二人の話   作:属物

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第八話、親子の話(その五)

 静寂の満ちた宇城家の居間にはコチリコチリと壁掛け時計の音だけが響いている。常ならば一家団らんの食事時ではあるが、食卓には暖かな夕食の雰囲気は微塵もない。何せ、これから始まるのは和やかな夕餉ではなく、厳しい厳しいお説教の時間なのだ。

 正太の胃の腑の底がジグジグと不安と胃酸で焼けている。腹に豆乳を入れて尚この痛みだ。空きっ腹だったら泣きたくなるくらい痛かっただろう。だからといって泣きたい心地に違いはないが。

 様子を伺うように視線をあげれば、むっつりと顔を堅くした父が食卓の真向かいに見える。その隣には心配げな色味を帯びた様相の母が座る。さらに正太の隣には強ばった表情に苛立ちを混ぜた清子が腰を下ろしている。全員の前には湯気を上げるお茶入りの湯飲みが置かれているのに、体感温度は下がる一方だ。

 しんと張りつめた空気の中、骨ばった顔をさらに厳めしくすると、父は重々しく口を開いた。

 

 「正太、今日お前が何をしたかわかっているか?」

 

 「はい」

 

 自分がやらかしたことについては一応理解しているつもりだ。「つもり」でしかないかもしれないが、少なくとも清子に叩きつけられた言葉くらいは覚えている。

 

 「なら、何をしたのか自分の口で話しなさい」

 

 「はい。ええっと、隣の向井さんの蓮乃ちゃんが我が家にやってきて……」

 

 正太は今日の騒動を一つ一つ解きほぐしていく。

 事の始まりは蓮乃の亡命からだった。事情を聞いた清子に責められ、それでも蓮乃を見捨てられず突撃隣の家庭事情をやらかした。加えて言うなら、その裏にヒーロー気取りを隠した上でなんの策なく首をねじ込んだ。

 向井家では蓮乃が割った窓の補修の後、帰宅後の睦美さん相手に話し合いと言う名の神経ヤスリ掛け作業に精を出し、終いには怒髪天をついた睦美さんからフック気味の掌底をたたき込まれた。そこでようやく気づいた自分が猛省して土下座して、親子二人の絆のおかげで家庭崩壊に至ることなく話に区切りがついたのだ。

 話している正太の顔から徐々に血の気が引いて、顔色に青が加えられていく。さらに色が引かれて白になるまでそう時間はかからないだろう。最後には土気色が追加されるに違いない。実際、話し終えた正太の顔色は健康的という言葉から遠く離れた色合いだった。

 

 「……大体、こんなところ、です」

 

 「何が悪かったのか、わかっているか?」

 

 絞り出した締めの言葉に、父からの質問が間髪入れずに叩きつけられる。空気の重圧に押しつぶされて半ば下を向いた顔から、正太はもそもそと歯切れ悪く答えた。

 

 「何の考えもなく、無関係のお隣の家庭の事情に首を突っ込んだことです」

 

 「確かにそれもある。だが、それだけか?」

 

 どうやら父のお気に召す答えではないらしい。だが脳味噌の引き出しを適当に開いてみたものの、適当と思える答えが見つかる様子はない。心の棚を総ざらいして見れば何かしら出てくるかもしれないが、それより今の父を待たせる方が解答できないよりマズそうだ。

 

 「すみません。それ以上は思いつかないです」

 

 結局、正太は真っ正面から謝ることにした。亀が首をすくめるようにして父の顔を見ながら頭を下げる。どんな叱責がやってくるのか。それとも母の拳骨か。しかしその頭上に落とされたのは、叱責より拳骨より衝撃的な言葉だった。

 

 「正直に言えば、正太がしようとしたこと、そのものについては叱るつもりはない。むしろ誉めるつもりだ」

 

 「へ?」

 

 思いもかけない台詞に正太の口から感嘆符がこぼれた。ちゃんと耳を傾けろと父はカミソリの視線で一睨みする。慌てて間の抜けた顔を引き締める正太。ばつ悪げに周囲に視線を泳がせると母の顔が視界に入った。事前に言い含められていたのかその顔には驚きの色はない。代わりに苦笑に似た柔らかい呆れが浮かんでいる。さらに居心地悪く正太は視線をテーブルの木目にずらす。

 そのせいで正太の目に入らなかったが、隣の清子も浮かべるのは驚愕の表情だけではなかった。清子の表情には深く沈む重い色があるだけだ。自分の言葉が遠回しに非難されているようなものだ。心地いいとは言い難いだろう。

 

 「他人の家庭の事情が原因とは言え、泣いて助けを求めた子供を助けようとすることは誉めこそすれど叱るような事ではない」

 

 そこで言葉を切って母が淹れた煎茶を口に含むと、父は口から太い息を吐いた。

 

 「助けてほしいからこそ蓮乃ちゃんは我が家にやってきた。そこで突き放さず最後までつきあって見せたことは素晴らしいと思うぞ」

 

 父は張った頬骨の上の口角を少し上げた。分かりづらいことこの上ないが、どうやら表情を緩めたらしい。

 

 「実際、あの後の向井さんとの話し合いで正太を擁護する言葉がいくつもあった。蓮乃ちゃんからも『兄ちゃんは悪いことしてない』『兄ちゃんを怒らないで』って書いてあったな」

 

 父から知らされた事実に正太の頭がさらに下がって、顔はテーブルと直面する。父としてはフォローのつもりだったのかもしれないが、正太としては追加でベコベコに凹まされた心境であった。助けようとした人に助けられている自分が情けなかった。痛みを堪えるように奥歯を強く噛みしめる。否、確かに正太は痛みを堪えている。恥の痛み、惨めさの痛み、情けなさの痛みに。

 

 「しかし、さっきお前自身で口にしたようにやり口に大きな問題があった。一つは『考えなしに行動したこと』だ」

 

 「はい」

 

 そこに休憩時間は終わりだと言わんばかりに、父からのお叱りの言葉がストレートに投げつけられた。それもアバラをへし折る一五〇km越えのデッドボールだ。正太自身もわかっていることだけになおのこと胸に突き刺さる。痛みの追加で胸が一杯になったかのようだ。

 

 「清子の言葉を振り切って蓮乃ちゃんを理由に向井さんの家庭へ乗り込んだ。このとき、お前はどうやって向井さんを説得するか考えていたのか?」

 

 「……いいえ」

 

 事実、そのときの自分は考えなしだった。言い訳のしようもない。正太は噛めない臍を噛み潰す心境で歯を食いしばる。考えていたのは、考えなしの即興でどうやって説得するかだけだった。

 

 「先に言ったようにお前の行動自体にケチを付けるつもりはない。蓮乃ちゃんを救おうと動いたことは立派だった。だが、だったら最低限『どう救うか』を考えるべきだった」

 

 「はい」

 

 そのことは嫌と言うほどわかっている。だが自分でそう言うのと他人からそれを言われるのには雲泥の差があった。文字通りの第三者視点は自分がやらかした事の次第をもう一度反芻させてくれる。口中に胃液と記憶の酸っぱい味が満ちた。

 

 「そしてもう一つは『清子の言葉を聞かずに一人で突っ走った』ことだ」

 

 完全に不意打ちの一言に清子は思わず顔を上げた。父は説教に力を込めるあまり、自分が何を口にしているか判らなくなってるんじゃないかと失礼な考えが脳裏を過ぎる。

 相応の叱咤はなされたとは言え、父は蓮乃ちゃんを救おうとした兄の行動を賞賛した。逆を言うなら、兄の行動を止めようとした清子の言葉を非難したようなものだ。なのにその言葉を正太を叱責する理由にする。これは明らかに矛盾してはいないだろうか。

 しかし父の目には熱狂の色はない。刃物のように鋭くはあるものの、その視線は至って落ち着いた温度だ。少なくとも平常の体でそのことを口にしていることは間違いない。ならば何故?

 頭が疑問符で埋め尽くされた清子を一瞥し、父は言葉を続けた。

 

 「清子が何と言って制止しようとしたか覚えているか?」

 

 「……『自分たちの手に負える問題じゃない。できる人に連絡すべきだ』」

 

 正太は脳内の引き出しを漁って求めるものを引きずり出した。父は口角を少し上げて頷く。どうやら今回は正解だったらしい。その言葉を聴いて疑問符が感嘆符に変わったのか、隣の清子の顔色が混乱と疑問から驚愕と理解に一変した。

 

 「そうだ。事実、最後は私と母さんが出張ることになった。お前一人で全てができた訳じゃない」

 

 それでもいいところまでやってみせたみたいだがなと、父は慰めの一言を付け加える。が、それでも正太の堅い表情を緩められはしないようで、素焼きめいたひび割れの向こうには父の言葉に打ちのめされた心境が透けて見えている。

 

 「例えばだ。今回結果的にそうなったように、清子に頼んで父さん母さんへの事情の説明と各所への連絡をしてもらってからでも、遅くはなかった。他にも向井さんを担当しているだろう、区の職員の方の連絡先を蓮乃ちゃんから聞き出すという方法もあった」

 

 正太は視線を落とし、父から投げつけられる説教を頭頂部で受け止める。説教を聞く体勢としてはあまりよろしい代物ではないが、父はあまり気にはしていない。大事なのは体の姿勢ではなく心の姿勢だ。今までの反応から頭を下げてやり過ごしている訳ではないとわかっている。

 

 「無論、今言っていることは後知恵でしかない。しかし、清子の言葉を元に大人を頼ることを選択できれば、十分思いつけただろうことには間違いない」

 

 「はい」

 

 苦痛を堪える顔で正太は静かに首肯した。父の言葉に異論はない。自分自身でもやり口のまずさは理解していた。しかしどうすればいいかは結局わからずに、出たとこ勝負でチップを賭けた。

 清子の言葉の正しさも頭では理解できていた。だがすべきと思うことを非難された感情的な反発もあり、前と同じ事をやらかしているという引け目もあり、清子の話を省みて柔軟に受け入れるということはできてなかった。

 

 こうして今日を振り返りながら改めて思う。本当に清子の言うとおり、自分の手に負える問題では無かった。抱えきれなくなった自分が無惨で無情な結果になったところで、自業自得もいいところだろう。

 だが、そのせいで向井家親子の間に致命的な亀裂が入っていたとしたら。一つ二つ間違えただけでそうなっていただろう。想像するだに背筋が冷える。それは決してあり得ない想像ではなかった。むしろ十分以上に可能性のある「もしも」だったのだ。

 

 目を伏せて静かに内省する正太を見ながら、父はもう一度煎茶で口を湿らせると視線を正太の隣へと向けた。当然そこにいるのは清子だ。急に見つめられて居心地悪そうにする清子を見つめたまま父は口を開いた。

 

 「次に清子。お前も一つ悪かった点がある。わかるか?」

 

 「っ!……蓮乃ちゃんを見捨てるような話をしたことです」

 

 唐突に矛先が当事者である兄から自分へと移ったことに目を丸くする清子。それでも絞り出すように父へと答えを返す。自分が説教の対象になるとは考えていなかったが、考えてみれば何もおかしくはない。父が蓮乃ちゃんを救おうとした兄の動機と行動を賞賛するならば、それを非難した自分は叱責されるのは当然だ。

 

 「それは違うな」

 

 「え?」

 

 だがその当然はあっさりと否定された。清子三度目の驚愕。説教が始まってから驚きっぱなしである。

 

 「清子は家のことを考えてそう口にしたんだろう?賞賛はできないが、少なくともそのことを非難をするつもりもない」

 

 引き吊った表情で頬をひくつかせる清子。数十の表情が同じ顔面で綱引きをしている気分だ。もうどういう顔をすればいいのかわからない。自分のやったことを否定されて、直接の当事者でもないのにお説教が始まって、最後にどんでん返しと言わんばかりに自分の言動の否定をもう一度否定される。正太よりいくらか容量が大きく要領がよろしい清子でも流石に脳味噌がパンク気味だ。

 

 「清子の判断も間違ってはいなかったが、伝え方を間違っていた。確かに正太が以前の二の舞をやらかそうとしているように見えただろう。だが、誰であれバカだなんだと言われれば反感を覚えるものだぞ」

 

 清子の心情を斟酌したのか、はたまた混乱と困惑で張りつめた表情に気がついたのか、父はその詳細を言葉にした。

 表情筋の綱引きがゆるみ、清子の表情に次第に納得の色が染みていく。思い返してみれば自分も自分で随分と感情的に兄とやり合っていた。罵声レベルの非難を大声でぶつけた覚えもある。それだけ言われて反発を覚えないとは考え難い。

 もっとも以前の兄であれば、一方的に言われるがままにサンドバッグだったかもしれないが。清子の脳裏にかつての正太が浮かぶ。布団にくるまり肩を震わす、いじめに心を折られた兄の姿だ。そう考えると蓮乃ちゃんと関わって随分と兄も変わったものだ。いや、むしろいじめ以前の元々に戻ったのかもしれない。そう言えば記憶にある幼い兄はよく快活に笑っていた。

 

 「正太に必要だったのは目標を立てておくことと、人の話を聞いて周囲の協力を得ること。清子に必要だったのは感情的にならずに、話を聞かせることだった」

 

 煎茶の残りを一気にあおった父は長い息を吐くと本日の説教のまとめに入った。

 

 「まとめれば、二人とも動機と行動は間違っていなかったが、やり口を間違ったということだ。次はよくよく考えて同じ失敗はするなよ」

 

 「「はい」」

 

 納得の表情をしている兄妹の顔を眺め、これでお説教はお終いと父は湯飲み片手に静かに立ち上がる。台所に湯飲みを洗いにいく父の背中を見て、隣で座っていた母は安堵の表情を浮かべた。

 少なくとも正太は気がついていないようだが、宇城家には「子供を叱る際に一方が感情的になったらもう一方が静める」という不文律がある。感情的に叱ってしまえば子供は怯えて竦むだけ。親の機嫌をとろうと手一杯になって、反省も学習もできなくなる。だから、母の頭が煮えれば父が抑えに入り、父が腹を立てれば母が宥めにかかる。

 

 本日の正太のことを清子から聞いて、父は随分と不機嫌そうにしていた。自分の子供が問題を起こしたと聞いて楽しい気持ちになる親は少ない。ましてや正太は以前のいじめ前の前科がある。両親共にまたかと思う気持ちがなかったわけではない。

 それでも感情のままに怒鳴りつけてしまえば、前のいじめでただでさえ縮こまっている正太をさらに畏縮させるだけだ。幸い父は最初から最後まで理性的に叱ることができた。それに正太のやったことを是々非々と叱るだけに終わらせずにすんだ。そのせいで割を食った清子へのフォローも問題なくすませられた。

 

 母は改めて正太と清子を見る。二人とも頭ごなしに叱られた釈然としない悄然の顔ではなく、反省のこもった得心の表情をしている。説教をした意味は相応にあったということだろう。

 

 「あの、父さん。向井さんの方はどうなったの?」

 

 母の安心に気づく様子もなく堅い顔の正太は父へ質問を投げかける。流石に本日のやらかしもあって気まずい心境らしく、その視線は聞きづらそうに宙を泳いでいる。

 

 「ああ、向井さんとの話はまとまったからお前が気にしなくていい」

 

 しかし、にべもなく素っ気もなく父は話を切った。子供のやらかしを大人が後始末したその後に子供がしゃしゃり出るような事はない。

 

 「いや、でも、俺がやらかしちゃったことだから、なんかしら俺がなんかしらするべきじゃないかなって……」

 

 それでもと正太は食らいつく。正太としては自分と無関係の所で決着済みですと言われても、納得も承知も出来ようものではない。腹の底でジグジグ存在を主張する罪悪感の虫が収まらないのだ。

 

 「お前の謝罪が要るならそう言うし、そうだとしても謝罪以外は求めんよ。子供に責任はとれん」

 

 だが、そんな事情なんぞ父親が知ったことではない。ましてや子供に何をさせようと言うのか。大人と子供を分けるものは多々あるが、責任と義務はその内の二つだ。そして父である宇城明弘は大人であり、宇城正太は子供でしかない。言うとおり、子供に責任はとれない。

 父の言葉に無言でうつむく正太。その肩を軽くたたくと父は居間から退場した。母も食事の支度のために台所へと席を立つ。続けて清子も無言で居間を後にした。ただ一人食卓に残った正太は黙りでテーブルの年輪を見つめいた。しばらくの間、そうしていた。


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