二人の話   作:属物

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第一話、二人がやな奴と顔を合わせる話(その四)

 公共の施設は得てして冷光色を好んでいる。赤みのかかった電球色は温感を見る人に感じさせるが、正確に物を見る際にはその色合いが邪魔になる。一方、寒々しくも清潔感のある冷光色は物体の色彩をそのままに表すことができる。それ故、正確さを求めるお役所関係は必ずと言っていいほど、かつての蛍光灯と同じ色の冷光色EL灯を利用する。

 しかし、同じ公共施設といえども「正しく」文字を読むことを求める役所と異なり、「心地よく」文字を読むことを是とする図書館は、例外的に暖かみの強い電球色で満ちているのだ。

 

 「ほわぁーーー!」

 

 正太が初めて聞く音声で感嘆を表現する蓮乃の目には、オレンジのかかった電球色で照らされる「となりまち図書館」内部の風景が写っている。

 まずランプをかたどった暖色のEL灯が、木材の落ち着いた色合いと調和して、空気まで安らかに感じるような居心地の良さを醸し出している。空気調和設備も快適で最適な温度に保たれ、くつろぎを決して阻害しない。さらに耳に入るのも、本のページをめくる音、筆記具が紙を擦る音、僅かな話し声と、決して気には留まらない心地よい静寂感に満ちている。

 

 そしてその静寂を大いに破っているのが、蓮乃の感嘆だったりする。読書中の皆様方から冷光色の視線が二人に突き刺さる。クソガキから逃れるために蓮乃を抱え魔法を使っての全力疾走で正太は汗だくだった。加えて、蓮乃の大声のお陰で追加の冷や汗と脂汗が吹き出てくる。こいつはまずい。

 

 「シーッ!」

 

 焦り顔の正太は、立てた指を口にあて、歯を剥いて息を思い切り吹き出す。世界共通だろう「静かに!」の合図だ。ついでに指を立てていない手で、壁に貼られた『図書館ではお静かに!』の注意書きを指さす。唐突な正太の行動に、蓮乃はびっくり顔で静かになった。正太はほっと息を吐く。

 

 「驚かせるんじゃねぇやい」

 

 餌を貰い損ねた豚の面で、ぶすくれた正太は文句の言葉をこぼした。無論、蓮乃が言葉を聞き取れないことを理解している。単なるボヤキの独り言である。だが、それを蓮乃は聞き咎めたようだ。

 

 「しーっ!」

 

 蓮乃は細い指を立てて口に当て、剥いた白い歯の隙間から息を吹き出す。正太の焼き直しな「静かに!」のジェスチャーを、蓮乃は当の正太に向けてやらかした。最も、先の正太の焦り顔とは異なり、蓮乃の表情は楽しげな笑い顔である。正太への意向返しを含んだ真似っこだ。

 それを見て正太が疲れた苦笑をこぼすより先に、視界の端からくすくすと堪え損ねた忍び笑いの声が聞こえた。眼球だけを動かしてみれば、図書館受付で眼鏡の若い女性司書が、口に手を当てて肩を震わしている。ついでにその横では白髪の混じった年かさの男性司書が、その態度を注意を込めた視線で見つめている。先輩だろう男性司書の目つきに気がついたのか、首を竦めた女性司書が正太と蓮乃と男性司書に目礼で謝罪する。

 

 苦笑を深めた正太は詫びは不要と眼前で左右に手を振った。蓮乃も真似して顔前で前後に手刀を振る。当然、何で正太が振っているのかは理解していない。正太が見る限り、蓮乃は謝罪されたことにも気がついていないだろう。正太の苦笑が呆れの色を帯び、忍び笑いの衝動を堪えて女性司書の顔が歪む。周囲を見てみれば、さっきまで冷たい非難の視線を向けていた人々の目が、生暖かい好奇の視線を放っていた。こいつはまずい。

 強烈な居心地の悪さに襲われた正太は、首をすくめながら蓮乃の背中を押して移動を促す。別段拒否する理由もない蓮乃は促されるままに、手足を大きく降って歩き出した。正太は幼児の手押し車を使っている心境で、蓮乃をとなりまち図書館の中央へと誘導していく。そこには長机の両辺にずらりと並んで、フォトスタンド風の検索端末と弁当箱じみたカードリーダーが鎮座していた。

 

 「ほぉ~~、っ! んむ……」

 

 壮観なELディスプレイ端末の列に蓮乃が再度感嘆の声を上げかける。が、先ほどより音を潜めた「静かに!」のジェスチャーで正太に沈黙させられた。感動を邪魔されてすねた顔で唇をとがらせる蓮乃。だが、ふと周囲を見渡すと、何かに気がついたのか正太の裾を繰り返し引っ張った。

 

 『兄ちゃん、本はどこなの?』

 

 読書をしに図書館まできたのに、読書中の人間の手元を除けば、蓮乃の視界の何処にも書籍が存在しないのだ。

 となりまち図書館の内部は、大きく四つのスペースに分かれている。二人の目前にある中央の検索スペース。先ほど笑われてしまった司書のいる北側の受付スペース。一人でじっくり読書したい人向けの個人用ソファーの並んだ東スペース。勉強等の作業も考慮し一人当たりの空間が十分に取られた、大きな長机と椅子の並ぶ西スペース。

 そのどこにも図書の並んだ書棚はない。図書がないのに図書館とはこれ如何に。蓮乃にとっては不可解きわまりない話だ。

 

 『本は端末で探して、受付で受け取るんだよ』

 

 だが、一般常識を持ち合わせている正太にとってそれは当たり前の話である。

 電子書籍全盛の現代において、高価で希少な実物本を書棚に並べている図書館なんぞ、国立図書館でもなければそうそうない。電子タグとゲートを用意すれば盗難対策は出来るが、誰でも手に取れる書棚に陳列していては汚損の可能性は十分にある。それ故、図書館内での読書であっても、登録カードを差し込んで端末で検索し、登録カードを見せて受付で受け取るのだ。

 そこまで会話ノートに書き込もうとしたところで、正太は向井一家が住まう一〇4号室の内部を思い出した。そう言えば、前の時(第一部参照)中に入る羽目になったが、絵本のみならず小説などの実物本が幾つも置いてあった。宇城家同様に向井家も、今時珍しい実物本派閥らしい。そしてそんな環境で育った蓮乃が、実物本が置かれていない図書館に疑問を覚えるのもっともだ。

 だからだろう。正太の書いた文を読んでみても、蓮乃の顔に浮かぶ疑問の色は薄れても消えそうにない。言われただけじゃ納得は出来ないと、顔にくっきり書いてある。つまりは百「文」は一見にしかずということだ。

 

 そう理解した正太は『見てろ』と書いて蓮乃に渡すと、ポケットの財布から登録カードを取り出して端末に相対した。登録カード表面の電子ペーパーには、正太の個人情報と登録番号、そして借りている『殺魔忍』シリーズ最新巻タイトル『漢銃道決死圏』他が記されている。

 その登録カードを持った腕の脇の下から、蓮乃が首を突っ込むように端末をのぞき込む。なんでそこから顔を出すと正太の顔が一瞬渋るが、とりあえず端末が見えるならいいと気にしないことにして、登録カードをカードリーダーに差し込んだ。ついでに受付から向けられている、女性司書の視線も意図的に無視する。そうこうしているうちに『ようこそ!』の文字と共に、公立図書館共通の検索ソフトウェアが起動した。『フリー単語検索』『ジャンル検索』『番号検索』と味も素っ気も愛想もない項目が映し出される。

 とりあえず、『フリー単語検索』から使ってみせるかと手を伸ばすと、蓮乃のへちゃむくれた顔が目に入った。押し潰れたように顔をしかめて、蓮乃は正太にノートを突き出す。

 

 『兄ちゃん汗くさい』

 

 だったら脇の下から顔出すんじゃねぇよ。正太のこめかみに青筋が走る。図書館に入るまで、正太は少年に追いつかれないように、魔法を使い蓮乃を負ぶって全力疾走していた。図書館の空調のお陰である程度汗が引いてきたとは言え、走りに走って汗だくだったのだから汗くさいに決まっている。

 しかし、正太のそんな事情など気にすることなく、蓮乃はへちゃむくれのむくれ成分を増した顔で、臭いを遠ざけようとノートをパタパタ仰ぐ。

 臭いならいい加減退けばいいだろうと思うが、この唯我独尊独立独歩娘を相手するには、こちらが動いた方が手っ取り早い。蓮乃同様の不快顔の正太はそう判断したが早いか、腕を上げると逆の手で蓮乃を押し出した。

 

 「あーっ! っんむ~」

 

 なぜか抗議の声を上げる蓮乃を「静かに!」の手振りで抑えると、正太は自分と端末のスペースに蓮乃を押し込んだ。多少は汗くさいだろうが、脇の下よりいくらかマシだろう。それからバツ悪げに周囲を見渡し、「またか」と書かれた迷惑そうな顔に目礼で謝罪すると、色々こもったため息をこぼした。臭い臭い言っているくせに、なんでまた脇の下にそう拘るんだコイツは。

 一方の蓮乃は無理矢理移動させられたことにぶすくれた表情を浮かべるも、背後に正太の程良く出っ張った皮下脂肪があることに気がつくと、満足げに背中をもたれさせた。蓮乃のさほど重くもない体重をかけられて、正太の腹周りが柔らかく歪む。

 

 「んふー」

 

 そういや最近、蓮乃の奴はやけにボディコンタクトを取りたがるが、その一環なのだろうか? しかしだからといって、臭腺の密集する脇に頭を突っ込むんでおきながら臭いと文句を言い、それでいて引っ剥がそうとするとこれまた不満をぶーたれる。そのくせ人の腹に体重預けてご満悦とはこれ如何に。

 蓮乃の行動を理解不能の体で見つめる正太。だが、とりあえず暴れて大声を上げる可能性はないと理解すると、お得意の思考停止をして端末操作の続きに戻ることにした。

 

 正太が画面の『フリー単語検索』と書かれた項に軽く触れると、五〇音表が整然と並ぶ文字入力画面に移行した。『さつまにん』と打ち込み、漢字変換で文字を『殺魔忍』に変えると『検索』をタッチする。すると、ずらずらと『殺魔忍』シリーズの題名が一覧として現れた。発行順に『彩玉大炎上』『陰勲社襲来』『花魁危機一髪』……と続き、最後に最新巻『漢銃道決死圏』が表示されている。正太は『花魁危機一髪』を選択し、『貸し出し』と『検索終了』の項に触れる。『花魁危機一髪』が新しく記載された登録カードが、軽い音と共にバネ仕掛けで飛び出した。

 

 「ほわっ!?」

 

 正太の腹の上でリラックス体勢だった所に不意を打たれたのか、驚いた蓮乃が背を反らして跳ねた。背部に何もなければそのまま転がり、堅い物があれば後頭部を大いにぶつけていただろう。幸い背後にあったのは正太が一〇年以上かけて育てた皮下脂肪であり、それが柔らかく衝撃を分散してくれたお陰で、蓮乃には怪我も何もない。「ほー」と長く息を吐き、蓮乃はびっくりの心境と心臓を落ち着かせる。

 

 「……っ!?」

 

 一方、その衝撃を鳩尾近くに叩き込まれた正太は、息を詰まらせて目を白黒させている。登録カードが飛び出すのは想定通りだったが、蓮乃の頭が飛び出すのは想定外だった。それが自分の鳩尾に強打を打ち込むのは想像すらしていなかった。しかも息を吐ききったタイミングだから、うめき声一つ吐けやしない。意識外からの奇襲に、息の根を止められた心境である。お陰で横隔膜がしゃくりあげて今にも泣き出しそうだ。

 

 常とは別の意味でひきつった顔の正太は、酔いどれのステップで端末机から離れると、無理矢理の深呼吸で痙攣しかける横隔膜をあやしにかかる。しゃっくり程度で収まればいいが、呼吸困難は勘弁願う。妹分に鳩尾頭突かれ息の根止まってあの世行きなんぞ、死因を書く医者が笑い死んで冥土の道連れを作りかねない。末代まで爆笑確定の死に方は御免被る。

 

 「ヒィ、ヒィ、フゥー。ヒィ、ヒィ、フゥー」

 

 鳩尾を押さえてラマーズ法な呼吸を繰り返し、正太は必死で気息を整える。蓮乃は不可思議と書かれた表情でそれを見つめている。頭蓋を叩き込んだ認識のない蓮乃からすれば、突然離れた正太が妙な呼吸を始めたようにしか見えない。新しい遊びかなんかだろかと、額にしわを作って考え込む。正太からすれば、おまえが原因だろうと殺魔忍の主人公よろしく手刀の一つも落としたい所だが、今はそれどころではない。

 

 「ヒィ、ヒィ、フゥー」

 

 「ヒィ、ヒィ、フゥー?」

 

 青い顔で呼吸を整える正太に合わせて、首を傾げた蓮乃もラマーズ法を真似し出した。元々、ラマーズ法は出産時に痛みを抑えるための呼吸法である。正太がやるより、蓮乃の方がある意味筋は通っている。しかし、おまえがそれをするのはあと十年は先だろうが。いつもの条件反射でツッコミをいれかけて、正太の気管に唾液が飛び込んだ。

 

 「ヴェッホッ! エッボ! グホッ!」

 

 「なーも!」

 

 胸を押さえて咳込む正太を見て、こりゃ大変だと蓮乃が急いで近づき丸まった背中をさする。咳と一緒に飛び出しそうになる色々を手で押さえながら、正太は呼吸器官に無理強いてあえて肺の中身を吐ききった。

 

 「ヒーッ、ヒーッ、ハァー」

 

 吐けるだけ吐けば、あとは吸うだけ。空手の息吹法よろしくあえて気息を吐ききることで、正太は力ずくで呼吸の調子を戻したのだ。脂汗が滲む額を拭い、撫でさする蓮乃の手をのけて大丈夫だと表情で伝える。深呼吸繰り返して、駄々をこねていた横隔膜もようやく大人しくなった。

 正太は脈打つ胸に手を当て考える。往路のたたら踏み、魔法使用の全力疾走、そして今度の呼吸困難。繰り返される過剰業務にいい加減心臓がストを訴えそうだ。深呼吸で騙されてくれるのも限度があろう。この先八十年は付き合ってもらうのだから、もう少し労ってあげるべきか。

 正太の気持ちが伝わったのか、心臓はストを取りやめ平時の運用に戻った。安堵の深呼吸で賞与の酸素を心筋に送っていると、ふと周囲の視線に気が付いた。周りから送られるのは、なま暖かさ半分迷惑半分の中途半端な眼差しだ。強烈な居心地の悪さと据わりの悪さを覚えて、正太は背中をもう一段折り曲げる。

 

 「にーまぁ?」

 

 折り曲げた背中に蓮乃の細い手が添えられた。言葉の意味は判らないが、込められた気持ちはよく判る。さすらんでいいよとその手を優しく退けるが、そもそもの原因は蓮乃である。しかし、当の蓮乃にその自覚は一片もない。

 

 『背中をさすってくれてありがとう。ただし、みぞおちは人間の急所だから、頭をぶつけたりしないように』

 

 なのでそれを自覚してもらうことにした正太は、蓮乃に注意文を書いて渡した。失敗で一番肝要なことは自覚と反省にあると正太は考えている。自覚と反省がなければ、人間は何度でも同じ失敗をやらかすからだ。正太自身がそうだった。それにそう両親からも躾られている。

 手渡された文章を、前半ドヤ顔後半首傾げで眺める蓮乃だが、十秒少々で自分のやらかしに気が付いたのか、理解と後悔と罪悪感の表情となった。所在なく目線を泳がす蓮乃に、正太は白紙のメモを突きつける。指先でメモを叩いて存在を主張する正太に観念したのか、蓮乃は視線を遊泳さながらではあるが、メモに『ごめんなさい』と小さく文字を連ねた。

 

 謝罪の文字を見て正太は「よし」と頷くと、蓮乃の目の間に今度は登録カードを差し出した。それと同時に用意してた二枚目のメモを突き出す。

 

 『次はおまえが検索してみるか?』

 

 「っん!」

 

 メモを目にした瞬間、蓮乃の首が激しく上下する。大声で喜ぶんじゃないかと正太は一瞬危惧したが、蓮乃は器用なことに声を出さないように元気よく答えて見せた。

 安堵する正太から登録カードを受け取ると、即座に端末に向き直りカードをリーダーに差し込む。そのまま躊躇いも淀みもなく、流れるような動きで端末を操作し始めた。

 目を見張る正太を後目に、蓮乃はまるで手慣れているかのように端末を動かしていく。蓮乃が図書館にきたのは今日が初めてである。しかし蓮乃が端末を扱う手つきは、毎度のように図書館に足を運んでいる正太のそれよりも滑らかだった。たった一度、正太が見せただけで使い方を覚えたのだ。それも、覚え忘れや曖昧な部分のない完全な形で。

 クッキー作れば砂糖と塩を間違える、ON/OFFオンリーぶきっちょ娘だと思っていたが、変なところで妙な才能を示すものだ。正太が感心半分唖然半分で蓮乃を眺めていると、あっという間に端末操作を終わらせた蓮乃が振り返って、ノートと一緒に登録カードを突きつけた。ある意味当然の、いつも以上なドヤ顔である。

 

 『すごいでしょう!』

 

 差し出された登録カードの表面には、和風ファンタジー児童文学『防人』シリーズの四作目『神話の防人』のタイトルが電子ペーパーで表示されている。『防人』シリーズは、日本中心にアジアンテイストな幻想世界を描いた児童文学で、宇城家子供部屋の書棚にも最新作まで全て存在している。当然のように蓮乃も一通り読んでおり、時々主人公の薙刀使いの真似をしようと箒を長獲物代わりに振り回しては、正太からお叱りのチョップを頂いたりしている。

 今日はファンタジーな気分らしい蓮乃は、自信満々なしたり顔で言外に「ほめろほめろ」と尻尾を振っている。そのおつむりを正太は優しく撫でる。実際スゴイと正太も思う。図書館の検索端末が万人向けの簡素で簡単な代物だとは言え、初めて触れる人間が見ただけで完璧に使いこなすのは余程のことと言えるだろう。

 くしゃりと絹糸の髪を撫で崩すと、一緒に蓮乃の首もふわりと揺れる。ついでにとろりと笑顔が溶け崩れた。にへへと蓮乃のとろけた笑顔につられたのか、正太の笑みもにひひと柔らかい。小さな頭を正太が一撫でする度にシチューのジャガイモの具合で蓮乃の笑みがさらに煮くずれる。

 このまま続ければ最後には完全な液体になるだろうが、それは困る。とろけきった蓮乃を入れる寸胴鍋の用意はしていない。蓮乃は寸胴体型だが、液化した当人を鍋にする訳にもいかんのだ。

 

 名残惜しく蓮乃の頭から正太が手を離すと、不満と未練が垂れ落ちる顔で蓮乃が見つめてきた。そんな顔されても困ると柔らかな笑みに苦みを足して、正太は平手で蓮乃を抑える。ぶすくれふくれっ面になった蓮乃から登録カードを受け取ると、正太は親指で受付を示した。検索は読みたい本を探すためにやったのだ。実物本を受け取らないなら片手落ちだ。事情を察して膨れ面から空気を抜いた蓮乃は、正太の袖口を引っ張り小走りで受付へと向かう。そう急くなと苦笑を深め、引きずられる正太は蓮乃のペースを調整しつつそれに連れられる。

 

 その光景を恍惚の表情で女性司書が見つめていたが、二人が来ると判って即座に、受付らしい柔和で人畜無害な笑顔に切り替える。隣の男性司書は、まだ女性司書の異貌に気が付いていないようだ。

 幸運にも書物待ちの列に並ぶ人間はなく、正太と蓮乃は登録カードを手渡してすぐさま、検索した二冊を受け取ることができた。

 

 「こちらが『殺魔忍』シリーズの『花魁危機一髪』、『防人』シリーズの『神話の防人』になります」

 

 「どーも、ありがとうございます」

 

 「なーも、ありあとどぜーなす」

 

 女性司書から登録カードと『花魁危機一髪』『神話の防人』の二冊を受け取り、正太と蓮乃は軽く頭を下げると書物待ちの列から離れた。蓮乃の言葉になっていない舌っ足らずな言葉に、女性司書の目が一瞬血走ったが、二人に気づく気配はなかった。

 

 「なーも、なーも」

 

 「ほれ、落とすなよ」

 

 蓮乃のせがむ声に、正太は『神話の防人』を手渡す。満足そうな顔で分厚いハードカバーを抱き留める蓮乃を見て、正太は柔らかな表情で笑った。さて、後はどこで読もうか。やっぱり、ソファーでゆったり読むのがいいだろう。

 正太が蓮乃の肩を軽くたたき、一人用ソファーの並ぶ東スペースを指さす。察した蓮乃は上半身全部で頷くと、正太を置いて小走りで東スペースへと駆け出した。それを見て正太の顔が微妙な具合に変形する。そのまま蓮乃の背中から視点をスライドすると、壁には『図書館ではお静かに!』の警告に加えて、『図書館は運動場ではありません』との注意書きが記されている。サッカーや野球はもとより、図書館内で駆け回るのも許されないだろう。さっきもやらかしたが小走りは是非のどちらだろうか。

 取りあえず追いついてからだと、『花魁危機一髪』を小脇に抱えて正太も早足で蓮乃の後を追う。その蓮乃はくるりと振り返ると、正太を呼ぶように犬の尾っぽよろしく片手をぶんぶんと振った。正太の顔の微妙度合いがさらに深まる。先の注意が利いたのか、少なくとも声を上げる気配はない。しかしながら、大げさなボディランゲージで雄弁に語るのはいかがなものか。

 ついでに蓮乃の表情も実に雄弁である。「一緒に読もう!」と言わなくても判るくらいに、正太の到着を待ちかねている。するとその顔がなにやら驚愕と嫌悪に彩られた。声は無いが「あーーーっ!」とか叫んでいる雰囲気が見て取れる。大仰な指さすジェスチャーからも「ビシッ!」みたいな音響効果がついていそうだ。

 

 そこまで思考を進めた所で、ようやっと気が付いた正太は後ろを振り向いた。蓮乃の視線の先には、汗にまみれて肩で息する年若い男子の姿。戦に望む天の軍団めいたその顔には実に見覚えがあった。主に嫌な意味で。

 正太と蓮乃。お互いの表情が意図せず同じ具合に歪んだ。二人の耳に「少年」の大声が届いた。

 

 「いたっ!」


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