二人の話   作:属物

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第七話、昨日の話(その三)

 『光より速く進むものはない。ただし悪い噂だけは例外だ』

 

 「生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え」を出した英国人作家の言葉にもあるように、驚くべき早さで話は伝わった。ただし、情報は正確ではない。悪意を持って改変された上で伝播していった。

 初めの内は「宇城がクラスメイトに怪我させようと突き飛ばした」と比較的事実に近しかった。しかし、十人を回らない内に「宇城がクラスメイトの頭をつかんで叩きつけた」に変わり、仕舞いには「宇城がクラスメイトへ棒で殴りつけた」と人物以外一つも合っていない話になっていた。

 しかし、これを聞いた同級生は当然のように信じた。だってその方が面白いから。当時の自分は多くの同級生に嫌われていた。そんな奴が悪者になるのはとても楽しい。なにせ、正義の名の下、良心の呵責なく好き放題いたぶれる。これを嫌がる人間はそうはいない。自制心や公共の概念が発達途上である子供となればなおさらだ。

 

 自分の口から細かい事情を聞いた両親は、自分と一緒に彼女に頭を下げてくれた。申し訳なくてボロボロ泣いた。この程度で許してもらえるとは思えなかった。けれど彼女は許した。許してくれた。「すぐに治るし、痕も残らないそうだから」と朗らかに笑って。

 

 だが、他の子供たちにとってそんなことはどうでもよろしい。あの子が許した? それがどうした。重要なのは、自分たちが悪と認定したかどうかだ。そして悪は断罪すべきだ。だってその方が楽しいから。

 かくして楽しい楽しい虐めの毎日が始まった。まずは小手調べ。持ち物隠し、机への落書き、そこら中から聞こえる陰口。

 オードブルが出された後はちょいと気合いを入れて、便所の上から泥水ぶちまけ、上履き入れには生ゴミたっぷり、ものを盗んでの追わせ回し。

 メインディッシュは暴力児童の拳がうなる。校舎裏でのサンドバック、階段上から突き飛ばし。見えないところで振るわれる暴力は日常の一ページとなった。

 

 日々のいじめに家族が気がついていたかどうかは定かではない。後のことを考えれば、おそらく気づいていたのだろう。当時は他人を見れる状況ではなかったからわからなかったが、何度となく学校のことを聞かれたような記憶もある。

 それに思い返すだけで胸がむかつくが、当時は帰宅後はよく布団の中で泣きじゃくっていた。辛い、苦しい、キツい、死にたい。えづき混じりの泣き言を布団の中で吐き散らし、毎晩枕を涙で湿らせる。悔し涙で濡れた枕に、我が家の家事全般を担当している母が気づいていなかったとは考えづらい。

 

 そんな我が家の状況とは一切合切関係なく、嵐のごときいじめは指数関数的にその勢いを増していった。注目は麻薬と同じといったが、虐めもまた同じような傾向を備えている。さらなる刺激を求めてエスカレートする一方だ。無論、先生に見つかるようなヘマはしない。楽しい時間が中断されてしまう。

 それに、見つかったところで右往左往するだけの大人たちになにができる。精々クラス会かそこらだろう。殊勝な様子で反省の色を見せれば片が付く。無論、面倒事の後は思う存分虐め倒してストレス解消だ。

 そう考えていただろう虐めっ子たちの想定外はただ一つ。事態に気づいた後の先生方の行動が、驚くほどに迅速であったことだった。虐め開始時点からわずか一月、自分は生活指導室に呼び出された。

 

 両親から聞いた話によれば、かつての時代「山」と言えば「川」というように、「虐め」といえば「放置と隠蔽」と揶揄されるほど日本の学校は虐め問題に消極的かつ日和見であったらしい。だが米国で起きた虐め被害者の魔法使い生徒による報復大量殺人事件、それに恐怖した国内の虐めっ子による集団リンチ殺人事件をきっかけとし、虐め問題、特に魔法使い関連のそれにおいて日本教育界は世界でも有数の即応体制をとるようになった。

 自分の場合でもそれは同じだった。呼び出された日はあの雨の日から一月強、担任が母からの連絡で状況を理解してからわずか十日後だったのだ。

 

 正直、その時の自分は虐めのせいで頭の中が一杯一杯で呼び出された理由を想像できるような余裕など無かった。せいぜい脳裏に浮かぶのは「これが告げ口と見られた場合どの程度殴りつけられる数が増えるのか」ぐらいのことが関の山。そんな自分的には重要な、他人的にはどうでも良いことを、霞む頭で薄ぼんやりと考えながら生活指導室へと向かっていた。

 「失礼します」と聞き取りづらい声をかけ、精神的な死に体をナメクジみたいに引きずりながら引き戸を開ける。そして半死半生な顔をわずかに持ち上げると、死んだ目を大いに見開いた。目に入る光景は、ぼやけた脳味噌を一時的とはいえ覚醒させるだけのインパクトを有していた。

 まず目にはいるのはクラス担任と副担任の先生、続けて魔法使い児童向けの定期心理検診でお世話になっているスクールカウンセラー。あまり顔を合わせたことはないが学年主任と生活指導の先生方、とどめに授業参観でもないのに両親の顔がそこにあった。

 胡乱な目を白黒させて混乱している自分をよそに、学年主任の先生が両親と小さく頷きあうと、自分の方へと向き合った。当時から他人の心情を察するのは致命的にド下手な自分ではあるが、少なくとも学年主任の先生の顔に一切の迷いがないことは見て取れた。

 

 「君は虐められているんだね?」

 

 開口一番、先生から投げかけられたのは率直な確認の言葉だった。質問ではなく疑問でもなく、確信を持った確認の声だ。

 自分の口から返答は出なかった。代わりに目から涙がこぼれ落ちた。恥ずかしくて情けなくて辛くて家族にも言えなかった。しかし先生方と両親は、クソガキの薄っぺらな秘密などとうの昔にお見通しだったのだ。

 

 それは最後の合図であり、承認の記名と同じだった。なにせ自分が生活指導室に呼び出された時点で、必要の手続き他一通りの準備がそろっていたのだ。最後に自分に事実確認して準備は終わり。あとは実行あるのみ。あれよあれよと事は進み、何が何だか解らないうちに転校の手続きは終わっていた。

 夜逃げ同然、というのは言い過ぎにしても別れの会もなにもなしに自分は別の小学校へと所属を変えた。虐めっ子たちとはそれっきりだ。報復とか敵討ちとかするだけの気力はない。顔を会わせたくないし、声を交わしたいなんて一欠片も思わない。正直に言って「無かったこと」にしてしまいたいのが本音だった。

 

 そんなことよりもずっと気にかかっているのは、引っ越し費用やらなにやらで家計に無視できない負担をかけたこと。そして妹の清子のことだった。特に後者はのどに引っかかった小骨のように、未だにその存在を何かある度に苦痛を伴って主張する。

 虐めの次の標的としないため、清子一人を小学校に残すわけにはいかなかった。そこらへん抜かりないことに先生方は清子の転校手続きも終えていたが、それはつまり現状の友人たちとの関係が断ち切られることを意味していた。詳細は知らないが自分以上に人間のできている妹のことだ。少なくない数の友達がいただろう。親友、級友、悪友、盟友。全部捨て去る羽目になったのだ。

 それは全部、自分のせいに他ならない。清子は何も言わなかった。どうやって謝ればいいのだろうか。未だ皆目見当も付かない。

 

 その後の事は別段語ることはない。何もなかったというわけではないが、ずっと下を向いて他人に怯えてるガキの数年間など、聞く意味も語る価値もないということだ。

 転校先で虐めはなかった。正しく言えば、虐め「も」なかった。転校しても転校先と打ち解けられなかったのだ。生徒の転校後の事情まで気にするほど小学校教諭は暇ではない。無論、転校先の先生方は色々と気を配ってくださった。

 だが、いくら手をさしのべられても握り返せないなら立ち上がりようもないわけである。つまり、自分はコミュ障という名前をした虐めの後遺症から一歩も抜け出せないままだった。そんな虐めの影に怯えてまともにコミュニケーションもとれない奴と、仲良くするような奇特な御仁はいらっしゃらなかったわけで。結局、卒業までぼっちのまんまで何もなかった。

 高校デビューならぬ中学デビューを考えたこともあった。けれどもどうすれば受け入れてもらえるのか、どうやれば認めてくれるのか。何一つとして解らないまま、何もしないで日は過ぎてゆく。これで転校の時と何が変わるのか。実際、期待しただけで何も変わりはしなかった。

 結局誰とも打ち解けられず、中学生一年目は「動く背景」「歩く書き割り」。その程度が関の山。体育祭ではただひたすら目立たないよう、周りにあわせて声を張り上げる振りだけした。誰ともしゃべらない奴の人手を求める人などいないから、文化祭は一人で人っ子一人こない部屋の隅でいじけていた。

 

 そして、そんなくだらない有様の繰り返しの果てにようやく今に至る。

 

 

 

 

 

 

 地獄巡りならぬ過去巡りからの帰還は、死体が起きあがるよりも苦痛に満ちていた。空えずきをする感覚で息を吐くと、正太は死人が墓から這い出るような心地で上体を起こした。電源の切れた黒一色のテレビ画面を眺めつつ、頭を抱えた正太は改めて最近の現状を省みる。

 最近までの現状は変わりようもない日常が繰り返される変わらない日々だった。それだけならば尊いのかもしれないが、実際のところはろくでもない毎日が恒常的に反復されるだけ。虐めがないだけ、家族がいる分、まだまだましだ。そんな風に己を慰めていた。きっとこんな様子で歳をとって死ぬのだろう。そんな風に先を諦めていた。

 

 そんな中、蓮乃という名前の変化は唐突に我が家にやってきた。驚きと怒りと面倒とため息を巻き起こし、それ以上の苦笑と愉快と喜びと楽しみをばらまいていた。蓮乃と出会ってから高々二週間程度だが、その二週間は痛烈なほど鮮やかだった。

 時には一緒になって慌ててみたり、時には同じテレビを見て自分のことのように様に笑ったりした。時には蓮乃のアホくさいやりとりに苦笑混じりのため息を吐いたり、時にはそうやって面倒くさがりながらいちいち面倒を見る様を清子に笑われもした。だが、蓮乃はもう我が家に来ないだろう。確証はないが確信はしている。今までの睦美さんを見ていれば想像はつく。

 

 蓮乃が居なくなったところで何も変わらない。今まで通りに戻るだけだ。そういって強がろうとしても蓮乃と過ごした二週間ばかりをなぞるだけで、気分はどん底まであっという間に落ちてゆく。少しでも先日の光景を思い返すだけで、なぜ何もしなかったのかと後悔ばかりが降り積もる。

 なんでそうしなかったのか、どうしてこうしなかったのか。正太は再び記憶を遡ろうとする自分にブレーキをかけようとするものの、過去巡りで消耗しきった精神にそんな余力がありはしない。後悔は加速するばかりだ。何で自分は蓮乃に出会ってしまったのだろう。何で自分は蓮乃の相手をしてしまったのだろう。ある種哲学的なレベルまで悔恨の念は行き着き始めた。

 

 ――そう、どうして自分は一々蓮乃の世話をしていたのだろうか。

 

 今更ながら正太の脳裏に疑問が浮かぶ。面倒に関わりたくないなら、睦美さんに即座に伝えて隣の一〇四号室に送り返せばよかったのだ。さすがの蓮乃でも毎度のように送り返されていたのなら、一〇三号室にやってくることはなくなっていただろう。なのに面倒だ面倒だと言いながら、自分のことのように蓮乃の相手をしていた。幼い頃に清子を相手取っていたときのように、一々世話をしていたのだ。まるで妹のように。

 真っ黒なテレビの液晶画面に映る自分の顔を見ながら、正太は自分の言葉を噛みしめ直した。それは不正確だろう。正しく言うなら「幼い頃の妹の様に」だ。少なくとも今、清子に手をかけられることはない。むしろ、自分の方が世話をかけている始末だ。最低でもいじめの以前でなければ清子の面倒を見た覚えはない。

 それ以降は、いやその最中こそ特にひたすら面倒と厄介をかけ通した。唐突かつ予期せぬ級友との別れ。おそらくはあっただろう自分由来のいじめ。一方的に押しつけられた新天地での学校生活。言うまでもなく全て自分が原因だ、コンチクショウ。

 それだけじゃない。父にも母にも迷惑をかけ通しだ。転校、引っ越し、転職。金勘定には詳しくないが、さほどの余裕もない我が家にとってどれだけの負担になったことか。こうやって振り返ってみれば罪悪感と後ろめたさが降り積もるばかり。返せるなら返したい。金でというなら貯金を全てはたいてもいい。体でというなら腕の一本ですむならすぐにでも。でもそんなことは家族の誰も求めていない。そりゃ当然、家族だからだ。

 それに金も体も全て両親家族の贈り物で頂き物。扶養家族のご身分でどこから何をひねり出すのか。尻からひり出したものでさえ、元をたどれば親が材料買ってきて親が作ってくれた料理に行き着く。借金を質に入れサラ金で利息を返す堂々巡りの行き着く果ては弁済不可能な多重債務者。しかしながら迷惑と罪咎の自己破産はどこの法でも認められていないのだ。

 

 正太は腐敗臭を放つ気持ちを吐き出すように重苦しいため息をはいた。しかし何度ため息をついても、内蔵が腐り果てたような心地は晴れてくれない。足りない脳味噌で考えすぎたのか、抱えた頭は溶けた鉛を注がれたように重く熱っぽい。まるでいじめ当時の気分だ。ずっとこんな気持ちを抱えていくのだろうか。おそらくきっとそうだろう。両親にも妹にも何も返していないのだ。返済なしで借金チャラなど、徳政令でも無い限り不可能だ。そして心の負債に徳政令も自己破産も存在しない。

 ああ、こんちくしょうめ。こんなことばっか考えているから清子の奴に「陰気で暗い」だの「脳味噌がフリーズしてる」だの笑われるんだ。最近はこんなことを考えずにすんでいたのに。蓮乃と顔を合わせるようになって以来だ。

 

 そう、蓮乃が来てからだ。なぜ一々蓮乃の世話をしていたのか。ぐるりと思考が一周する。もしや「そうだから」なのか?

 蓮乃の世話をしていればそんなことを考えなくてすむから。蓮乃に世話を焼いている間は余計なことを考えずに過ごせるから。だから蓮乃を追い返さずに一緒に過ごして、だから幼い頃の「妹のように」世話を焼いて。

 錆び付いた直感がかすれた警告音を発する。それに気づくべきではない、それを知ってはいけない。だが全自動で思考は急回転する。止まらない、止めようもない。先の言葉が結びついた。

 「妹のように世話を焼く」+「妹には世話をかけている」+「家族への罪悪感と後ろめたさ」+「返せるなら返したい」=……

 

 ――つまりあれだ、妹の代わりか。

 

 ようやっと自覚した自分の有様に、呆けた顔の正太は顔を覆って天井を仰いた。つまり自分は清子に感じていた罪悪感を全部蓮乃に押しつけてたのだ。加えてそれを世話することで自分が許されたと勘違いしたがっていたんだ。

 こんちくしょうめ。犬畜生でもこうはするまい。ああ、久方ぶりに本気で死にたくなってきた。クソだクソだと自分を評してきたが、実際の所はそれ未満の産業廃棄物だった。屎尿のたぐいなら土に埋めればいつかは腐って土地を肥やすが、産廃は埋めたら土地を汚染する代物だ。自分も同じ。痛い目あって程良く腐っていい加減人畜無害な堆肥になるかと思ったら、毒物劇物をまき散らす人畜有害極まりない環境汚染の公害原因物質と成り果てていたのだ。

 まるで二段底だ。どん底の下にもう一つ奈落が口を開けていた気分だ。宇城正太という人間の株値は底を打ったと思いこんでいたが、さらなる大暴落が待っていた。証券所では株券の紙吹雪が舞い、投資家たちは紐なしバンジージャンプに精を出すだろう。自分の株など買う人間が居るのかどうか知らないが。

 乾いた笑いがこみ上げて、正太の両目尻が涙で潤んだ。常と変わらぬ天井のシミでさえ、自分を嘲笑っているかに思えてくる。おそらく幻覚だろうが、心境的に否定できない。ほら角の人の顔っぽいシミがニタニタ侮蔑の笑みを浮かべている。正太は天井を見ているのもイヤになってテレビ前のテーブルに顔を伏せた。が、耳に入る雨の落ちる音すら侮蔑の陰口に聞こえてくる始末。本格的に不味いのかもしれないが、このまま死んでしまった方が人類的にはいいのかもしれない。こんちくしょう。

 

 実際はそんなことはないわけで、擬音に文字を当てるように自分が勝手に思いこんでいるだけだ。それに自分が死ねば人類にはプラスかもしれないが、家族にはマイナスだろう。今までかけた費用が帰ってこないのだから。こうしてテーブルに突っ伏した頭を横に向けても目に入る庭の風景には何かあるわけでも……

 

 ……ある。人影が、ある。庭に面した窓の先には、濡れそぼった人影が一つ。端から見れば幽鬼かはたまた妖怪の類か。雨の滴る長い髪はべったりと体に絡みつき、足元を見れば靴の影も形もない青ざめた裸足で泥に半ば埋まっている。元から白い肌は血の気が引いて幽霊のそれと同じ色合いで震えて、白のワンピースだろう服は全身に張り付いて細っこい体型の影を後ろに延ばしている。

 正太には、そのお岩さんか番町皿屋敷のご同類に見覚えがあった。二週間前から見覚えた顔で、数十秒前まで思い描いていた相手だ。自己嫌悪も何もかも忘れ、正太は跳ねるようにソファーから立ち上がると、駆けるように窓へと近づいた。そして窓を開け人影を確かめて、聞こえないと知りながら思わず呟いた。

 

 「蓮乃、お前一体どうしたんだ」

 

 びしょ濡れで青ざめた、どう見ても尋常でない様の向井蓮乃がいた。


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