二人の話   作:属物

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第七話、昨日の話(その四)

 急に勢いを増した雨足と歩調を合わせるように、雷の轟きが雨音に混じり出す。開いた窓から吹き込む雨が、正太の体と居間の床を濡らしている。正太の目の前で突っ立ったまま雨に降られるがままの蓮乃は、ずぶ濡れやびしょ濡れという言葉を通り越し、川に落ちた直後ですと言わんばかりの有様だ。というか、今現在も降りしきる豪雨に浸かっている。とにかく家に上げなくてはなるまい。

 濡れそぼった蓮乃を居間に引っ張り上げるべく正太は手を伸ばした。どこか怯えたような何か恐れるような顔で蓮乃は正太の手を見つめる。その表情を見て、正太の脳裏に一瞬の迷いが浮かんだ。つい先ほどまで正太はヘドロを煮詰めたような自己嫌悪で延々自身を責めていた。そうして自分自身が蓮乃に押しつけ続けていた反吐が出そうな、というか反吐そのものな感情に気がついたのだった。

 これはそれと同じ、風上に置けないどころか風下にも置きたくない押しつけの為じゃないのか。だとしたら、こうやって助けるのも恩着せがましく蓮乃を扱う為じゃないのか。正太の表情が口一杯に苦虫を頬張ってかみ砕いたように歪む。だが正太は即座にそれを振り払った。

 

 ――今はそれどころじゃねぇだろ!

 

 「後」に「悔」いると書いて後悔だ、今は行動あるのみ。それに雨に濡れそぼって震えている子供を放り出して見ろ。母に知られた日には自分が土砂降りの庭に放り出されて震えながら一晩過ごしてもおかしくない。なによりそんなことするような奴が、家族から一片の信頼すら得られると思うのか。見放されて見捨てられても文句はいえんぞ。

 正太は目をつぶって思考を切り替えると、濡れた縁側へと足を踏み出し蓮乃の腕をつかんだ。細い腕に触れた感触は、足裏の縁側の温度とさほど差がない。正太の顔が僅かにひきつった。驚くほど冷たい。一体どれくらい雨の中で立ちすくんでいたんだろうか。急いで体を拭いて、風呂に放り込んで、乾いた服に着替えさせないと。ああ、温かい飲み物と布団かあと何か要るかな。

 何をすべきか思考をぐるぐると回しつつ、正太は蓮乃の手を引っ張っる。しかし、その手に僅かな抵抗を感じた。蓮乃を見れば目を地面に向けてむずがるように握った手に抵抗している。軽く手を引くと子供を歯医者に連れて行く時のように突っ立ったまま肩を引いて抵抗してくる。

 何考えてんだこいつ、今はそれどころじゃないってのに。意を決した正太は、縁側へとさらに踏み込んだ。途端に全身が濡れ鼠へと早変わりだ。家着のジャージがあっという間に色味を変える。はやる気持ちに従って正太は蓮乃の両脇に手を突っ込むと幼児を持ち上げるように引っ張り上げた。

 

 「んなぁ!?」

 

 蓮乃にも予想外だったのか、嫌がると言うより困惑の声を上げる。正太は蓮乃の声を無視しつつ、腰を落として力を込めた。よっこいしょと内心でおっさん臭いかけ声をあげつつ、蓮乃を縁側へと引っ張り上げる。足を床に着けるとき、蓮乃の表情が僅かに曇るのが目に入った。泥汚れを気にしているのかと足下に視線を降ろせば、泥はほとんど付いていない。代わりに赤い汚れが少々。

 赤い汚れに違和感を感じて改めて窓と縁側の境に視線をやれば、雨の飛沫で薄まったといえ赤い滴がいくらか見える。さっき顔をしかめたのはもしかしたら。あまり楽しくない想像が正太の脳裏をよぎった。想像が確かなら歩かせるのはよろしくない。一人得心した正太は先ほどと同様に脇に手を差し込んで蓮乃を持ち上げた。抱き上げられた犬猫よろしくされるがままに運ばれて、蓮乃はソファーに座らせられる。

 あまりよろしいとは思えないが、これは必要なことだからしょうがない。そう何かに言い訳しつつ、蓮乃の足を持ち上げて足裏の様子を見る。いやな予想は当たったらしく、正太のしかめ面が深まった。

 蓮乃の小さく白い柔らかな足の裏には、少々の泥で描かれたまだら模様の他に、鮮血を顔料とした幾筋ものの赤い線が描かれている。その根本からはじわじわと後から後から赤い血が染み出ているのが見て取れる。加えて言うなら出血の根本にはきらきらと輝く小片が僅かに見える。ガラスか何かだろうか。何にせよ応急手当が必要だ。

 

 とりあえず手近なテレビ横のメモを一枚剥がし『座ってろ』と殴り書いて蓮乃が見えるようにソファー前のテーブルにおいた。ぐしょぐしょの蓮乃がソファーに座れば、尻の下が大惨事となるのは容易く想像できるが緊急避難だ。母には勘弁してもらおう。それから急いで両親の寝室に駆け込み、薬箱を引き出す。毛抜きと消毒薬、絆創膏、いやガーゼと包帯も入り用だ。それと温かい飲み物もいるよな。ああ、もういいや全部持って行こう。面倒くさくなって薬箱を抱えると、風呂場からバスタオルをひっつかみ正太は居間に飛び戻る。

 ソファーに腰掛ける蓮乃に変わった様子はない。しかし、雨に降られて全部流れ出たのか、常の青天井の明るさは欠片も見えない。顔のしかめ具合を深めながら眼前に『ふけ』とかかれたメモを突きつけバスタオルを突き出す。しかし蓮乃はなにやらためらった様子で受け取ろうとしない。じれた正太はタオルを無理矢理蓮乃の手に握らせると、替えの服を取りに子供部屋へと向かった。

 

 子供部屋から清子の服を取って戻れば、濡れたままの蓮乃が髪から水気を取っている最中だった。雨に濡れた長い髪を拭く美少女。言葉通りなら絵になる光景だろう。常のノーテンキ青天井な顔が、愁いを帯びた表情に置き換わっている今ならさらに美しいに違いない。

 しかし正太の目は驚きと頭痛を足した奇妙な形にゆがんでいる。正太の記憶にある限り、長い髪を拭くときはタオルで挟み延ばすようにする。家族でテレビを見ているときシャンプーのCMで見た覚えがある。しかし目の前の蓮乃はそれとは全く異なる方法で拭いていた。バスタオルで髪を全体をくるんで雑巾のように握る両手を逆方向に回しているのだ。少なくとも正太の知る日本語体系ではこのやり方を「拭く」と表現しない。「絞る」と言う。

 

 ――こいつは、ホントに。

 

 思わず頭を抱えて天井を仰ぐ正太。しかし、顔に浮かぶのは苦みはあれど幾らか気楽な笑みだった。一通り片づいたら、清子に髪の拭き方を教えるよう話しておこう。気がつけば焦って張りつめていた気持ちが揮発して霧散していた。いつまでもこうしてアホ面晒している場合ではない。正太は頭を振って気持ちを切り替えると、髪を絞る蓮乃の元へと必要物資を抱えて足を進めた。

 

 

 

 

 

 

 蓮乃の足の下に洗面器を置いて、キッチンで汲んだ水で足裏の汚れを流す。泥と血が流れ落ちた一瞬の後、傷口からぷくりと血の珠が膨らんで流れ出した。まだガラス片が突き刺さったままなのだ。片膝ついて蓮乃の足を持ち上げながら、正太は毛抜きで欠片を一つ一つ抜いてはティッシュに置いてゆく。不幸中の幸いか欠片の数は結構少ない。一通り破片を抜き終えたらもう一度水で流して消毒液で湿らせたガーゼで拭く。

 多少しみたのか蓮乃の顔がゆがんだが、ちょっと我慢しろと言って正太は気にせず続ける。後はガーゼを当てて包帯で巻いてきつめに結んで、ハイ終わり。

 ちょうどキッチンの電子レンジからチンと合図の音が響いた。先に豆乳をカップに注いでレンジに突っ込んでレンジにかけておいたのだ。台所に向かってみれば、レンジの中のカップにはべったり湯葉が膜を張っている。どうやら暖めすぎたらしい。四・五秒考えた後、飲み口が悪くなるだろうからとカップから木製スプーンで湯葉を取り除くと、粉飴を放り込んだホット豆乳をスプーンでかき回しながら居間へと戻った。

 

 ソファーの上の蓮乃はうつむいたまま、どこにも居場所の無さそうな顔で足をぶらつかせている。気分の方はともかく、体の方は調子が戻ったようだ。安堵の息を小さくもらすと、正太は湯気の立つマグカップを蓮乃に手渡した。暖かい豆乳を受け取り、ちびりちびりとすする蓮乃の様子を見ながら、正太はぼんやり考えを巡らす。

 家出でもしたのだろうか。もしそうならある意味自分も原因の一つだし、一緒に頭下げてやるくらいはすべきだろうか。でもやっぱり、それって押しつけじゃないのか。結局自分が蓮乃の世話していい気になりたいだけじゃないのか。だからといってこんなに落ち込んでいるこいつを放り出すのもいい気はしない。一体全体どーしたもんだろう。

 思考がぐるぐると同じ場所を回る。三周くらいしたあたりで正太は一つため息を吐いてメモとペンを手に取った。とりあえず、事情を聞かなきゃ判らん。

 

 『何があったか知らんが、話せることなら話せよ。話したくないんなら話さんでもいいぞ』

 

 さっきとは違い、できる範囲で丁寧に書いたメモを蓮乃の前に差し出した。正しくは「話す」ではなく「書く」なのだが、そこは重要ではないのでどうでもよろしい。豆乳で口元を白くした蓮乃はマグを置くと、差し出されたメモを見た。言葉もなく声もなくじっと見つめる。雨の音をBGMに、二人の間に沈黙が流れる。

 

 「……っひ……ひっ……すん」

 

 決壊は唐突だった。両目に水の珠が膨らむや否や、蓮乃の頬を伝ってぼろぼろと涙が滴り落ちた。鼻からこぼれる洟をすすり、喘ぐように息を吸い、ぐずりぐずりとぐずり泣く。

 泣きじゃくる蓮乃を眺める正太に慌てる様子はない。じっと涙が止まるのを待つ。先も雨の中で泣いていたようだし、暖かい物を口にして気が抜けたのだろう。辛いことがあった後、安心と同時に涙がこぼれてしまうのはよくあることだ。自分も前の虐めの時涙をこぼすのは、大抵が布団にくるまった後だった。

 

 数分の後、ようやっと涙腺に停止信号が入ったらしく、蓮乃の涙が止まった。それでもまだ鼻水は止まらないらしく、鼻を繰り返しすすっている。それを見かねて正太はティッシュを差し出した。差し出されたティッシュを受け取り、あまり耳に心地よくない音を立てて洟をかむ。

 そして涙で赤く腫れた目をこすりながら蓮乃はペンを手に取った。さて何を書くのだろうか。家出の理由か、睦美さんへの愚痴か、はたまた豆乳もう一杯か。 だが泣き顔の蓮乃が殴り書いた一文は、正太の想像全ての斜め上を第一宇宙速度でかっとんで行った。

 

 『お母さんの子やめる、兄ちゃんとこの子になる』


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