二人の話   作:属物

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第一話、正太と蓮乃が出会う話(その七)

 古いことわざにもあるが、楽しい時間は早くすぎるものだ。五度目のババ抜きが終わったとき、時計の針は一七時一五分を指していた。電話越しに正太が聞いた、蓮乃の母親が帰宅する時間まであと一五分。もう一勝負といくには少々時間が足りない。

 ババ抜きに熱中していた二人に比べて幾らか頭が冷めていた清子は、時計の指す時間を確認すると、トランプの小山をまとめて箱にしまった。

 清子がトランプを箱にしまうのを見て、正太はようやく時間になったことに気付いた。長時間前かがみでババ抜きをしていたせいか、背筋が少々痛い。正太は両手を組むと手のひらを上に向けて大きく伸びをした。逆にのけぞって背筋を伸ばし、さらに両手を振るって体を捻る。声とも唸りとも付かない、豚の声のような低く重い音が口から漏れた。

 一方、蓮乃は清子がトランプをしまうのを不思議そうに、そして不満そうに見ていた。顔を見るに「まだまだ遊び足りない」と書いてある。だが、もう時間がきてしまったのだ。清子が蓮乃に見えるように時計を指さす。キョトンとした表情の蓮乃はそれを見て、ようやく何でババ抜きを始めることになったかを思い出した。

 

 途端に蓮乃は日中の朝顔もかくやの、しおれきった顔になり果てる。表情は握りしめた紙のようにクシャクシャに潰れ、二つの目からは涙がにじんだ。

 その様を見て正太が清子に目配せをするも、清子は静かに首を左右に振った。蓮乃のご機嫌取りに清子がやったことは、蓮乃母の帰宅という目の前の事実からゲームで目を逸らさせるということだ。あと一五分で蓮乃母が帰宅する以上同じことはやれないし、やったところでほとんど意味はない。後はこの萎びた表情の蓮乃をそのままに蓮乃母の帰宅を待つことだ。だが……

 

 正太はかつての自分が同じような表情をして、べしょべしょ泣きながら鼻をすすっていたことを思い出していた。

 自分が「前の一件」をやらかして、周り中が正義面で楽しそうに自分を打ち据えていた時の話だ。あの時は、ひたすらに情けなくて辛くて死にたくてたまらなかった。無尽蔵だと思いこんでいた意志の力は、あっと言う間に底をつき、鋼鉄製だと勘違いしていた反骨心は、割り箸より簡単にへし折れた。できたことと言えば、自分への言い訳とゴメンナサイを口の中でモゴモゴと噛んで、布団を頭からかぶることだけだった。

 目の前の蓮乃の顔からは、そんな不愉快極まりない記憶が思い起こされて仕方なかった。蓮乃が浮かべる「人生全てが嫌になって泣きじゃくっている」ような表情が、胸中からかつての情景を引きずり出していたのだ。別に目の前の蓮乃が、その時のことに関わっているわけではない。思い出すだけで嫌になるような思い出を、蓮乃の表情から思い出すだけだ。だが、意識の端に上るだけで、腹の底から本日のランチがこみ上げてくるような過去を、喜んで想起したいと思いはしない。

 

 正太は歯ぎしりと共に頭を掻きむしった。塗れた陶器を擦り合わせたような音と、猫が柱で爪を研ぐような音が、頭蓋の中で響いた。さらに、それだけでは足りぬと罵声を口の中で吐き捨てる。眉間に皺を寄せ歯を剥いたその顔は、牙で敵を抉り殺さんとするイノシシのそれだ。当社比五割り増しの凶相になった兄の顔を見て、清子が顔をひきつらせて困惑の声を上げた。

 

 「えっと、兄ちゃん……?」

 

 兄の突然の異様に惑乱する妹を置いて、正太は机の上のメモをはぎ取ると、石盤に刻むように文字を書き殴った。無駄に力が入りすぎたのか、メモの下の机が悲鳴のような音を立てる。そしてメモを書き終えると、刑事ドラマの逮捕状よろしく、蓮乃の眼前にメモを突きつけた。

 しゃくりあげながら顔を上げた蓮乃はメモに目をやる。泣き顔も涙も止まる衝撃に、その目は大きく開かれた。さらに赤く染まるのも無視して二度三度と目を擦って涙を払うと、メモを見直して恐る恐る正太の顔を見つめる。正太は「これから人を殺しにいきます」というより、「ついさっき殺して食ってきました」と書いてあるような獣面、いや渋面で首を縦に振った。

 それをみた蓮乃は正太からメモを奪い取ると、両手で握りしめて掻き抱いた。まるで手放した瞬間に、それが蒸発して消えてしまうといわんばかりの動きだ。

 

 唐突に、玄関から客人の訪問を知らせるチャイムが響いた。この時間、このタイミングで来るのは蓮乃の母ただ一人しかいないだろう。

 二人の有様を見て困惑することしきりであった清子は、好都合と言わんばかりに玄関へと足早に駆けていった。異形の表情をしている兄と、なぜかそれに希望を見いだしている蓮乃ちゃんという、異様な空間に居続けるのは居心地が悪い。

 

 背後の二人と行儀が悪いのを無視して、清子は靴をつっかけると、鍵をはずしてドアノブを回す。そして扉を開き、扉の先を見て、胸の内に苦い息を吐いた。

 清子は人生が不公平だということは多少は知っているつもりだ。少なくとも自分が美人とよばれる存在からほど遠い位置にいることは分かっているし、顔がいいだけでは得られないだろう、『気の通じあう友人』という幸運を持ち合わせていることも、理解している。

 それでもここまで差があると愚痴の一つもぼやきたくなる。共産主義者になるつもりはないが、彼らの気持ちが否応なしに理解できてしまった。蓮乃の顔を見たときも思ったが、富が偏在しているように美もまた偏在しているのだ。

 

 「失礼します。ここは宇城さんのお宅でよろしいでしょうか?」

 

 開いたドアの先に居たのは同性でもハッとする、いや嫉妬するほどの美人がいた。

 まず感じるのは、ピンと張りつめて触れたら崩れてしまいそうな、氷細工の冷たい儚さと、ガラス細工の硬質な脆さ。

 整った顔立ちは親子らしく蓮乃とよく似ているが、子供特有の無邪気さの代わりに、疲れきったような陰性の色気が醸し出されている。

 さらには絹の糸を思わせるボブカットの黒髪に、大理石の白さと滑らかさを持つ肌。

 ベージュ色のスーツに包まれたシルエットは、すっきりと細いながら、出るところと引っ込むところはしっかりメリハリが利いている。

 

 清子にとっては、存在そのものがある種のいじめに思えた。自身を省みてみれば、月面もかくやのクレーターだらけの頬に、前衛芸術風にねじ曲がった天然パーマ。そしてなにより、兄同様に母から引き継いだ横幅の広さと、父から頂いた骨太な肉体。数え上げればキリがないほど多く、比べれば月とスッポン以上の開きだ。

 だが、愚痴を吐こうが文句を付けようが、自分の慰め以外何にもなりはしない。ニュートンの法則にだって書いてある。「力が作用しない限り物体は状態を維持する」……つまりは「物事は何もしなければそのまんま」ということを。だったら、どうにもならない外見の話はとりあえず置いといて、今やるべきことをやるべきだ。

 

 そして今やるべきことは、お客への応対だ。

 

 「はい、宇城です。向井蓮乃ちゃんのお母さんですか?」

 

 

 

 

 

 

 蓮乃の母は”向井睦美”と名乗った。透明感のある涼やかな彼女の声に、コンプレックス的な何かを大いに刺激されつつ、清子は玄関口で話すのも何ですからと、家の中へと招こうとする。

 が、やんわりと断られ、結局正太と蓮乃の二人を呼ぶことになった。足早に歩いてきた二人は、どことなく緊張したような面持ちだ。蓮乃ちゃんが緊張するのはさっきまでの反応を見るにわからなくもないが、なぜ兄まで緊張しているのだろうか。清子が小首を傾げていると、睦美は蓮乃と話すためか、合成皮革製の肩掛けバックからノートとペンを取りだした。

 そして蓮乃との会話のためにペンを走らせようとして、蓮乃の顔、特に目元に視線が止まった。清子が帰ってくるまで大泣きし、ババ抜きの後も涙を流していた蓮乃の目は、周りが濃い赤に染まっていたのだ。蓮乃の赤く腫れた目を見る睦美の表情は、徐々に硬い色を帯びていく。

 端から見る正太にも、睦美の表情がひきつっていくのが見て取れた。きっと自分の表情も、同じ様にひきつっていることだろう。なにせ、蓮乃を泣かした張本人であり、嘘は言わなかったといえ、電話ではその事実を半ば意図的に抜かしてしまったのだ。

 血の気の引いた顔の正太は、目のあった清子に縋るような視線でSOSを送る。ようやく兄の緊張の意味が分かった清子は、言い訳の一つくらい用意しておいてくれないかなと、胸の内で小さく嘆息する。そして青い顔の正太を助けるべく、助け船を出航させた。

 

 「睦美さん、でいいですか? 私は宇城正太の妹の宇城清子です。えっと、蓮乃ちゃんの目の件ですよね。何があったっていうと、さっき蓮乃ちゃんが泣いちゃったんですよ。兄ちゃ、じゃなくて兄の顔に驚いてしまって」

 

 睦美は硬い表情のまま、目の前の正太の顔を眺める。視線にさらされた正太はさらに顔をひきつらせて体を堅くする。そんなひきつった正太の顔は、歯を剥いた豚の顔によく似ていた。

 睦美の表情から堅い色が薄れていく。どうやら彼女は納得したらしい。それと同時に、正太の表情がずしりと落ち込む。当然である。目の前の女性、それもすこぶる付きの美人に「子供が泣き出してもなんらおかしくない顔」だと、納得されてしまったのだ。そして、その暗くひきつった表情は見慣れた清子からみても、子供が泣き出してもなんらおかしくない顔であった。

 睦美の顔からは、警戒の色が抜けきっていないが、少なくとも敵意や蔑意は見られない。正太の顔からもひきつりが抜け、凶相三割引ぐらいに落ち着いたものになる。その様子を見て、清子は内心で一つ息を吐いた。ともかく一応の問題は解決したようだ。

 

 「……どうもすみません。すこし心配し過ぎていたみたいです」

 

 「いえいえ。こちらも誤解させるようなこと、いや顔をしていますから、しょうがないかと」

 

 睦美は静かに頭を下げた。手のひらを横に振り、謝罪は必要ないと清子は示す。

 ついでと叩き込まれた清子の容赦のない追撃に、正太はさらに肩を落とす。ちょっと言い過ぎたかと清子は思ったが、こんな面倒ごとに巻き込んだ罰だと考えることにして、気落ちした兄の様子を意図的に無視した。そんな二人の様子がツボに入ったのか、睦美はクスリと小さな笑いをこぼした。

 

 

 

 

 

 

 蓮乃と睦美の二人が一〇四号室の扉に消えたことを確認し、清子は一〇三号室の扉を閉めて鍵のつまみを回した。これで面倒ごとは一通り終わった。清子は疲労をにじませた深い息を肺の底から吐き出す。

 振り向いて玄関の土間に目をやると、蓮乃が睦美へと今日の出来事を報告していた、つい先ほどの光景が脳裏に思い出された。子供が母親に今日一日の出来事を報告する、一般的に微笑ましい姿だ。だが、清子が見る蓮乃の表情はどこか硬いように見えた。

 

 清子から見て、蓮乃の睦美に対する反応はあまりに極端なものだった。親の帰宅を告げられただけで大泣きするなど、虐待でもない限りあり得ない話だ。だが、見た限り睦美の蓮乃に対する態度は、異常なものには見えない。それとも他人である自分たちの前だったから、こうやって真っ当な態度を取っていたのだけなのか。家に帰れば蓮乃ちゃんを気が晴れるまで叩き続けるような、酷いことをする人なのだろうか。

 正直、その手のことには関わりたくない、と言うのが清子の本音だった。ワイドショー愛好家で詮索狂いなオバハンでもあるまいし、誰が好き好んで隣家の家庭事情に首を突っ込むのか。ろくでもない目を見るのが目に見えているだろう。

 だが、その心配ももう必要ない。二人は一〇四号室へと帰宅した。これで終わりだ。今後、隣近所ということで顔を合わせて挨拶することはあるだろうが、それ以上のことはないだろう。さすがに隣の部屋から傷だらけの蓮乃ちゃんが飛び出すようなことがあったら、警察に通報するだろうけれど。

 

 ――一つ気になるのは……

 

 そこまで思考を進めた清子が後ろを振り返る。そこには感情の読み辛い仏頂面の正太が、天井に視線をさまよわせていた。清子の容赦ない口撃にパンチドランカーにでもなったのか、正太の視線はどこか虚ろに宙をうごめいている。頑なな表情と相まって、まとう空気は仏閣の鬼瓦を思わせる。

 正太の様子を見る清子の目が細まった。先の兄の様子は流石におかしいものがあったし、そんな兄のメモを受け取った蓮乃ちゃんの反応も、また極端だった。一体全体なにを書いて渡したのだろうか。責任もなにもないのに、大言壮語な口約束をまき散らされたらたまらない。あのメモが感情論由来の極端な行動でないことを願うばかりだ。

 「前の一件」でそのことは学んだと思っているが、その「前の一件」のおかげで信じきるのは少々難しい。兄を疑うようで気が引けるが、確認は必要だろう。

 

 「あのさ、兄ちゃん。さっき蓮乃ちゃんにメモ渡してたみたいだけど、何書いたの?」

 

 「『次に来る時は親御さんに許可貰ってから来い』って書いた」

 

 表情と同じようなぶっきらぼうな返答を聞いて、清子は頭を抱えてうずくまりたくなった。さっきから考えていた悪い想像が的中してしまったのだ。

 この愚兄は一体全体何を考えているんだろうか。それとも何も考えていないんだろうか。「前の一件」から何にも学んでない。考えなしの善意気取りがどんな騒動を巻き起こしたのか、身を持って解ったんじゃなかったのか。これじゃあ、明日以降も蓮乃ちゃんがやってきて、それに続いて睦美さんがやってきて、下手をしなくても隣家の家庭問題に巻き込まれて……

 

 そこまで考えたところで、清子はハタと気がついた。親御さんの許可を取るということは、当然蓮乃ちゃんの母である睦美さんから許しを得るということだ。さっき聞いた兄の話によれば睦美さんは電話で蓮乃ちゃんの名前が出ただけで、極端な反応を返している。

 さて、隣近所の家とは言え、蓮乃ちゃんが他人の家に遊びに行くことを睦美さんは許すだろうか? 今までの様子からしてそれは考えづらい。むしろ今回の顛末をみて、蓮乃ちゃんを外に出すことをより拒むようになってもおかしくないだろう。少なくとも睦美さんがOKを出すならば、納得するまで話し合った後になるはずだ。となれば……

 

 「もしかしてそれ、睦美さんの性格を考慮に入れて言ったの?」

 

 清子が確認の言葉を口にする。正太は仏頂面のまま首を縦に振って肯定を示した。

 つまるところ、あのメモの文面は「無責任極まりない、自称:善意の賜物」ではなく「相手を安心させるための目眩まし」という訳だ。清子は安堵の籠もった息を深く吐いた。さすがに前と同じ失敗を喜んでやらかした、という訳ではないようだ。

 

 「兄ちゃんも多少は解るようになったんだねぇ」

 

 知り合いの子供の成長をみた大人のように、しみじみと清子がつぶやく。随分と上からの言葉であるが当人に自覚はないようだ。

 

 「…………まあ、な」

 

 それに対して随分と間を空けてから、正太は唾を吐き捨てるように小さく言葉を発した。安堵した様子の清子とは裏腹に、正太の内心には自己嫌悪がコールタールのようにへばりついている。

 たしかに以前の自分よりはずいぶんマシな行動だ。前のままなら、責任も権利もないくせにヒーローよろしく臭い台詞を吐きながらクチバシを突っ込んでいたに違いない。清子のいうように自分もいくらかは成長できたのだろう。

 

 だからといって正太の気分が良くなる理由はどこにもなかった。自分の都合を優先して子供を、それも自分と同じように泣いていた相手を騙したのだ。とてもじゃないが良い気はしない。

 そもそも叶わないことが半ば確定している約束なんてせずに、妹同様に相手を無視すれば良かっただけの話なのだ。それをいちいち空手形を渡して自己満足のための慰めをするあたり、自分に自分で反吐が出そうになる。

 渋い顔の正太は、ズボンに入れっぱなしだったポケットティッシュから一枚取ると、苦いものを痰と一緒に吐き出した。

 

 

 

 

 

 

 『……福健連邦首相は新しいアメリカ大使着任へ向けた大規模なセレモニーを発表……米国との同盟関係を改めて中華諸国にアピール……』

 

 「ごちそうさまでした」

 

 ニュースキャスターの声を背景に、夕食を終えた正太は食器をバランスよく重ねた。キャスターの隣に座った中華諸国コメンテーターの言によれば、東アジアの情勢は安定に向かっているらしい。

 

 いつも通りに、重ねた食器を流しに置いて、

 いつも通りに、テレビでも見ながら時間を過ごして、

 いつも通りに、いつもの番組が終わったら宿題に手を着けて、

 いつも通りに、キリのいいところで風呂に入って、

 いつも通りに、そのまま布団にくるまって寝る。

 それで今日もおしまい。また明日だ。

 

 今日は色々あった。でも、これで終わり。日はまた昇って、いつもと変わらない、変わりようのない、変えられない明日が待っている。

 流しに食器を置きながら、正太は後ろを振り返る。一足先に食器を片づけ終えて、ソファーで午後の新聞を斜め読みしている父。先の自分同様に、運びやすく食器を積み重ねてる妹。料理の残った大皿や常備菜の小鉢を、盆に並べて台所へと持ち帰ろうとしている母。

 明日も昨日と変わらず、あんまり楽しくない一日だろう。でも元気な家族がいることも変わりない。それでいいのだ。いや、「元気な家族がいること」、それがいいのだ。

 まんざら嘘でもない言い訳で心を慰めると、正太は父の隣に腰を下ろした。片づけの合間にニュースは終わり、テレビは明日の天気予報を映している。

 

 予報は曇り。しかし、夕方付近から晴れるそうだ。


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