二人の話   作:属物

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第二話、正太が蓮乃を叱る話(その一)

 今日も今日とて全く持って楽しくない学校生活を終え、”宇城正太”は毎日変わらぬいつもの通学路を朝とは逆向きに歩いていた。

 昨日と変わって本日の空は、コンクリ色の曇り空。日差しがないくせに、空気は晩春の生温さと初夏の暑さを足して二で割ったような、何とも言い難い温度を帯びている。おかげで汗っかきの正太の肌は、にじみ出る汗でどことなくべた付いていた。

 

 そんな正太の鼻先に、五月らしく黒黄文様の迷彩揚羽蝶(メイサイアゲハチョウ)がヒラヒラと舞っている。カラタチの植木に止まり、葉っぱ色に変わった翅をぼんやり見ていると「もう五月なんだな」と取り留めのない思考が頭をよぎった。

 代わり映えのしない毎日がすぎ、こうして中学を卒業して、高校を卒業して、進学するか就職するかして、歳とってもどうせ一人で、そんで勝手に死ぬんだろうな。後ろ向きに漸進している意味もない思考が、ラムネの泡みたいにぷかりと浮かんだ。

 

 ――そう変化のない毎日がずっと続いて……

 

 そこまで考えたところで、おもいっきり振った父の缶ビールよろしく、昨日の光景が脳裏へと噴き上がってきた。そのなかでも色々とお世話になった、というかお世話をした”向井蓮乃”のドヤ顔と泣き顔が、頭の中でデカデカとその存在を主張している。そのむやみやたらとビックサイズなイメージに、正太の顔に苦虫を噛み締めてしまった表情が浮かんだ。

 

 大きなため息とともにイメージを吐き出すと、何度か頭を振ってイメージの残りを振り飛ばした。

 確かに昨日は色々あった。その上自分は、あの娘にメモを渡すという余計なことをした。だがおそらく、今後会うことはないだろう。何せ母親の様子を鑑みるに否定されて反対されて、それでお終いとなるのが見て取れる。昨日の一件は驚くべき事だろうが、これっきりでそれっきりの事なのだ。

 

 さっさと家に帰ろう。そして小説読んで忘れよう。いろんな気持ちをため息一つに押し込んで、いやな感情をまとめて吐き出す。それから体を大きく伸ばすと、正太は家路を行く足取りをいくらか速めた。

 

 

 

 

 

 

 これっきりでそれっきりの事、そのはずだった。だが、目の前の光景はきっぱりとその考えを否定している。

 

 正太が立つのは我が家である間島アパート一〇三号室のある通路。その一〇三号室のドアの前には、体育座りをした見覚えのある顔立ちの女の子がいる。これが妹である宇城清子なら、早いお帰りを笑ってやって鍵を開ければすむ話だが、問題はそれが妹でも家族の誰かでもなく、つい昨日にそれはもう色々とあった、向井蓮乃その人であるということだった。

 

 ――あんだけ極端な反応したくせに、こんなにあっさり許可出したの!? 睦美さん!

 

 それとも実は初孫できた爺さん婆さんよろしく、実は蓮乃にダダ甘だったりするのだろうか。正太はあまりの混乱に顔半分だけを器用にひくつかせ、蓮乃の母である”向井睦美”に向けて内心で大いに文句を上げた。

 いや、あの蓮乃の極端な反応も、睦美さんの過保護が理由なら頷けなくもない。たしか過保護も行き過ぎれば、ある種の虐待になるって話も聞いたこともある。過保護を嫌がったと考えれば、別段おかしくはないのかもしれない。

 

 事態の想定外さから、明後日の方向へ思考が羽ばたき始めた正太。そんな一人上手を続けている正太に気が付いたのか、パステルカラーのワンピースをまとった蓮乃が、抱えた両膝から顔をひょいと上げる。

 その顔に浮かぶのは、感情が抜けたような遠くを見るような、どこか某漠とした表情。蓮乃の年に似合わない美貌と相まって、宗教画の天使じみた印象を見せていた。しかし、オーバークロック状態でフリーズしている正太を見つけると、途端に蓮乃の表情はまさに子供な元気いっぱいの笑顔に変った。勢いをつけて体育座りから立ち上がると、蓮乃は元気よく右手を振り回す。

 

 「みー! むーなーっ!」

 

 正太の知る言語体系から直上方向に離脱した声が耳朶をたたき、正太の思考を強制終了させる。正太が蓮乃の方へと視線を向けると二人の視線が交差して、蓮乃の振る手は速度三割り増し、笑顔は陽光を存分に浴びた向日葵のそれに変わった。それを見た正太の脳裏に、飼い主の帰宅にちぎれんばかりに尻尾を振る柴犬の姿が浮かぶ。

 ひきつり気味の顔に「コーラガムのつもりでゴーヤガムを噛みしめた」ような、疑問と違和感と苦さと渋さが入り交じった微妙な表情を張り付けながら、正太は蓮乃の側へと近づいてゆく。

 

 「お前、睦美さんから許可をもらえたのか?」

 

 予想外の混乱故か、蓮乃が障害故にこちらの声を聞き取れないのも忘れて、正太は口頭で質問を投げかける。不可思議そうに首を捻った蓮乃は、何を察したのかウサギ型ポシェットに手を突っ込むと、昨日と同じ「お話」と書かれたノートを差し出した。当然その表情は、「よくわかったでしょう!」といわんばかりに得意顔だ。

 混乱続く正太はこれまた口頭で礼を言うと残り少ない白紙のページを開いて、ようやく正気に戻ったのか手元にペンがないことに気が付いた。

 そこにさらに得意げな顔の蓮乃がシャープペンを正太に突きつけた。小鼻がプクリと膨らみ、「完璧」と書かれた得意満面の笑みである。ただし、ペン先を人に向けるのはあまり褒められたことではない。

 いい加減に混乱から立ち直った正太は、蓮乃へ向けて頷くと受け取ったペンで、最後のページに蓮乃にいうべき礼と疑問を書き付けた。

 

 『ノートとペンありがとう。助かった。ところで、お母さんから家に来ても良いって言われたのか?』

 

 お礼の書かれたページを見た蓮乃は、「ムフゥ」と非常に満足げな息を漏らす。お礼を言われたことに大満足して他が目に入らないのか、文面後半に対する反応は見られない。

 おいこら、と思わず正太は声を上げそうになるが、目の前の娘っ子は人の言葉が聞き取れないのだ。先と同じミスをするのも馬鹿馬鹿しいので、文面後半に下線を引き、ペン先でそこを叩いて言いたいことを強調する。それを見てようやく気が付いた蓮乃は、正太からノートを受け取るとさらりと回答を書き上げた。

 

 『後で話すから大丈夫』

 

 ――回答になってねぇ

 

 正太の顔に形容しがたい、しかし誰がどう見ても「非常に悪い」と言わざるを得ない色合いが浮かぶ。どう考えても大問題である。昨日の睦美の様子から察するに、帰宅後にこんな事を聞かされたなら、正太は警察署でカツ丼を食う羽目になり、蓮乃は家の柱に縄で括り付けられるであろうことは明白だ。

 にもかかわらず、蓮乃の顔にそのことを気にした様子は一片たりとも表れてはいなかった。有るのは常と変わらぬ、考え無しの無邪気さと根拠のない自信を一:一でミックスジュースにした子供そのものの表情だ。

 蓮乃が実は未世出の天才子役で平静を演じているのでもない限り、昨日の様子から自分が何をしているのか、その自覚が全くないのだろうと推察ができる。それとも、実は他人に迷惑をかけることをほんの僅かも気にかけない、希代のクソガキだったりするのだろうか。あながち間違いでもあるまい。

 

 頭を抱えて泣きたい気分を、ため息とともに吐き出した。昨日も思ったが、顔がいいからって許される限度を超えていやしないか。何にせよ蓮乃の母である睦美さんに連絡をせざるを得まい。カツ丼は食いたくあるが、娑婆で食べる最後の食事にする気はないのだから。

 そう胸の内で決めた正太は、蓮乃からもう一度ノートを受け取る。最後のページに『電話するからここで待て』と蓮乃に書き渡し、TV脇の電話へと向かうべくドアを開く。

 

 ――睦美さんに連絡した後は、蓮乃は正座で説教だ。足がしびれて泣き顔になるまで、いや、なっても無視してさらに小一時間は小言をぶつけてやる。

 

 想像の蓮乃をイジメつつ正太は、奥の居間にある電話機へと足を進めた。言葉を聞き取れない蓮乃への説教は文章となるだろうことや、そこまでやったら腱鞘炎で自分の方がダメージが大きいだろうことは頭の隅に蹴り込んで置く。現実に向き合うのはもう少し後にしたい。昨日今日と色々と有りすぎたせいか、正直なところ頭痛がしそうな気分だ。

 

 そのせいだろうか。

 

 受話器を取った自分の後ろで、最後まで文字で埋まったノートを替えるべく蓮乃が自宅へ戻ったことに、正太は気が付くことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 ただでさえ季節にそぐわない生温い気温のせいで、正太の肌は汗にぬめっていた。だというのに、電話先のパニックじみた反応のおかげで、受話器を握る手に脂汗と冷や汗が追加される始末だった。

 

 『本当に、本当に申し訳ありません! 蓮乃によくよく言って聞かせますので、帰宅までの間ご迷惑をおかけします!』

 

 睦美は自分のあまりの勢いに、自分の日本語がおかしくなっていることにも気がついていないようだ。しかし、それを聞く側の正太も、その勢いのせいで日本語のおかしいことにまで気が回らない。

 

 「い、いえ、お気になさらず。では、昨日同様に蓮乃ちゃんは睦美さんが帰られるまでの間、預からせていただきます。それでは失礼します」

 

 昨日同様に崖に鉄砲水で謝り倒す睦美に、半ば辟易しながらも蓮乃のことを伝え終えた正太は、受話器を置いて首を大きく回した。小枝を折るような軽い音が連続して響き、脳を小突かれたような軽いしびれが頭にしみた。

 素敵な美人の声を聞くことは大歓迎だが、こうもコミュニケーションに難があるとさすがに辛いものがある。いや、そもそも自分の方にもコミュニケーション能力に問題が多々あるのだ。人のことが言えたためしではない。

 さてどうにか許可は得れたわけだし、昨日同様蓮乃の相手をしてやるか。そう考えて振り返った正太は玄関へと視線をやる。しかし、そこには見覚えのある長い黒髪はなく、開いたドアの向こうには蓮乃が背中を預けていた鋳鉄の柵が有るだけだった。

 

 「ッァ!?」

 

 声にならない疑問の声をあげて、正太は玄関へと駆け出した。しかし、玄関どころか自宅前の通路を端から端まで眺めても、蓮乃の姿は見られない。正太の顔が驚愕の形に強ばった。蓮乃は何処に! ?

 アクセルを踏み込みすぎて正太の思考が強烈にホイールスピンする。だが、正太は頭を強く振って混乱を振り払い、さらに暴走気味な思考を深呼吸で急停止させた。蓮乃の行動を考えて、蓮乃をとっ捕まえなければならない。正太は昨日の蓮乃の行動を一から思い返した。

 

 ――まずあいつは…………居間のソファーで勝手に寝てた。

 

 表情同様に強ばっていた正太の体から、緊張が音を立てて抜けていった。

 恐らくは昨日同様に勝手に家に入ったに違いない。きっと昨日我が家に入ったから、今日も大丈夫だとかあの娘は考えてんだろう。居間に姿はなかったから、子供部屋に本でも取りに行ったのだろう。よし、頭を小突いてたっぷりお説教に決定だ。

 座った目の正太は開け放した扉を閉めると、靴を脱ぎ捨て居間の方へと歩いていった。

 

 

 

 

 

 

 子供部屋を探す。蓮乃の姿は見られない。

 正太の眉間にシワが寄った。

 ――他人の家の中で探検でも始めたのか。

 

 寝室を探す。蓮乃の姿は見られない。

 正太のこめかみに青筋が立った。

 ――まさか台所でお菓子を漁っているのか。

 

 台所を探す。蓮乃の姿は見られない。

 正太はすぐ見つかると自分に言い聞かせた。

 ――トイレにでも行ったんだ。

 

 風呂と便所を探す。蓮乃の姿は見られない。

 正太の顔に冷や汗がにじんだ。

 ――入れ違いになったんだ、そうだ、そのはずだ。

 

 もう一度家中を探す。蓮乃の姿は見られない。

 正太の呼吸が目に見えて荒くなった。 

 ――どこだ、どこにいる。

 

 再度家中を隅から隅まで探す。蓮乃の姿は見られない。

 正太の顔から血の気が音を立てて引いていく。

 ――どうしよう、どこにもいない。

 

 「どうしよう」

 

 正太の口から言葉が漏れ落ちた。何の役にも立たない疑問符混じりの混乱思考で、正太の頭がギチギチに満ちてゆく。

 預かるといった子供を、承った数秒後に見失う。失態どころの話ではない。時代が時代なら切腹ものである。自分はそれをやらかした、やらかしてしまったのだ。

 

 「どうしよう」

 

 何も考え付かない。

 

 「どうしよう」

 

 何も考え付けない。

 

 「どうしよう」

 

 頭が真っ白に塗りつぶされる。

 

 「どうしよう」

 

 「どうしよう」

 

 「どうしよう」

 

 「どうし…………いい加減にしろこん畜生が!」

 

 大金星を狙い土俵場に踏み入る相撲取りのように、正太は力強く頬を張る。頬の痛みと衝撃が、脳をパンクさせていた無意味な思考を弾き出した。

 混乱している場合ではない。急ぎ蓮乃を捜さなくてはならないのだ。正太は近くで子供の行きそうな場所を、おぼろげな記憶から選び出してゆく。

 

 ――おもちゃ屋はすぐにいける距離じゃない、電気屋も同じ。ほかには何だ、何がある?

 

 ――公園が近いな。それと、ケーキ屋は俺の足でも歩いていける。和菓子屋はその向かいだ

 

 捜索する場所を「公園」「ケーキ屋」「和菓子屋」の三つに定め、清子宛に現状を電話横のメモに残す。そして、ポケットの中の鍵を確かめると、正太は駆け足で自宅から飛び出した。


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