二人の話   作:属物

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第八話、親子の話(その二)

 平手打ちを振り抜いた姿勢のまま、睦美の瞼に涙の大粒が膨れ上がる。それはたやすく表面張力の限界を超えると、重力に従って睦美の頬を滑り落ちた。感情もまた表面張力の限界を超えた睦美の荒い呼吸を聞きながら、正太はあまりの衝撃に硬直した仏頂面で脳細胞を高速空転させる。ひっぱたかれた拍子に脳味噌の回路が変な風につながったのか、脳髄は常の数百倍の速度で堂々巡りを繰り返し、表現不可能な量の感情が正太の顔面で飽和して青ざめた能面顔を作る。

 

 大人が泣く。

 正太にとってそれはあり得ない光景だった。無論、大人だからといって全員が全員とも社会人として振る舞うわけではないと頭ではわかっている。だが前のいじめの一件を通して正太の脳味噌には、穴だらけの錦の美旗をぶん回し楽しみ全部で他人を踏みにじる「身勝手な子供」と、筋道と戦略を立てて現実との折り合いをつけて問題を解決する「真っ当な大人」の姿が刻みつけられていた

 だから、正太が抱く大人へのイメージは、感情を露わにするような子供めいた姿を見せることはない。故に正太にとって大人とは「子供と違い理性と良識を常に体現し続ける存在」だった。泣きわめいて泣きじゃくるのは子供だけ。プライベートの中ならともかく、公の場や他人様の前で涙をこぼす「大人」はいない。そう思いこみ続けていた。

 

 だが今、目の前の大人は、蓮乃の母親は、向井睦美は、感情のままに涙をこぼしベソをかき頬を濡らしている。それを見た正太の脳内では、先の一撃に匹敵する衝撃が走り抜けた。睦美の平手打ちは物理的な衝撃だったが、睦美の涙は精神的に衝撃だった。

 当たり前の話、いやそれ以前の話だ。「大人」の前に、母親である前に、自分の目の前にいるのは一人の人間なのだ。逆鱗を逆撫でされて神経をヤスリ掛けされれば、苦痛も怒りも覚えるだろう。限界突破の睦美さんがそれを繰り返されればどうなるか想像もつこう。

 にもかかわらず、証拠も担保もなく無意識に「大人なら感情に支配されることはないだろう」と結論づけて自分は行動に移した。別の言い方をするならば「どれだけ傷に塩を刷り込もうとも、大人なら感情に振り回されることなく道理と理屈にかなった判断をするはず」という身勝手な子供の甘えきった妄念であるとも言える。

 甘いを通り越して糖蜜シロップ煮込みにアイシングと粉砂糖を振りかけた自分の思考に、正太は墓穴に入ってそのまま埋まりたくなった。きっと頭を抱えたならば、スポンジ生地めいてスカスカの脳味噌から、味覚が麻痺する甘さのサッカリン飽和水溶液がにじみ出るに違いない。

 

 そこまでわかるなら、なんでそんなバカなことを自分はしでかしたのか。そもそも自分は何をしたかったんだ?

 脳内で展開される無闇矢鱈な内省は哲学的な領域に入り込みつつあった。血流不足で白面になりつつあった青白い能面顔に正太は深呼吸して無理矢理酸素を送る。

 だがカラカラと音を立てて回る脳味噌は止まる様子を一向に見せてはくれない。自己嫌悪回路は暴走したまま崖に向かって一直線。自己嫌悪が自己批判を呼びよせて、自己中毒で自己破産しそうだ。実に自業自得な事故になるだろう。どーしたもんか。何にせよ、このままじゃまずい。落ち着け、落ち着くんだ。

 

 「お、落ち着いてください、自分も落ち着きますから!」

 

 「言いたい放題言ってふざけないで!あなたは……」

 

 一人上手に混乱する正太は、斜め上四五度な言動で暴走する自分と睦美を抑えようとする。だが、その正太の耳を絶叫じみた睦美の言葉が打ち据えた。

 それは感情のままに叫んだただの暴言だったのかもしれない。

 それは筋道の通らない支離滅裂な妄言だったのかもしれない。

 だが、それは確かに正太の自覚していなかった一面を正確に射抜いて見せた。

 

 「あなたはヒーローを気取りたいだけでしょう!!」

 

 一度目の平手打ちは正太の肉体に、二度目の涙は正太の精神に、三度目の言葉は正太の心髄に響いた。心臓を打ち抜かれた正太の胸中に自嘲を通り越した絶望混じりの諦観が浮かぶ。確かに仰るとおりだ。言い訳のしようもなかった。自分は、ヒーローのように睦美を論破して事態を解決することを無責任に求めていたのだ。

 暴走する自己嫌悪回路が決壊点を超え溢れ出す。正論唄ってヒーロー気取って、他人様いじめて追いつめて。自分は何をしたかったのだ。そうやって一方的に論破したら相手が泣いて非を認めるとでも?ましてや、言葉の暴力でぶん殴られて蓮乃に改めて母親として接してくれる保証がどこにあると?考えておかねばならないことだった。

 でも、自分は何も考えていなかった。コンチクショウ。やっぱり自分はどうしようもなくクソらしい。自分の有様を糾弾する現実と、目の前の睦美から視線を逸らす正太。

 偶然、その目にもう一度顔を上げた蓮乃の姿が目に入った。洟と涙をすすり上げ、睦美以上に泣きじゃくっている蓮乃の顔。縋ることのできる者のいない、怯え竦んだ子供の顔。

 

 ここにきた理由を思い出させるにはそれで十分だった。

 

 

 

 

 

 

 ゆっくりと息を吸い静かに長く吐き出す。一、二、三度。脳の髄まで酸素が染み込んだのを確認し、正太は脳味噌の歯車をかみ合わせた。雑な仕上がりのギアが、脳内で軋みの音をたてながら緩やかに回り出した。

 自分がクソであるかゴミであるかなどどうでもいい。なにが重要だ?何が肝要だ?必要なのは事態の解決だ。放っておけぬと啖呵を切って、清子の言葉を振り切ったのは蓮乃を助けるためだったはずだ。

 歯を食いしばり、絶望の淵から転落しそうな精神を土俵際で必死にこらえる。向井蓮乃の母親は向井睦美しかいない。蓮乃の人生に責任を負えるのも睦美しかいない。必要なのは論破でもなければ勝利でもない。親子の和解と関係の改善だ。

 なら必要なものは、すべきことは何だ。意を決して目を閉じた正太は静かに床に膝を突く。そしてそのまま倒れ込むように地面に両掌をつけた。「o」「r」「z」のアルファベット三文字で書いたような意気消沈そのものの姿だ。しかし正太の意志が崩れ落ちた訳ではない。それを示すように正太はもう一つの意味を込めて床に頭蓋をたたきつけた。日本全国共通の全面的伝統謝罪体勢、すなわち「土下座」である。

 

 「仰るとおりです。睦美さんがどんな苦労をされてきたか、どんな努力をされてきたか、自分は知りません。何より睦美さんと蓮乃ちゃんとの間で何があったか俺は何も知りません。ですから、何があったのかお話をしてください」

 

 勢いよく床にたたきつけた額が痺れるような痛みを訴える。さらに腹の底から情けなさと惨めさごたまぜになりながら沸き上がってくる。それをまとめて口の奥で噛み潰すと、苦虫より苦い味が口中に広がった。それでも正太は、フローリングに頭をすり付けて睦美の言葉を請い願う。

 何も知らなかった、何も考えていなかった。なら、知らなければならない。そして考えなければならない。そのためには、安いプライドなんかバナナと一緒に叩き売れ。それで答えが買えりゃ儲けものだ。話してもらわなきゃわからないし、伝えてくれなきゃ伝わらない。だから二人の話を聞かなきゃならない。

 

 「い……いきなり何!?貴方には関係のないことでしょう!話す事なんて一つもありません!」

 

 正太の土下座に不意をつかれたのか、睦美から吹き出す感情の鉄砲水が一瞬だけ勢いを減じた。次の瞬間にはその噴射圧力を取り戻すが、そこに機を見いだしたのかさらに正太は畳みかける。

 

 「その通りです。無関係な自分になんか話さなくてもかまいません。でも蓮乃ちゃんには、何があったか教えてあげてください」

 

 言葉を一度切ると同時にバネ仕掛けの勢いで顔を上げ、正太は睦美の目を直視する。その双眸に一切のブレはない。存在全部を叩き込まんばかりの視線に、狂乱していたはずの睦美が気圧された。睦美の感情の濁流は正太の勢いに海嘯となって押し返されている。

 

 「……っ!」

 

 「それを一番知りたい人は、一番知らなきゃいけない人は蓮乃ちゃんなんです。だから、貴方にどんなことがあったのか、どんなことをされてきたのか、どんなことを考えてきたのか。蓮乃ちゃんに話して書いて伝えてあげてください!」

 

 自分が事実を知ろうと知るまいとそこに意味はない。今の目的は二人の和解だ。ならば何をすべきか為すべきかは、もうわかっている。もう一度、床と頭蓋の間で鈍い音が響いた。頭を床に叩きつけた姿勢のまま正太は強く強く請い願う。

 

 「お願いします!!」

 

 背中が見える角度で床板に額を押しつける正太の背に、小さな影がかかる。影の主は部屋の壁際で、震えて泣いて顔を伏せて目を瞑っていたはずの蓮乃だった。それを示すように正太と睦美の二人を見やる目は、腫れぼったく赤に染まっている。

 にも関わらず、なぜか正太の側にやってきた蓮乃はなにか迷うする様子を見せつつも、おっかなびっくり正太の凸凹の多いに背筋そっと手を当てる。それからそのまま、おそるおそるな様子ではあるが、心配混じりの優しい手つきで正太の背中をさすり始めた。顔には心配と不安と怯えを鍋に入れてかき混ぜた表情を浮かべつつ、繰り返し繰り返し正太の背中を撫でさする。

 

 「蓮乃……?」

 

 睦美からの声で、びくりと蓮乃の肩に一瞬震えが走った。ちらりちらりと様子を伺うように正太の背中と睦美の顔を視線が繰り返し往復する。それでも蓮乃は手を止めはしない。泣きじゃくる幼子をあやす母のように……とはいかずとも、生まれて間もない弟妹を不器用に泣きやませようとする、幼い姉のように蓮乃は正太の背を撫で続ける。

 

 生まれつきの障害のある蓮乃には、他人が口から発する言葉を聞き取ることができない。全部が全部、知りもしない外国語のように、禽獣の吠え声のように、ただの音の連なりとしてしか理解できないのだ。だから当然、蓮乃は正太と睦美の話を全く理解できていなかった。わかったことはせいぜいが「二人が怒鳴り合っていたこと」「母親が正太の顔をひっぱたいたこと」そして「正太が膝を突き床に頭をすり付けていること」くらいであった。

 だからだろう、蓮乃の目には「よくわからないけど兄ちゃんがお母さんにひっ叩かれて倒れた」ように見えていた。それを見た蓮乃は、とにかく兄ちゃんが大変だと心配に突き動かされるように近寄ったのだ。意図したことと言うより思わずの行動であり、近寄ってどうしようとは考えていなかった。正太が気がかりなのは事実だが、どうすればいいのかてんでわからなかった。

 だからずっと昔にここじゃない所にいたとき、おなかが痛かったときに母がやってくれたように、正太の背中を撫でさすることにしたのだ。きっと痛いだろうし辛いだろうし苦しいだろう。そう思うから、蓮乃は手のひらを何度も往復させ時折ぽんぽんと軽く叩く。何度も、何度も、繰り返し。

 

 その光景を睦美は理解不能の体で呆然と眺める。蓮乃は事の当事者で且つ話の中心人物であったが、同時に場の傍観者でしかなかった。睦美もまた蓮乃を理由に感情を炸裂させつつも、蓮乃自身のことは半ば意識から締め出していた。

 そこで唐突に蓮乃が舞台に現れた挙げ句、心配顔で正太を撫でさすっている。正太相手に感情を炸裂させたが故に、睦美の心はずいぶん脆くなっていた。そこに正太の土下座でタガが緩められて、止めにこれだ。もはや何がなんだかわからないと書かれた顔で二人を見ている。

 僅かに顔を上げた正太にもその表情は見て取れた。後一押し、後一押しあれば終わるだろう。ラクダの背には十分に荷物が乗っている。背骨をへし折るには追加の藁一本があればいい。常に機能停止しているような正太の直感も囁いている。潮目が変わった。ここが天王山、勝負所、土俵際。何でもいい、とにかく「ここ」だ。ここを逃せば先はない。もう一度、勢いよく額を床に叩きつけると正太は繰り返し請い願った。

 

 「蓮乃ちゃんに話をしてあげてください!お願いします!」

 

 しかし、僅かに視線がぶれるだけで睦美に変化は見られない。何にだって人間は慣れる。衝撃的であればあるほど陳腐化もまた早かった。一発ネタで食っていける芸人は少ないのだ。実際、土下座はもう無意味だろう。後一押しだというのに、その一押しが足らない。

 何か、何か無いのか?睦美さんを説得できる、いや訴えかけるものなら何でもいい!正太は必死で脳味噌をかき回すものの、少ない知恵を絞り尽くしてしまったのか、滓のような発想しか出てこない。

 もう手詰まりなのか?ここで終わりなのか?粘性の絶望が正太の胸中にひたひたと迫る。しかし、最後の藁は意外なところから降ってきた。

 

 「なーも……」

 

 それは蓮乃の声だった。お母さん、兄ちゃんをいじめないで。事情も状況も何一つわからない。だからこそ、何のてらいもない純粋な心配の声。その声で睦美の表情から色が消えた。以前の感情のマグマを覆った能面めいた無表情ではない。魂が抜けたように喜怒哀楽の全部が無色だ。その虚脱しきった透明な顔に、一滴の涙が流れ落ちる。

 

 ――私は何をしているんだろう。

 

 自分の子供のために余所の子供が土下座して懇願して、自分の子供は心配顔でその子に寄り添っている。一方の自分は、自分の子供を閉じこめた挙げ句、余所の子供に感情のままに怒鳴り散らしてわめき散らして、あまつさえ手を上げている。私はいったい何をしているんだろう。いったい何がしたかったんだろう。

 激情の熱量が抜けきった睦美の心中に、深い深い後悔が浮かび上がる。胸の奥から沸き上がる情動に従って睦美は顔を覆い肩を震わせた。


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