黒円卓の聖杯戦争   作:tonton

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序盤推奨BGM:『Unus Mundus』(Dies irae)


「ト書き」

 

 

 

 ――既知感。

 

 既視、ではなく既知。

 似ていると思う者は多いだろう。

 もしくは同じもので単なる言葉違い――などと思う輩もいるかもしれないが、これだけはあえて言わせてもらおうか。はっきりと、比べるまでもなく別物であると。

 

 既視感とは、所謂デジャブ――つまり、今体験した何某かを、過去どこかで、自分が、或いは周囲の変化を体験したことがあると思わせる摩訶不思議な現象のこと。

 学によっては予知夢のようなものと言う者や、単なる錯覚、本人の記憶違いだと嗤う者もいるだろう。

 なぜなら、それらの現象が見せるビジョンはひどく曖昧であるからだ。

 確かに見た覚えがある。

 だがいつ、どこで、どのようにして起こりえたのかが思い出せない。

 記憶の追憶、それは確かに古びたフィルムを見る用であり――そうした意味では夢に属したものであるとは言えよう。

 

 対し、既知感というものを一言で表現するのなら、それは“病巣”だ。

 一度感じた既視感というものは記憶に薄い。なぜなら、それは違和感ばかりが先行し、肝心のビジョンが蓄積されないのだから。

 要するに、これが二つの大きな相違点である。

 既知感は消えない――などと、頓知めいた生易しいモノではない。

 一種の混濁、心の塗りつぶしとでもいえばいいだろうか。

 未経験な現象を知る事で、人はその好奇心を震わせ感じ入り、次を次をと求めていく。極端な話、人生とは未知を既知に塗り替える作業に他ならない。

 

 そう例えば――

 赤子の時、幼少期の時、世界が明るく、輝かしい宝石のようだと思った事はないだろうか。

 出会う人々との触れ合い、その暖かさに心温まり。

 モノの喪失、所有した物、或いは動物であったり、絆であれば―――身近な人の喪失に悲しんだり。

 ひとたび足を踏み出せば別世界への冒険が待ち受けていた――

 そう、世界は未知で溢れていたはずだ。

 

 

 対して、今の世を見渡して何を思う。

 そこに輝かしい何某かがあるのか。

 情熱を奮い立たせひたむきに邁進できる導があるのか。

 陳腐な言い回しをすればだ―――今、貴方は希望を感じ、未来を信じているだろうか。

 

 いかがな。

 今思い返した大多数は視界或いは脳裏に色あせた何かが掠めたのではないのだろうか。

 

 ふむ、今も昔も夢を信じている?

 一つのやりがいがあれば人生は素晴らしい?

 

 ―――なんともおめでたい。

 

 貴方はどうやら既視感を味わおうと、既知感には陥っていないのだろう。

 塗りつぶされるという事は即ち未知の消失だ。

 人生において味わう筈の感悦感恩感懐感喜感泣感興感傷感奮―――五感で心に響く感動を奪われる。初期症状は至って微かな違和感であるかもしれない。だが、やがてソレは宿主が感じる達成感をモノクロにしてしまう。

 先の通り、人生が未知を既知に塗り替えるというのなら、だ。その感動を奪い去られるという事は即ち、生きる活力の喪失にほかならない。

 例えどれだけ雲の上の偉人を目にしようと。

 今生において掛替えのない出会いを果たそうと。

 名画、名作、古今東西の芸術に触れようと―――

 ―――もしくは、己の生き死にすら無感動にさせられてしまう。

 感動を殺されるという事はそういう事、心が生きていなければそれはもはや人ではなくただの人形に過ぎない。ならばそう、これほど恐ろしい病魔はいないという結論にはならないだろうか。

 

 故、知らぬというのならそれに越した事はないのだよ。

 先の通りコレは“病巣”、侵し、蝕み、宿主を破滅に導く自滅因子(アポトーシス)

 陥れば最後、それはその者の破滅をもってしてでも乖脱は不可能。現に私が知りうる“悪魔の様な男”も、その既知感(ゲットー)を抜けられずにいるのだから。

 

 ああ、そう。

 だからこそ、諸君らが今生で出会う事がなきよう切に願わせて頂くとしよう。

 なに予備知識とは万象全てに通ずる予防策、損はあるまいよ。

 

 故に―――――――――

 

 

 

 ――Disce libens(喜んで 学べ)――

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか空が泣き出したように雨を落としている空模様。

 湿った空気が独特の臭いを漂わせ、道行く人は朝からついてないと早々と先を往く。

 そんな中を―――

 

「―――っ、なにを、ばかな」

 

 覚束ない足取りで往来の道を行く綺礼の姿があった。

 彼の胸の内、その思考を占めていたのは先刻に金色の髪をなびかせていた丈夫による、耳慣れない言葉だ。

 

 

 

「綺礼―――貴方は“既知感”というものを感じた事がありますか?」

 

「既知、だと?」

 

 絵としてその情景を表すなら天啓を告げる使徒と徒囚、とでも言えばいいのだうか。

 鳥のように返す綺礼の言葉に笑顔で頷き返すさまはまさに啓示を告げる聖なる何かのようではある。

 ―――が、十人が十人。そのように見れるかと聞かれればまず否定したはずである。

 なぜなら、男の笑みがひどく邪悪であったからだ。

 

「一つの概念、物事の捉え方だと思ってください。この景色はどこかで見たことがある。この味はどこかで味わったことがある―――」

 

 確認するように、丁寧に言葉を紡ぐ様子は手負いの相手に塩を塗り込む行為に似ている。

 戸惑い、膝をつく綺礼に手を差し伸べるでもなく言葉の追い討ちを仕掛ける。

 そんな彼の何処をどう見れば聖なる者と言えるのか。

 

「―――この女はどこかで抱いたことがある。と、どうですか。あなたも一度ぐらいは味わったことがあるでしょう。ああですが勘違いはいけない。あくまでこれらは“既視”ではなく“既知”、“見た事がある”というのと“知っている”のとでは大きく事違うのだと知りなさい」

 

 聞いている側の綺礼も、何を言っているのかと困惑する域の論法だ。

 啓示、と言えば聞こえは良いが、語り部であるこの男には諭す気概がまるでない。

 そう、施術、切開、傷を抉る行為でもって気付けと言っているのだ。

 

「つまりは脳が認識しているか、その事象が誤認であるか真実なのかの違いですが―――言葉遊びはこの辺でいいでしょう。肝心なのはその捉えかただ。そう例えば綺礼、貴方は最近――いいえ、恐らくは長く以前に“悦”というものを感じた事がありますか?」

 

「―――――」

 

 突き付けられた腫瘍。

 言峰 綺礼にとって見慣れた――けれどそれは正常な人が抱くべき感情ではないと只管に背けてきた答え、その片鱗だ。

 生来他人(ヒト)との擦れに出した解答。

 

 “言峰 綺礼”に人の美意識を理解する事は出来ない。

 

 言い方を変えよう。知識として受け止められるし、事象としては知っている。

 そう、知っていながら理解、咀嚼ができないのだ。

 美しい、心揺さぶられる、感動した。そうした大凡の人間が感じる筈のものをひどく歪に感じてしまう人間的欠陥。

 その構造的失陥を自覚し、ありえないとして人が求める事柄には数多く手を出した。それこそ教義に照らし合わせるまでもなく、事の崇高さとは無縁のことまで。

 だが、結果としてそうして手を伸ばせば伸ばすだけ自身に絶望を突き付けるだけとなった。

 他人との違いを認められず、求めるその姿は求道者の様に見えただろう。

 そしてその答えを求める為に“万能の願望器”たる聖杯を求めるこの戦いに身を置き、過程として、こうして答えの欠片を見つけ出す事が出来た――本来なら泣いて狂喜する場面なのは間違いない。

 間違いないが、本能的にその答えの危険性、知れば退路はないという恐ろしさが見えかくれする。己をここまで確固としてきた道がまるで見当違いだという事実。その瓦解を愉快だと笑う司祭服を着たナニカが予感させるのだ。

 同時に、この男を前にした時点で他の道が潰されている事はまず間違いない―――

 

 

 

 男の訓示は途切れる事無く続き、綺礼が雨見濡れ始めた頃にようやく終わりを告げる。

 講釈がという意味ではない。ただ遠坂 時臣の催促に折れたというだけで間がよかったのだけに過ぎない。

 

 そして綺礼がそう感じるからには件の答えは得られなかったのだろう。

 もし、答えを示されていたのなら、彼はこうして雨に打たれて首を垂れている筈がない。

 

 彼の聞き違えでなければ既視ではなく既知。

 耳に残る言葉が脳内をリフレインしていく。

 確証には至らなかったが、突き付けられた歪への解き方を――

 

「――既知感、いや…」

 

 見えかけた回答を否定し、また一歩歩み出す。

 背後の向こう、父の言葉と期待を受けて隠れ家から出て数分足らず。彼の足取りは別人のようにおぼろげだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「フム――どうやら時期尚早、頃合いではりませんでしたか……いけませんねぇ、ああいった手合いを前にすると、どうにも迷い墜としたくなる。いやはや、業と言えばそこまでですが――さてはて、これはいったいどちらの業なのでしょうか」

 

 綺礼が迷い進む雨の空模様を窓から眺めるアーチャー。

 部屋にはだれもおらず、これと言って魔術が使われているような痕跡はない。

 が、それも妙な話である。

 相も変わらず笑みを絶やさぬ相貌は目が細く、窓を眺める瞳が何かを映している様子はないのである。 

 だというのに雨空に濡れる街を睥睨し、件の様子をまるで手に取る様に把握しているかのように嗤う男。ある意味で異常であり、ある意味では正常。至極もっともな話である。

 なぜならライダーを除き、その男は今だその素性、能力、宝具ですら碌に開放していない。

 未知数という意味なら、今回の聖杯戦争中、もっとも色濃いサーヴァントだ。

 

「――ああ、こんな所にいたのかアーチャー」

 

 そんな彼を前にごく自然な風に介入する第三者。

 当然、綺礼がこの場に後をつけたのではなく―――

 

「屋敷の中でまで“ソレ”に徹している必要はないさ―――璃正神父の容態はどうだったのかな」

 

 遠坂邸の主、遠坂 時臣その人だ。

 ゆったりと、且つユルみ過ぎないように着こなした赤いスーツ。青いタイに顎に蓄えた髭が特徴的な――紳士、と表現すべきか。

 苦笑と共に入室したのは遠坂邸の一室、家人であるからこそ優雅な振る舞いに淀みはなく。そして無駄が無かった。

 

「ええ、報告に聞いていたよりはご無事ですが――現場に出るとなると……」

 

 そして、それに受け超えるアーチャーも当然とばかりに報告をする。

 もう一度言う。

 その報告のやり取りには一切の無駄が無い。

 

「やはりか――」

 

 Aが投げたボールをBが受け取り投げ返す。

 言の詳細、濁す単語をこの主従はそれで汲み取り補完する。ある意味では理想の主従関係だが、この場合いにはひどく歪んで見えてしまう。

 アーチャーが時臣から受けた指示、監督側の隠れ家に璃正神父の安否の確認というお使いの様な簡単なものであったが――彼はその道中に出会った、引き留めた人物がどういう状態であるのかをまるで報告しないからだ。

 

「……いや、こういってなんだが不幸中の幸いか。キャスター襲撃に教会が落とされたという事実は確かに痛いが、神父が無事ならまだの打ちようがある」

 

「ハイ、彼も教会陥落の際にはひどく心穏やかではない様子でした―――のちに正式発表があるということですが、“キャスター討伐”はほぼ確定という話です。つきましては穴が無いよう内々に話を詰めたいという事ですが――」

 

 だが、時臣の感心ごとは聖杯戦争に終始するようでアーチャーの報告を疑うという事がまるでない。いや、この場合はそれほどの信頼を短期間で築き上げたアーチャーの行いこそ見事と褒めるべきなのだのだろう。

 

「――ふむ、ご老体に御足労ねがうまでもないだろう。ただでさえ怪我を負ったばかりだ、こちらから伺う労は喜んで引き受けるとしよう」

 

 このようについ先ほどまで及んでいた蛇足を露ほどにも感じさせず、自身は忠臣の態を演じるのだから。

 

 かくして、賽は投げられる。

 これより数刻を経たずして、キャスター組を除く各陣営に教会の監督役として伝えられた“キャスター討伐”。

 “各陣営即時戦闘行為を中断したのちキャスター討伐を最優先で当たる事”

 そしてキャスターを打ち取った者に対する報奨をつけ、各陣営に対する撒き餌にも事欠いていない。

 無論のこと、その報奨を出すものが監督、璃正の役目となればそれは遠坂と彼等が一枚かんでみているとみていいだろう。

 そうとは気付かずに浮き足出す各陣営。

 各人様々な思惑が交差し、第四次聖杯戦争、その火ぶたが切って落とされた――

 

 

 

 






 久々のニートは疲れるぜェ……
 この空気がお初な方は初めまして、お久しぶりな方はおばんデス。tontonです。
 ハイ、一応言っておくと、ニートはニートでも私ではなくて、今話序盤を語ってくれる方です。
 いきなり既知講座、しかも外道神父(続)かと思いきあのニートへのスルーパス。いや、既知を語る上ならこの人でしょという作者の偏見ですが。ですので作中の“既知と“既視”の差異については作者の解釈が多分に入っておりますデスヨ。

 で、とりあえず。今話で説明回は一区切りでキャスター討伐に向けた次へ!
 そろそろアノキャラ出したいなーとか作者の脳内で絶賛会議中ですが大筋は出来てるのでお楽しみに!
 では、このへんで、感想、ご意見、違和感等何かお気付きの点等ございましたら、些細な事でもいいのでご連絡いただければ幸いです。
 ようやくの夏本番、皆さま夏風邪等にはお気をつけてお過ごしくださいませ。

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