二人の話   作:属物

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第一話、二人がやな奴と顔を合わせる話(その二)

 ふと、煉瓦敷きの足下が陰った。

 

 歩道を蓮乃と連れ添って歩く正太が空を見上げると、太陽に大きめの積雲がかかっている。雲の隙間から漏れる日光の欠片に目を細める。太陽を覆った雲の周りにも、羊雲というには大きい雲が幾つも浮かんでいる。もはや青空に雲が浮かんでいるというより、雲の隙間に青空が見えると表現した方が正確だ。

 正太が想定していたよりずいぶんと雲が多い。一日晴れると朝のニュースで聞いていたがこれから晴れるのかは怪しいところだ。せっかくの土曜日が曇天とは嘆かわしい。いや、これはこれでいいのかもしれない。少なくとも、日に炙られて暑い思いをしなくて済むのは悪くない。

 休日の心模様を空模様と同じにしたくない正太は、曇天なりの良さを見いだそうと空を仰いだ。想像通り眩しくも暑くもない。五月の陽気と合わせれば、実に過ごしやすい心地いい日和と言える。もっとも、日和と言いつつ日は射していないが。

 

 そうして晴模様な気分の正太の耳に、これまた空模様と違って脳天気な歌声が響いた。

 

 「かっんっぽ♪さっんっと♪あらっしわ~っでんし~♪」

 

 いつも通り歌詞以外完璧ながら、歌詞一つで全部台無しな歌声である。こんな歌声の持ち主を正太はたった一人しか知らない。そしてその一人は今ここにいる。

 目を向ければ予想するまでもなく、大声で歌いながら両手を降って、気持ちよさそうに歩いている蓮乃の姿が見える。曲と同じく元気いっぱいで散歩中だ。空は満面の曇り空だが、蓮乃の頭の中は苦も無く雲無し青天井らしい。周りの通行人も快晴青空太陽娘に当てられたのか、皆笑顔を浮かべている。

 

 「かわい~!」

 

 「あはは! 歌詞めちゃくちゃ~」

 

 「お父さんと似てないけど、可愛い娘さんねぇ」

 

 周囲の声が脳髄に突き刺さった正太は片手で頭を抱えた。正しくは笑われていると表現すべきなのかもしれない。そして自分もその題材に入っているのは何故だ。というか、お父さんって何だ。自分はまだ一4だ。

 しかし通行人にそんな正太の心境が分かるはずもなく、父子前提の言葉が幾つも飛んでくる。曰く「親熊小熊」。また曰く「凸凹親子」。ついでに曰く「子犬と猪」。あまりに容赦のない台詞に、正太は顔を覆って白けた曇り空を仰いだ。

 

 そんなことをしていたからだろうか。正太のつま先が浮き上がった煉瓦の端に引っかかった。次の一歩を踏み出すために体重を掛けかけていたこともあり、正太は大きく体勢を崩した。

 

 「うぉっとっと!」

 

 本来、二足歩行は不安定なものだ。一度両足裏の四角形から離れてしまった重心点は、正のフィードバックに従って加速度的に安定領域から遠ざかっていく。行き着く果ては完全な安定、すなわち地面に横たわる形となるだろう。当然、重力加速度分の落下速度を伴って。

 正太がこの間習ったばかりのニュートンの方程式に従えば「力=質量×加速度」となる。この場合加速度は重力加速度だから一定値なのだが、問題は質量だ。正太は身も蓋もなく言ってしまうならばデブだ。つまり体重が重い。地球上においては重さと質量はほぼ同じもの。だから、正太がずっこけた場合、平均的な中学生男子に比べ倍近い打撃が加わることとなる。

 

 「うぉぉおおぉ!?」

 

 それは実に痛い。正太が自宅の玄関で足を滑らせて、フローリングと熱烈な口づけをしたときは、清子が帰ってくるまでの間ひたすらのたうち回っていたほどだった。それがよく焼き締められた煉瓦ともなれば想像したくもない結果となるだろう。

 そうはなっては困ると、正太は両手を振り回して遠心力で無理矢理バランスを取ろうとする。何歩もたたらを踏んでは左右に傾ぎながら、それでも転けるまいと必死に重心点に追いすがる。

 

 「おおぅ……」

 

 正太の奇矯な踊りの成果は多少はあったのか、ようやく重心を捕まえて正太は安定を手に入れた。端から見ていれば僅かに数秒の間であったが、当の正太にしてみれば、人生でも上位に入るほど神経を使った数秒間であった。おかげで冷や汗と脂汗のカクテルが全身をずぶ濡れにして、過動中の心臓は急な仕事の抗議として胸を内側から叩いている。

 とりあえず心臓を通常シフトに戻すべく正太は深呼吸を繰り返す。心臓は胸骨をリズミカルに蹴飛ばして有給を求めるが、残念なことに正太はあと六六年間は休みをくれてやるつもりはない。繰り返しの深呼吸で贈られてくる新鮮な酸素に誤魔化されてくれたのか、心臓は常のリズムを刻み始めた。

 最後にもう一度、安堵のため息も込めて正太は深呼吸をする。色々と危うかった。足をきちんと上げないと怪我の元になりかねない。でも、意識していないとすぐ摺り足になるんだよな。

 

 太り気味の人間特有の悩みをこねくり回しつつ、正太は元の歩調に戻る。そこでようやく蓮乃の歌声が止まっていることに気がついた。知り合いが転けかけて、バランスを散々っぱら暴れ回っていたのだ。蓮乃と言えども身の危険を感じるだろうし、声を潜めて距離を取るだろう。周囲の目線を気にしてとは思えないが。

 正太が周りを見渡せば、想像通り少し離れた壁際に蓮乃の姿があった。はたくように掌を振って合図すると、蓮乃は小走りで駆け寄ってきた。

 

 『すまんすまん、驚かせて悪かったな』

 

 突っかけるようにして急停止した蓮乃に、正太は謝罪を書いたメモを渡す。頭一つ分は大きい相手が両手振り回して荒ぶっていたのだ。危ないし、怖い思いをさせてしまった。

 だが、手渡されたメモから返ってきたのは、文句の一文でも同意の単語でもなかった。

 

 「んっ!」

 

 かけ声とともに返ってきたのは、差し出された蓮乃の手だった。小さな白い掌を上に向けて、何かを要求するように正太の方へと突き出している。その表情はいつもながらの自信満々なドヤ顔だ。

 正太の顔が二重の意味で不可思議に歪む。意味が全く判らない。このお気楽極楽道楽娘は何を求めているのだろうか。解らないことは聞くに限る。

 

 『どーいう意味だそりゃ? 手をつないで欲しいと?』

 

 蓮乃は大きく首を横に振った。それに合わせて長い黒髪が宙に墨色のラインを描く。肩に掛かった髪が宵闇のように流れ落ちる。

 濡れ羽色の髪が流れる光景を軽く流しながら、正太は蓮乃の返答に考えを巡らした。動作からして何かしら要求しているのは間違いないだろう。会話用ノートと文房具は各々で持っているから、別に自分のものを欲しがる理由はない。蓮乃は意味もなく金銭を求める娘ではないし、食い物飲み物は自分は初めから持ち合わせていない。

 何を望むのか想像もつかないと首を捻る正太。解らないことが解ったらしく、蓮乃は文を加えてノートを差し出した。

 

 『手をつないであげる!』

 

 --同じじゃねぇか。

 

 違うのはどちらに主体があるかくらいか。毎度毎度この独立独行独自路線特急娘は、斜め上4五度の第一宇宙速度で地球圏を離脱していやがる。頭痛が痛い顔で、雲で曇っている空を見上げる正太は、後から後悔しそうな心境だ。

 呆れかえった正太の顔に気づいているのかいないのか、蓮乃はキメ顔で手を差し出したまま正太の反応を待っている。疲れと呆れを半々で混ぜた表情で、じっと蓮乃を見つめる正太。

 放って置いたら日が暮れるまでこのままのような気がする。実際は数分しないで、膨れて拗ねて怒り出すに違いないが。さらにほっといたら、不安がって怖がって、終いには泣き出すかもしれない。流石にそれは色々困る。

 

 「はぁ~~~~、ほれ」

 

 演技じみた大仰なため息をつくと、正太は諦め顔で蓮乃の手を取った。途端に蓮乃の表情が輝かんばかりの満面の笑みに色を変えた。力強く吹き出す鼻息まで満足げだ。

 

 「あっんっこ♪てっんっぽ♪かかしわ~べんい~♪」

 

 蓮乃はつないだ手を思う存分振り回しつつ、大股でリズミカルに散歩を再開する。砂糖多めのコーヒー味な表情で、正太はされるがままに歩調を合わせる。幸せそうで本当に幸せな風景に、歩道を歩く通行人たちはクスクスと優しい笑顔をこぼした。

 

 

 

 

 

 

 満員御礼とは言わないが、土曜日の公園は中々な賑わいを見せている。

 

 互いを往復するボールと一緒にかけ声を投げ合う親子に、ベンチで午後の午睡を満喫する老人。花盛りの雑草をいじり倒す子供たちと、井戸端は無いが輪になっておしゃべりに夢中の奥様方。その背中で夢の世界を旅している幼児もいる。実に平和な日常の風景だ。

 これで空が抜けるような快晴なら完璧なのだが、生憎と青空はどこにも見えない。雲向こうのお天道様の輝きは分厚い席層雲に遮られ、空は完全に陰ってしまっている。

 

 「ほ~!」

 

 だが、蓮乃は常に変わらぬ晴れ模様だ。繋いでない方の手で庇を作り、興味深そうに公園の光景を眺めている。

 その姿を正太は少々意外そうな表情で見ていた。蓮乃にはありふれた公園の風景も珍しく思えるようだ。大抵の子供は幼稚園に通うより先に母親につれられて公園に通うものだが、蓮乃はその例外らしい。

 興味に輝くような蓮乃の表情を見ながら、正太の眉根が皺を作る。蓮乃が障害と魔法の関係で一般的な経験に乏しいとは知っていたが、こんなことまで未経験とは知らなかった。自分を信じて預けてくれた睦美さんのためにも、できるだけ多くを経験させてやらなきゃな。

 

 正太は目を閉じ決意を込めて小さく頷く。その手が軽い力で繰り返し引っ張られた。その原因は予想するまでもない。目を開いて視線を向ければ、正太の想像通りに興味津々な顔で繋いだ手を引く蓮乃の姿だった。だが、今日のところは蓮乃には悪いがご勘弁願おう。

 正太は腕を捻るように自分の手を握る小さな掌を外すと、蓮乃の白い額に手を当てて軽く押し止めた。道中から公園に至るまで繋ぎっぱなしだった手は少々汗ばんでいる。先まで繋いでいた蓮乃の体温と大気との温度差で、掌に強い冷感を覚えた。

 

 公園で遊びたい蓮乃の唇が尖り、眉根が寄って皺ができる。本日は公園で遊びに来たのではなく、図書館で静かな読書を楽しみに来たのだ。公園で遊ぶのはまた今度。

 そう告げるつもりで、正太は親指で目的地を指し示した。親指のが向く先には、煉瓦の壁に色違いの煉瓦で描かれた「となりまち図書館」の文字が見える。隣町の「となりまち図書館」とはこれ如何に。脳裏に浮かんだ下手な洒落を正太は胸の内で笑う。

 

 「あーーーーっ!」

 

 その耳に蓮乃の大声が響いた。驚いた顔の正太は、反射的に蓮乃へと目を向ける。図書館に興味が移るとは想像していたが、こうも極端だとは思わなんだ。

 だが驚き顔を浮かべる蓮乃の視線は、図書館ではなくその下、植木に佇む人影に向けられていた。加えて蓮乃は視線だけではなく、指を人影に突きつけている。蓮乃の人差し指で指差す人は、二人同様の驚き顔を浮かべた少年だ。

 

 正太はこの少年に見覚えがない。記憶を一通りひっくり返しても、欠片すら引っかかる具合はない。蓮乃の知り合いだろうか。だが先の声からして喜ばしい間柄じゃなさそうだ。そうでないなら、後で指さしは失礼だと叱っておこう。

 正太の予想は当たったらしく、瞬く間に蓮乃の顔は嫌悪の色に変わった。眉の間の皺山脈は一気に標高を増し、頬は当社比率一五〇%の膨らみぶりを見せている。

 

 正太は蓮乃へと質問の意図を込めた視線を向ける。蓮乃は躊躇無く感情を表に出す人間だが、こうも嫌悪感全開な素振りをとる姿は始めて見る。少年も蓮乃と似たような気持ちらしく怒ったような表情で駆け寄ってくる。嫌うにしても互いにここまで明確な態度となると理由が想像できない。

 蓮乃は荒々しくポシェットから会話ノートを引きずり出すと、これまた荒々しく書き殴り、正太にノートのページを突き出した。突き出し方まで荒々しい。

 

 『あいつ、やなやつ!』

 

 蓮乃の気持ちはよくわかった。しかし理由はわからない。正太がさらに質問する暇もなく、蓮乃は正太を軸に小走りで一八〇度移動した。駆け込む少年からちょうど正太が盾になる位置関係だ。そのまま蓮乃は正太で全身を隠すと、顔だけ出して歯を剥いて威嚇し始めた。子供が親を盾に嫌いな相手と相対する時の動きだ。だからどうしてだ。あと服が延びるから引っ張るな。

 正太が疑問を解消する暇もなく、少年は二人の数m先まで駆け寄る。僅かに荒い息を整えながら蓮乃を指さし、声変わり前の甲高い大声でわめいた。

 

 「何でお前がここにいるんだよ!」

 

 「う”~~っ!」

 

 眼前の少年の姿に、正太は僅かに表情を堅くした。美人と美形は同種を引き寄せる引力でも発揮しているのか。以前、妹である清子は、蓮乃と睦美の存在に美の不均衡と偏在について文句をぼやいていた。その気持ちが今の正太には痛烈なほど理解できた。

 アメコミのキャラTシャツに膝出しの短パンと子供丸出しの格好に包まれているのは、日本人離れした天使じみた美貌だ。生まれたての薄桃色の肌に、ブロンド二歩手前の淡い栗色の髪。両目は透明感のある薄茶色で、その周りを弧を描いた長い睫毛が覆っている。形の整った各パーツは、柔らかな卵形の輪郭の中で品よく整列している。これで無邪気な笑顔でも浮かべていたら、ある種の女性達は貧血を起こして崩れ落ちるだろう。もっとも今浮かべているのは、邪教徒の儀式を見つけたような蔑みと怒りの表情だが。

 さらに言うなら背丈も正太とそう変わらない。美麗だが幼い顔立ちから察するに、蓮乃とどっこいどっこいの年齢だろう。それで自分の身長に追いついていることについて、正太は神様に小一時間ほど問いつめたくなった。

 

 「えっと、初めまして。どちら様で?」

 

 外観の出来は否応なしに理解できたが、蓮乃との関係は不明なままだ。なので正太はとりあえず、挨拶して尋ねることにした。コミュニケーション障害気味の正太であるが、子供相手の挨拶ぐらいなら何とかこなせる。それに蓮乃にも常々言っていることだが、人間関係の第一歩は挨拶から始まる。正太は両親からそう教わってきた。

 

 「……チッ!あんたに関係ないだろ」

 

 しかし、目の前の少年はそう教わってはいないのかもしれない。耳障りな舌打ちと吐き捨てるような台詞、そして何より正太を蔑みきった表情が、渋い顔の正太にそう想像させた。こうも憎まれる理由が正太には想像がつかない。蓮乃を背中に隠しているのが余程気にくわないのか、敵意を収束した視線で自分を貫かんばかり。

 何でまたこうも嫌われているのか。理解できない少年の憎悪に、正太は天を仰いでぼやいた。

 

 「どーしたもんだろ」


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