二人の話   作:属物

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第一話、二人がやな奴と顔を合わせる話(その六)

 蓮乃は正太より頭一つほど身長が低いが、身長に対して足の割合は正太と比べものにならないくらい長い。つまり胴長短足の正太に対し、蓮乃は胴短長足であるといえる。そうなると腰掛けた場合、胴の長短が身長のそれに追加されてしまい、蓮乃の体が正太の影にすっぽり収まってしまう。逆に蓮乃の側からすれば、正太の胴体が全身を覆うクッションみたいなものなわけで、体重をかければオイルならぬファットなクッションが体を支えてさぞかし心地いいのだろう。何せ満面のドヤ顔だ。

 

 「むふ~~」

 

 想定外のしあさってを原子ロケットでマッハ飛行する蓮乃を前にして、正太の頭蓋内部からは後ろの少年も両手の小説も全て吹き飛んでしまっていた。おかげでいつものコミュ障の空白とは違う意味で、頭の中が真っ白になった正太は、無駄に高速な無駄な思考を無駄に回転させて現実から全力逃避している。

 だがいくら逃避したところで現実からは逃げ出せない。何せそいつは同じ頭の中にいるのだから。どうしようもない気持ちをため息と苦笑に乗せて吐き出すと、正太もまた背中のクッションに体重を預けた。流石に正太+蓮乃の体重は厳しいのか、ソファーが小さなきしみの呻きをあげる。こいつはよろしくないとは思うものの、だからといって後ろの御仁を考えれば蓮乃をどかすわけにも行かず、正太の苦笑に渋みが混じった。

 

 そこでふと気づいた正太は、少年を確認してやろうと首をそっくり返らせた。先は自分が盾になって邪魔をしていたから、こいつは蓮乃に手を出せなかった。今は自分が鎧になっているようなものである。手の出しようがないと諦めてくれたら楽なんだが。叶わないだろう儚い希望を抱いて少年へと目をやれば、想像以上に強烈な顔をしていた。

 超高速度カメラで銃弾、より正確には弾薬筒が発射される瞬間を、正太はWWWチャンネルの放送で見た覚えがある。銃弾の尻の雷管を針状のボルトが突き刺して点火。その火は内部の炸薬に引火して、薬莢が何倍にも膨れ上がり、弾丸が超音速で飛び出していく。

 今、正太の視線の先にいる少年は、雷管が火を噴いて炸薬が燃え上がっている瞬間そのものな表情を浮かべていた。引き吊りきった表情筋は爆圧にさらされた薬莢、食いしばった歯は飛び出し掛けた弾丸、両目から吹き出す緑の炎は漏れる爆轟だ。

 

 緑の炎? 正太は自分のイメージに内心首を傾げる。別に文字通り少年の両目からバリウム入り炎色反応の緑火が飛び出している訳ではない。少年は魔法使いだし、魔法の種類によってはそういうことがあり得るかもしれないが、少なくとも自分の目には花火みたいな色鮮やかな火を噴いているようには見えない。ただ、そんな印象を受けただけだ。しかし、緑の炎とはどっかで聞いたような……あ。

 

 --ああ、そーいうことか。

 

 上下逆さに少年を見る正太の視線が、生ぬるい熱を帯びた。ナメクジが訴訟を起こす程鈍い正太は、少年の理由にようやく気がついた。今までの蔑みや哀れみとは別種の、自分の尾を追っかけて頭をぶつけた犬を見るような何とも言えない表情が浮かぶ。それを前提に今までの行動を振り返ってみれば、ほとんどの行動に説明が付いてしまう。今までのやらかしも他人事ならば、ある程度大目に見れそうだ。

 だがしかし、と正太の目が少々細まる。正太も蓮乃も当事者であって他人事ではない。正太としても今までのことを良しとするつもりはない。事情があれど理由があれど、口にした言葉に違いはないし、そもそも理由も動機もない行動などこの世にない。理由があることを理由に許したら、イジメ前の自分まで問題で無くなってしまう。さて、どーしたもんだろ。

 

 なま暖かくも鋭い目で少年を見つめながら、無言のまま正太は思考を回転させる。そのひざの上で正太の贅肉クッションに体を沈めた蓮乃は、『神話の防人』を広げてページをめくり出す。正太がそっくり返っているので、いい具合に背もたれになっている。蓮乃は表情まで幸福に緩んで、完全無欠なリラックス状態だ。あとはおやつがあれば完璧だが、図書館でそれを求めるのは我が儘というもの。顔を上げれば壁の注意書きにもこうあるのだ。『図書館は食事をする場所ではありません。飲食は専用のスペースで』と。

 顔を上げたついでに蓮乃は正太の顔を見ようとするが、正太はそっくり返ったままなので見えるはずもない。兄ちゃんはやな奴とにらみ合って近づくなって脅しているんだろう。でも、今はあのやな奴でも手出しできない絶対無敵状態なのだ。だったら別ににらみ合わなくてもいいじゃない。

 鎧とクッション代わりにされた正太の意見も当然聞かず、一方的に結論づけた蓮乃は、両手を背もたれに沿って伸ばした。背もたれである正太に沿って伸ばされた蓮乃の白い両腕は、反り返った正太の頭部横に達するとパーの形でお互いに近づきあう。そうなるとその間にあるものは、蓮乃の小さな両掌に挟まれることになる。きな粉餅じみて少々黄ばんで弛んでいる正太の頬肉が、油脂性の柔らかさで押し潰れた。

 

 「ばにをずう(何をする)」

 

 「なもっ!」

 

 突然顔面を挟み潰された正太は、そっくり返った体勢を元に戻すと不明瞭な発音で問いかけた。問いかけられた蓮乃は自分語で返答すると、そのまま正太の頬をぐにぐにといじり回し始めた。表面も内部も油分たっぷりな正太のほっぺは、油粘土の感触で蓮乃には結構おもしろいようだ。

 一方、いいように頬をいじり倒されている正太としてはあんまり面白いことではない。聞き取れないと判っていても文句を口に出すくらいだ。いっそ自分も蓮乃のほっぺたを揉み倒してやろうか。そんな発想が脳裏をよぎる。だが、それ所でないのが後頭部斜め左後ろに存在している。そんな惚けたことをしていたら、後ろからソファーを振り上げて襲いかかってきてもおかしくない。何せ心の病気なのだ。それも草津で湯治しても治せない重病だ。ならばどーするべきか。こーするべきだ。

 

 一応の答えを出した正太は、蓮乃を抱き留める形になっている両手を解いて、自分の頬肉をこねくり回す蓮乃の両手を引っ剥がした。正太の脂ぎった頬を揉み潰していたので、細い指先はテラテラと光っている。手洗いが必須だなと胸の内でぼやきつつ、蓮乃の背中を軽く押してさっさと立てと促す。

 しかし、好きで正太の膝の上に乗っかった蓮乃としては当然納得できない。ぶすくれて膨れ上がった頬がそれを証明している。さらに手首を器用に回して、逆に両手を掴む正太の両手を掴んでみせると、自分の前で交差させた。安全性をさらに高めた交差式シートベルトの形だ。

 この危険運転暴走娘は何やっとるんだ。薬莢をガスバーナーで炙るような真似をしやがって。背中の爆弾少年は暴発し掛けているんだぞ。正太の顔が虫歯の豚の形に歪んだ。無理矢理力ずくでどうにかする方法もあるが、後方の炸薬に爆発の切っ掛けを与えるようなものだし、何より外聞が悪すぎる。しょうがないか。

 ため息を鼻から勢いよく吹き出すと、正太は蓮乃の両手を力であっさり外し、ポケットから取り出したペンでメモになにやら書き付けた。シートベルト腕を外されて、今度は唇をとがらせた蓮乃に正太は書き付けたメモを手渡す。

 

 『後で好きにしていいから、どいてくれ』

 

 「む~~ぬ」

 

 唇を鈍角に戻した蓮乃は、正太のメモと正太の顔を交互に見やる。こうして兄ちゃんの膝に座っているのはすごく楽しい。どくのは嫌だ。でも、後で好きにできるのなら、少しぐらい我慢してあげようかな。どうしようかな。額のしわを増やして迷いの唸り声をあげた後、頷いた蓮乃は正太の膝から飛び降りた。

 とりあえずは退いてくれた蓮乃に礼の意味を込めて頷くと、正太は上半身だけ捻って背後へと視線を向けた。歯を剥いて拳を震わせる少年の姿にさほど変わりはない。正太の膝から蓮乃が退いたおかげか、顔のひきつり具合がいくらか緩んだようには見える。だが、緩み具合は程度問題で、爆発するのは時間の問題だろう。

 

 なので、次の手を打つべく正太は再び端末へと向かう。当然蓮乃を伴った上で、これまた当然の様についてくる少年からの盾をしながらだ。蓮乃を置いていけばどうなるかは、正太でも想像に難くない。何せ理由が理由のくせに、あんな行動しかとれないクソガキなのだ。

 検索端末まで移動した後、先ほど同様に蓮乃を端末と自分の間に置いて、正太は少年の行動をシャットアウトする。正太の妨害に再び引火点まで温度を上げる少年を横目に、カードに登録された書籍の貸し出し処理を済ませて、蓮乃をつれてすぐさま受付に移る。

 正太は警戒を緩めずに怒髪天をつく少年を牽制する。その横で蓮乃は喧嘩腰なヒヨコの体で少年を監視する。いつ炸裂しても可笑しくないのだから、できる限り手早く済ませなければならない。幸い、借りる必要のある書籍はカードに登録済みであった。というか、何度となくその本にお世話になって登録しておいたからこそ、あっさりと思い出せたのだ。

 

 幸運が重なったのか、書物待ちの列に並ぶ人はほとんどなく、正太はすぐに書籍を受け取れた。心配そうな困ったような顔をしながら、女性司書が重ねた二冊を手渡す。

 

 「大きな音を出すようなことはしないでくださいね」

 

 「あ、ええっと、できる限り、あー、そうします。その、できそうも、ないなら、えー、外に出ます」

 

 訥々と喋る正太としてもそんなことはしたくない。こちらとしても面倒は御免だが、望まなくても向こうからやってくる。だからこの二冊でガツンと一発食らわせてやるのだ。

 受け取ったその二冊を蓮乃が覗き込んだ。さほど厚くはないし、高級そうにも見えない。小説でもないし、雑誌でもない。タイトルの意味は判るけど、何の本かはよく判らない。知らないジャンルだ。

 

 『兄ちゃん、これなに?』

 

 判らないことは人に聞く。母である睦美からも目の前の正太からも、蓮乃はそう教えられている。ましてや正太はちゃんと答えてくれるのだ。しかし、今回は突き出されたノートに『すぐにわかるよ』と笑っただけだった。蓮乃の顔が、遊び足りないパグの面構えにへちゃむくれる。正太はそのおつむりを軽く撫でると、蓮乃同様に二冊を覗き込もうとしては邪魔されて、破裂寸前の少年へと向き直った。

 正太が自分へ来ると予想してなかった少年が、不意をつかれて混乱の表情を一瞬浮かべる。その隙を正太は見逃さなかった。両手に二冊それぞれを持って、タイトルが見えるように少年に突き出した。少年が読みとりやすいようにちゃんと上下も相手側に合わせてある。その表紙にはこうあった。

 

 『恋愛の基本~モテるためではなく好かれるために~』

 

 『元引きこもりが教えるコミュニケーションのイ・ロ・ハ』

 

 端的に言うなら恋愛指南書とコミュニケーション入門書である。想定外や予想外を遙かに越えた二冊に、少年の顔が無色透明な唖然に脱色される。そして数秒の後、愕然と漂白された顔がにじみ出る恥辱の赤色に染め上げられた。

 何を意味しているかはどんな言葉より明白であった。受付の女性司書は生暖かな理解の表情を浮かべ、男性司書は発情期の猫を見る迷惑そうな顔をする。ちょうど書籍を返却しに来た禿頭のご老人は、微笑ましそうに目を細める。正太の後ろに並んだ育ちの良さそうな女子大生は、口に手を当てて「あらあら」とでも口にしそうだ。

 そして少年を見る正太の表情は、衆生の卑小さを許すような御仏の慈しみに満ちている。只一人、蓮乃だけが「やっぱり判んない」とメトロノームのリズムで小首を左右に傾げていた。

 

 詰まるところ蓮乃当人を除く周囲の全員が、少年が蓮乃に懸想していることを承知したのだった。

 

 道化を遙かに飛び越えて晒し者と成り果てた少年は、先ほどとは別の理由で肩を震わせて顔を伏せる。その目尻には涙の玉が膨らみ、今にもこぼれ落ちそうだ。そうやって涙を堪えて俯く少年でも見えるように、正太は顔の正面に二冊を差し出した。

 これは決して嫌みだけではない。無論、嫌みは込めているが。少年の態度は他人に対するものとして、余りにろくでもないものだった。自分もそうだったが、好いた女子に振り返ってほしいならば、最低限取るべき態度というものがある。優勝したいのならまずスタートラインに経つ必要がある。故にこの二冊を読んで学び、相応しい態度を持って蓮乃と相対すべきだ。

 ついでにこれは少年の試金石も兼ねている。拒否するなら赤点だが受け取れれば及第点、礼を言えるなら花丸付き。かつて正太も大ポカをやらかした。しかし、家族と学校はチャンスをくれた。だから、少年にも機会は与えるのだ。

 

 そーいうわけだからさっさと読めと突き出された本を、少年は歯を食いしばり掴み取る。しかし、正太の期待とは裏腹に、少年は感情のまま二冊を振り上げ勢いのまま床へと叩きつけようとする。『恋愛の基本』と『コミュニケーションのイ・ロ・ハ』を借りたのは正太であり、この場合汚損の責任は正太が負うことになる。

 なので正太は、床めがけて少年が手を離す寸前に二冊ともかすめ取って見せた。正太は少年が受け取ってくれることを期待していたが、同時に今までの言動から少年の行動を予期していたのだ。

 階段を数え間違えてバランスを崩すように、書籍をすり取られた少年は想定していた重さのない手を思い切り振り下ろしてたたらを踏んだ。正太の早技に蓮乃は「おー」っと感嘆の声を上げて小さな拍手を送る。『恋愛の基本』を掴む手から親指を突き上げて拍手に答えると、正太は『コミュニケーションのイ・ロ・ハ』を持つ手の親指を壁の注意書きへと向けた。『本は公共物です! 大事に扱いましょう』。親指が指し示す注意書きにはこうあった。

 

 「……ッア!!」

 

 思い人には袖にされ通し、付属物に邪魔され続け、秘めたる内心を暴露された挙げ句、とどめに虚仮にした相手に思いっきり虚仮にされる始末。ついに限界を超えた少年の内側で、感情の炸薬が爆ぜた。爆発した激情の衝撃波で理性が吹き飛んだのか、目の前の二人に飛びかかろうと全身をたわめる。目を血走らせて歯を剥く様は、天使の外観すら霞むほどの獣性に満ちている。

 小脇に二冊を抱えて蓮乃を背中にした正太は、しかめ面で怒り狂う少年へと身構える。テストを拒絶するどころか試験監督に殴りかかるとは、落第越えて留年確定だろう。丹田に熱量(カロリー)のイメージを形作ると同時に、それを全身へと供給する。使う魔法は「熱量加給」。ふん捕まえて図書館から退去させてやると拳とイメージを固める正太へ、血走った目の少年が叫びながら飛びかかろうとする。その瞬間だった。

 

 「しーーーっ!!」

 

 正太の後ろから飛び出した蓮乃が、少年へ向けて「静かに!」のジェスチャーを叩きつけた。立てた右手の人差し指を唇に当て、少年めがけて思いっきり息を吹き出す。静寂を求める身振りの癖に、うるさいくらいの大声だ。ついでに左手の人差し指は壁に貼られた『図書館ではお静かに!』の注意書きを指している。

 

 「おまっ!?」

 

 不意を打たれたのは少年だけではなかった。というより一番驚いたのは正太だった。何せ盾になっていたその後ろから、守ろうとした御仁が目の前に飛び出したのだ。パニックの白一色に塗り潰される脳内から、僅かに残った冷静さらしきものをかき集める。

 とにかく蓮乃を遠ざけて、クソガキを殴り飛ばすんだ!冷静という言葉からほど遠い結論を出した正太は、まずは蓮乃を後ろに引き倒そうとする。その拍子に小脇に抱えた二冊が軽い音ともに床に落ちる。

 

 その時、少年の顔が正太の目に入った。まるで思い切り殴りつけられた直後のような呆然の表情をしていた。連続する衝撃に一周して落ち着いた正太は、引き倒しかけた蓮乃を後ろ支えして立たせると、マジマジと少年の顔を眺める。先ほどまでのケダモノそのものな表情は露と消え去り、羽を失い地に落ちた天使の顔をしている。

 正太はこの様子に見覚えがあった。以前、蓮乃が大いにやらかして一発ぶん殴った時もこんな反応だったのだ。確かに正太は少年をぶちのめすつもりでいた。しかし、まだ手は出していない。何でこんなに打ちのめされた顔をしているのか。

 なら可能性は一つ、蓮乃だ。正太は急に倒されかけてびっくり仰天している蓮乃へと目を向ける。正太の質問の目線に、蓮乃もまた疑問の眼差しで返した。どうやら蓮乃自身も判っていないらしい。

 

 正太にも蓮乃にも判らなかったが、蓮乃のタイミングはあまりに完璧だった。蓮乃が「しーっ!」とやった瞬間、少年の肺は中身を吐ききり、心臓は静脈から血液を吸い上げていた。呼吸と心拍の隙間。脳が酸素を消費し尽くし、次の酸素を求めようとする一瞬。そこを蓮乃の一発がぶん殴ったのだった。

 加えて言うなら、少年は感情を爆発させようとした瞬間でもあった。蓮乃の一撃は華麗なカウンターパンチで、吹きだそうとした彼の激情を逆方向に殴り飛ばした。そして吐き出し口を塞がれたボイラーは、密室内の爆弾に似る。少年も同じだった。

 

 首を傾げる二人を余所に、少年の頬を涙の粒が伝った。暴れ損ねた衝動と叫びそびれた声が少年の内部に反射していた。ウォーターハンマーよろしく激情の圧力波が内側を駆けめぐり、少年の両目から溢れ出たのだ。

 それは即座に滴から流れへと姿を変え、顎の先から地面へと次々に滴り落ちる。止めどなく流れ出る涙は両目だけでは処理しきれない。次から次ぎへと涙管を伝って鼻孔からも涙が溢れ出す。両目を拭い鼻を擦り、涙と洟の処理に少年の両手は大忙しだ。

 頭の中は感情でオーバーフロー、顔の上は落涙でオーバーフロー。僅かな意識は必死に停止信号を送信するものの、飽和状態の脳味噌ではそれを全く処理できない。おかげで過労死寸前の涙腺は、いつ終わるとも知らぬデスマーチに勤しみ続けている。

 涙川の大氾濫に限界を覚えたのか、少年は拭き取りの応急対応を止めると、図書館の出入り口へ向きを変えて走り出した。『図書館は運動場ではありません』の注意書きも今は光学的に目に入らないだろう。涙と洟の滴を足跡代わりに、少年は図書館入り口から飛び出して公園の中へと姿を消した。

 

 その背中が消えたのを確認し、正太は一つ息を吐いた。たぶん自宅にでも逃げ帰るのだろう。心折られた人間が行く先は自分の一番安心できる場所だ。前の自分もそうだった。泣き声を堪えたのは最後の矜持だったのだろうか。その点は以前の自分より優れているな。

 そう一人ごこちている正太の隣で、蓮乃は三度目のアッカンベーをしていた。舌の表とまぶたの裏を見せる蓮乃を、女性司書は何かが極まった法悦の表情で見つめている。ついでに男性司書は恐怖混じりのドン引き顔で彼女を見ている。

 そしてその仕草に気が付いた正太は、苦虫の甘露煮をかじったような実に微妙な顔でため息を吐いた。だから、ムカつく相手とはいえ挑発するのはよろしくないぞ。けど、思いっきり神経逆撫でしてやったのは自分だし、蓮乃にいえる立場でもないよな。しかし、あそこでぐっと堪えて受け取れるならまだ目はあったものを。まあ、当時の自分でも大体同じ結果か。ちっとは大人にならなきゃどうにもならんな。

 腹の底でグチグチ無駄なことを考えながら、正太は落としてしまった二冊を屈んで拾い上げた。軽く手で払って埃を落とす。ペラペラめくって確かめると、幸い傷も折れもないようだ。ほっと安堵の息をこぼした正太は、ライターで照らしてガソリン漏れを探す人を見たような顔で同僚を見つめている男性司書へと、『恋愛の基本』と『コミュニケーションのイ・ロ・ハ』を差し出した。

 

 「借りておいてなんですけど、これ返却でお願いします」

 

 正太の声で我に返った男性司書は、咳で醜態を誤魔化すと渋い顔で二冊を受け取った。二冊に傷や汚れがないことを確かめると、渋い顔を変えずに壁の注意書きを指さす。

 

 「『本は公共物ですので大切にしてください』。汚損した場合には罰則が課せられます。それから『図書館ではお静かに』」

 

 「あいつが受け取ると……いえ、すみません。気をつけます」

 

 男性司書の指摘に言い訳をガムよろしくもごもご噛むが、結局正太は言い訳を取りやめ謝罪した。言い訳した所でなんら得にはならない。それに相手を納得させられるような巧い言い訳は難しい。口八丁は大の苦手だ。

 もう一度頭を下げ、裾を引っ張る蓮乃を連れて正太は受付を離れる。周囲の視線が突き刺さる気がして、正太の口から本日何度目になるか判らないため息が漏れた。


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