二人の話   作:属物

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第七話、昨日の話(その二)

 惚れた腫れたに好いた嫌った。男と女の色恋沙汰は古今東西、古代の各種神話から現代のラブソングまで、どこにもいつでもあるものだ。人類が有性生殖をする生き物である以上、遡ればおそらく種の始まりからあるだろう。男三人顔を合わせれば女の話が、女三人席を連ねれば男の話が始まる。異性が席を連ねれば、大なり小なりその手の話は口に上るものだ。誰とけっこんしたいだの誰にちゅーしただのと、幼稚園児からすら聞こえてくる。

 当然、小学生だって噂の話題は大抵それだ。半端に色気付く思春期の始まりとくれば盛り上がりも一際だろう。自分が小学五年生になった時でもそれに違いはなかった。誰が誰に告白したとか誰が誰にラブレター渡したとか、クラスのそこらでそんな話題が耳に入る。無論、自分がその中に入ることはなかったが。

 

 そして、その中でよく名前を耳にするクラスメイトの女子がいた。その子は背の順に並べば真ん中より前の方で、外観は整っている方だが極端にというわけではない。雑誌やテレビの基準でいえば十人並みに二・三足した程度だろう。センスも基本親が買ってきた服を着ているとなれば想像は付く。だが彼女はクラスの中心だった。

 彼女は自称「サバサバ系」とは違う本当におおらかでさばけた性格をしていた。昔ながらの表現を使えば「竹を割ったような」という言葉のよく似合う、すっきりとして一本筋の通った気持ちのいい人間だった。外観や媚びで異性に「だけ」人気ある女性は、まま見ることがある。しかし、彼女は希有なことに異性・同性を問わず皆を魅了してみせた。無論、外観とて悪いものではない。それ以上に、彼女の心根が皆の心を惹きつけた。彼女の魅力は外観ではなくその心にこそあったのだ。

 

 そんな姿に自分は周囲同様に憧れ混じりの恋愛感情もどきを彼女に抱いていた。それが変質を遂げ始めたのは「俺を見てくれ」と注目に酔い狂い、それが泥酔へと変わってからだった。

 始めは皆からの視線やたまの賞賛がひたすらに嬉しかった。だが何であれ良くも悪くも慣れる。例え有頂天の幸福であろうと、例え奈落の底の不幸であろうと、人は順応し適応しついには当たり前の日常へと変えてしまう。無数の人目を浴び続ける内、自分はそれを当たり前と勘違いを始めてしまった。気が付けば「俺を見てくれ」という欲求は、熟成発酵腐敗の挙げ句「自分は特別」の思いこみへと成り果てていた。すなわち、当時の自分からは一足早く思春期性万能妄想症候群こと通称「中二病」が香ばしいにほいを放っていたのだった。

 

 他人の鼻につくくらい「特別な自分」を鼻にかけ、周囲が鼻白む様を鼻で笑って鼻高々と、鼻持ちならない鼻息荒い鼻つまみ者。それが当時の自分だった。

 そんな奴が周りから好かれるはずもなく、あっという間に周囲の視線の質は変わった。動物園のパンダを見る目から、ゴミ捨て場のゴキブリを見る目へになった。居るだけ迷惑、視界に入るだけで怖気が走る、会話なんぞ以ての外。この時点で虐められなかったのはただの偶然に過ぎない。あと今しばらくの猶予があれば、きっと別件由来の虐めが始まっていたことだろう。だが自分はそれより先に事をしでかした。

 

 

 

 

 

 

 あれは小学校五年の五月半ばで、酷く雨が強い日だった。台風が来るような季節でもなかったくせに、「台風以上の大雨が関東一円に降り注いでいる」とテレビの中で日放の報道員がびしょ濡れになりながら叫んでいたことをよく覚えている。おかげで小学校も昼近くで休校が決定し、大雨がさらに強まらない内に帰宅と相成ったのだった。

 「もっと早く登校前に休校にしてくれれば家でのんびりできたのに」と他人に聞こえるように大きな声で愚痴りつつ、下駄箱から長靴を取り出し帰宅の準備をする。近くのクラスメイトからは返答の代わりに道ばたのゴミを見るかのような胡乱気な視線が投げかけられた。しかし、自分が気がつくことはなかった。それに気が付けるようならこんな状態にはなってはいない。

 

 長靴に両足を納めて合羽に袖を通し、その上で傘を差す。この完全防備でなおランドセルが濡れるほどに激しい雨が降る中の帰路だった。隣の車道ではグレアでぼやけたランプを灯す自動車が駆けてゆく。いつもなら鼻につく甘い排気ガスの臭いも、降りしきる雨に散らされて全く気にならない。

 自動車が水たまりを通り抜ける度に水が跳ねて嵩を減らすが、一〇秒と経たない内に土砂降りの雨が満杯を越えて補充する。飛び散る水も降り注ぐ雨に紛れて雨合羽を濡らすのがどちらなのか見分けもつかない。いつもの通学路は土砂降りの雨で煙りに煙り、先を見るのも目を凝らさなければならない。風がないのがせめてもの救いだが、それでも傘を少し傾ければ半身に雨の水玉模様が三倍速で描かれる。これで転けたら一大事と、眉根を寄せて目を細めつま先で探りながら足を進めた。

 

 だからだろう。気になるあの子の差す花柄オレンジの傘に気がついたのは随分近づいてからだった。帰宅の向きが同じ事は知っていたが、かち合ったのはこれが初めてだ。一緒に帰ろうとしたことはあったが、彼女を囲む女子に阻まれそれは成らなかった。

 でも今視線の先にあるのは橙色の傘の花が一輪だけ。いつやる? 今でしょ! そう考えた自分は彼女へ向けて足を速めた。気持ちの悪いことに一方的に運命めいた何かを感じてすらいた。

 無論そんなモノはこの世どころかあの世の果てまで探したとても見あたらない。お釈迦様の手の平にだって乗っていない。精々が自分の脳内に妄想という形で存在するくらいだ。しかし、それは逆にいうならば自分の脳内では確かな現実だったということでもある。だから自分の足取りに迷いはなかった。実に気色の悪い話である。

 長靴を滴る水の玉を蹴り飛ばしつつ、足並みを速め傘との距離を詰める。向こうの歩調はそのままで変わりなし。どうやら彼女はこちらに気づいていないようだ。なら後ろから声をかけるよりも、肩を叩いて驚かした方がおもしろい。無粋にもほどがあることを考えながら、自分は蜜柑と同じ色の傘を追いかける。そして後数十mというところで、不意に傘は向きを変えて曲がり角へと姿を消した。

 

 随分前のことだから細かくは覚えていないが、この時自分は眉間にしわを寄せて考え込んでいた記憶がある。

 自分の通学路ならこのまま直進だから、ここから曲がった先は記憶にない。しかしこの雨の中、普段は行かぬ道で見失えば夕飯までに見つけるのは不可能に近い。例え重度の中二病に罹患していても、腹が減るのに違いはないのだ。いくら格好付けても育ち盛りの思春期に食事抜きは実に堪える。

 さらに母は思春期めいた「ババア」呼ばわりにダース単位の拳骨で応えるお人である。「女の子の傘を追っかけて夕飯に間に合いませんでした」となれば、食事抜きと拳骨のダブルコンボを決めてくださるに違いない。

 そうわかっていたならさっさと諦めればいいものを、頭の悪い万能感に推されるまま「すぐに追いつく」と高をくくり、自分は角を曲がった。角の先には見覚えのない光景と、見覚えのあるオレンジの傘が一輪。橙の傘は角を曲がる前より遠い数十m先で揺れている。それを自分は犯人を尾行するドラマの刑事の心地で追いかけ始めた。端から見れば精々が人参をぶら下げられた豚のそれだろうが、当時の心境としてはそれだけ浮かれていたのだ。

 

 ガードレールも運転標識も何もかもが降りしきる雨で霞む視界の中、ただ一つくっきりと鮮やかに存在を主張する傘の花が一輪、夕日の色に咲いている。それだけを目印に、自分はひたすら彼女を追いかける。気づけば、走る車の音も降り注ぐ雨音も舞台のBGMに変わり、電柱も歩行者信号も背景の書き割りに成り下がった。世界にあるのは自分と、傘と、彼女だけ。早足気味の足並みをさらに速め、少しずつ少しずつ二人の距離を縮めてゆく。あと一〇m……七m……四m……一m……手が届く!

 

 その瞬間、トラックのヘッドライトが視界を白一色に塗りつぶし、クラクションが鼓膜を貫いた。

 

 先にも触れたが、そのときの自分は一人上手に舞い上がり、運命めいたなにかを妄想していた。当然それだけ舞い上がっていれば視界もその分狭くなるわけで、目にはオレンジの傘とその持ち手以外何一つ入っていなかった。加えていうなら、土砂降りの大雨は視界の大半を霞ませて辺りの様子もおぼろげにしか見通せなかった。だから、自分と彼女が信号のない交差点の途中にいたことにも、トラックが横方向から近づいていることにも全く持って気が付いていなかったのだ。

 自分にとっては唐突なトラックの接近に、視界同様頭の中は真っ白に漂白された。何かを考える暇もない。脳裏に浮かぶのは、言葉どころか映像にすらならない危険のイメージ。それは一瞬すらかからずに「オレンジの傘」と結びついた。

 

 ――危ない!

 

 イメージが言葉になるより早く、体は動いてくれた。自分の傘を投げ出し、彼女の居た位置へ全力で全身をぶちかます。返ってきたのは考えていたよりもずっと軽い手応えで、「結構体重軽いんだ」と緊急事態にも関わらずやくたいもない感想が浮かんで消えた。トラックが制動をかけたのか、クラクションに加えて急ブレーキの音が耳を刺した。

 同時に体は車道と正面衝突を果たした。全身に衝撃が走り、一拍おいて熱に似た痛みが脊椎を駆け抜けた。いかに水で濡れて摩擦係数を下げようと、アスファルトは天然、いや人工の大ヤスリだ。身体を堅い地面に打ち付けた痺れる痛みと、擦れた皮膚が服との間で摺り下ろされるひりつく痛みが二人三脚でやってくる。痺れと熱さと痛みを兼用した感覚がジンジンと神経を炙った。まるで赤熱する鋼鉄製の蟻が肌の上を這い回っているように思えた。

 痛みを誤魔化すようにコンチクショウと悪態を付きながら体を起こした。傘を投げ出した上に地面を転げたおかげで、レインコートの隙間から雨がしみ入ってきた。冷たい雨がいやな感じに体温を奪っていくが、熱を帯びて火照る傷にはむしろ心地いいぐらいだった。

 辺りを見渡せば、停車したトラックのヘッドライトで照らされて全てがくっきりと浮かび上がっていた。上下逆で雨が溜まりつつある自分の傘、横断歩道より一〇mほど前で止まったトラック、駆け出すように車を降りるドライバー。

 

 そして、投げ出されたオレンジの傘と…………地面にうずくまる彼女の姿。耳の奥で血の気が引く音が聞こえた。

 

 突き飛ばした時は思考より早く動いたくせに、身体は間接に接着剤を流し込まれたように固まった。まるで全身が鉛に変わったようだ。彼女を介抱しなくちゃと思考だけは空転するが、足が踏み出される様子は一向にない。身動き一つとれないままで呼吸だけがバカみたいに速くなる。

 視点はアスファルトの上の彼女に固定されたままだ。トラックを降りて駆け寄る二人の人影も目に入らない。身体を丸めた彼女は動かない。自分が突き飛ばしたから動かない。自分のせいか? 自分のせいだ。ヘッドライトに照らされて辺りは真昼のように明るいはずなのに、目の前が真っ暗になった気がした。

 自分に向けて呼びかける声も耳に入らない。動かない彼女に駆け寄る人の姿も目に入らない。焦れた運転手に肩を揺さぶられ、ようやく視線が彼女からはずれた。瞳孔が絞られて焦点が肩に手をやるドライバーに移る。

 

 「坊主、大丈夫か!? 頭打ってないか!?」

 

 さぞかし惚けた表情をしていたのだろう。髭面のトラック運転手は、真面目に自分の頭を心配していた。理由はともかく、確かにその時の自分の様子はおかしかった。なにせ地面にダイブを果たして立ち上がって以降、ワナワナと震えるだけで身動き一つしないのだ。運転手の方が心配するのも無理もない。

 そうじゃない、彼女が大変なんだ。それを伝えようとしても唇は震えるだけで、言葉を発してはくれなかった。涙がこぼれたのか頬の上を生暖かい液体が伝う。すぐに降りしきる雨に混じって熱は消えた。

 

 「おい! こっちの子は怪我してるぞ! 手ぇ貸してくれ!」

 

 彼女に駆け寄ったもう一人の運転手から、焦りを帯びた声が飛ぶ。肩を支えられ助け起こされた彼女の顔には、流れ出す血と降り注ぐ雨が奇妙なマーブル模様を描いていた。痛みを堪えているのか、いつもは快活な表情を浮かべる顔をゆがめ、肩を大きく上下させて荒い呼吸を繰り返している。右の目と生え際の中間辺り、ややこめかみよりから血が流れていた。強い雨に流されて僅かの間、彼女の傷の形が見えた。五百円玉程度の大きさに肉が抉れて、その下の骨まで見えそうだ。

 間違いない、自分が突き飛ばしたからだ。トラックは彼女にぶつかる前に停止した。怪我なんかするはずはなかった。自分があの子に怪我をさせた。それも女子の顔に傷を付けて。意識が遠くなる気がした。いっそそのまま気を失えればよかった。でも気は確かなままだった。

 誰かが通報したのか、遠くサイレンの音が聞こえてきた。それはようやく事態が収束を迎えた合図のように響いた。だが実際は序章の終わりを告げる鐘の音でしかなかった。


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