二人の話   作:属物

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第七話、昨日の話(その六)

 「ぬ~ぅぅ」

 

 涙で湿ったノートを前に正太は絞首刑に処された豚めいた唸り声を絞り出した。テーブル越しには鼻と目元を真っ赤にした蓮乃の姿がある。事情を書いている間も洟をすすり涙をこぼして、それをティッシュで何とかしていたのだが、おかげで丁の字に顔が赤くなってしまっていた。元の肌が白いせいでまるで歌舞伎の隈取りだ。

 最近知ったが朱墨の隈取りは善玉側の印だそうだ。遠目で暗い舞台の上でも誰が誰だかわかるようにされた工夫だそうな。いいや、今はそんな話をしている場合じゃない。

 無関係の雑学へと逃避しようとする自我をひっつかまえて、正太は改めて蓮乃へと向き直る。蓮乃の事情は一応理解できた。家出との想像はしていたが、家中施錠された挙げ句、ガラスをぶち破って逃げ出すとは想像の衛星軌道をかっ飛んでいる話だった。

 

 そんで、これどーしたもんだろうか。盗んだバイクで走り出すの二節手前くらいまで蓮乃が追いつめられているということはわかった。そしてそこまで追いつめるほどに睦美さんのネジが吹っ飛んでいることも認識できた。

 だが、それをどうすればいい? 向井家の話は向井家の話なのだ。トートロジーじゃないが余所様他人様向井家様のお話であって、我が家宇城家の話ではない。それなのに関係者面して首を突っ込めばどうなるか。少なくともみんなにっこりハッピーエンドとなるとは到底思えない。身勝手な行動が何を招くか。痛いほどに痛い思いをして理解させられた。自分勝手なことはできない。なら蓮乃を隣につれてかえってトゥルーエンド。それでお終い問題なし、そのはずだ。

 

 「ぬぐぁぅ」

 

 しかし、正太の顔に浮かぶ苦い表情は大問題が大ありだと物語っていた。山盛りの苦虫をつまみにジョッキで青汁飲まされた顔で、正太は額に手を当て頭を抱える。自分を頼ってきた知り合いをそう気軽に見捨てられるはずもない。ここ二週間少々とは言え、顔を突き合わせて色々やってれば大なり小なり情も湧く。それに、そんな理由で見捨てるような奴なら、家族にも見捨てられてもおかしくない。どーしたもんか。

 正太は二律背反の現実から目を逸らすべく思考を斜め上にぶん投げる。そもそも他に行く先はなかったのか。なんでよりによって我が家に来るんだこいつは。他にも頼れる人間はいるだろう。区役所の担当職員とか、かかりつけの医者とか、学校の先生とか。そこまで考えたところで思考と一緒に斜め上に投げ上げた視線を下ろすと、おずおずと見上げる不安げな蓮乃の顔が目に入った。

 

 その表情を見て何かに気が付いたのか、正太は先日の会話を思い出した。そう言えば蓮乃は学校に通っていないのだ。それに今までの睦美さんの言動から一人で病院や役所に行ったことがあるとは思えない。ましてやこの大雨だ。着の身着のまま裸足のまんまで、傘も持たずに土砂降りの雨の中、知らぬ道を記憶便りで進むなんぞ大人でも嫌がる。それを鑑みれば隣の一〇三号室を目指すのは道理だろう。

 とりあえず蓮乃の事情は理解できた。だからそれで、これどーしたもんなんだ。正太は再度頭を抱えた。お隣の家庭の事情に首突っ込むわけにもいかんし、だからと言って蓮乃を見捨てることもできない。結局全部ふりだしに戻る。つまり結論は出ないままだ。どーしたもんか、どーしたもんだろ。

 悩みのあまり脳内でツイストダンスを始めつつ、難産の豚のような唸り声を上げる正太。天の配剤か、はたまた神の気まぐれか。その耳に聞き覚えのある、というか毎日聞いている妹の声が響いた。

 

 「兄ちゃん、たっだいま~。随分な雨だし、今年は早めに梅雨が来たのかなぁ」

 

 

 

 

 

 

 「事情は解ったけどさぁ……」

 

 正太の口から蓮乃の事情を聞いた清子の顔は、深煎りベトナムコーヒーブラック一気飲みとなった。正太同様に清子もまた途方に暮れる以外やりようがない。清子がちらりと視線を向けた先の蓮乃は、ソファーの上で膝を抱えて縮こまっている。

 

 「気持ちは分かるけど、もうどうしようもないじゃん。精々、役所に連絡入れるのが関の山でしょ」

 

 「それはわかるが……」

 

 俯く蓮乃から目をそらし、ため息の代わりに否定の言葉をはく清子。蓮乃ちゃんの話も兄のジレンマも聞いたし、自分とてこの子を見捨てるような選択肢を積極的にとりたいとは思わない。それでも、無理なものは無理なのだ。所詮、自分も兄もただの子供、できることなど高が知れている。

 しかし、目の前の正太の顔には納得しきれんと浮き彫りされているのが見て取れた。口から漏れる相づちにも不満と否定の色がありありと浮かんでいる。

 

 「お隣の家庭の事情なんて、私らの手に負える問題じゃないよ。できる人に連絡する以外ないじゃない」

 

 納得し切れていない兄を無理ににでも納得させるべく、清子とは言葉を畳みかける。兄とて判っているはずだし、判っているからこそ二律背反にのたうち回っているのだ。清子の言葉に正太は、口に苦い良薬をどんぶり一杯流し込んだような渋い顔で頷いた。清子の表情にも苦い物が混じっている。だが、どうしようもないのだ。

 

 「そーするしかないか」

 

 「そーるしかないでしょ」

 

 とりあえずは納得してもらえたようだ。そう思い、清子は一つ息を吐いた。さてこれからどうしたもんか。父さん母さんに事情話して案の一つでもいただくべきか。清子はこれからについて思索を回す。

 

 「でもなぁ……」

 

 だが、脳味噌回転中の清子の耳に届いた正太の声で、清子の表情が負の方向へと歪んだ。ようやく納得したかと思ったところにこれである。清子の堪忍袋は同年代よりもいくらか懐が深いが、それでも限度というものはある。ましてや相談という名目の愚痴こぼしと文句吐きに来た同級生と違って、態度を隠す必要のある相手ではない。そう言うこともあり、不機嫌を隠さない態度で清子は言葉を投げつけた。

 

 「あのさ、兄ちゃん。そりゃ蓮乃ちゃんを見捨てるようで心苦しいのは解るよ、私だって気分良くないし。けど、ぶっちゃけた話、私らになにができるの? できることあるのなら言ってみてよ」

 

 「お、おう」

 

 清子の態度にいささかビビりながら正太は対案を探して脳味噌をひっくり返した。兄の威厳もへったくれもないが、今はそれどころではないので意図的に考えないようにする。頭の中からとりだした少ない選択肢を一つずつ数えて思索し、あーでもないこーでもないとこねくり回していく。だが穏便かつ自分たちにできる方法でその上正太が思いつけることなど合ってないようなものである。結局、正太の代案は正太自身が疑問符を付けざるを得ない代物でしかなかった。

 

 「睦美さんと話を付ける?」

 

 「本気で言ってんの?」

 

 当然、清子に電光石火で一刀両断されて仕舞いである。にべも愛想も素っ気もない返答に一撃必殺されてぐうの音も出ない。ロードマップも必要用件も、そもそも最終的な着地地点も解らずに行き当たりばったりでできるはずもないのだ。正太自身もそれは判っていた。

 

 「……正直、現実味は薄いと思う」

 

 「でしょ? なら身勝手なことはしないでさ、大人の人に任せようよ」

 

 だが、清子の再びの説得に正太は雄弁な沈黙をもって返した。何が言いたいのかは明白だ。正太の声高な無言に、清子の細い目がさらに細まる。それが示す感情は言うまでもない。顔にもそれが見て取れたし声からも聞き取れる。

 清子のご機嫌から一八〇度逆方向の声を聞いて、蓮乃はさらに首を竦ませた。蓮乃は言葉が聞き取れないが、音が聞こえないわけではない。言うなれば蓮乃にとっての言葉とは、よく知らない外国語のようなものだ。何を言っているのか言いたいのかさっぱりだ。

 しかし、たとえ初めて聞く外語でしゃべくる外人であろうとも、機嫌の善し悪しくらいならわかる人間はいるだろう。蓮乃も他人の機微がわからないわけではない。先日の正太とのやりとりは、単に正太の機嫌を気にしていないだけである。

 だからこそ二人の雰囲気が急速に悪化していくのは蓮乃にもよく判った。そしておそらく自分が原因であろうと言うことも判った。あれだけ拭いたのに、また両目から涙が滲んだのも判った。

 

 「……あのさぁ」

 

 清子は正太のことが別段嫌いではない。家族として相応の情愛は抱いている。少なくともそのつもりだ。しかし、それを考慮に入れても「前の一件」、つまり正太の虐めの件には思うところがあった。

 誰かを銃で撃ったなら、当然罪は撃った人間にある。まず真っ先に裁かれるのはそいつだ。しかし銃を売った人間にも責任がないわけではない。無論それは撃った人間の罪よりも軽い。だが決して売った人間は無関係でも無責任でもないのだ。

 

 兄の虐めで自分は巻き込まれた立場だった。突然よそよそしくなる級友たちに、攻撃的な態度を取り出す仲良しグループ。態度が実際の攻撃に変わるまでそう時間はかからなかった。それはさほど長い時間ではなかったとは言え、そのときまでの短い人生ではトップクラスの苦痛だった。加えて虐め解決のため転校を余儀なくされたのは間違いなくショックだった。

 それらすべての原因が兄の身勝手な行動にあると解ったとき、負の感情を抱かなかったと言えば嘘になる。だが当然の話、兄も自分とそう変わらない年の子供であった。布団の中で縮こまって泣き崩れている姿を見てそれが理解できた。十分以上に打ちのめされた兄を言葉で責め立てたところで何になるのだろうか。気持ちが晴れることすらないだろう。少なくとも自分や兄を虐めた連中のように、他人をいたぶって悦に浸る下劣な趣味はない。

 今までのことすべてを納得しきれる訳ではない。でもすべてがマイナスだったわけでもない。合計で見れば赤字だろうが、それでも得る物はあったし、得た人もいる。まとめて言うなら、終わったことだ。そう考えて兄に何も言わなかった。

 

 だが、だがしかし。同じバカが繰り返されるのをよしと言えるほど、自分はお人好しでもないのだ。

 

 「ねぇ、なにふざけてんの? 自分で勝手に解決して褒められたいの?あんな目にあっても、家族みんなに迷惑かけてもまだわかんないの!?」

 

 「わかってる!」

 

 清子は説得と言うより叱責の体で言葉を投げつける。口から発射された内容は質問ですらない。尋問とか詰問とか呼ばれる類のものだ。言葉で打ち据えられる正太の返答も半ば絶叫めいていた。正太の打ち返した言葉で清子の血圧がさらに上がる。

 突然の大声に、横で聞いていた蓮乃の肩がさらに竦む。やっぱり自分のせいだ、どうしよう。だが当事者とは言え蚊帳の外の蓮乃にできることはなく、現実全てに蓋するように膝に顔を埋めるのが手一杯だった。

 

 「わかっているならなんでグチグチ言うのよ! なに、私の方から折れて欲しいわけ!? 自分で責任とりたくないから!? ふざけないでよ!」

 

 「わかってる、わかってるよ! 自分が頭の悪い考えしてることくらい!」

 

 正太とて学習はする。だからウジウジ悩んでいたのだ。手を出すべきではない、しかし蓮乃を突き放せない。清子の言葉に間違いはない。でも、どれだけ理屈を並べても、正太はこの娘っ子を見捨てる決定はできなかった。それが前のバカを踏襲することでも、過去の轍を踏むことでも、見放すという選択肢は選べない。そうなればもう、答えは一つしかなかった。

 

 「そう言うんだったら!」

 

 「でも、蓮乃が今頼れる人間は俺らしか居ないんだぞ!」

 

 もしかしたら蓮乃には自分の知らない頼る先があるのかもしれない。単にその頼る先が今いないから一〇三号室へ来たのかもしれない。もしそうなら自分の行動は清子の言うとおり、自尊心を満たすための身勝手な独り善がりに他ならないだろう。

 だがしかし。その頼る先は今ここにいないのだ。そして蓮乃は心身共に、その頼りの先に一人で向かえるような状態ではない。ガラスを破るほどに追いつめられて、割ったガラス片で素足を傷つけて。ようやく人心地がついた途端に涙をこぼすほどに限界だった。だから一番近いここへ、隣の一〇三号室へ来たのだ。そして今ここで頼れるのは自分たちだけだ。それなのに突き放したらどうなるか。

 

 かつて自分は虐めにあった。それ自体は確かに自業自得ではあるが、振るわれた精神的・肉体的暴力は、そこまでされる謂われを考えたくなる代物だった。当然、張り子めいた芯のない自分の精神で耐えられるようなものではなく、処刑場に行く心地で登校し下校時には縮こまって逃げ帰る毎日だった。

 子供の世界は驚くほど狭い。「塾」や「スポーツクラブ」がある子供もいるが、家庭と学校の二つが基本だ。だから学校で虐められた自分は、毎日家庭へと逃げ帰っていた。

 そう、学校が終われば虐めっ子の目を盗み、唯一の安息の地である「家」に逃げ帰れるのだ。そうして当時の自分は家族に泣きつけた。もっとも実際は、中途半端なプライドが泣きつくのを邪魔して結局枕を涙でぬらす毎日だったが。

 

 だが蓮乃は障害と魔法の合わせ技からか、学校に通っていないと聞いた。今までの睦美さんとのやりとりをみる限り、塾やスポーツクラブに通っているとは思えない。そうなれば、蓮乃の世界はほぼ全て「家」で出来上がっているということになる。

 しかし、蓮乃はその「家」から逃げ出した。そしてここへ来たのだ。もし、自分たちが見捨てるならば、蓮乃はどこに行けばいい? どこに逃げることができる? その先が無いならば、この先どうなるか。それに目をつぶれないなら無理でも無茶でもするしかないのだ。

 

 「……おまえさんの言うとおり、バカは百も承知だし身勝手以外のなにもんでもない。でも蓮乃の奴を見放すことはできんよ」

 

 結論は出た。正太は膝の間の暗闇に顔を伏せる蓮乃へと視線をやる。その目には大いに迷いと不安があった。それでも諦めを示すものは一片もなかった。

 それを見た清子の顔には苦味を通り越して苦痛をこらえるような表情が浮かんでいた。よくわかった。三つ子の魂百までというが兄のこれはまさにそれだ。羹(あつもの)に懲りたと思ったら、煮えたぎるスープを一気飲みするとは恐れ入る。筋金入りのバカさ加減にいい加減愛想も尽きようものだ。

 

 「わかった、わかったよ! 勝手にしてよ! お隣さん説得するのも、父さん母さんへの説明も、やったことの責任とるのも、後のこと全部自分でやってよ! あたしなんにもするつもりないからね!」

 

 絶叫混じりの最後通牒を叩きつけた清子は、肩を怒らせ居間から去っていった。その後ろ姿を乾いた笑みを浮かべながら正太は見つめる。家族に嫌われたくないと見捨てない選択をした結果、その家族に見捨てられるとは、まさに本末転倒としか言いようがない。バカここに極まれり。浮かぶ笑みにコーヒー味の苦い色が混じる。

 何かを諦めたような納得したよう、投げやりでどこかさっぱりとした表情をしながら、正太は深く息を吐いた。ため息を聞き取ったのか、蓮乃の不安げな声が正太の耳に届いた。

 

 「なぁー……」

 

 目を向ければ赤く腫れた目に声音同様の色を浮かべながら正太を見つめる蓮乃の顔があった。何が言いたいのかは判らないが、正太でも心配そうな表情を浮かべているのは見て取れる。仮にも見放せんと啖呵を切って見せたのに、不安にさせとくわけにもいかんだろう。正太はテレビ横のメモを手に取ると、読みやすいようできるだけ丁寧に書いて見せた。

 

 『気にすんなとは言えんが、少なくともおまえさんのせいじゃないよ』

 

 だが蓮乃の胸中に浮かぶ暗雲は、窓の外同様に晴れる様子を見せなかった。

 

 

 

 

 

 

 ――油紙じゃちと厳しいかね

 

 割れ窓を塞いだ跡を眺めつつ、雨合羽姿の正太は胸の内で小さくこぼした。段ボールをガムテープで割れたガラス板に張り付けて、その上から油紙シートを張って雨よけにしている。その出来映えは「雑」の一言だ。一目でわかる。

 今にも落ちそうに不安定に見える、斜めに張り付けられた段ボール。それを無理矢理に固定しようと、放射状に留められたガムテープは長さがちぐはぐで、まるで子供の書いた適当な太陽の絵だ。せめて隙間を埋めようと油紙シートの切れ端がこれまたぐちゃぐちゃに張り付けられている。ろくでもない出来映えを覆い隠そうと上から油紙シートが張られているが、微妙に長さが足りないせいで下から中身が見え隠れしている。

 全般的にエントロピーが過剰で丁寧とは正反対な代物だ。よく見れば隙間から漏れ入る水しぶきで段ボールの所々に雨染みが見えている。別に手を抜いたわけではない。不器用極まりない正太と心身共にグロッキーな蓮乃では、これが精一杯だったというだけだ。できれば生体樹脂のシートを使用したかったが、維持管理に手間がかかる生体樹脂を一般家庭の宇城家が常備しているはずもない。あれは雑に扱って放っておくと腐るのだ。安いくせに雑には扱えない。変な話だ。

 

 思考の空回る乾いた音を幻聴しつつ、雨風にはためく油紙に正太は追加のガムテープを張り付けた。蓮乃が軟禁脱出のために投げつけた椅子のお陰で一〇四号室の居間は台風一過の有様だったのだ。なにせ、窓に開いた大穴から吹き込む雨で居間半分がびしょっり濡れており、庭にまき散らされたガラスの欠片は足を動かす度に靴の下でジャリジャリと声を上げる。さらに周囲に散乱しているガラス片は、居間から漏れる電灯を浴びて白く存在を主張し、そのど真ん中に複雑骨折した元椅子がねじくれながら横倒れていた。

 最初その様を見たとき、正太は回れ右して一〇三号室に帰ろうかと本気で思った。だが結論を出した以上、逃げ出すことは出来ない。それに部屋の惨状をそのままにして置くわけにも行かない。被害状況を保持するのは警察の捜査だけだ。そう考えて気合いを入れ直すと、大急ぎで一〇三号室から油紙シートに段ボール、ガムテープと雨合羽ほか必要と思われるものをひっ抱えて飛び戻り作業を始め、今に至るというわけだ。

 

 空転中の思考にブレーキをかけると、正太は改めて周囲の現状を見る。未だ足下はジャリジャリぼやいているが、先に比べればずいぶんトーンは下がった。割れ窓を塞いだ段ボールには所々に雨染みが見えるが、今すぐ浸水するほどではない。張り付けられるだけガムテープを張り付けて、目に見える範囲で固定できていない場所はなくなった。それでもいくらか隙間は見えるが、素人仕事で出来ることはこのあたりが限度だろう。

 自分の中で区切りをつけて、正太は疲れを追い出そうと両手を組んで筋を伸ばす。濡れた手から水滴が雨合羽の中に手首を伝わってしたたり落ちてきた。初夏といえども連日の雨はずいぶん冷たい。雨中で作業を続けて体も冷えてきた。風呂と乾いたタオルが恋しい気分だ。それにいい加減疲れた。こっちも正直休みたい。とりあえずここまでとしよう。

 

 疲れた気分をため息に乗せて吐き出すと、残った窓を通して部屋内を覗く。とりあえず見える範囲は一通り拭き終えて居間の中もある程度綺麗になっている。床はフローリングのお陰で濡れた跡は残っていない。ただ、濡れた雑誌や本は諦めてもらうしかないだろう。そればっかりはどうにも出来ない。

 部屋の中を眺めるついでに、壁にもたれ掛かって手持ちぶたさにしている蓮乃の姿が見えた。途中までは手伝っていたのだが、蓮乃の精神力はガス欠のようで作業もずいぶん滞りがちだった。なにせこれから家中に錠前と鎖を取り付けるほど惑乱している母親を説得するのだ。しかもついさっき窓を破って逃げたばかり。どう見積もっても気分よく作業する心地にはならんだろうと、正太は部屋内で休むよう言いつけたのだ。

 

 蓮乃の様子を横目に見つつ、正太は居間へとあがった。雨合羽の長さが足りなかったのと濡れた地面を踏みながらの作業で、靴下もじっとり湿っている。脱ぎ捨てて足を楽にしたいが人様の家で靴下を脱ぎ散らかすの少々はばかられる。

 視線の先の蓮乃はというと、いくらか休んだお陰でさっきよりはいくらかマシに見える。宇城家を訪ねてきた時は生き人形と死人の合いの子めいた顔だったが、居間の表情には確かに血の気が通っている。一〇三号室で腹に入れた暖かいものが多少なりとも効いてきたのかもしれない。少なくとも表面的には大丈夫そうだ。 

 

 問題は睦美さんの帰宅後だろう。部屋と窓を片づけるのは一仕事だったが、まだまだ大事な仕事が残っている。そう、睦美さんを説得するという大仕事だ。自宅と変わりない天井を仰ぎ、正太はゴツい顔に苦み走った表情を浮かべる。

 正直言って気が重い。なにせ、ロードマップもマニュアルもなしでどうすればいいかも判らない。完全に出たとこ勝負のアドリブ演奏だ。その場のノリで動くとろくなことにならないのは前の一件で思い知った。なのにそれをしなければならないあたり、なんとも皮肉が効いているようだ。

 天井と向き合う苦い顔にシニカルな笑みが混じった。いや、むしろ自業自得だろう。清子の小言に耳を貸さず、前車の轍を踏み抜くような真似をしたのだ。なら前の二の舞をする羽目になるのはある意味当然だ。ただし今度は家族の手を振り切った以上、助け船はやってこない。二の舞だろうと三の舞だろうと踊りきらねば明日はない。やるしかないのだ。

 

 天井から視線を九〇度戻し、正太は頬を張って気合いを入れ直す。柏手に似た破裂音と共に、鋭い痛みが泡のように浮かんで消える。不安と心配でうすらぼやけていた意識を痛みを軸にして締め直す。これから現実と対峙して少しでもマシな結果を導き出さんといかんのだ、逃避している暇はない。「よし!」と声を上げて、腹の底に力を入れる。丹田で煮えたぎる熱量のイメージが沸き立った気がした。そこまでしたところで、蓮乃がじっと見ているのに気がついた。そういや声も上げていたな。言葉が聞き取れないとはいえ、至近で知り合いが頬を張って声を上げてれば気にもなろう。張った頬が痛み以外の理由で熱く感じる。正太は何とも気恥ずかしくなってついと視線を横にずらした。

 

 視線の先には一〇四号室の扉がある。見慣れた一〇三号室の扉と特に変わりない。壁の時計は午後五時半の手前を示している。常の睦美の帰宅時刻にそろそろ達する。時間が近づくに連れて、焦りと不安が心音のボリュームを上げリズムを早めてく。それを抑えるように正太は深呼吸を繰り返した。その姿を蓮乃は不安げな色を帯びた視線で見つめる。

 

 

 

 

 

 

 時計の表示は午後五時半を越した。いつ睦美が帰ってきてもおかしくない。一〇四号室の空気が徐々に張りつめていく。二人の心臓と胃の腑がキリキリと幻痛を訴える。

 さっさと帰宅してくれ。いっそ帰ってこないでくれ。相反する二つの主張が、交互に脳内に浮かんでは消えていく。不安と緊張が腹の底でない交ぜになり、全部終わらせてくれという懇願に近い感情が煮えてくる。

 

 錠前が開く音は唐突だった。ガチャリとボルトが音を立てて扉の中へと動く。跳ねるように扉を注視する蓮乃と正太。

 

 その視線の先で扉が開く。


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