二人の話   作:属物

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第一話、正太と蓮乃が出会う話(その三)

 額を押さえ頭を抱える正太の前で、女の子(表記の通りなら向井蓮乃)は、何というか、よく言えば自信に満ちあふれた、「してやったり」といわんばかりの笑みを浮かべている。俗に言うドヤ顔である。

 その顔を見ていると、何だか怒ることすらバカバカしくなってくる。正太の脳裏に、ネズミの死体を枕元に置いて、自慢げに鳴く猫の姿が浮かび、呆れのこもったため息がもれた。

 住所の表記を見るに、どうやら隣の部屋の住人らしい。最近越してきたことは知っていたが、子供がいるとは知らなかった。

 正太は向井蓮乃の手からノートを取り、手近なとこに置いてあったボールペンで確認のための質問を書いた。

 

 『君の名前は向井蓮乃で、隣の一〇四号室から来た?』

 

 その文を見た向井蓮乃は、首を大きく縦に振った。とりあえず、筆談なら話が通じるらしい。ひとまずはそれがわかっただけでも行幸である。さらに幸いなことに、一般的なものなら漢字も読めるようだ。ひらがなオンリーの文章は、書く側読む側ともに辛い。

 向井蓮乃の行動を確認した正太は、続けて机の上のノートにぺンを走らせた。おそらく、庭の垣根を乗り越えて開いている窓から入ったのだろうが、確認はしなければなるまい。

 

 『どうやって部屋に入ったの?』

 

 それに対する回答として、蓮乃は正太の手からノートを取ると、有名なネズミのシルエットのペンを、ウサギ型ポーチから取り出し、さらさらと一文を書いた。

 

 『窓が開いてたから植木の間を通ってきたの』

 

 自分が求める回答から微妙にズレているような気もするが、とりあえずの答えは得られたようだ。この子は読むだけではなく、難しい漢字を書くことも出来るらしい。漢字書取テストの成績の悪い自分には、実に羨ましい限りだ。

 さて次に問題になるのは、「この子をどうするか」ということである。「他人の家の娘さんを善意で預かっていました。勝手に」なんて話は、ミレニアム前ならいざ知らず、二〇五〇年代現在では「豚が空を飛んでいます」くらいの説得力しかない。当然すべきことは、ノートに書いてある電話番号に連絡を入れることだろう。お隣さんは日中仕事らしいし。

 

 『君のお母さんに電話します』

 

 向井蓮乃の顔に、ずいぶんな表情が浮かんだ。頬を膨らませ唇を尖らせた、「私、不満です」と書いてあるような顔だ。今にもブーイングの声を上げそうなその顔を見て、正太の額に縦皺が増えた。

 顔立ちに似合わず、いやこの顔立ちだからこそ、随分なわがまま娘のようだ。正太のただでさえ細い目が、内心の苛つきを受けてさらに細まる。

 

 『文句は聞きません』

 

 正太はそれだけ書き殴ったノートを、蓮乃の眼前に突きつける。続けてノートを掴んだまま立ち上がり、テレビ横の電話へと歩きだそうとした。

 その後ろから蓮乃が急ぎ足でついてくる。そしてノートを取り返そうと手を伸ばすが、それを察知した正太はノートを掴んだ手を上げて、蓮乃の手を避けた。

 

 苛立ちからか、蓮乃の頬が先ほど以上に膨れあがる。それを横目で見る正太の脳裏には、正月の焼き餅が浮かんでいた。

 これ以上つきまとわれるのは面倒と、正太はノートを持つ手を自分の頭上に伸ばした。蓮乃はノートを取り返そうと、正太の服の裾を掴み、背伸びして手を伸ばす。だが、正太の方が身長が高いせいで少しだけ届かない。思い通りにならない状況に、さらにしかめっ面になる蓮乃。

 正太はそんな蓮乃を無視するように、電話器のあるテレビ台横に足を進めた。ノートを持った手を伸ばしたまま壁につけて、蓮乃の手から届かない高さに固定する。そのまま首で受話器を挟みながら、ノートに書かれた番号へとダイヤルした。

 

 一回、二回、三回

 

 呼び出し音が受話器から流れるが、電話が取られる様子はない。

 蓮乃は背伸びをやめて、ノートに向けて跳ぼうとする。その頭を、正太が空いた手で押さえつけた。蓮乃の口から潰れたカエルのような、変な音がでる。

 

 四回、五回、六回

 

 押さえつけられるのに怒ったのか、蓮乃は強く正太を睨みつけると、正太の手に爪を立ててつねった。

 結構痛かったので、正太は平手で蓮乃の頭を軽くひっぱたく。正太の手のひらと蓮乃の頭がフィットして、込めた力の割にはずいぶんといい音が鳴った。ひっぱたかれて驚いた蓮乃は、一回転しそうな勢いで豪快にしりもちをつく。つねられた正太の手は、赤く腫れてヒリヒリと痛む。

 まだ電話は取られない。

 

 七回、八回、九回

 

 しりもちをついたのが痛かったのか、はたまた叩かれたのに驚いたのか。蓮乃の両目にじんわりと涙が浮かぶ。正太の顔に焦りが生じた。

 

 泣かせるのはさすがに拙い。そもそも電話をかけた時点でノートを持っている意味もないのだ。返してしまった方が後腐れもない。

 これだけ電話を鳴らしても、電話に出ないところをみるに、電話を出れるような状況ではないのか、電話の呼び出し音に気がついていないのか、そのどちらかだろう。これ以上、電話をかけ続ける必要もない。後でもう一度かけ直せばいい。リダイヤルすればノートをみる必要もない。

 

 そんなことを正太が考えている間に、蓮乃の顔がクシャリと歪む。子供が泣き出す寸前の表情だ。慌てて正太は受話器を置くと、蓮乃の前にノートを差し出した。目の前に突き出されたノートをひったくるようにつかむと、蓮乃はもう奪われないように、抱き潰しそうな勢いでノートを両手で抱え込んだ。

 TV正面右手のソファーから顔だけ出した蓮乃は、涙を湛えた目で正太を睨みつける。親の仇、いやノート誘拐の主犯格だと言わんばかりの目つきだ。実際ノートを取り上げたのは正太なので返す言葉もない。

 

 当然だがずいぶん嫌われたらしい。蓮乃の母親への電話が通じなかった以上、蓮乃には早急に一〇四号室へお帰り願いたいのだが、とても話が通じる状態には見えない。いくら苛立つようなことをしたとはいえ、ここまで怒らせてしまったのは失敗だった。

 だが、自ら帰っていただかなければ、さほど高くもない自分の社会的立場が大暴落だ。自分だけが被害を被るなら泣き言をわめき散らして泣き寝入りすればすむ話だが、実際は家族も巻き込む羽目になると言うことは、以前にイヤと言うほど実感している。万に一つでも家族に被害が及ぶようなことは、本当に御免被る。

 

 そこまで一息に考えると、改めて正太は蓮乃と向き合った。結論は一つ。無理にでも説得する他はない。そして電話脇のボックスメモにボールペンで一言書き込んではがし、蓮乃の目の前につきだした。

 

 『自分の家に帰ってくれない?』

 

 『やだ』

 

 蓮乃の返事は迅速で明確だった。見開き二ページまるまる使ったとっても元気のよろしい拒絶である。内容が内容でなければ、花丸をあげたくなるくらいだ。

 あまりの早さに正太の額の皺が増える。取り付く島などどこにも見えない。大海原にいきなり投げ出された気分である。まあ、怒らせるようなことをしたのは自分だし、仕方ない。子供だし、甘いものでもやれば話を聞くだろう。

 正太は色々と甘い考えのもと、もう一枚メモを蓮乃の前にぶら下げた。

 

 『後で甘いもの買ってやるから、家に帰ってくれ』

 

 『いや』

 

 これまた間髪入れずに拒否が打ち返される。早い、早すぎる。先読みでもしていなければ、不可能なほどの返答の早さだ。実際、蓮乃は正太が書くより先に、否定文を書きこんでいる。

 正太の胸からムカつきと苛立ちの混合物がせり上がる。そいつを口の中で噛み潰し、深呼吸と一緒に吐き出した。

 腹を立ててもどうにもならない。それどころか、よりこいつが意固地になるのは目に見えている。できる限り丁寧に、分かりやすく筋の通った文章をメモに書き込むのだ。それでも正太の感情が文章からにじみ出ているのか、文面はどこか皮肉げだ。

 

 『私にいるとあなたはいやな気持ちになるのでしょう。私にとってもあなたがいるのは迷惑です。なのでお互いのために、帰っていただけないでしょうか』

 

 蓮乃からの返答は文字ですらなかった。もう文字を書くのも、おまえの顔を見るのもごめんだと言わんばかりに、頬を膨らませたままそっぽを向く。

 その顔を見た瞬間、正太のさほど大きくもない堪忍袋の緒に切れ目が走った。

 

 ――何様のつもりだこのガキャァ!  そもそも手前が勝手に我が家に入ってきたのが原因じゃねぇか! 

 

 正太の額の端に青筋が浮かび、こめかみが脈打つ。耳の中で轟々と血の流れる音が響く。噴火寸前の火山のように、腹の底から煮え立つ溶岩がせり上がって来る気がした。

 だが、正太はわずかに残った理性を総動員して怒りを押さえにかかった。天井を仰ぎ、肺の底が抜けたかのような深呼吸を繰り返す。自制の糸をチリチリと焦がす感情のマグマを、腹の底から必死に掻い出した。

 感情のままに行動すればどういう結果を招くかは、泣きたくなるくらい、いや実際泣きわめいて覚えた。二の舞は一度で十分だ。三の舞ともなれば十五分となって容量オーバーしてしまう。

 

 一、二、三、四度目の深呼吸でようやく頭が冷えてきた。頭を軽く振るうと、改めて蓮乃に向き直る。

 目の前の相手の様子に気がついたのか、さっきのような「問答無用で返答不要」と顔に書いてある態度は、身を潜めている。ただし当然といえば当然だが、不機嫌は直っていないらしい。実際、正太を見る目はじっとりとした半目である。

 人形めいた美貌と相まって、一部の奇矯な趣味人なら舌を垂らして喜びそうだ。ただし正太にはそんな趣味も余裕もないので、蓮乃の表情は「現在、不機嫌」以上の意味はない。

 

 どうやら優しく諭してやるのは無理なようだ。ならば力で押し通るまで。甘い(? )言葉で足りなければ、暴力もまた必要なのだ。さすがに手は挙げられないので、言葉で少々脅すだけだが。正太は一つ息を吸い込むと、息を止めてブロックメモに書き殴った。

 

 『これ以上ガタガタぬかすなら首ねっこつかんでとなりの庭へ叩き込むぞ、クソガキ』

 

 たっぷりと感情と脅しが載った一文である。少々感情と力がこもりすぎたせいで、メモの所々に穴があいてしまっているが、むしろ怒りを込めて刻みつけたように感じさせる。少々ドスを利かせすぎたか、と正太が思ってしまうほどの仕上がりだった。

 さすがに驚いたのか、蓮乃は目を丸くして文章に目をやり、その表情が目まぐるしく変わる。初めは不快そうなしかめっ面、次はなにやら考え込む顔、最後は頭の上に電球がついたような表情に。そして蓮乃はいそいそと正太へノートを差し出すと、表紙から二ページ目をめくって見せた。

 そこには、表紙や住所と同じ筆跡で二行ほどの短い文が書かれていた。

 

 『変なことをされそうだったりされたりしたら、できるだけ大きな声を上げなさい。誰かが声に気づいてくれます。』

 

 端的に言うならば、変質者に襲われたときの対処方を書いた警告文である。表紙と同じ筆跡ということは蓮乃の親が書いたのだろう。

 これを見せた意味は明白である。つまり蓮乃はこう言っているのだ。『もしそういう事するんだったら、大声で叫ぶぞ。おまえは変質者扱いだ』と。

 思わずまじまじと蓮乃の顔を見る正太。蓮乃の鼻の穴がぷくりと広がるところまでよく見えた。先のドヤ顔以上にこの上なく勝ち誇った表情をしている。まるで顔全体に「私の勝ちだすごいだろう」と書いてあるようだ。

 

 その子供らしい妙な万能感あふれる顔を見ていると、正太の中で煮えたぎっていた怒りが、音を立てて抜けていくように感じた。思わず正太は深々とため息を吐く。怒りと一緒に、やる気とか根気とか他色々な物が消えて失せてしまったらしい。

 なんだかひどく疲れた。もはや何もかもが面倒くさい。それに、親御さんへの連絡は電話をまたかければいい話だ。

 

 正太はTV正面のソファーに尻を落とすと、持ってきた小説を手に取りめくり始めた。とりあえず目の前のことは横に置いて、小説を楽しむことにしたのだ。

 よけいなことは考えない。特に右手ソファーに鎮座している、我が家の異物のことは特に。

 正太はそう決めて手に取った本のページをめくる。一ページ一ページを読み進めるごとに、よけいな雑念が消え失せてゆく。そして中央アジアを思わせる幻想世界と、女槍使いの活躍へ完全に没頭しようとする瞬間、ふと視線が自分に向いているのに気がついた。

 

 宇城家の異物である蓮乃が正太の右横に腰を下ろして、正太の方を身を乗り出すように、じぃっと見ている。いつの間にやらTV右手のソファーから、正太の座るソファーまで移動したらしい。

 見つめる蓮乃は視線で穴があきそうなくらい集中している。思わず正太の方も見返してしまう。おかげで、物語に没頭するための集中はすべて吹き飛んでしまった。

 ようやくいい感じになっていたのに台無しだ。ぶり返した苛つきを込めながら、蓮乃を睨む正太。すると正太は蓮乃の視線が微妙に自分からずれているのに気がついた。どうやら手元に視線は向かっているようだ。

 手元の本を右にスッと動かすと、それに併せて蓮乃の視線も右へと動く。左にツィッとずらしてみると、それに併せて蓮乃の視線も左へずれる。

 

 本を右に移動。視線も右に移動。

 もう一度右に。視線ももう一度右に。

 さらに右、と見せかけ左に。視線は右に、とすぐに追いかけ左へ。

 

 なんだかおもしろくなってきた。そう感じた正太は今度は左に動かそうとして、蓮乃に腕を捕まれた。正太は目を丸くする。

 そこまで読みたいのだろうか。いじり回したんだし、一冊くらいいいか。半ば怒る気力を失っていた正太は、そう考えて手元の本を閉じて差しだそうとした。

 だが、蓮乃の手は放れない。苛つきや怒りより困惑を覚える。こいつは何を見てる? 

 

 蓮乃の視線を追うと、手の中の本よりやや下の正太の右手首にたどり着いた。そこには正太の数少ない印象的な「特徴」がある。たしかに、珍しいといえば珍しい。日本人でこんな「特徴」を持っている奴は結構限られる。

 ただ、日本に帰化した元外人さんは持っている人が多いから、単に目にするだけならそう難しくもない。それに、自分の「特徴」と同じ物を見たいなら、役所にでも行けば見本の一つくらい見れるだろう。そこまで注視するものだろうか。正太の胸中に疑問符がプカリと浮かぶ。

 

 その疑問符は、目の前に突き出された蓮乃の右手首で氷解することとなった。そこには正太と同じ「特徴」……つまりは電子ペーパー画面のついた赤銀色の「腕輪」があった。思わぬ不意打ちに、正太は蓮乃の顔をマジマジと見つめる。その眼前に、子供っぽい丸文字が書き込まれたノートが突き出された。そのノートには、正太の脳裏を埋め尽くしている言葉とほぼ同じことが書かれていた。

 

 すなわち『あなたは魔法使いなの?』と。


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