二人の話   作:属物

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第八話、親子の話(その六)

 空はよく晴れている。

 

 上を見れば低気圧一過の底抜け青天井。雲一つ見あたらない快晴の空から、初夏の太陽が思う存分輝いている。一方、それに照り焼きにされている正太の心境はそれとは真逆の黒こげ気味だった。昨日のお説教以降、釈然としない気持ちが胸の内でもやもやと煙を上げている。家を出る前も、登校時も、授業中も、こうして帰宅途中でも煙たい気分で胸の中が一杯だ。

 一つ息を吸って吐く。雨上がりの湿った空気が肺一杯に染み込んでいく。しかし腹の底で燻る感情に鎮火の気配は見られない。もう一つ追加で深呼吸し、水気がべっとりと湿るため息を漏らす。ガラスに吐きかけたら結露が滴り落ちるだろう。水分と苛立たしさが吐く息に飽和している。

 

 正太はどうにもならない心地を諦めつつ、自宅のディンプルキーを鍵穴に差し込みぐるりと回した。特に抵抗なく錠前は回り、軋む音一つなく扉は開いた。抵抗だらけでキーキー鳴ってる自分の心情とは大違いだ。乾いた自嘲を着火材代わりに投げ込んでも、自己嫌悪の火の粉が舞うだけでまた音を立てて燻り出す。

 

 「ただいま」

 

 誰もいない自宅に帰宅の挨拶が空しく響く。空気すらもどこか空々しい。いや、いつもと何も変わらない。変わったのは自分の心持ちだけだ。

 挨拶の習慣の後は家族に文句を言われないよう手で丁寧に靴を脱ぎ、逆さの向きにそろえて置く。昨日散々っぱら叱り飛ばされた後だ。ちょっとしたことで追加のお小言は勘弁願う。

 後はいつもと何も変わらない。子供部屋に直行し、鞄を置いて制服から普段着に着替え一息ついた。そうしたら好きな本を抱えてゆったり読書もよし、TVを起動して好みの番組を眺めるもよし、たまには埃をかぶったコントローラーを引っ張り出してTVゲームをするもよしだ。

 

 しかし今はどれもする心境ではない。何も持たず何もせず、ただただぼんやりとソファーに腰を下ろす。何とは無しに庭を眺めながら、胃袋を底から燻し続ける感情をじっと見つめた。

 父から叱られた内容は自分自身もっともだと感じている。清子の言葉は正しかったし、自分とて文句はない。事の全ては終わったことだ。今更自分が口を出す事柄ではない。それでも肺腑の底からぶすぶすと不完全燃焼な気分がわき上がっている。何に納得できないのか、何が気に入らないのか。自分でもさっぱりわからない。

 正太は煤けた嘆息をもらすと背を伸ばした。考えてもしょうがないのだろう。だが朝からそう言い聞かせても、今の今まで気持ちは雨模様のままだ。こうして窓から指す日差しに当たっても晴れる様子はない。

 

 そして植木の隙間から顔を出した、ピーカン脳天気日本晴れ娘を見ても変わりはなかった。

 

 「なーうっ!」

 

 何がそんなに楽しいのか蓮乃は初夏の太陽と同じく朗らかに笑っている。どうやら昨日の大嵐な気持ちはきれいさっぱり吹き飛んだようで、晴れ上がった青空同様その顔には一片の曇りもない。もやもやっとした煙い心地と肌にべたつく湿った気持ちが入り交じりって、鼻からスモッグが吹き出そうな正太の心境とは大違いだ。

 お気楽そうで羨ましいかぎりと、正太は妬み嫉みをたっぷり込めて皮肉な笑みを浮かべようとする。しかし端から見る限り豚が奥歯を剥いた様にしか見えない。実際蓮乃も正太の表情が意味するものを読めないようで、お天道様の笑顔を一時間分傾げている。

 やるだけ無駄らしいと気づいた正太は、表情を常の仏頂面に戻す。そもそも子供相手に何をやっているんだか。自分も子供ではあるがガキ臭い真似は控えるべきだろう。ただでさえ昨日は格好が付かない様だったのだから。ましてや、昨日の大事で助けを求めた蓮乃に対して、身勝手に手を突っ込んだ自分が八つ当たりなど格好悪いにもほどがあるだろう。

 正太はしかめ顔を浮かべわき上がる自己嫌悪を堪える。

 

 「なぁーもぉー!!」

 

 そうやって表情を変えるだけで窓を開かない正太に焦れたのか、傾注!ともう一度声をかけるも正太に動きはない。蓮乃からしてみれば、正太は自分を見つけておきながら、ソファーから立ち上がろうともしないのだ。不満で頬が膨らみ唇が尖る。憤りに突き動かされるままに隣人の庭であることを一顧だにせず蓮乃は窓際に近づいた。

 が、そこで蓮乃の表情が驚きにも似た気づきの色に変わった。なんだなんだと思わず視線を向ける正太にかまわず、姿勢を正すと拳でコツコツとガラス面を三度叩く。それから間を空けてもう三度。

 他人の家を訪ねるならばまずノック。親しき仲にも礼儀あり。それがマナーと言うものだ。例えガラスの向こうに尋ね人が居ようとも、目の前の家人が頭痛が痛い顔をしていようとも。

 

 蓮乃のやらかす常識を斜め上に超越したシュールな行動に、正太は青空が青いなと現実逃避したくなった。ついでに体内でぶすぶすとぶすくれる感情も逃避したのか、いくらか胃の腑の重量感が軽くなった。

 そう言えば前にも似たようなことがあったなと、正太は記憶の引き出しを開いてみる。焦って苛ついてカッカとしていた所に、蓮乃の無礼講で破天荒な行動で、緊張を解かれ気勢を削がれておまけに毒気を抜かれてしまった。こいつと顔を合わせるといつもこうだ。苦悩して懊悩して煩悩しているとこにやってきて、くよくよ悩んでいじいじ迷っているのがあっという間に馬鹿馬鹿しくなってしまう。

 しかめ面を苦笑に変えた正太は、蓮乃のノックに応じて居間の窓を開く。

 

 「よう」

 

 「なっ!」

 

 庭の蓮乃は腕を振り上げ元気よくご挨拶。居間の正太も軽く手を上げて答える。

 が、そこで二人の間に空白の時間が訪れた。昨日の大騒動もその後の説教の煮染めも記憶に新しい。色々とやらかした正太の身の上としては、正直言って少々気まずい。お小言やら大ポカやらで一度日常を崩してしまうと、リズムを取り戻すのに苦労する。しかも、ムカデの足の説話にあるとおり、無意識の作業ほど下手に意識するとますます出来なくなるものだ。自分はいつもこいつと何を話していたんだっけ。

 

 そうして自縄自縛に一人固まる正太を気にした様子もなく、蓮乃はウサギを象ったポシェットから三つ折りの便せんを取り出した。表題には流麗な丸文字で『正太君へ』と書かれている。脳味噌を強制再起動し無限ループから抜け出した正太は、見覚えあるが思い出せない筆跡に内心首を傾げた。最近見たはずなんだがどうにも思い出せん。どーしたもんだろ。

 ポシェットの口からわずかに見えた蓮乃会話用ノートがふと目に入る。そう言えば会話用ノートの序文とタイトルも似たような文字だったな。加えて言うなら蓮乃が手紙を受け取るような相手というと正太の知る範囲では一人しかいない。

 

 「んっ!」

 

 手紙をいつもながらの自信満々したり顔で差し出す蓮乃。常の身長差に足すことの居間と庭の段差で、手紙はローマ式敬礼気味に突き出されている。手紙を受け取り開けば予想通り、その末尾に『向井睦美』の署名があった。しかして何故手紙。電話も電子メールも一般化して久しい現代では、手書きの手紙なんぞ趣味ぐらいでしか扱わない。それか、どうしても自分の言葉で伝えたいことがある場合ぐらいだ。

 昨日のことについてだろうか?それしかないだろう。軽くなった胃の腑が鉛の重さを思い出した。下っ腹を突き破って、地面に衝突しそうな胃袋の重量感を正太は歯を食いしばって堪える。

 蓮乃の前でこれ以上無様を見せたくはない。昨日の事だけで十分以上だ。正太は無理矢理に表情筋を引き絞り、石仏めいた仏頂面で固定する。常の顔に見せかけられるかわからんが、泣きべそかいた残念面よりはマシだろう。

 正太は沈み込む臓腑に浮力を足すべく深呼吸をすると、意を決して手紙を開いた。

 

 

 

 

 

 

 『拝啓 宇城正太様

 

 どうもこんにちは。本当なら私の口から直接伝えるべきですが、仕事と役所の関係で会えるのはしばらく後になってしまうので、こうして手紙という形で失礼します。

 まず正太君にありがとうを言わせてください。あなたが蓮乃の側にいてくれたおかげで、蓮乃は寂しい思いをせずに素敵な時間を沢山過ごすことができました。あの子のノートを読むだけで、正太君と清子ちゃんと出会ってからがどれだけ楽しい日々だったのか、蓮乃が笑顔で説明してくれるようでした。

 それと、私の意図しない所で蓮乃が正太君のお家に何度もお邪魔してしまったことは後ほど改めて謝らせていただきます。勝手にやってしまったことだけれども、そのことで蓮乃を責めないでやってください。あの子が一人で過ごす時間をどれだけ辛く感じていたか、そして正太君のお家で三人でいる時間をどれだけ待ち遠しく思っていたか、それに気づけなかった私に責任はあります。

 

 昨日、正太君がお家に帰った後、ご両親からお話を伺いました。正太君は清子ちゃんの忠告を振り切って、自分のやることを間違いと考えて、それでも蓮乃の涙に答えてくれたのですね。

 改めてお礼を言わせてください。あなたのお陰で私は蓮乃と決定的な仲違いをすることなく、自分の間違いに気がつくことが出来ました。先にも書いたように蓮乃の助けを呼ぶ声に応じてくれたのも、私の剣幕に怯え竦んでしまった蓮乃の側にいてくれたのも正太君でした。

 私たち親子の今があるのは間違いなく正太君のお陰です。あなたが身を挺してくれたから、私は自分のやったことから目を背けて母親であることから逃げ出さずに済みました。あなたが手を差し伸べてくれたから、蓮乃は母親に失望して心を閉ざさずに済みました。

 その行動が危険をはらんでいたとしても、あなたの行動無しに今を迎えられることはありませんでした。自分のやったことを間違いの一言で切り捨てないでください。決して蓮乃を放り出していたような私が言えることではないけれど。

 

 最後にもう一度。あなたのお陰で、蓮乃も私も親子であり続けることができました。

 本当にありがとうございました。

 

 敬具 向井睦美』

 

 

 

 

 

 

 手紙の文字が油性のインクで書かれていたのが幸いだった。そうであったら文章はあっという間に塗れて滲んで解読不能になっていただろう。しかし滲みで読めなくなる前に雫で手紙に大穴が開いてしまいそうだ。

 それでも正太は震える両手から手紙を離せなかった。手紙を開く両手の間にぽたりぽたりと繰り返し水滴が落ちる。どれだけ強く歯を食いしばっても、喉から漏れる嗚咽を止めることが出来ない。どれだけ強く瞼をつむっても、両目から漏れる涙滴を止めることも出来ない。荒い呼吸とともに繰り返し息をのみ、頬を伝う涙とともに洟が顎から滴る。

 

 前の一件ではヒーロー気取って自分がやらかしたことで色んな人に迷惑をかけた。だから非難されるのも否定されるのも当然だった。そんな自分をあの子も家族も許してくれた。自分は相手にも家族にも恵まれた。

 でも、許してもらいたかったんじゃない。もちろん責めてもらいたかったんでもない。あの時、自分は助けようとしたんだ。あの子の助けになりたかったんだ。

 だから「ありがとう」って、ずっと言って欲しかったんだ。ずっとその言葉を求めていた。迷惑をかけたんじゃなくて救いになったと知りたかった。

 

 今、ようやく判った。

 今、その言葉を貰えたから。

 今、二人の助けになれたとわかったから。

 

 止めどなく溢れる涙とともに声に出来ない言葉が胸の内から吹き出していく。正太はそれを堪えることなく、泣き声として吐き出した。洟も涙も声も溢れ出るまま、今までの鬱屈全てを押し流そうと泣きじゃくる。

 

 「…………っっっっっ!!!?」

 

 当然、それを見る蓮乃は困惑を超えて恐慌の状態にあった。何せ手紙を見せたら兄ちゃんが大声上げて大泣きし始めたのだ。なんかおかしな事やっちゃったのだろうか、それともお母さんが手紙で酷いことを言ったのだろうか。もう何がなんだかわからない。

 グチャグチャに歪んだ思考と同じく、顔をクシャクシャに歪めた蓮乃の両目に涙の玉が膨らむ。どうやら正太の慟哭が空気感染したらしく、我慢の間もなく柔らかな頬を涙の粒が滴り落ちた。

 

 息を飲むように抑えたすすり泣きと遠慮なく声を上げる号泣の二重奏が、一〇四号室の居間から響き出す。正太の溜めに溜めた鬱積はまだまだ備蓄がたっぷりある。涙と共に現在大量放出中だが、終わりは喉と涙腺が枯れた後だろう。それにつられる蓮乃にも今しばらく泣きやむ様子はなさそうだ。

 

 葉陰に隠れた庭のカタツムリだけが二人の演奏を聴いていた。


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