二人の話   作:属物

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第六話、二人が買い物にいく話(その五)

ビッグバスケットの内装はさほど特殊なものではない。入ってすぐ目の前にはレジが一列に並び、左右には特徴のないエスカレーターと階段がそれぞれ設置されている。エスカレーターと階段の後ろにあるワゴンには、ぽつぽつと残る目玉商品の隙間から、幾つものポップが突き出ていた。書かれている文字によれば、「本日限りの大特価」で「お一人様二袋まで積め放題」の「特別感謝セール商品」だったらしい。きっと九時の開店時点では山と積まれてその偉容を示していたのだろう。しかし、そこには「兵どもが夢の後」と虚無が寂しくあるだけだった。

 何せ、「本日限り」「積め放題」「セール」といった単語を見た女性は、赤い布を振られた闘牛以上に興奮するものだ。例え富士山のように積み上げられた商品でも一溜まりもあるまい。その結果が不毛の地ならぬ不毛のワゴンと化した目の前の惨状である。

 正太はセールを前にした女性は戦闘力が倍になると実体験込みで知っている。各家庭のオカンともなればさらに倍率ドン。もしも、正太ごときがその地獄絵図に手を出したら最後、骨のかけらも残さずに粉砕・爆砕・大喝采となり果てるに違いない。いや、正太如きひとえに安売りの前の塵に同じ。喝采どころか声すら挙げてもらえないだろうと軽く想像できた。

 

 あんまり楽しくない想像を頭を振って振り払うと、正太は向かいの壁へと視線を向ける。目玉商品の向かい壁には小さな植木鉢や花瓶に入れられて色とりどりの花が置かれていた。おそらくは贈答用とちょっとした観賞用だろう。薔薇や菊、百合や椿などなどオーソドックスな品揃えに加えて、変わり種としてはサボテンやチューリップなどがある。

 その他には、外の野菜たちと同じくこちらにも遺伝子改造された花も存在を主張している。月光で光る望月夕顔(モチヅキユウガオ)、見る角度により色合いを変える玉虫蘭(タマムシラン)。直接口に入るものではないためか、野菜より特殊生物の割合が多いようだ。色鮮やかな花が目を楽しませてくれる。

 そんな光景になにやら興味を引かれるのか、蓮乃は小さな花畑となっている向かい壁に視線をぴったりと合わせていた。スーパーでの買い物に随分と心引かれていた蓮乃のことだから、こんな風景を見るのも初めてなのだろう。さっきから、初めて散歩に連れ出した子犬を思わせる、辺り全てに興味津々な様子を見せている。

 しかしながら正太はちらりと横目をやっただけで、その横を興味なさげに通り過ぎた。家事にも庭の園芸にも関わっていない正太には、トマトの苗だろうが蘭が半額だろうがさほど魅力はない。後々母に話せば何かしら言われるかもしれないが、向こうから依頼も指示も受けていないのだ。現場の判断を要求するなら自由になる予算を用意してからにして頂きたい。渡された金銭にさほど余裕はないのだ。

 

 だから、『あれ見たい!』と声を挙げる蓮乃を引きずるようにして正太はその場を離れる。加えて、むずがる蓮乃へと一言二言書いて見せて今は花売場に行かないことをアピールした。やることがあるのだ。いちいちこいつの要求に構ってなんぞいられない。

 一方、引きずられる蓮乃の表情は不満千万と訴えている。中に「色々」あると説得されたのに、その「色々」にさわれもしないのは契約違反だ、不公平だ、不合理だ。おかげでとってもご不満だ。顔にそう書いてある。ついでに文字にも書いてある。

 

 『なんでだめなの!?』

 

 『先に用事済ませるから』

 

 もしも蓮乃のわがままを優先して頼まれ事を失念してしまったら、後が怖くたまらない。妹も母も理由もなく人を締め上げるような、御無体な真似をする人間ではない。しかし理由あらば、躊躇なく人を締め上げる御仁でもあるのだ。正太は小さく身震いをする。

 しかしこのニトロ搭載逆噴射ロケット娘がこんな言い訳で納得するとは思えない。実際蓮乃は納得していない様子で、フグの威嚇よろしく頬を膨らませている。蓮乃の膨れ顔を見ながら、正太は「秋刀魚のワタをジョッキで一気飲みした」ような苦々しい顔で考え込んだ。

 さて、どーしたものか。と言うか、連れてきた人間の言うことをちょっとくらい聞けよ。胸中で蓮乃への文句を散々ぼやきつつ、正太は九〇度ほど首と頭を捻る。そのまま耳に入った水を出す要領で頭を繰り返し振るって、アイディアを振り出そうと試み始めた。フグの威嚇よろしく頬を膨らまして裾を引っ張る蓮乃と、壊れたメトロノームよろしく無駄にリズムよく首を痙攣させる正太。しばし、二人の間に異様な時間が流れる。

 一〇秒ほど経っただろうか。正太の頭から思いつきが零れ出た。

 

 ――とりあえず菓子売場に連れて行けば幾らか機嫌も直るだろう。

 

 貧相な想像力を駆使しても、ようやく出てきたのはこの程度の発送でしかなかった。さすがの正太でも「さすがにコレはないか」と考える様な代物だ。

 しかし、他に思いついた考えもない。正太の「す」入りな脳味噌ではこの程度を思いつくのが限界らしい。仕様がないからこれで行く他はない。それに菓子売場なら、清子からの頼まれ物である「カスタード大福箱入り八個」も売っているだろう。どーせ買わねばならんのだから、自分の買い物を先に済ませてしまっても問題は無かろう。

 とりあえず正太は『お菓子売場に行くぞ』と蓮乃に書いて見せた。正太を見つめる蓮乃の顔には、微妙に信じ切れていなさそうな複雑な表情が浮ぶ。少々信用を失ってしまったようだ。信用と信頼は爪で集めて箕でこぼすもの。しばらくは信用してもらえなさそうだ。

 正太は鼻からため息混じりの長い息を吹き出すと、蓮乃の手を引いて菓子売場へと足を進めた。

 

 

 

 

 

 

 目玉商品の島を突っ切った先、酒やジュースなど各種飲料の冷蔵庫から九〇度横。インスタントや缶詰の列の裏っ側に、子供の目的地「お菓子売場」の棚がある。ただし、お菓子売場はさほど大きいスペースではない。棚の列の約半分は、お父さん方の晩酌のお供である安いおつまみで占められている。一部のおつまみは子供のおやつになったりもするが、少なくとも甘い物は肴の棚に置かれていない。どうやらビックバスケットでは特売品を除くお菓子の売れ行きはあまり良くないようだ。

 

 それでも棚に詰め込まれた数々のお菓子は、蓮乃のような子供の目を捕らえて離さない。実際、棚中に詰め込まれたお菓子の軍勢に蓮乃の視線は釘付けだ。

 まず目に付くはデンプンチップスの紙袋。コンソメ、醤油、塩、バーベキュー、唐辛子、梅などなど、各種フレーバーのチップスが棚の間に鎮座している。その下には、少し値が張るが旧来のポテトチップスもちゃんとある。

 今が我が世と棚の下半分を埋めるのは、量も種類も多い駄菓子だ。麩菓子、あめ玉、おかき、煎餅、フーセンガム、粉末ジュース、ラムネ。元々が自然食品ではなく安価な科学合成材料を元としていただけあって、そのほとんどが現代の材料コスト変化にもたやすく対応してみせた。その上駄菓子と言えば、「人工甘味料」「合成酢」「加水分解アミノ酸」などの調味料を大量にぶち込んだ、舌が痺れる単純きわまりない味である。おかげで多少の味の変化など全く問題にならなかった。

 一方、冬の時代を体感しているだろう代替チョコレートは、子供の目に映らない棚の上段且つ隅っこにほんのわずかな数が並んでいる。混乱前のカカオが安価且つ大量に手に入った時代と比べれば、大きな声では言いづらいが人気のあるとはとうてい言えない。

 カカオビーン由来の疑似ココアと植物油脂から作られたそれに対して、当時の味を知る人間曰く「青臭くて渋い」「苦いだけでコクも香りもない」と散々な評価をされているのだ。盛者必衰というが、二昔前のチョコレートの人気を鑑みればあまりにも寒い現実である。贈答用の高級品に足場を移すことの出来た一部を除けば、そのほとんどは見る影もなく落ちぶれてしまっていた。

 

 そんな祇園精舎の鐘の声が幻聴する代替チョコレートを、渋い顔の正太は指さした。そして「これじゃあない」と胸の内で呟くと、その隣へと指を滑らす。これでもない。この中に探している菓子はあるはずなんだが。

 クリーム系のお菓子は全て同じ段に置かれている。棚の最上段一つ下だけで全部入るくらい、種類も数も少ないのだ。クリームや油脂を使用した菓子類は、かつての全盛期と比べて売り上げを大きく落としている。結局品質が上がらなかったためか、日本人の味覚が古来のそれに回帰したのか、はたまた単に牛乳のコストが上がったせいか。

 まあ、そう言うのは社会学の学者さんや製菓会社の研究者さんが考えることであって、自分が考えることではない。自分がやるべき事は一つ、清子に頼まれた「カスタード大福箱入り八個」を探し出して購入することだ。そうしないと後で清子にどれだけ絞り上げられることだろうか。もしそうなったならば、我が妹に容赦の二文字はあるまい。正太は「その時」を想像して小さく身震いする。それに約束した以上、それを守るのが筋と言うもの。「前の一件」もそうだがいろいろと迷惑をかけてしまっているのだ。このくらいはしっかりやらねば。

 自分にそう言い聞かせると、正太は再び端から菓子の確認を始めた。ミルク風チョコレート、クランチチョコ抹茶味、ヘルシークリームパイ、ショートチョコスティック……

 

 やっぱりここには見当らない。確か以前にビックバスケットで買ったはずなのだがどこにも無い。ほかにお菓子売場がない以上、ここに無ければ置いていないと言うことになる。売り上げが上がらないから、取り扱いを止めたのだろうか。

 しかし自分の記憶にある限り、カスタード大福は売れ筋商品の一つだった。国内産の材料を中心に代替材料を最小限にしたカスタード大福は、他のクリーム系菓子に比べて低価格で高品質な菓子だ。それ故に油脂と甘味のコンビネーションに飢えた人間にとっては、真っ先に手が伸びる商品でもある。それの取り扱いを止めるくらいに売り上げが落ちたとは少々考えづらい。それとも自分が知らないだけで、大規模な食品偽造事件でもあったのか?

 一人正太は首を捻る。思い返すも心当たりなしだ、何処にあるのかさっぱりわからん。それに、こうも繰り返し脳裏に浮かべるとどうにも味が思い浮かんでしょうがない。どうにも探し回っていたら何だか食いたくなってきた。

 

 ――そうだ、見つけて購入したら、いの一番で自分が食べるとしよう。

 

 買ってくるのは自分だし、金を出すのもまた自分だ。それくらいは許されてしかるべきだろう。記憶の味を思い出して正太は無駄に厳つい相貌を緩める。おお、あのずっしりと舌に絡みつくような甘み! 鼻を抜けるバニラの香りと口中に広がるコクが堪らないんだ。冷蔵庫の中から取り出してよーく冷えた奴にかぶりつくと…………まて、なんか引っかかったぞ。

 正太の脳をわずかにチグハグな感覚が引っかいた。想像の中で何かに対して違和感が感じ取ったらしい。正体を探るべく正太は脳内ビデオファイルの逆再生を試みる。

 

 「冷えた奴にかぶりつくと……」   いや、その前だ。

 

 「鼻を抜けるバニラの香りと」    いや、その後。

 

 「冷蔵庫の中から中からとりだして」 これだこれ!

 

 ああそうだった。そう言えばそうだった。カスタード大福は要冷蔵の生菓子だったんだ。安堵と納得がない交ぜになった感覚が正太の頭蓋の中で広がる。きっとアルキメデスもこんな気持ちで素っ裸のまま走ったに違いない。

 考えてみれば当たり前の話だ。こんな常温のところに置いていたら、あっというまにカスタードがミント仕立てにお色直ししてしまう。そんなもん食ったら最後、胃腸がスースーするくらい雪隠詰めとなるだろう。

 それにそもそもカスタード大福は冷やしておかないと、食べた拍子に黄色い粘液が周りに飛び散ってしまう。正直に言って見栄えが良くない。非常に良くない。なので冷蔵庫で良く冷やし、中身のカスタードを固めておくのが普通なのだ。

 こうして記憶を改めて参照すれば、カスタード大福を冷蔵庫に入れなければならない必然性がボロボロと音を立てて出てくる。自分は一体全体何やっていたんだか。正太は自分のこめかみを軽く小突いた。思ったより痛い。

 

 さて、当然ではあるがカスタード大福を買うためには、冷蔵生菓子が入っている冷蔵庫の所まで移動しなければならない。しかし正太には二つに分裂して別々に行動するような、器用で異様な魔法は使えない。世界中探せばそんな自己存在の実存に疑いそうな魔法使いもいるかもしれないが、少なくともそれは正太ではない。そうなると自分の足下で、目を皿にしてお菓子を睨みつけている娘っ子をどうにかしなければなるまい。

 正太は腰の辺りに見える小さなつむじに視線を下げた。正太の位置から見えるのは艶やかな長い黒髪と、パステルピンクのワンピースの背中だけだ。それでも菓子袋を引っ掴んでは元に戻す動きの端々から、しゃがんだ蓮乃の異様な集中ぶりは見て取れる。おそらくは、蓮乃に伝えた「一個だけ」を選び出すために、つむじの中身を最大速度で回転させているところなのだろう。知恵熱を出さないか心配である。

 

 色々悩んでいるだろう蓮乃の後頭部を眺めながら、正太もまた難儀な表情を浮かべた。こうも真剣に蓮乃が悩んでいると、冷蔵庫の所まで蓮乃を連れていくべきかどうか悩む。下手に連れて行こうとしても、蛸のようにしがみついて離れない蓮乃が苦労なく想像できてしまう。だからといって親御さんから預かった子供を放り出し、私事を優先で済ませるなんぞ言語道断。自分の親にも向こうの親にも申し訳が立たない。

 ならば、まずはここで菓子を選ばせるべきだ。正太は一人静かに首肯した。早めに用事は済ませた方がいいとしても、一分一秒を争うような事柄ではないのだ。自分の用事も忘れないように注意するならばさほど問題はない。昔の人もことわざで伝えている。「急いては事を仕損じる」「急がば回れ」「注意一秒怪我一生」……いや、最後は違うか。

 

 結論を出した正太は首を横に振ると改めて、真下でお菓子選びに心血を注ぐ蓮乃へと目を向ける。向けられた蓮乃はというと、デンプンチップスの黄色い紙袋とポテトチップスの青い紙袋を片手ずつ持って、二つの間で視線を行き来させていた。デンプンチップスとポテトチップスの紙袋にはそれぞれおいしそうな商品の写真(画像はイメージです)とともに、「レモン塩味」「ソルト&ビネガー」とポップな字体で記されている。右に左に、左に右に。不定期に向きを変えるつむじが、それぞれのお菓子に向ける迷いの感情を表現していた。

 そう言えば甘くないクッキーやコンソメ味のチップスも喜んで食べていたし、もしかしたら蓮乃の奴はしょっぱい物も好きなのかもしれないな。繰り返し動く蓮乃の頭頂部を正太は視線で追いながら、正太はぼんやりと考えていた。蓮乃はというと、どちらにしようか随分と悩み込んでいるらしい。

 そうやって蓮乃のおつむりをしばらく見ていると、蓮乃は紙袋を二つとも棚に戻し、今度は胡椒煎餅の袋を手に取った。その袋に正太は見覚えがあった。これは胡椒が利いててスパイシーで結構いけるやつだ。食べ過ぎると口の中が痛痒くて困るのが難だが旨い。しかし蓮乃はそれもまた棚へと戻した。蓮乃のお悩みは正太の想像よりも少々深いようだ。

 つづいて掴んだのはおかきのバラエティパック。正太の眉がひそめられる。正太の父が頂き物でもらってきたが、家族からは不評だったものだ。量は多いが質の方はちょっと考え物で、消費するのに時間がかかった。その隣の割れ煎餅の方が形は悪いが味はいいぞ。

 そんな正太の脳内アドバイスを横に、蓮乃は棚の下へとさらに手を伸ばした。それを見た正太の顔がゆがむ。何せ蓮乃の腕に抱えられているのは、大袋入りのハッカのど飴だ。おまえそんなもん買ってどうすんだ。そんな癖の強いもの舐めてたら消費にどれだけかかるやら。「夏」が来る前に「飽き」が来ちまうぞ。

 腹の中で下手な洒落をぼやきながら、正太は難しい顔で目の前の棚を睨みつける。何のかんのいっても宇城家では茶菓子や駄菓子を買うことは少なくないので、この棚のお菓子の大半には見覚えがある。自分の経験からアドバイスをすべきだろうか。けれど選ぶのは蓮乃な訳で、自分が横から口を出していいものか。しかし、この調子じゃ選んでレジまで持ってく頃には日が暮れるてしまう。お菓子選んで夕飯に遅れましたなんて、笑うに笑えない。

 

 時間を気にする正太は一人渋い色を顔に浮かべる。が、それに目も向けずに蓮乃は食い入るように菓子の群を見つめていた。なにせ「買ってやる」と言われたのはたったの一個だ。こんな機会はそうそうないのだから、十分に満足と納得ができる物でなくてはあまりにもったいない。

 そう考えている蓮乃はさっきから「これは!」という一品を探すべく、お菓子棚の上から下まで漁っている。しかし、悩んで悩んで悩み抜いても納得のいく品物はまだ出てこない。

 

 「ぬ~~むぅ」

 

 蓮乃の喉から思わず動物じみたうなり声が漏れる。その顔も正露丸をかみ砕いた時と同じく額にシワが寄っている。だが、いくら不平の声をあげても答えが天から降ってくるわけではない。アイディアは自分の中から出てくるものであり、外から持って来たアイディアをそのまま使用すれば「盗作」「著作権法違反」と言われるのだ。

 

 いい加減悩みっぱなしで頭が疲れて、しゃがみっぱなしで足が疲れた蓮乃は、行儀も悪く人造大理石の床に座り込んだ。お尻と足がひんやりして気持ちいい。当然それを見る正太の目つきは険しくなる。何やっとるんだ貴様は。

 尻と一緒に頭も冷えたのか、ふと蓮乃は気が付いた。そういえば後ろに兄ちゃんがいるのだ。自分より年上の正太なら(都合良く)求める答えを知っているはず。人から渡されたアイディアならば原案者扱いで法的問題はクリアできるのだ。

 そう考えた蓮乃は、棚に手をかけバネ仕掛けの勢いで立ち上がった。その動きに合わせて長い黒髪とワンピースの裾が一瞬、重力を忘れて宙を舞った。一つ間違えればワンピースの下を周囲に晒すことになるが、蓮乃がそれを気にする様子はない。そのまま背中を反らせて傍若無人に延びをする。さらに腰をツイストさせて腹直筋のストレッチをしつつ、ようやく正太の存在を思い出したように蓮乃は正太の方へと振り返った。

 

 「なもっ!」

 

 挨拶は忘れてはいけない。人と人とを結ぶものは挨拶だ。古事記には書いていないが、お母さんがそう言っていた……と思う。我ながら良い挨拶が出来た。蓮乃は満足の笑みを浮かべ鼻息を吹き出す。

 ただし、蓮乃の言葉を理解できるものは一人もいない。当人に気にする様子は一欠片もないが、蓮乃含めてだれ一人理解できない。そう言う障害の持ち主なのだ。

 

 そして挨拶された正太はというと、疲れた顔で「おう」と面倒そうに蓮乃の挨拶に答えた。蓮乃が何を言いたいのはてんで解らないが、何かを伝えたいから挨拶(らしきこと)をしているのだ。答えないのは流石に失礼だろう。

 しかし、こうも散々待たされた後にこんな感じの対応されると、頭痛が痛くなりそうだ。ああ、今外に出たら青空が青いに違いない。優れているとは言いづらい顔色で、正太はひきつり気味な笑みを浮かべる。

 蓮乃がそれに気が付く様子はなく、満面の笑みは小揺るぎもしない。蓮乃の浮かべるヒマワリスマイルに、正太はドブのように深いため息を排気した。ノギスで面の皮の厚みを測りたいところだが、きっと純粋に気が付いていないだけだ。本当に面の皮が厚いなら、あんなに簡単に泣きべそかいたりはしないはずだ。それを出来るくらい泣き真似と嘘泣きが巧いなら……いや、考えるまい。

 

 「で、なんだ?」

 

 蓮乃が理解できないことは判っているが、正太は口頭で呼びかけた。必要なら書取用のノートを出すだろう。そう考えた正太の想像通り、蓮乃はポーチに手を突っ込むと正太の方へとノートとペンを差し出した。差し出されたノートにはただ一文。

 

 『兄ちゃんならどれにする?』

 

 文を読んだ正太の眉間のしわが深まる。なんじゃこりゃ。いや、さっきから選び悩んでいたお菓子に関することだろうが、何でまた俺に聞くのか?

 正太は同年代はもとより、自分より下の年代とも付き合いがない。だから、蓮乃のような年の子供が好むお菓子など知る由もない。唯一参考になりそうなのは妹である清子だが、当人曰く「同年代から外れた趣味をしている」そうだから当てにはならない。それに加えて正太の目から見る限り、蓮乃は同じ年代の子供と比べて幼い様に見える。外観の話ではない、内面の話だ。そうなるとよけい解らない。どーしたもんだろ。

 

 イノシシが食中りを起こした感じの唸り声を上げて、正太は顔色を渋に染める。そんな正太の顔を蓮乃はなにやら期待混じりの表情でじぃっと見つめていた。純粋な視線に負けたのか、頬をひくつかせる正太の視線が自由形で泳ぎ始めた。視線は棚の上から下へと泳ぎ回り、棚の端で華麗なターンを決める。

 こりゃまずい。なんとかせんと期待を裏切ってしまうぞ。自分でもよくわからない焦りに支配された正太の視線は、見事なシンクロナイズドスイミングを決めつつ菓子から菓子へと泳ぎ回る。と、そこである紙袋に正太の視線は固定された。これだ、これなら何とか言い訳できる。

 すぐさま正太は手を伸ばし、目的のお菓子が入った紙袋をつかみ取った。蓮乃は正太の横に立ち、手の中をのぞき込む。その表面には渋い筆文字で「オキアミ煎餅」「徳用」「醤油味」と印字されている。そう、正太が選んだのは安くて量の多い「徳用アミセンの詰め合わせ」だった。袋の印字を読んだ蓮乃の頭上に疑問符が浮かぶ。

 兄ちゃんはこんなんがいいのだろうか。もっとこう、面白いお菓子か納得できるおやつを選ぶものだと思ってたのに。勝手な期待を寄せて一方的に失望している蓮乃は、唇を尖らせて少しばかり不満気な表情を浮かべる。

 その顔を見る正太の表情にもまた疑問符が浮き出ていた。何でこいつ文句ありげな顔してるんだ? まあいい、納得させられるだけの言い訳は用意してある。なにせ言い訳になるからこれを選んだのだ。正太は首を傾げる蓮乃へと向き直ると、蓮乃の抱えるノートをペンと一緒に受け取った。

 

 『独り占めするより家族みんなで食べた方がおいしいだろう?』

 

 正太の書いた一文を読み、正太から手渡された紙袋を抱える蓮乃は、「きょとん」と書いてある顔で正太を見上げる。蓮乃が狐に摘まれたような顔で見つめる先の正太は、何故かやり遂げたようなドヤ顔をしていた。まるでトリュフを見つけたブタのようだ。少なくとも、蓮乃から見える正太の顔には迷いの色は見当たらない。この言い訳もとい返答に自画自賛しているらしい。実際、理屈そのものは真っ当と言える。

 なお、こんな殊勝な考えは正太が自力で見いだしたのではない。両親からの受け売りであり、つまり両親の教えをそのまま口から垂れ流しているとも言える。だからこそ、筋の通った話をすることが出来たとも言えるが。

 しかし蓮乃はというと、納得したようなしていないような複雑な顔をしていた。具体的に表現するならば、「ちょっとした臨時収入があったのでどう使おうか悩んでいて、友人にどうしようかと話したら皆に奢ればいいと言われ、そりゃ皆喜んでくれるだろうけど自分のために使いたいしドケチ扱いされるのも嫌だし買いたいものもあるし、教えてラ○フカード!」みたいな顔をしている。

 「家族と一緒に食べるとおいしい」それはよくわかる。でも「好きなものを沢山食べたい」そういう気持ちもまた蓮乃の中にあるのだ。二律背反のジレンマに蓮乃の顔がへちゃむくれる。そしてその気持ちは言葉とはならず声となって口から漏れた。

 

 「ん~~~ぬぁうな~~うぅ」

 

 手の中の紙袋を睨みつけながら、選ぶに選べない蓮乃は悩みの鳴き声を上げる。遊星からの生物Xあたりが出しそうな声をこぼす蓮乃の顔は、苦虫を噛み潰した苦々しい表情だ。全く決まっていないキメ顔で悦に浸っていた正太だが、蓮乃の声に正気に返ったのか蓮乃へと向き直った。見苦しいドヤ顔を取りやめた正太から見える蓮乃の顔は、柴犬が便秘気味になった様に切ない。他人の心境を読みとる能力が最低レベルの正太でも、蓮乃がなにやら悩みを抱えていることくらいは解る。おそらくは自分の言い訳では納得し切れていないのだろう。それにしても随分な顔してんなこいつ。

 さてどーしたもんか。頭を掻きむしり「あー」だの「うー」だのうなり声を挙げながら正太は考え込む。その顔は、蓮乃同様にフン詰まりで力んでいるブルドッグのそれだ。ただし力みを込めて顔を歪めても、良案が排泄される様子はない。

 

 『おまえも好きな奴の方がいいと思うぞ。自分も喜んでみんなも喜ぶのが一番だ』

 

 結局正太は両親由来の無難な台詞で誤魔化すことに決めた。正太的には苦渋の決断だったのか、「結局フンが出ないまま散歩の帰路についたブルドッグ」の酷い顔で文字を書き込んでいる。したり顔で書いて見せた言葉が通用しなかったのが正太としては「痛恨の至り」らしい。

 しかし、ある意味においてはさっきまで得意顔をしつつ上から目線で垂れ流していたご高説とそう違いはない。どちらも両親譲りの借り物であり人様の教訓話なのだ。「正太のものでない」という点から見るならば同じものと言える。

 

 そのためだろうか。正太の想像とは異なり、蓮乃の整った顔に理解と納得の色が浮かんでいた。そう、大事なのは自分もお母さんも納得できるお菓子を探すことなのだ。時間はかかる、けど覚悟は出来てる!

 「むふーー!」と荒い鼻息を吹いた蓮乃は、覚悟を決めた表情で正太にお徳用の紙袋を押しつける。再度吟味に入った蓮乃と手の中の紙袋を交互に見ながら正太は呟いた。

 

 「……俺が買うのは一個だけだぞ」

 

 なお、正太の表情が筆舌にしがたい微妙極まりないものだったことは、言うまでもないことだろう。


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