「……あ、れ?」
奏夜が気が付くとそこはホテルの一室だった。バスルームには誰かが入っているのだろう、聞こえてくるシャワーの音を聞きながら、奏夜はベッドの上に腰掛けていた。
「……ぼくは…なにを…。」
今だハッキリとしない意識の中でそう呟き、ベッドに寝転がり天井を見上げた。
(ダメだ…意識がハッキリとしない…。)
何かを忘れている。そもそも、自分が何故ここに居るのかもハッキリとしない。気が付けばこの部屋の中に居たと言う感覚に捕らわれる。
(…誰とここに居るんだ…。)
バスルームから聞こえてくる音を聞く限り、誰かと共にこの部屋を訪れたのは分かるのだが、記憶に無い。誰かと共に入ったはずなのに、入った記憶が無い。
(どう言うことだ?)
そんな疑問が浮かび上がった時、
―享楽せよ―
「ッ!?」
突然、脳裏に響いたその声に表情を歪める。何故かその声には不快感しか沸かない。
―我、汝が心の声なり―
(…なんだ…この不快な声は!?)
―今を享楽せよ……見えざるものは幻……形ある今だけが真実―
(…………。)
言っている事を要約すれば、この“自称:心の声”は要するにこの状況を素直に受け入れろと言う事なのだろうか。
―今まで通り、無駄に生きる事を繰り返す―
(…無駄に…生きる!?)
その言葉に怒りを感じる。生きる事が無駄だと言うのならば…この声は、祖父や父や叔父の戦いや、生きてきた事も無駄だというのか…。
(…無駄なんかじゃない…。)
“今”の結果になってしまっているが、人を守る為に戦ってきた事が、人とファンガイアの共存出来る未来を信じて戦って来た事が無駄で有るはずが無い。
父の死が、叔父の戦いが、無駄であったはずが無い。
―未来など幻想、記憶など虚構……欲するまま、束縛から解き放たれよ……汝、それを望むものなり―
「……………けるな…。」
怒りに震えながら呟く。生きる事は無駄、未来など幻想、記憶など虚構…そう言ってしまった事が最大の失敗。
―汝、新に求むるは快楽なり。汝、今まさに…―
「ふざけるなぁぁぁぁぁぁあ!!!」
奏夜の足元に広がるは『キバの紋』、奏夜の姿と重なる異形の影、奏夜の叫び声と共にその輝きは奏夜を捕らえていた不快な感覚の全てを吹き飛ばす。
未来が幻想であるわけが無い。未来は未来…形も見えないが今を積み重ねる事によって幾らでも形を変える“無限の可能性”その物。だから、父も叔父も目指した未来を作り上げる為に努力していた。
記憶が虚構であるわけが無い。記憶は記憶…だが、言い方を変えれば積み重ねられる受け継がれた思い。祖父から父へと受け継がれた思い、戦う意思が折れ、己の存在さえも否定した父が立ち上がる事に繋がったそれが虚構であるわけが無い。
「貴様が父の…叔父の…戦いを否定するな!!!」
―何故抗う……真実から眼を背けてはならない―
「…良いだろう…貴様の言う戯言が真実だと言うのなら、ぼくはそれを否定する。待っていろ…お前はぼくが…倒す!」
既に声は届かない。既にこの場には居ないであろう…いや、最初からこの場に居なかったであろう、その声の主に対して宣言する。
「キバット!」
「グゥ~。ふわぁ~…あー、良く寝た。って、どうしたんだ、奏夜? もう、終わったんじゃないのか?」
奏夜のポケットの中から飛び出したキバットは奏夜の顔を見るなりそう聞いた。
「それなんだけどさ…今回もどうやら敵はもう一体居たみたいだ。」
「なるほど、それでもう一体の敵って何処に居るんだ?」
そう言ってキバットは周りを飛び回りながら見回すが、当然ながら敵の影も形も有る訳が無い。
「あー…ここには居ないみたいだから、戻って貰える。」
「ん? ああ、それで、他の奴等はどうしたんだ?」
「うん、どうやらバラバラにされた…。」
そこまで言った後考え込んでしまう。
(あれ…さっきまでシャワーの音が聞こえてきていたような気が…。拙い、色んな意味で拙いかもしれない。)
「キバット、急いで戻ってもらえる。」
「ん? ああ。」
そう言ってキバットが奏夜のポケットの中に隠れる。他の誰かは影時間のホテルの中には居ない、居るとすればそれは仲間の中の誰かであるはず。シャワーの音が幻覚でなかったとしたら…。
(…岳羽さんと桐条先輩…どっちに転んでも拙い気がする…。)
そんな事を考えているとバスルームのドアが開き、ゆかりが現われた。
「……え? ……あれ、私……。」
彼女も何かに正気を乱されていたのだろう。素肌にバスタオルを巻いただけ言う、如何にもシャワーを浴びた後と言う姿だった。奏夜を見て、回りを見て、そして…バスタオル一枚の自分の姿を見て動きが止まった。
(ま、拙い……物凄く拙い気がする!?)
「え? ええっ! ……イ………イヤァァァァァァァァァァアッ!!!」
耳を劈く様な叫び声。同時に響いたのは乾いた平手打ちの音。そして、両腕で胸を隠すように抑えながら、バスルームの中へと全力で走っていくゆかり。
(痛い……。ぼく…何か悪い事した?)
床に倒れ伏しながら『走ると危ないよ~。』と心の中で走っていくゆかりに注意しながらそんな事を考えている奏夜だった。
『良かった、やっと通じたッ! 紅君、聞こえますか…って、どうしたんですか?』
通信を通じて聞こえてくる風花が心配そうに聞いてくる。
「大丈夫、それよりも山岸さん、状況は?」
『はい。フォローが遅れてごめんなさい……シャドウの精神攻撃のせいで、呼び掛けが届かなくて。』
精神攻撃…そう言われて見ると確かに納得できる。自力で打ち払う事が出来たが、今までのあの状況は奏夜もゆかりも確かに正気を失っていた。精神攻撃を受けていたと言われてみれば納得できる。場所が場所だけに効果覿面とでも言うのだろうか…。
(…あれ、そうなると…ここに居ない桐条先輩と真田先輩も同じ攻撃を…。)
そう考えた後、考える事を止めた。
『飛ばされたのもシャドウの仕業みたい。現在、真田先輩と桐条先輩、紅君とゆかりちゃんの組で分断されてて…。』
「分かった。…それで、連絡と…敵の位置は?」
『連絡は取れたんだけど…。それが…。』
風花の言葉によれば、シャドウの力はホテル全体に及んでいるらしいが、本体は先程と同じ部屋に居るらしい。だが、結界が張られているらしく、今のままでは手出しが出来ないと言う事だった。
「…面倒だね。」
『こっちは結界を解除する方法を探って見るから…。』
「うん、ぼく達は先輩たちと合流する。」
風花との会話が終わった直後、ドンと扉を閉める大きな音が部屋に響いた。制服を着たゆかりがバスルームから出てきたのだたろう。そう思ってそちらへと顔を向けた時、彼の視線の先には………顔を赤く染めながら殺気さえ感じられる眼で睨んでくるゆかりが居た。
彼女も風花から話を聞いて状況を大体は理解して居るようだ。
「ホラ、さっさと行くよッ!」
「は、はい。」
物凄く怒っていた。付いていく事を戸惑うほどの怒気と殺気を纏って歩いていくゆかりの背中を暫く見送っていたが、突然部屋の扉の前で立ち止まり、
「あのさ、さっきの事、ちょっとでも誰かに言ったら……。」
ドスの利いたプレッシャーを与えるような低い声。ゆっくりと、奏夜達の方へと振り返る。僅かに顔を赤くしながら、もの凄く睨んでいる。
「ゼッコー、だからね。」
絶交だけで済めば良いなと思いたくなるようなプレッシャーを感じながら何度も力一杯頷く。そして、今の彼女の怒りを知らしめる様に激しく大きな音を立てて扉は閉まった。
「こ、怖ッ!」
奏夜の心の声を代弁する様に言ったキバットの声が響くのだった。
そんな奏夜に対して一言送る言葉が有る。それは『ラッキースケベ』、君も亨夜の仲間入りだ♪
『どう見ても、アンラッキーだろう!!!by奏夜』
さて、階段を上っていった所で明彦と美鶴の二人と無事合流できたのだが…
「お。お前達、下に居たのか。」
「ええ、すみません。遅れてしまったみたいで…って、どうしたんですか?」
「な、何も無い! そんな事より、まさか、もう一体居たとは…。」
奏夜の問いに美鶴が怒りの形相で全力で否定してくれた。だが、その顔は僅かに赤くなっていた。
((絶対何か有ったな…。))
そんな二人の様子からポケットの中のキバットと共にそんな事を考えてしまう。
ハイエロファント及びシープファンガイアタイプ戦では、電撃が得意な相手だった。だが、何故か明彦の体には
そんな事を考えていると、明彦と視線が合う。
「…真田先輩…。」
「…紅…。」
((お互い大変だったんだな…。))
ある意味、奏夜と明彦の二人がこれ以上無いほどに分かり合った瞬間だった。
『あ、あのー、結界を解除する方法が分かりましたけど…。』
一行の空気に口を出せなかったのであろう風花が通信を通してそう呟く。
「あ、ごめん。ご苦労様。それで、どうすれば敵の所に行ける?」
『うん。このホテルの鏡から、本体と同じ反応が感じられるの。それを壊せば…。』
「結界は解ける…。」
『うん。』
彼女の言葉に続く様に呟いた奏夜の言葉に風花も同意する。鏡と言われれて、奏夜も気が付いたのだ。『部屋は映っているのに、人間の鏡の映らない鏡』など異常な代物なのだから。
「そう言えばあの時、鏡がヘンだった気が…。」
「確かに、部屋だけしか映さない鏡なんて、如何にも怪しすぎる代物だしね。」
そう、本来、光の反射を利用して姿を映してみる道具だと言うのに、大型シャドウのいた部屋に有る鏡は室内は映し出していたのに、奏夜達の姿は映し出されなかった。
本体のいる部屋に結界が張られていて入れなく、ホテル内の鏡に大型シャドウの力が感じられると言うのなら、他の部屋にもそれと同じ鏡が有り、それこそが、本体のいる部屋の結界を生み出している装置となっているのだろう。
(…まったく…面倒な相手だな…。)
正々堂々と正面から向かってくる相手ではない事は理解していたが、今回は一段と手が込んでいる。
(…だから、試練か…。まあいいか…全力で潰させてもらうよ…今回は特にね。)
今回の相手は奏夜の逆鱗に触れてしまったのだ。
「それじゃあ、先ずは鏡を探そうか。今回の相手は精神攻撃が得意な様だから、固まって警戒して動こう。」
『精神攻撃』と言う言葉に奏夜の言葉に一同が表情を変えるが、特に美鶴とゆかりの二人が表情を強く変えていた。今まで見た事のない様な怒りの形相を浮かべている。
「さ、真田先輩…なんか…物凄く二人が怖いんですけど…って、イクサナックルは…?」
「…美鶴に持って行かれた…。」
「…直々に叩き潰したいみたいですね…イクサまで使って。」
「…ああ…。」
そんな二人に恐怖を感じながらそんな会話を交わす奏夜と明彦。
冗談抜きで使用制限など考えずに遭遇した瞬間イクサを使って変身しそうな美鶴に対してなんと言って良いのか分からない奏夜達だった。
「ほら、早く行くよ!」
「グズグズするなッ! さっさと結界を潰して、本体を片付けに行くぞッ!!!」
「「ハ、ハイ!」」
そんな様子を見咎めた女性陣が声をあげる。思わず二人揃ってそんな声を上げてしまう二人で有った。…流石に、怒りの矛先が自分達に向いて欲しくなど無い。
ホテルの中の部屋数が多い事も有り、その散策は困難だった。普通の鏡は見つかるのだが、中々見つからない。木を隠すには森の中とは良く言ったものだと思ってしまう。なお、時々出てくる通常のシャドウなのだが…。
(…同情するよなぁ…。)
(そうだな…。)
中々鏡が見つからない事で怒りのボルテージが上がっている女性陣によって、ストレス解消の如く、奏夜が指示するよりも早く…女性陣によって消されていった。そんなシャドウに対して思わず同情してしまう奏夜であった。
しかも、やっと見付けて破壊したのだが、まだ結界を張っている鏡が有ると言われて再び探索に入ったのである。
結界が解けたのは結局、二枚目の鏡を破壊した後だった。
『この先に本体がいます。』
そして、再び三階は『法王の間』に辿り着くのだった。
「ここにいるのか……敵が。」
無表情に笑う修羅…もとい、美鶴。
「覚悟してよね。」
クスクスと楽しそうに笑う修羅…もとい、ゆかり。
二人の修羅は息の有った風と冷気の同時攻撃で扉を吹き飛ばし、一気に部屋の中へとなだれ込んでいく。
「ちょ、ちょっと、二人共…少しは落ち着いて!」
「お、おい!」
遅れて部屋の中に入っていく奏夜と明彦の二人。
部屋の中に居たのは、羽のような物の生えた大きなハート型の物体がベッドの上に浮かんでいた。その体はガラスの様に赤く半透明だった。
(…確か、法王の次は…『恋愛』のアルカナ…。らしいと言えばらしいけど…似合わないと言えば似合わないよな…。)
妙に冷めた様子でそんな大型シャドウ…恋愛のシャドウ…『ラヴァーズ』を眺めていた。
『このシャドウが精神攻撃の元凶です!』
風花のアナライズによって、ターゲットが定まった女性陣二人の怒りが遂に…一気に爆発してしまった。
「アンタのせいで……乙女の心を弄んだ罪の重さ、たっぷり教えてやるんだから!!!」
「…貴様には辞世の句を考える暇すら与えない…。持てる力の全てを持って処刑してくれるわ!!!」
召喚器、弓、イクサナックル、レイピアと言った武器を持って怒りが最高潮に達した二人が叫ぶ。
「山岸さん…アナライズよろしく…。」
『りょ、了解、分析して見ます。少し時間を下さい。』
「分かった、二人共…。」
「「覚悟ぉ!!!」」
《レ・デ・ィ・ー》
「…うん、良いよ…戦って…。」
イオを召喚するゆかり、美鶴に至ってはイクサナックルを使い、変身する準備までしてしまっている。…許可しないと、拙いだろう…奏夜の命が…。
「変身!!!」
《フ・ィ・ス・ト・オ・ン》
美鶴が変身するとバーストモードではなく、セーブモードに変形するイクサ…。こうして、本日二度目の戦いが開始されたのだった。