二人の話   作:属物

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第八話、親子の話(その一)

 時刻は午後五時半過ぎ。段ボールと油紙で不器用に繕った割れ窓の向こうでは、未だに勢いを弱めることなく雨が降り注いでいる。その反対側の居間で”宇城正太”と”向井蓮乃”の二人が固唾を飲んで一〇四号室の扉を見つめる。扉の錠が開く音が聞こえたのだ。

 

 ここ一〇四号室の住人は娘の蓮乃と母親の”向井睦美”の二人だけ。そして鍵を持っているのは睦美ただ一人だ。それ以前に蓮乃は正太の隣にいる。なら扉の向こうにいるのは睦美にほかならない。蓮乃をこの一〇四号室に軟禁したその人に。そして正太は睦美を何とかして説得しなければならない。そのつもりでこの部屋に来たのだ。しかし、どうすればいいのかは未だ皆目見当もついていない。行き当たりばったりでよい結果が出た試しがないことは以前の一件でよく知っている。それでもやらねばならない。

 胸の内で気合いを入れ直し、正太は深く息を吸って吐く。もう一度。だが、腹の底で粘り着く泥のような不安は吐き出せそうにない。その不安が伝わったのか正太を見る蓮乃の表情に暗い色がよぎった。安心させようと正太は下手な笑顔を浮かべて空元気で頷いてみせる。形だけでも多少は効果があったのか、蓮乃の顔に浮かぶ心配の色味が薄れた。正太の下っ腹に凝った不安の泥も幾らか薄まる。

 

 鍵でもしまっていたのか、十秒ほどの間の後にドアノブが回った。立て付けが悪いらしく悲鳴を上げながら扉が開く。開いた扉の向こうに見える姿は、予想通りに向井睦美その人だ。見覚えのあるスーツ姿に記憶通りのパンプス。

 しかし、その顔は正太の記憶よりも格段に堅く暗い色合いをしている。見た覚えのない表情ではあるが、正太にさほどの驚きは無かった。予想通りとは言わないが、ある程度の想像はできたからだ。数日前の買い物帰りの様や、蓮乃から聞いた尋常でない行動、なにより娘である蓮乃を軟禁したという事実。これだけのことがあって、平然とした顔をしていたらそちらの方が格段に怖い。

 睦美はふと俯き気味の顔を上げ、居間の様子を眺めると繰り返し目を瞬かせた。本来は蓮乃一人で居るべき場所に、余計な正太が追加されている。その上、焦点を遠ざけてみれば居間の窓にはどでかい穴とそれをつたなく塞いだ跡が見える。これで驚くなといわれても無理な話だ。おかげで重苦しい雰囲気も薄れたようで、その顔には鳩が豆鉄砲で狙撃されたような表情が浮かんでいた。不意を食らってきょとんと呆けた顔は、天真爛漫天衣無縫ないつもの蓮乃とよく似ていて、やはり親子であるのが見て取れる。

 

 だが、不意打ちは長くは続かない。数秒もしない内に睦美の表情の温度が急降下し、纏う雰囲気はぐつぐつと煮え立ち始める。居間の空気が張りつめて肌が粟立つ。

 このままいけば大爆発で先日の二の舞だ。正太は以前の轍を踏む覚悟をしてきたが、だからといって黙って同じミスを繰り返す趣味はない。しかしながら、現時点の睦美は危険物第五類と第三類を掛け合わせたような状態である。つまり衝撃を与えれば即点火、火を消そうと水で冷ませばなおのこと燃え上がるのだ。これが甘酸っぱい恋なら少女小説の一つにもなりそうなものだが、現実の味わいは遙かに辛酸っぱいトムヤンクンだ。それはそれで味があるのだが、お子さま味覚の正太には少々早い。

 

 ならば対策は一つ、主導権をこちらで握るのだ。正太は小さく息を吸って発するべき言葉を選ぶ。主導権を握られて振り回される役柄ではあるが、妹である”宇城清子”との口喧嘩でその重要性は嫌というほど学ばされた。実際にもう嫌だ主導権よこせといったが聞いてもらえず、徹底的な口撃でぐうの音も出ないほど、けちょんけちょんにされた記憶もある。

 会話の主導権を握られて一方的にまくし立てられれば、正太の力量ではまともな反論もできずに沈黙せざるを得ない。次から次へと押し立てられる正論の前に、まな板上の鯉よろしく口をぱくつかせて喘ぎながら三枚おろしになるのを待つばかり。たとえ後々で理論の穴を見つけても負け犬の遠吠えと同じ。口喧嘩で負けた後では何の意味もないのだ。

 そして主導権をとるために必要なのはとにかく先手をとること。正太はそう理解している。故に言葉のイクサはアイサツの段階から始まっているのだ。正太は睦美に先んじて頭を下げた。

 

 「こ、こんにちは。ご無沙汰しています」

 

 「こんにちは……どうして正太君が家にいるんですか?」

 

 まずは軽いジャブの応酬から。一見正太が先手をとった上、睦美は質問を放って相手に主導権を譲ったように見える。だがこの段階で彼我の技量差は如実に現れていた。

 

 「えっとですね」

 

 「まさか家の蓮乃がまたご迷惑をおかけしましたか?窓の穴はそれですか?」

 

 容易く誘いにのってしまい返答に余計な時間を回す正太。その隙をつき睦美は正太の返答を待たずに質問の速射をかける。あえて質問を投げかけることで相手の行動を封じる睦美の巧打が光る。睦美がポイントを先取した。

 

 「あのその、えっと」

 

 「ガラスの欠片も庭に飛んでいるし、たぶん後ろの窓ガラスも蓮乃が割ったものでしょう。迷惑をおかけしたようで申し訳ありません」

 

 当初の想定に反して正太は完全に飲まれつつあった。仮にも一児の母として社会の荒波に洗われてきた身、多少覚悟を決めたとはいえ半分程度の年齢の子供に負けるはずもなかったのか。ましてやコミュ障気味の正太が十分な準備もせず挑んだとくれば、勝率はアマガエルがハブに喧嘩を売るより低くなるのは確かだろう。意外と冷静なんだなと、半ば現実逃避の思考をとばす正太。既にこの時点で負けている。

 だがそれでも引くわけには行かない。正太は丹田に力を込めて雨雲の向こうへ飛び去ろうとする正気を力一杯引き戻す。清子の正論相手に啖呵切って飛び出してきたのだ。口にした言葉の責任は取らねばならない。

 

 「蓮乃には私から必要な躾をしておきますので、正太君はお家に帰ってかまいません」

 

 「いえ、その、そーいう訳にはいかないんです」

 

 それに鈍い正太でも睦美の様子にいい加減気づく。これは冷静と言わない。「嵐の前の静けさ」や「津波前の引き潮」と表される状態だ。つい先日も味わったばかりだからよく覚えている。睦美の言葉を鵜呑みにして言われるがままに帰宅すれば蓮乃がどんな目に遭うことやら。先日までが軟禁ならば、本日からは硬禁もとい拘禁となるに違いない。

 口にした言葉には責任が伴う。それに言葉の裏側を読みとれるほど、自分の頭は良くない。だから正太は言葉をそのまま信じるべきだと考えているが、今日ばかりはその「べき」をべきっとへし折るべきである。

 下らん冗句で無理矢理神経を鎮めると、正太はケツの穴を引き締めて口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 緊張と不安で跳ね踊る心臓が、正太の胸の中で一六ビートを刻んでいる。耳の奥で轟々と響く血流の音は、速すぎる心拍で一連なりのメロディに聞こえる。緊張由来の唾液不足で粘つく口を無理矢理回し、正太は睦美に向けて蓮乃の苦境と苦痛を訴えた。

 

 「もうご存じだとは思いますが、蓮乃ちゃんは我が家の一〇三号室に『逃げ込んで』きました。雨でびしょ濡れの青ざめた顔で、素足の裏にガラスの欠片で切り傷をつくって。もう耐えられないと我が家に逃げ込んできたんです」

 

 「それは我が家の話です。正太君には何の関係もありません」

 

 だが睦美の返答にはにべも素っ気もない。あるのは、冷静な声音の後ろに隠れた煮えたぎる感情の渦だ。その証拠に睦美の声のオクターブが一つあがった。つまり導火線に火がついたということだ。小説か映画で言うならばタイマーのカウントが始まったところだろう。さあ正念場の大一番だ。丹田の底が煮えたぎる。冷たい汗が正太のこめかみを伝った。

 

 「いいえ、無関係ではないんです。知らなかったとは言え、蓮乃ちゃんを買い物に連れだしたのは俺です。そもそも俺は蓮乃ちゃんが我が家に遊びに来ることを止めもしませんでした。なにより、蓮乃ちゃんは我が家に逃げ込んできました。だから……」

 

 「だからなんですか」

 

 正太は小さく息をのんだ。導火線が縮むのがわかる。整った能面の下では爆発寸前のマグマ溜まりが煮えたぎっているのだろう。起爆までのカウントが始まった。睦美の焦熱を感じ取ったのか、壁際で縮こまった蓮乃からの怯えた視線が二人の間を揺れ動く。

 

 「俺は無関係ではありません。ここにいるだけの理由と関係があります」

 

 「家の蓮乃が宇城君のお宅にご迷惑をかけたことは理解しています。けれども蓮乃のことは我が家のことです。改めて言います。宇城君とは無関係です」

 

 睦美は正太の反論を即座に切って捨てる。関わりたい正太と関わらせる気もない睦美。話は平行線を突っ走っている。

 だが、それでも。腹の底に力を込めて正太は急ハンドルを切った。ここで終わりにしてしまうなら何のために清子に啖呵を切ったのか。覚悟を決めて唾を吐いたのだ。だからそれを飲まねばなるまい。それ以前に蓮乃を見捨てるようならば両親に顔向けなんかできやしないだろう。

 

 「俺も改めて言います、関係はあります。少なくとも俺たちに蓮乃ちゃんが助けを求めてきたのは事実です。頼ってきた子供を見放すわけには行きません」

 

 「……あなたがそうやって甘やかすから蓮乃が勝手をするんでしょう?」

 

 睦美の口調が色合いを変えた。導火線より雷管に火が移ったのだ。睦美のまとう空気が引火性を帯びる。正太を睨む視線だけで焼き豚が仕上がりそうだ。焼けるような雰囲気と辛い現実から目を背けるように、視線の端で蓮乃が顔を伏せる。

 

 「俺だってそうですけど、蓮乃ちゃんはまだ子供なんです。年を考えれば人に甘えたがってもなにも不思議ではありません。甘やかしていると睦美さんは言いますが、決して無茶な甘え方も道理にかなわない我が儘もさせてません。必要な分、必要なだけさせているつもりです!」

 

 正太は未だ気がついていない。自分が口にする言葉の意味を、余所の子供が他人の親に子育てについて説教するという異常を。いや気づいていないのではなく正太は意図的に気づかない。

 なぜなら、そうしなければ足を止めた自転車よろしく倒れてしまうからだ。頭の中を興奮と熱狂で満たして初めて、正太は怒れる睦美の前になんとか立っていられる。もしも氷水でもぶちまけて頭を覚ましたならば、コミュ障気味の正太なんぞ茶漬けにされた煎餅よりもたやすく押し潰れてしまうに違いない。だから自分の言葉に酔うことで恐怖を意識の向こうに押しやって、泥酔気味の正太はさらに熱を帯びた声を連ねるのだ。

 マイクとスピーカーの起こすハウリングめいて、自滅的なフィードバックループは加速していく。何かの異常を感じ取ったのか、蓮乃は不安げな顔を持ち上げた。視線の先の正太は、赤く着色された焼豚よろしく顔を真っ赤に染めて血圧を上げ続けている。

 

 「それに、誰だって家の中に閉じこめられ続ければ、逃げ出したくなるものでしょう!?それで逃げ出すな、言うこと聞けって命じる方がむちゃくちゃですよ!」

 

 自己反応熱で煮えたぎる頭の中、正太はこれは言わなければならないことだと確信していた言葉を口にした。睦美のやったことは軟禁で監禁で拘禁で、つまり一種の犯罪だ。それから目をそらしておいて、元鞘に戻ってハッピーエンドとはとうてい行くまい。たとえ目をつぶって飲み込んだとしても、のどに刺さった魚の骨よりも存在を主張し続けるその事実は、いつか肉を引き裂いて喉から血を吹き出させるだろう。たとええづくほどに苦しくても、のどの奥に居座るそいつを目の前に引きずり出さねばいかんのだ。

 

 「これじゃ蓮乃ちゃんを虐待しているのとなにも変わりませんよ!?」

 

 もう一度言う。正太は一切気づいていない。喉に刺さって血を吹かせるような代物を相手の耳に押し込んだならどうなるか。たとえそれが伝える義務と必要のある言葉だとしても、投げつけられた側がそれをどう受け取るかは全くの別問題だ。ましてや不用意に相手のはらわたに手を突っ込めば、二次感染で患者を死なせかねない。だから手術前には可能な限りの消毒滅菌が必要なのだ。

 そんな正太の軽率な撃鉄に叩かれてついに睦美は火を噴いた。雷管から火薬に伝播した爆轟は、激情という弾丸の尻を超音速で蹴り上げる。

 

 「無関係のあなたに何がわかるって言うのッ!?この子の障害も何もよく知らないくせに!!」

 

 絶叫が正太の鼓膜をぶっ叩き、平手が正太の頬をぶっ叩いた。スナップが利いて腰の入った鋭い一撃だ。想像より数倍は痛い。目の前で星がちらつき世界が瞬いている。ぐわんぐわんと擬音をたてて揺れる視界の中で、目の前の睦美が二重にぶれて見える。

 何がなんだかさっぱりわからん。六〇度ほど西を向いた正太の頭の中で衝撃と疑問が飽和する。ぶっ叩かれたインパクトで魂が半分ほど飛び出たらしく、驚くほど動揺が無く冷静だ。

 とりあえず理解できることは、自分が睦美さんに思いっきり掌底入り平手打ちをもらったということだ。聴きたくないだろうことを口にした以上、怒らせるかもしれんとは考えていたが、流石に平手打ちフルスイングは完全に想定外だった。なにせ「大人」がそんな「子供」じみたことをするはずがないから。

 

 だから「大人」が子供の前で涙をこぼすなんてことはあり得ない。そのはずだった。けれど正太の目の前で、今確かに睦美の両目からは膨れ上がった涙の滴が形を崩しながらこぼれ落ちた。


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