二人の話   作:属物

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エピローグ、二人の話

 ここ数日の雨模様から一転して、間島アパート一〇三号室の窓からは吸い込まれそうに澄んだ青空が見える。街ゆく人々の多くも抜けるような晴天を笑顔と共に仰いでいる。しかし、自宅である一〇三号室の居間で”宇城正太”は床方向へと俯いたまま両手で顔を覆っていた。一方、開いた大窓の向こうで庭に立つ”向井蓮乃”は、正太の異様に不可思議と書かれた顔で小首を傾げている。

 つい先ほどまで奏でられていた正太と蓮乃の涙声デュエットは、涙腺の限界と共に終わりを告げた。同時に両目から流れ落ちるばかりだった理性も正太の脳に再び貯留され始めた。そして正太は年下の異性である蓮乃の目の前で、突っ立ったまま思う存分声を上げて泣きわめいていたことにようやく思い至ったのであった。

 

 ――だれかスコップください

 

 正太の心境としては正直言って墓穴を掘って埋まりたい気分だった。拳骨落として説教したり、一緒にお菓子を作ったり買い物連れて行ってやったりしたガキンチョの真っ正面で、大人ぶって面倒見ていた気分の自分が鼻水垂らして泣きわめいたのだ。両掌で隠れた顔は節分の鬼もかくやの真っ赤っかである。元々の強い顔立ちも相まって、今の正太は完全に昔話の赤鬼の面だった。もっとも憎まれ役を買って出て人間との間を取り持ってくれる親切な青鬼の姿はどこにもないが。

 古く侍は腹を切って死ぬことで名誉を守り恥を雪いだという。自分もそれに習ってみるべきではなかろうか。しかし我が家の刃物で割腹自殺可能なサイズは台所の万能包丁のみだ。そんなもので切腹したら最期、介錯は母の拳骨になるに違いない。介錯のために実に痛い拳骨をもらう矛盾に頭を抱えたい気分だ。しかし両手は顔を覆うのに忙しくて頭を抱えていられない。どーしたものか。

 

 一方、目の前の正太を見やる蓮乃にはそんな正太の気持ちなど知る由もない。なので正太を見つめる蓮乃の首は六〇度ほど傾げられたままだ。尻の据わりが悪いどころか空中空気椅子な正太に比べて、蓮乃の方はそこまで居心地が悪い訳ではない。何せ蓮乃自身が正太の目の前で複数回大泣きして見せてしまっているのだ。今回はもらい泣きしてしまって多少ばつは悪いけれども、今更特にどうという事もない蓮乃は平気の平左な顔で正太を眺めている。

 どーしたもんだろ。兄ちゃん固まっちゃった。無視されたと感じたのか、蓮乃は整った顔をむぅと可愛くしかめた。蓮乃からしてみれば急に泣き出した理由なり返答なり反応の一つも欲しいところだ。ところが、正太は画面がブルースクリーンならぬ顔面がレッドスクリーンな状態である。蓮乃が正太の眼前で手を振ってみるものの、顔を覆ったまま凍り付いた正太に再起動の様子はない。蓮乃の唇がもう少し不機嫌そうに尖り、それからほっぺたがいくらか膨らんだ。

 

 ふと五月の爽やかな風が一〇三号室の庭を吹き抜け、サァと音を立てて背の高い雑草を吹き流した。風の音に気づいた蓮乃が風の流れる先を眺めると、青い空に独りぼっちの積雲がぽかりと浮かんでいる。

 

 ――なんか雲が綿飴みたい。綿飴。ぬいぐるみ。羊。羊頭狗肉。羊肉。美味しいのかな?

 

 独自設計でオンリーワンな蓮乃の精神回路が斜め上な連想を浮かべる。蓮乃が食べたことのある肉類は代用肉を除けば鳥だけだ。やや高価な豚や牛、一般的でない羊や犬のそれを口にした覚えはない。

 母である”向井睦美”はそのことを済まないと思っていたのか、『いつかおいしいお肉を食べさせて上げる』と言われた覚えがある。それはそれとして食べたいが、蓮乃としてはそれより親子水入らずの食事をしたい。昨日もそうだったが、親の心子知らずで子の心親知らずだ。まだ蓮乃は親知らずが生えていないが。

 

 ――あ、そうだ!

 

 そこで昨日のことに思い当たった蓮乃は、何かに気がついたように口に手を当て表情を変えた。そうだ、兄ちゃんにお礼を言わなきゃいけないんだった。昨日はいろいろしてもらったのに何にも言えないまま兄ちゃん帰っちゃったから、今日はちゃんとお礼を言おうと決めていたんだ。大事なことを思い出し、蓮乃は急いでペンとノートを取り出す。そのまま2ページ使って勢いよくペンを走らせた。

 書き上げた文章の出来にむふぅと満足げな鼻息を吹き出した蓮乃は、手紙をつかむ正太の腕を繰り返し引っ張り自分の存在をアピールする。ようやっと脳味噌の再起動に成功した正太は、セーフモードな機能不足の面構えで胡乱気に蓮乃を見やる。

 途端に目に入るのは目元を赤くした、しかし平素の元気な表情の蓮乃だ。なんでこいつはこうもむやみやたらと気力が噴き零れ気味なのか。人前で泣いて恥ずかしいとか思わんのか。いや、先日には多少そういう反応もあった。つまりは慣れか。変なもんに慣れてるな、こいつ。

 恥辱感を蓮乃に押しつけたり思考を明後日の方向にとばしたりと、無駄に脳味噌を空転させる正太。だからと言って、蓮乃の前で泣きわめいてしまって身の置き所が無いことが変わるわけでもないのだが。

 そんな正太の内心などつゆ知らず、茫洋とした顔の前に蓮乃は広げたノートをつきだした。

 

 『兄ちゃんのおかげで、あたしお母さんと仲直りできたの。だから、兄ちゃん、ありがとう!』

 

 さらさらと、もう一度五月の薫風が吹いた。風の音を背景に二人の間に静寂も流れる。呆けたような正太は元気よいお礼の書かれたノートをみる。その向こうの笑みで満ちた蓮乃をみる。じっと蓮乃の言葉と笑顔を見る。ただ、ひたすら見る。

 水が流れるようにその顔が柔らかな笑みに変わった。正太はそのまま表情に似合った優しい手つきで、頭一つ低い蓮乃の頭に手を乗せる。そして掌中の球をさするように蓮乃のまあるい頭を撫で始めた。

 

 おつむりと同じく両目をまあるく見開いた蓮乃を置いてけぼりにしつつ、滑らかな黒髪を梳くようにまんまるな頭蓋を磨くように撫でさする。慈しみと愛おしさを存分に込めて繰り返し繰り返し、感謝と喜びの思いを注いで何度も何度も。

 

 「へへ、えへへへへ」

 

 そうして自分をなで続ける正太の手を、蓮乃も何時しか心地よく正太の手を受け入れていた。優しげな正太の手に合わせて、蓮乃の表情もとろりと融ける。トーストの上のマーガリンか、鍋の中のお餅か。表情と同じく蓮乃の気持ちも柔らかく緩んでいく。最初はびっくり仰天だったけど、兄ちゃんの手にいやな感じは全然しない。むしろ気持ちよくて心地よくてなんだか気分がふわふわする。ずっと前にお母さんにしてもらったことがあった気がする。

 

 だが、蓮乃の法悦な時間は正太が手を離して唐突に終わりを告げた。名残惜しげな顔を浮かべて抗議する蓮乃。元々の顔形がよろしいだけに、ある種の趣味な方々の琴線を大いに刺激するだろう。しかし正太にその手の趣味はない。正太は年上のグラマラスな美人が好みだ。少なくとも今のところは。

 蓮乃の頭を離れた正太の手は滑らかに白い頬にそっと触れると、蓮乃が握ったままになっていたノートをチョイチョイと引っ張る。正太の貸してくれという真意が伝わったのか、微妙に不満を残した顔で蓮乃はノートとペンを差し出した。差し出された筆記用具を受け取ると、正太はいつもより少し大きめの文字で一文を記した。

 

 『こちらこそありがとうな』

 

 正太が開いたノートの文を見て、蓮乃は再び首を傾げる。自分が助けを求めて助けてくれたのが兄ちゃんで、お母さんと仲直りさせてくれたのも兄ちゃんだ。だから兄ちゃんにお礼を言わなきゃならないのはよくわかる。でも兄ちゃんになんかお礼言われるようなことあったっけ?

 

 『なんで?』

 

 『俺はお前さんを助けたけれど、お前さんと睦美さんにも同じくらい助けられたんだよ』

 

 全然わかんない。正太の返答を見ても、蓮乃の頭上に浮かぶ疑問符は数を増やすばかりだ。カッチコッチと緩やかにメトロノームよろしく頭を揺らす。それにつられてハテナマークもゆらゆら揺れる。

 

 「わからんか。そりゃそうだな、言ってないもんな」

 

 全身で不可思議を表現する蓮乃に、正太は苦笑混じりで独り言を呟いた。しかし、蓮乃相手に自分の事情を事細かに話す気にはなれないが。それはすなわち、如何に自分が後ろ向きに引っ込んでいたかを説明するということだからだ。流石に格好悪いにもほどがある。こいつの前で、これ以上格好の付かない真似はしたくない。

 深呼吸ついでに色々こもった息を吐くと、誤魔化しとお礼の気持ちを込めて正太はもう一度蓮乃の頭を撫でた。撫でる手つきにあわせて蓮乃の頭がゆるゆると揺れ動く。窓の外では微風にあわせて背の高い草がサラサラとたなびく。

 

 二人の顔も吹く風も穏やかな雨上がりの五月の午後。風は梅雨の臭いを運んでいた。


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