二人の話   作:属物

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第二話、二人が友達と出会う話(その五)

 言葉の鉄槌で殴りつけられて塵に帰った利辺に対し、殴りつけた方の蓮乃は気が抜けたのか全身を脱力してノートを下ろした。弛緩した体中から不安と緊張が蒸発していくようだ。残った凝りを長い長い吐息と共に吐き出すと、全身全霊で感情を示した疲労感が鉛の十二単の様に覆い被さっている事にようやく気づいた。すごく短い時間だったのにすごく疲れた。家に帰ってラムネ飲みたい。

 だが、その望みが叶うのはもう少し後らしい。目の前の利辺が涙を滲ませた顔で歯を食いしばり、真っ直ぐ蓮乃を見つめてきたからだ。憧れの兄貴が後ろにいる、家族が背中を見ている。カッコ悪いところをこれ以上見せてたまるか。最後の根性を動力にして、砂と消える心をかき集め、砕けた矜持の欠片をそそぎ込み、意地が主成分のモルタルと涙の水を練り混ぜて、コンクリ仕立てに精神を立て直して見せたのだ。

 弛んだ心身を締め直し、負けじと蓮乃も真ん前から睨みつける。よく見れば蓮乃の額にはうっすらと汗が浮かんでいる。握る拳もふるふると震え、桜色のほっぺたはいつもの染井吉野ではなく山桜の色合いをしている。目の前のやな奴に全身全霊全力全開で大嫌いの気持ちをぶつけてきたばかりだ。好きか嫌いか種類によらず、思いを伝えるのにはエネルギーがいる。小さな体に蓄えてあった燃料は完全無欠のガス欠だった。

 やせ我慢と意地っ張りと格好付けを総動員して、挫ける心を下支えする利辺。負けん気を予備バッテリー代わりに、電池切れの体を無理矢理動かす蓮乃。今にも弾けそうというか、二人が崩れ落ちそうな張りつめた空気が辺りに流れる。

 

 --十分頑張ったし、手を貸してやるか

 

 何の示し合わせがあったわけでもなく、何かしらを意図したわけでもない。しかしピーノと正太は、全く同じ事を考えて同時に足を踏み出した。利辺と蓮乃はそれぞれの兄貴分の方へと振り向く。その拍子に兄貴分同士の視線が交わる。正太としては負の印象を覚えたとは言え、さほども知らない相手と目があって微妙に居心地が悪い。一方のピーノが正太に向けるのは何の感慨もない無関心に石ころを見る目線だった。条件反射で会釈しようとした正太の顔が奇妙に歪み、ピーノの視線がどうでも良さげに外れる。

 人間は他人を様々な尺度で評価する。外観、行動、礼儀、態度などなど人間の数だけそれぞれの基準を持ち合わせている。そして、ピーノが持つ物差しは自分のセンスにあった。琴線に触れるか否か、家族か否か。家族に対して何も感じない事はないので、大別すれば『感性に触れる人間』『感性に触れない大衆』『共に暮らす家族』の三つだ。そしてピーノにとって、蓮乃は見るべき所のある『人間』であるが、正太は無価値無意味な『大衆』でしかなかった

 他人の心を読みとることが決定的に不得手な正太に、ピーノの価値判断基準が判るわけもない。だが、なんだゴミかと言わんばかりの視線を向けられて気持ちがいい筈もない。瞬間湯沸かしの正太の眉がつり上がり、目線が剣呑な色合いを帯びる。雰囲気に引火性の空気が混じりだす。

 が、ピーノはそれにすら無関心だった。正太が存在していないかのように、利辺と何やら話している。こういう手合いに絡んだところで空回りもいいとこだ。深いため息をはいた正太も相手するだけ無駄な相手と結論づけ、蓮乃へと歩み寄る。

 

 「なーもっ! ぬふーっ!」

 

 「よく頑張った、よくやったな」

 

 疲れた様子の蓮乃だったが、正太が近づくと無邪気なドヤ顔で「私、頑張ったよ!」と気持ちを伝える。言ってることは判らないが言いたいことは何ともなしに判った正太は、優しげな笑顔で頷きながら腰を落として目線をあわせた。常の習慣のままに正太は蓮乃の頭を撫でかける。

 

 --あっと、これ嫌なんだったな

 

 が、条件反射で乱暴に頭を撫でそうになる手を気合いで止めて、正太は蓮乃の頬に優しく触れることにした。あれだけ気合い入れて突きつけた言葉だ。よっぽど嫌に違いない。

 柔らかな曲線を描く薄紅色の頬を、できるだけ穏やかに指先で触れる。蓮乃は「ん~」と鼻歌のような鼻声を上げて、心地よさそうに目を細めている。嫌がっていないことを確認しつつ、正太は指を滑らせる。産毛のない淡紅色の頬は、出来立ての大福餅を思わせる弾力と滑らかさで正太の指先に答えた。

 ふと「これはこれで問題あるのでは?」と思考が正太の脳裏に浮かんだ。幼いとは言え異性の肌に許可も得ずに触れているのだ。相手如何によっては大声で泣かれて親と警察がすっ飛んでくる。でも当人嫌がっていないし、いや髪の毛の件もあるし実は嫌がってたりするかも、しかし短いとは言えつきあいのある相手だし、だけど……

 褒められて撫でられて気持ちよさそうにしている蓮乃とは裏腹に、無為な疑問を空回りさせて堂々巡りで自縄自縛の正太。いつも蓮乃に「言わなきゃ判らん」と諭している当人が独り相撲で懊悩する様は、ブラックジョークと同じ皮肉と滑稽に溢れていた。

 

 「兄ちゃんに色々教えてもらったのに、俺が無茶苦茶にしちゃった……ごめん」

 

 「よく頑張った、カッコつけて見せたな」

 

 内心はどうあれ明るい雰囲気の正太と蓮乃とは対照的に、利辺とピーノはお通夜の空気に包まれていた。当然、死人のオーラを発しているのは滲む涙を拭い続ける利辺だ。思わず兄貴呼びから兄ちゃん呼びになるくらいにグロッキー。根性でへし折れかかった気骨を支えて見せたが、KO寸前九カウントで敗北確定なのは変わらない。情けない一ラウンドノックアウト負けから、ポイントに大差を付けられての判定負けになっただけだ。

 それでも最後の最後で踏ん張って見せたのは中々だった。そうピーノは弟の努力を褒め称え、やるじゃないかと利辺の背中を平手で叩いてみせる。ピーノは『大衆』には何の感心も抱かないが、『家族』に対しては深い愛情を抱いている。その『家族』である利辺がここまで頑張って意地を見せたのだ。ならば手の一つも貸してやるべきだろう。

 

 不安げな視線で見つめる利辺に、ピーノは安心しろとの意味を込めてニンマリと笑ってみせた。軽く手足を伸ばして全身をほぐすと、正太にかまってもらっている最中の蓮乃へと視線を向ける。当然、正太の存在は眼中にない。

 一方、ピーノの後ろで友香も新種の生き物を発見した学者の目で、正太と蓮乃のやりとりを観察している。こちらはしっかり正太も観察の対象だ。友香には利辺やピーノのそれとは違う独自の目的がある。それに合致するかどうかが重要なのだ。だから友香は、ピーノが行動に出ても特に何の反応もしなかった。

 

 「俺はピーノ・ボナって言うんだ。たしか、君は喋れないんだっけ? でも、俺たちは君とおしゃべりしたい。だからノートを貸してくれないかい? できればペンも」

 

 快活と爽やかを体言する空気をまとい、ピーノは慣れた様子で流れるように蓮乃に声を投げかけた。ピーノが口説くのは感性に触れる女の子、つまりその価値のある『人間』だけだ。そしてピーノが声をかけて落ちなかった娘は今の今まで一人もいない。だが、蓮乃はその一人目になりそうだ。

 ピーノから声をかけられた蓮乃は、眉を寄せた『不可解』と書かれた顔で悩んでいる。どれだけ小粋なエスプリを効かそうと、どれだけ甘い声で呼びかけようと、言葉を聞き取れない蓮乃には「なんか言ってる」以上の認識は得られない。なので蓮乃は正太の顔を見つめて発言の内容を求めた。

 正太としては言いたいことがあるなら言えと言いたくて仕方ない。が、正太の目から見ても今日の蓮乃はよく頑張った。多少は大目に見てやろうと、正太は手を出しノートを要求する。蓮乃から差し出されたノートを受け取り、正太は装飾を省いて簡単にまとめて書いて見せた。

 

 『話がしたいからノートとペンを貸せ、とさ』

 

 正太の短文に蓮乃の顔が渋る。やな奴と二度と会いたくないから、勇気を出して「嫌い!」って言いに来たのに、あのチョレート色の人はなんで話せっていうの? あの人が何を話したいのか知らないけど、やな奴の事なら話したくない。嫌な気持ちを込めた表情の蓮乃は、ふるふると首を振って正太に拒否を伝える。

 それくらい自分で言えと正太の顔も渋る。だが、正太は深呼吸一回で容赦することにした。今日の蓮乃は大嫌いな相手と真っ正面からどつきあった様なものと言える。少なからず消耗していることは確かだ。だから正太は正直御免被りたいくらいに苦手な、初対面相手の説得という作業を我慢して受け持つことにした。

 

 「あー、その、なんだ、うちの子は、えーっと、お宅等と話をしたくない、とのことだ」

 

 つっかえつっかえの正太は訥々と蓮乃の拒否を言葉にする。吃りがちの語り口は、立て板に水のピーノとは真逆のそれだ。床にタールを流した方が幾らか滑らかだろう。端から見れば馬鹿にしているのかと思いそうだが、これでも正太は先の蓮乃並に頑張っている。聞き取りづらく伝わりづらい口調とは言え、言葉を発しているのがその証拠だ。

 正太は小学校時代の虐めのせいで他人と話す事に極端な苦手意識を覚えている。そもそも喋ることすら苦痛を覚える始末だ。蓮乃のような例外を除けば、滑らかに意見を伝えるなど不可能に近い。それでも頑張った蓮乃のために、正太もまた頑張ることにした。

 

 「君が我が家の利辺 翔を嫌っているのはよく判った。だが、そいつは翔の気持ちがダイナマイツしちまった結果なんだ。無論、謝罪が要るなら俺も謝るよ」

 

 しかしそんな事情をピーノが知る由もないし、そもそも知ったところで意に介さない。なので当然、正太の言葉など馬耳東風に右から左へ聞き流しつつ、ピーノは蓮乃へと更なる説得を続ける。

 当たり前の顔で自分を無視する相手に、やっぱり無駄だったかと正太は小さく嘆息をこぼした。話している自分でも判る出来の悪さだった。始めから耳を傾けてくれている人間ならともかく、これで端から自分を無視している相手を説得できたらそっちの方が驚きだ。

 自分と相手の両方に眉をしかめながらもとにかく言うべきは言ったと、正太は軽快に喋るピーノを観察する。さっきの話と合わせると、このチョコレート男は”ピーノ・ボナ”で、見た目天使のクソガキは”利辺 翔”と言うらしい。外国人が帰化しても外国名のままなのが常で、その子供も外国名が普通だ。なのに姓名両方とも日本名とは珍しい。日本人の養子にでもなったのだろうか?

 

 小首を傾げても全く可愛くない正太の想像はあながち間違いでもない。公立児童養護施設である厚徳園は、『公立』が付くように市や県や政府が金を出して設立されている。つまり日本が彼らの保護者とも言える。それに厚徳園に住まう子供たちの中には、出身国や民族が判らない子供も少なくない。なので下手に外国名をつけるよりはと、厚徳園では名前のない子供に日本名を付けるのが通例化しているのだ。尚、大抵外泊するとは言え厚徳園に住まうピーノが外国人名なのは、かつていた両親につけられたからである。

 

 「でも、こいつは決して悪い奴じゃない。君の知らない魅力が驚くくらいあるんだ。だからペンとノートを貸して、俺たちの話を聞いてもらえないかい?」

 

 色々と無駄なことを考えている正太の前で、ピーノは蓮乃に向けた言葉を次々に連ねる。先と同じく「なんか話している」とだけ認識した蓮乃は、先の焼き直しで正太を見つめた。見つめる先の正太は眉根を寄せて口を半分だけひん曲げる。

 蓮乃が聞き取れないのは判っているし、話を要約してノートに書くのはやぶさかではない。しかし、こっちを無視する相手を説得するという無理難題は流石にもう御免だ。こっちのエネルギーも無限大ではないのだ。と言うわけで、正太は大ざっぱにピーノの話をまとめると最後に一言を付け加えて蓮乃にノートを手渡した。

 

 『伝えるのは自分でしろよ』

 

 こくりと小さく頷いて、蓮乃は自分の言葉をノートに書き込む。正太が対応している間に蓮乃の呼吸も幾らかは整った。消耗した分もあり万全とは言い難いが、それでも一言伝えるくらいなら何とかなる。

 書くべきを書いたノートを見直し、蓮乃はもう一度頷くとノートを抱えて一歩前に出る。興味津々の顔で見つめるピーノと意地で表情を作る利辺に向けて、深呼吸とともに開いたノートを突き出した。

 

 『私はあなたたちとお話ししたくありません』

 

 取り付く島も引っ付くニベもない蓮乃の反応に、利辺の瞳から再び涙が滲み出す。最後の根性で建て直しただけあって、利辺の気力は既に底を打っている。乾いた雑巾を絞っても水は一滴も出てこやしない。蓮乃からの追加の一言で、傾いたハートを利辺はもう支えられない。最早これまで。

 ついに利辺は蓮乃から目を反らして俯いた。限界を超えた心がとうとう折れたのだ。これはもう戦えないと宣言したに等しい。他人の心理にとにかく疎い正太でも一目でわかる、蓮乃の勝利だ。ただし、それは利辺だけだが。

 正太の視線の先で、もうダメだと泣きべそかいて公園の土を見つめる作業に入った利辺に対し、ピーノは真っ直ぐ蓮乃を見つめて肉食獣の笑みを浮かべている。夜の暇つぶしにしかならない鴨撃ち七面鳥撃ちの類じゃない、気合いを入れなければ撃ち落とせない歯ごたえのある相手だと判った。

 

 「じゃあ、何でなのか教えてもらえないかい?ついでに君の名前も。俺たちに悪いところがあるなら直すから、さ」

 

 大抵の女性なら寧ろ大喜びで身を差し出すだろう猛獣の微笑みだが、蓮乃は眉根に山脈を作るだけだ。三度も同じことを繰り返す前に、ピーノの発言を正太が書いて寄越す。文面を見た蓮乃の皺山脈がさらに高低差を増した。へちゃむくれる蓮乃は、ピーノめがけてさらに踏み込みもう一度同じページを突きつける。

 

 --だ! か! ら! やな奴ともう会いたくないから「嫌い」って言いにきたの! 私は嫌だって言ってるのに、なんで喋れ喋れって言うのこの人! やな奴も嫌いだけど、この人も嫌い!

 

 自分が書いたのは日本語だ。兄ちゃんが聞いて判るのも日本語だし、そもそもさっき日本語で兄ちゃんが話をしたはず。日本語で話をしているこの人が、日本語が判らない訳がない。ちゃんと読めるように大きな文字で書いたし、ちゃんと見えるように近づいてノートを見せた。なのに、なんで、どうして「嫌だ」って話を判ってくれないの!?

 今にもうなり声を上げそうな牙を剥いた子犬の顔つきで、蓮乃は「これを見ろ!」とノートを振ってみせる。だがピーノは判った判ったと首を縦に振り、会話をしようとノートを取り上げようとする。蓮乃はすぐさま正太の後ろに隠れて歯を剥いてみせる。

 自分の意志が伝わらないことに怒り心頭の蓮乃だが、そもそもピーノは蓮乃の話を聞く気がないのだがら、意見が伝わるはずもない。ピーノの目的はコミュニケーションの構築であり、関係の断ち切りを目的とする蓮乃の意見など耳を貸す筈はないのだ。おかげで蓮乃は「意見を交わしたくない」と意見を伝えようとし、ピーノは「意見を交わしたい」がため蓮乃の意見を無視する、という実に不可思議な事態になっている。

 

 猫と小鳥の追っ掛け合いじみたやりとりを繰り広げる集団から一人はずれ、蚊帳の外から岡目八目と友香は蓮乃の様子を観察する。その表情は先までの冷静な研究者のそれから、新発見に驚く科学者の顔に変わっていた。

 甘いマスク、軽妙洒脱な身のこなし、切れ味鋭いセンス、軽快で爽快なトーク。世の男性が欲しがり、世の女性が望むありとあらゆる特質を備えたピーノが今まで言い寄って落ちなかった娘はいなかった。少なくとも友香は本気でピーノを拒否した女性を知らない。表面的に形式だけ拒否しているなら偶に見ることはあるが、それは『嫌よ嫌よも好きの内』『押すなよ、絶対押すなよ!』と同じ。単にもっと推して欲しいが為に勿体ぶっているか、駆け引きを楽しんでいるつもりなだけだ。本当にピーノの誘いを断れるのは、厚徳園の一員かつ職員である柳しか友香は知らない。最も同じ家族である柳をピーノが口説くことはないが。

 だが今、目の前で正太の服の裾を伸ばしながらピーノへ威嚇している蓮乃は、形式的ではない本気の拒絶を全身で示していた。力一杯真っ正面からお断りを主張している蓮乃を、友香は驚きと興味と期待を交えた視線で見つめる。この子は使えるかもしれない。

 

 一方、本気の拒絶をぶつけられているピーノは、むしろ狩猟本能に火がついた様子で獰猛に笑う。ナパーム火炎に放水したのと同じく、火勢は衰えるどころか激しさを増している。これだけ拒否したのだから、簡単に落ちてもらっちゃ困る。今まで自分が声かけて振り向かなかった娘は居なかった。この娘は幼すぎてストライクゾーンの外だが、こうもつれないと俄然その気にさせたくなる。実に腕が鳴る。

 そして闘志マシマシなピーノの横で、絶望マシマシなのが大地を凝視するのに忙しい利辺だ。センス、外観、運動、勉強、人気。あこがれの兄貴であるピーノは思いつく限りの全てで利辺の遙か上をいく。少なくとも利辺はそう信じている。そのピーノが自分の思い人を本気になって落としにきているのだ。利辺の顔に浮かぶのが諦めを通り越した悲観と敗北に染まるのも無理はない。もうお終いだ、ピーノ兄ちゃんにあの子を取られる。

 

 希望全てを奪われて地獄の入り口に投げ込まれた心境の利辺へ、ピーノは振り返っての拝むような苦笑と片手合掌を向ける。謝罪と延長戦の要求を言外に伝える動作に、恨み節たっぷりの表情ながらも利辺は首を縦に振るしかなかった。不満は山ほどあるが憧れの兄貴に何か言える訳もなく、なによりピーノが本気になったら利辺では止めようがないのだ。無論、ピーノは上手くひっかけられたらちゃんと利辺とくっつけてやるつもりである。本気で拒む相手をとろけさせるのが目的であって、幼い蓮乃をベッドに連れ込みたいわけではない。

 

 「つれないなぁ、それじゃ世界が小さくなるだけだぜ。もっと色んな人と会って色んなことを喋って自分の枠を広げないと」

 

 生きながらに死んだ顔の利辺に、あとでご機嫌とってやらなきゃならんなと胸の内で謝罪しつつ、ピーノは蓮乃へと言葉を重ねる。そんな向こう側のやりとりなんか知る由もない蓮乃の頬が、当社比較一五〇%に膨れ上がる。やっと判った、この人は話をしたいんじゃなくて自分だけ好き勝手に喋りたいだけなんだ!

 

 「う”ー! ぬー!」

 

 「おお、やっと返してくれた。はは、かわいい声だな」

 

 不満と文句をどれだけ口にしても、蓮乃の気持ちは当然向こうには伝わらない。聞く耳を持たない相手に蓮乃にできることは、精々が地団駄踏んで少しでも不満を晴らすしかない。それに蓮乃語から気持ちを解してくれるのは母親である睦美とお隣の宇城家の正太と清子くらいだ。蓮乃と無関係の厚徳園出身な上、暴走馬の耳に念仏なピーノが判るはずもない。

 

 『蓮乃、ちょいとノートを貸してくれ』

 

 ただし、この場には宇城家長男である正太がいる。正太はノートを無くした場合に備えて持ってきておいたメモに一言をかいて見せた。嵐の前の凪か、はたまた津波前の引き潮か。正太の纏う空気は静かでありながら爆発性を秘めている。正太のメモに応えて蓮乃は差し出した手にノートを載せた。蓮乃が口にした、もとい文字にした言葉をざっと見直す。その目線はカミソリより細く鋭い。

 正太が端から見ていた通り、そして予想した通り、蓮乃は一度も受け入れるような台詞どころか期待させる言葉も書いてない。というより、そもそも返答していない。始めから最後まで拒絶一択だ。つまり目の前のピーノは蓮乃の意志を無視して、自分の意図を押し通そうとしているということになる。コンチクショウ。ココア野郎め、ふざけてんじゃねぇぞ。

 

 「オイ、こいつはあんた等と話をしたくないって、ハナからケツまで一貫して言ってるんだ。いい加減止めてくんねぇか?」

 

 十字の青筋をこめかみに張り付けた正太は、苛立ちのままに言葉を吐き捨てた。先ほどとは異なり、怒りを帯びた正太の舌は驚くほど滑らかに動いている。

 先にも書いたように正太は他人と、特に初対面の人間と話すのは大の苦手だ。口からでる言葉は詰まりがちで、事務的な会話が限界となる。だがそれは「なにを喋ればいいのか、どう喋れば嫌われずにすむのか」を考えて詰まるからであり、感情的になればなるほど、相手を嫌えば嫌うほど正太の舌はよく回るのだ。

 憤りを大いに込めた台詞に、俯いた利辺が怯えた様子で目線をあげる。前回は一方的に絡んだ挙げ句、徹底的に打ち負かされて泣いて逃げ出した相手だ。すでに利辺には正太に対する苦手意識が染み着いていた。その上、正太は脅迫に適当な野太い声と、恐喝に適切な強面を備えている。幾ら粋がっているとは言え、蓮乃と変わらない歳の利辺には、敗北感を焼き入れた相手の怒声はあまりに恐ろしいものだった。

 表情と声音で叩きつけられる怒りの感情に、利辺は上げた目線を思わず頼みにしている兄貴へと滑らせる。視線を向けた先のピーノは常の飄々とした涼しい顔をしていた。わずかな不快感が混じってはいるが、正太の威圧に対して怯えも竦みも見られない。恐怖を浮かべていた利辺の目が驚愕と改めての尊敬の色に染まった。やっぱり兄貴はすごいや。

 

 だが、もう一人の家族である友香はピーノの表情の意味を正確に捉えていた。恐怖していないのではない。より正しくは「僅かな不快感以外何の感情も」ないのだ。まるで道端に落ちているミミズの死骸を見たような、自分の人生に何の影響もない、単に不快なだけの存在を見る目つきで音源の正太を見つめている。どうやら、翔くんの言ってた付き人は、思い人の女の子と違ってピーノお兄ちゃんのお眼鏡に適わなかったみたい。

 他人を自分のセンスで測るピーノにとって、なんら感性に触れない正太は『有象無象の大衆』『動く書き割り』『風景の一部』でしかない。学芸会で木の役が主役とヒロインの会話にしゃしゃり出てくれば興醒めもいい処。学芸会後の反省会で背景役はつるし上げが決定だ。だから背景は背景らしく黙って後ろで突っ立ってろ。そんな蔑意を込めたドライアイスの視線でピーノは、正太を一瞥するだけだった。

 

 正太は他人の気持ちを察するのが致命的にド下手だが、視線に蔑意が込められているかくらいは感じ取れる。ましてや先日の利辺を軽く越えるほどの悪意であることは即座に理解できた。どうやら利辺とか言うクソガキを大きくしたようなという評価は当たっていたらしい。同レベル所かマイナス方向に振り切れている。

 正しくは悪意でも蔑意でもなく生活圏に入ってきた虫を見るような嫌悪の視線だったが、鈍い正太がその違いに気づくはずもないし、負の感情という点では大体同じだ。正太は善意に悪意を返すようなド外道ではないし、悪意に善意を返す聖人君子でもない。ハンムラビ法典よろしく善意には善意を、悪意には悪意を返す人間だ。

 だからピーノからのドライアイスの視線に、正太はシベリア寒気団の目線で応えた。蓮乃は体温の高い正太の後ろに隠れ、利辺は俯いて凍傷を負いそうな雰囲気に耐えている。氷点下の眼差しがぶつかり合い、場が真冬の色彩を帯びた。


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