二人の話   作:属物

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第一話、二人がやな奴と顔を合わせる話(その五)

 蓮乃の鏡写しの体勢で、少年は正太と蓮乃の中間あたりに指を突きつける。ゼイゼイと荒い息を付きながらも、怒りの尽きるそぶりはないようで指さす手は小刻みに揺れている。

 しかし怒りが尽きないのは二人もまた同じだった。図書館に来るまでのやりとりを再生表示するように、燃える怒りの蓮乃は食いしばった歯を見せて威嚇の唸り声をあげる。一方、静かな怒りを覚える正太は、盾になれるように少年と蓮乃の一直線上に身体を差し込んだ。

 随分としつこい。このクソガキはいい加減にできないのだろうか。いや、できないからクソガキなんだろうな。音もなく煮える腹の底で自問自答をしながら、正太は少年が飛びかかる場合に備えて、わずかに腰を落とし膝を矯める。その背中に蓮乃が寄り添うと、横合いから顔を出して真っ白い歯を剥いて見せた。

 

 「ぬ~っ!」

 

 噛みつくぞと脅しの声を絞り出す蓮乃の唇に、正太は本を抱えていない手の一本指を立ててそっと当てる。「静かに!」のジェスチャーに蓮乃は声を落としたが、剥いた歯はそのままだ。ついでに眉根のしわもつり上がった目にも変化はない。蓮乃には声を静めても闘志を鎮めるつもりはない。やな奴相手に、敵意を抑える理由などないからだ。

 そんな敵意全開の蓮乃と同質の戦意を秘める正太向けて、少年は大股で歩み寄る。当然、心情的に歩み寄る態度は全くない。深い呼吸で少年に備えながら、正太は胸の内で嘆息する。魔法使って撒いても粘着を止めないとは恐れ入る。よほど癇に障ったのか、それとも一度受けた屈辱は返さないと死ぬまで納得しないタイプなのか。

 どちらにせよ、ここでどうにかしないと家まで付いて来かねない。丹田の位置にまだ十分に熱量(カロリー)があることを確認し、覚悟を決めた正太は深呼吸して魔法使用の体制を整える。公共施設内で使いたくはないが致し方ない。屋外の害は家に持ち込まないのが当然だ。こんなビービーうるさい害鳥のせいで、家族に迷惑がかかるなど想像もしたくない。

 

 「勝手に逃げ回りやがって! もう容赦しな……」

 

 手の届く距離まで近づき、大声を張り上げる少年。そこに周り中から迷惑と刻まれた白い視線が突き刺さった。図書館は静かに本を読む場所であり、悪意をむき出しにして怒鳴りあう場所ではない。冷たい目線で針山になって、いい加減少年は周囲の視線に気づいたらしい。居場所のない顔で罵声の飛び出る口を噤む。

 これでいい加減に止めてくれれば正太としては楽なのだが、この少年の辞書に反省の二文字がないことを正太は知っていた。図書館に来る前も、正太に思いこみで間違った罵声をぶつけておきながら、一瞬しか省みることなく即座に敵意を噴出させていた。

 今回も同じでばつが悪いと書いてある表情の直後に、お前が悪いと言わんばかりに正太へと殺意を込めて睨みつける。それに応えて、睨む蓮乃の顔に険が追加される。少年を睨み返す正太の目線にも蔑みが加わる。一触即発のニトログリセリンじみた雰囲気が満ちていく。だが、引火性の空気に受付から冷水が浴びせられた。

 

 「図書館は公共の場です。周囲の迷惑になるような行為は慎んでください。それから図書館ではお静かに」

 

 放つ言葉は静かだが、帯びた空気は氷点下だった。図書館は静かに本を読むための公共施設である。その環境を維持管理するも司書の業務の一つだ。仕事を邪魔された怒りは至極当然のものである。隣の女性司書もひどく困った顔をしている。なお、男性司書が声を上げるまで、牙剥く柴の子犬の体で威圧していた蓮乃を、皿のような目で見つめていたのは彼女の秘密である。

 流れる水も凍り付く声に、流石の少年も口を噤む。代わりに激しく床を踏み、不平不満と書かれたふてくされた表情を浮かべた。

 男性司書の言葉に正太も構えを解く。ただし、蓮乃を背中に置いたまま、少年から盾になる位置関係を崩しはしない。落とした腰も撓めた膝もそのままだ。背中の蓮乃もまた警戒を顔に浮かべたまま。

 

 三人は微妙な距離を置いたまま、微妙な時間が経過していく。だが、不意に正太は膝を立て腰を戻した。少年は最低限ではあるが他人の言葉を聞き入れて見せた。公園の時との違いは周囲の視線だ。人の目があるなら、警戒は解けなくとも、戦闘前提にまでしなくてもいいだろう。正太はそう判断したのだ。

 次いで正太は受付に向けて深めに頭を下げる。うるさくして済みません。これ以上そうせざるを得ないなら、外でするようにします。そう意味を込めてだ。正太の意図が通じたのか、司書二人の表情がいくらか和らいだ。

 

 「チッ!」

 

 それを即座に台無しにしてくれたのが、少年の舌打ちの音だった。周囲が聞こえる音量で鳴らしたのは意図的だろうか。受付の二人の顔が強ばる。例え正太の側が迷惑を望まなくても、少年が迷惑を振りまいてくれるだろう。そう思わせてくれるタイミングだった。だからといって正太の側も負けてはいない。それに答える人材は正太の側にもいるのだ。正しくは側ではなく後ろに。

 

 「なうっ!」

 

 少年の敵対的な舌打ちに、器用にも小声で叫んで応えた蓮乃は、シャドーボクシングのつもりかパンチを虚空に連打する。先の正太の注意が効いたのか、声を上げずに正太の背部から身体半分だけ出して、スナップの利いたフック気味の打撃で威嚇している。ただし、やっているのがガキンチョ全開犬コロ娘の蓮乃のため、仮想の猫を相手にネコパンチを応酬している姿にしか見えない。犬のくせに猫とはこれ如何に。なお、猫はネコ目ネコ科に、犬はネコ目イヌ科に属する。

 明後日遙かに越えて一週間前の方向に突っ走る蓮乃に、正太は少年相手の時とは別の意味で大いにげんなりした顔をしている。人がシリアスな態度するといっつもこれだ。こいつはギャグ時空にでも生きているのか。

 一方の少年は、正太相手の顔つきとは違う色合いの表情で蓮乃を見つめている。正太を睨みつけるときの、蔑意と敵意と悪意を煮込んだそれとは、同様に複雑だが随分と毛色が異なる。

 ついでに女性司書は蓮乃を法悦の顔で見つめている。何かが漏れるのか口と鼻を押さえるも、「あぁ……いい……」という喜悦の呟きが漏れている。

 

 三様の顔で蓮乃を見つめる三者の内、真っ先に行動を始めたのは正太だった。背中から身体半分出して傾いだままシャドーネコパンチを続ける蓮乃に触れ、肩を押すようにして東のソファースペースを示す。これ以上こうしていても時間の無駄で周りの迷惑にしかならない。なら、さっさと移動して読書にいく方がいい。少年もといクソガキが邪魔するなら、それを理由に追い出してもらえばいい話だ。

 正太の意図を察したのかは不明だが、蓮乃は無言で雄弁に頷くと正太の誘導通りに東のソファースペースへと歩き出した。その少し後ろを、常に少年と蓮乃の直線に位置取りながら正太がついて行く。少年という危険を認識してか、先とは異なり蓮乃は走り出すことはなく正太と歩調を合わせている。

 ちらりと二人が振り返れば、地団太よろしく床を踏んで苛立ちを表現する少年が見える。急いで駆け出したくても、周囲の目線と正太のガードで動けないようだ。先の司書からの注意のためか声こそあげてはいないが、その代わりと言わんばかりに、床を踏みしめ舌打ちを繰り返しながら歩き出した。周囲の利用者と司書の目は険しくなる一方だ。正太と蓮乃の目は最初から最大で険しい。

 

 平行線状に並んだソファーの一番端に蓮乃を誘導して、背もたれを叩き座るように促す。了解の意味を込めて大袈裟に頷くと、弾性木綿のクッションに尻から飛び乗った。竹繊維材を枠に使ったソファーは、軋み一つ立てずに蓮乃の体重と速度を受け止めた。となりまち図書館の一人用ソファーは綺羅亜麻(キラアマ)リンネルの布張りで、ちょっと高級な代物である。正太の脳裏に税金の無駄遣いという単語が浮かぶが、これからそれに座って読書を楽しむのだから有効活用だと思い直す。

 正太も蓮乃の左隣に腰を下ろすと、これまた軋みもなく正太の随分な体重を、ソファーは弾力豊かに受け止めた。手のひらの触覚が、綺羅亜麻リンネルの肘掛けが実に滑らかに織り上げられているかを教えてくれる。蓮乃も同じ感想を覚えたのか、「ほぉー」と間の抜けた感嘆の声が隣から聞こえてきた。

 

 これで余計な代物がなければ最高の読書を楽しめるのだが、この世はそこまで都合良くはないらしい。正太は背後から舌打ちの音が突き刺さるのを覚えた。振り返るまでもなく誰が舌打ちの発信元であるかはよく判る。そもそも振り返りたくない。振り返ったところで目にするのはろくでもないクソガキの顔で、耳にするのは毒が滴る罵詈雑言。おまけに面倒を再体験する羽目になるだろうからだ。

 なので正太は意図的に背後の存在を無視して、小脇にずっと抱えていた『花魁危機一髪』を膝の上に置いた。短い時間とは言え力を込めるような瞬間が何度もあったせいで、体温が移ってしまったらしくほんのりなま暖かい。もしやと内心危機感を覚えてペラペラとページを一通りめくってみるが、幸い折れ曲がったり折り畳まれたりしたページは存在しなかった。安堵の息を吐いた正太は改めて表紙をめくる。

 シリアスなディストピアと、シリアスな格闘と、シリアスな笑いを、奇妙な文章と奇天烈な世界観で描く。それが『殺魔忍』シリーズの特徴だ。正太もまた単なるギャグ小説だと思って手にとって以来、その根底に流れる骨太な物語にハマって大ファンとなっている。今日もまた幾多の魔忍を屠りさった殺魔忍と奈羅火の大活劇を、存分に味わおうと図書館まで足を延ばしたのだ。

 

 だが、後頭部に刺さる非好意的な視線が、物語への没入を邪魔してくれている。確実に、いや絶対にろくでもない事をやらかす。思う存分に作品に浸りたくとも、イヤーな確信と警戒心が注意を怠るなと警告をかき鳴らしている。

 苦い顔で『花魁危機一髪』を開いて閉じてを繰り返す正太とは対照的に、蓮乃は『神話の防人』を開いて以来、作品世界に夢中のご様子だ。真後ろの少年の存在など忘却の彼方へと消え去って、今や蓮乃はアジアン幻想世界に入ったまま戻ってこない。これで思いこんだら一直線番長ホットロッド娘がしばらく大人しくなるので、常ならば正太はゆったり小説を楽しめる。

 

 だがしかしと、否定の接続詞を口の中で噛みながら、正太は視線を蓮乃の後ろへと向ける。嫌な確信は残念ながら大当たりだった。

 蓮乃の真後ろのソファーから身を乗り出した少年は、蓮乃のつむじに手を伸ばした。夜の色合いをした長い髪に、宗教画のエンジェルと同じ色をした手が近づく。双方の外観の整いぶりを鑑みれば、博物館の展覧会で飾られていても違和感はない。「お手を触れないでください」のテープの向こうで、無数の見物客がたかっている姿が目に浮かぶ。

 けれども身を乗り出した正太は触れるどころか、チョップで二人の間に切り込んだ。図書館なのでシャウトはしないが、敵意を込めて左の手刀を差し込む。蓮乃に触れようと開かれた少年の手が、正太の手に阻まれて震える拳に握りしめられる。拳同様に怒りで震える少年の喉から、声になる寸前の音が漏れた。

 

 「……ッ!」

 

 当然、正太に向けられる視線にも同質の感情が燃えよとばかりに込められている。それに答える正太の視線もまた、温度こそ違えども同じく怒りで染まっている。少年の煮えたぎる怒りと、正太の凍り付く怒りが、互いの間でぶつかり合って相転移を繰り返す。

 

 「ぬ~に~!」

 

 少年の発した音に気が付いた蓮乃も、視線のぶつけ合いに声付きで参加し始めた。その姿は生えかけの牙を剥いた子犬か、はたまた甲高い唸り声で脅しを掛ける子猫か。どちらにせよ、誰が見ても怖くはない。かわいいだけだ。

 

 「次に何かしらやったら、外に放り出してもらうぞ」

 

 「やって見ろよ。つーか他人に頼まないとそんなんも出来ねぇのか」

 

 細い目をさらに細めた剃刀の視線と共に、野太い声音で叩きつけられた正太の脅しは、それを聞く者の大半に鉄槌を思わせる。唾の代わりに毒が満ちた返答と侮蔑を吐き捨てて、少年は応えた。肉食性の類人猿と、蛇毒を持つ天の使いがにらみ合う。空気が張りつめ、双方の表情が険を増す。それに併せて蓮乃も険を増そうと眉根のしわを増やすが、可愛さしか増えない。

 

 いっそ、この返事を理由にこのクソガキを叩き出すべきではなかろうか。クソガキの首根っこを掴んで整った顔を酸欠で青黒く染め直し、図書館の外にオーバースローで投げ捨てる光景が、正太の脳裏に浮かび上がる。それは随分と楽しいかもしれない。しかし、それはいろいろとルール違反だ。具体的には刑法や図書館の規定当たりに抵触する。クソガキが何かしらやらかすというなら、図書館の警備員に任せるべきだ。

 

 正太が物騒な想像で肌を切るような怒りを慰める一方、蓮乃は別件で眉根の皺を深めていた。蓮乃としては始めて来た図書館を楽しみつつ、兄ちゃんと一緒の読書を楽しむ予定だった。そこへ少年こと、やなやつが急にやってきて色々と邪魔してくる。初めてのトイレで踏ん張る柴の子犬よろしく、蓮乃は眉尻を下げて考え込む。

 どーしたもんだろ。正太から感染った口癖を頭の中で繰り返し呟く。蓮乃は音声を持ってはいないが、内的言語は普通に理解している。そうやってぬーぬー悩んでいると、不意にお通じが通り抜けるように、アイディアがするりと飛び出した。そうだ!

 

 LED電球一〇〇Wが蓮乃の頭上で輝いた。ついでに蓮乃の表情もナイスなアイディアを見つけた喜びに輝く。正太は少年とのガン付け合戦に忙しく蓮乃の動きには気づいていない。もしも蓮乃を見ていたら、さぞかし味わい深いげんなり顔をしていただろう。蓮乃の思いつきにイの一番で振り回されるのは、主に正太の役柄なのだ。

 思いつきで勢い込んだ蓮乃は、ソファーの弾力を利用して立ち上がる。正太の体重すら文句一つ上げずに受け止めるソファーは、余計な音を発することはない。なので未だにらみ合いで忙しい二人に気づく気配はない。視線をぶつけ合う二人を後目に、蓮乃は『神話の防人』を抱えたまま正太のソファー目前まで移動すると、向きを変えて尻を正太に向けた。これを正太が察知したなら、行儀が悪いとチョップの一発でも食らわせるだろう。だが錆び付いた正太の直感が働くより早く、蓮乃は膝の上に滑り込んで腰を下ろした。

 

 「んふふ~」

 

 突如として現れた膝の上の重みと熱源に、正太はガン付けを中断して視線をやった。少年と向き合っている時そのままの、泣く子も永遠に黙る面構えで一瞥する。そして視線を少年へと戻しかけ、バネ仕掛けの速度で二度見した。泣いた子の息の根が止まる表情はそこになく、まん丸に開いた目と中途半端に開いた口が驚き具合を示している。

 正太につられて目線を動かした少年も似たような顔をしている。教会に飾られそうな顔立ちと相まって、「受胎告知でヨセフと初夜済みだとマリアから告げられたガブリエル」とでも言えそうな状態だ。唖然とする二人を余所に、蓮乃は正太の腕を引っ張って自分を抱き留める形に巻き付ける。これがシートベルト代わりなのか、安心で満足げな長めの鼻息をこぼすと正太のふくよかすぎる腹部に背中を預けた。


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