! これで我々の約束は果たされた! さあ今度は貴方の番だぞ王よ! 約定通りメロスを殺すか! それもいいだろう! だが見たまえ、我々の友情を、その輝きを! これを見てなお王よ、貴方の心はまだヒトを信じられぬと叫ぶのか! そこにいったいどんなぶえっふぉ、えっほ……やべえ喉痛い、風邪引いたかも……」
途中で喉が耐えられなくなってしまった。こう、あれだよね。喉乾いてるからね。もう俺の中に水分とか存在してないからね。半ばミイラ。
やはり自分で思っている以上に、いろいろなところに負担がかかっていたのだろう。
だが俺の思惑通りなら、これでさきほどの失態は誤魔化せたはず。
俺は口を閉じ、しばし兵たちの声に耳を傾けた。
「おお、なんたることか!」
兵のひとりが言う。
「心が耐えられなかったのだろう。ついに触れてしまった……!」
……あ、あれれぇー?
「うむ……前々からおかしい奴とは思っていたが、ついにその瞳が光を映さなくなったか」
「いや、彼を悪く言うのはやめるべきだ。彼は友のためにその身を投げ出した。その勇気に我々は称賛を送るべきではないだろうか」
「なるほど、それは確かに!」
「しかしかの邪智暴虐の王の前には、ついに若き勇者も折れざるを得なかったか……!」
なんか。
想定と違うんですけど。
どうやら俺は、死への恐怖から完全に頭が冷えてしまったと思われたらしい。
恥の中に恥を隠した結果、空間飽和羞恥分量を超えて恥がビッグバン。抑えきれぬ恥は周囲に溢れ出し全てを覆った。
これを端的に《恥の上塗り》と言います。
「……俺はもう、元の生活には戻れそうにないな……」
小さく、そう呟く俺だった。
おかしいな。心のポッケを叩いたら、心臓がふたつに割れちゃったみたいな感じだな。
まあ中になんも入ってないからね。
増えるものなんてない。
「やはり世界とは残酷なものであるらしい……嗚呼、なぜ人の世から争いはなくならないというのでしょう……」
そんな俺の呟きを、いったいどのように解釈したのだろう。
兵たちが、どこか色めき立って叫ぶのが聞こえた。
「おお……これは」
「よもや彼を哀れに思われた天上にましますの神々が、彼の魂を救い給うたのか!」
「彼の精神は今や神の域に達している!」
「おお……」
「神よ……」
神よじゃねーよ……。
同情するなら紙をくれ……。
尻を拭くから。
ビッグバンの後始末するから。
世界を創生するから。
涙が止まらない。
涙以外は止まったというのに涙だけが涸れない。
このまま鼓動も止まんないかなあ……。
――王が現れたのは、ちょうど、そんなときだった。
※
「哀れだな」
王が言った。
言ってから少し目を伏せ、
「……いや、うん。本当に哀れだな……哀れっていうか、もうそれ通り越してなんかこう……ごめん」
謝るんじゃねえよ!
お前は邪智暴虐ってろよ!
どうすんだよ! 俺もう立場がねえよ!!
「だが約束は約束――もうすぐ日暮れだ。わかっているな!」
王は言う。
だが俺は不安ではなかった。
なぜなら俺は、ことの顛末を全て知っているからだ。
メロスはギリギリできちんと帰ってくる。オリ主転生憑依原作知識アリの強みはこういうところで活かすべきなのだ。……オリ主?
だから俺は言った。
「――ふふん。今に見ているがいい、王よ! メロスは必ず帰ってくる。そのとき、自らの振る舞いを後悔するのだな!」
「その余裕、いつまで続くか見せてもらおう!」
「ははははは!」
「ふはははは!」
一国の王と、一介の石工の哄笑が、夕暮れの空に高く響いていく。
裸なのは俺のほうだったが。
――そして。
約束の時間になった。
――野郎、帰ってこねえ。