二人の話   作:属物

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第六話、二人が買い物にいく話(その三)

 蓮乃の一時帰宅より数分後。行儀悪く食卓に頬杖を突いた正太は、不機嫌と書かれたしかめ顔で居間の窓を眺めていた。無駄に横広い体を包むのは、抹茶色の木綿パンツとキリル文字プリントの灰色Tシャツという、地味を体現したような組み合わせだ。なお、Tシャツのキリル文字は「カニ」を意味している。

 蓮乃の格好を酷評していた正太だが、今の格好を見てその資格があると納得できる人はそう多くないだろう。何せ、上も下も安売りバーゲンで買ったもので、その上自分で選んだのではなく母が買ってきた服を適当に合わせただけの雑っぷりである。一応これでも正太なりにお気に入りを選んだのだが、お気に入りでこの程度というあたりセンスの程度が伺える。

 

 正太の目線の先で、宇城家一〇三号室と向井家一〇四号室を分ける垣根が五月の薫風に揺れている。心地よい初夏の日差しを存分に浴びて垣根の植木は新緑に輝いているように見える。その光景をぼんやりと網膜に映しながら、正太は先ほどの蓮乃の帰宅を思い浮かべた。

 『靴と靴下を履き替えてこい』と告げられた蓮乃は、いつも通りに「垣根の隙間から」一〇四号室へと帰宅した。蓮乃が来るまでは「玄関から帰れ」と言おう言おうと思ってはいたのだが、結局正太は言いそびれてしまった。蓮乃のあまりに素っ頓狂な格好に衝撃を受けて、正太の頭からその事がすっぽ抜けてしまっていたのだ。

 蓮乃がやらかしたときに言わなかったくせに、帰ってきてから叱るのも今更だしなぁ。だからといって放っておくのもなぁ。口元をへの字に曲げたまま、正太は歳に見合わない大人びたことを考える。ひん曲がった唇から機嫌を損ねた豚を思わせるうなり声をあげて、発展途上のシナプス網に火を付ける。何とかして筋の通った形で蓮乃に玄関から帰るように言いつけられないものか。

 

 だが所詮正太は一四のガキでしかなく、考えも子供の背伸びや付け焼き刃の類でしかない。結局、考えの煮詰まった正太は両手で頭を抱えると、天井を仰いで敗北宣言を口にした。

 

 「あーもーくっそ、こんちくしょう」

 

 きっとこれが尊敬する両親なら、ベストな回答を知っていることだろう。年齢以上に頭のいい清子ならば、少なくとも自分よりマシな答えを出せるだろう。しかし、他人の心というものが全く持って解らない自分にはあまりにも荷が重い話だ。もし「前の一件」以前の考えなしのノータリンだった頃ならば、愚か者らしく、相手の気持ちなど全く考えず自信満々かつテキトーに、上から目線で蓮乃を怒鳴りつけていたはずだ。

 だが、愚者らしく「前の一件」で泣くほど痛い目を見てようやく学んだのだ、「自分は人様の腹の内など一片たりとも判っていない」ということを。そんな自分が現行犯でもないのにお隣さんの娘である蓮乃を叱りつけるなど、余りに大それた話だ。自分ごときがやるなど失礼極まりないことだろう。

 考えていることが斜め下にズレてきていることも気がつかず、正太は自分で自分を貶しつつマイナス思考のスパイラルへと落ちてゆく。ついでに頭を食卓の上に落とし、正太は首だけ曲げて顔を庭の方へと向けた。天気はきれいに五月晴れ、庭の草木は新緑に萌え上がっている。のどかな皐月の光景と無駄に暗い己の有様を鑑みて、正太は泥のようなため息を吐いた。

 

 いい加減にしよう。一人上手に、ネガティブ思考していたところで、何の意味も得もない。それに年下の子供相手に、落ち込んだ顔を見せて喜ぶ趣味はない。どうせするならまともな顔だ。上体を起こして姿勢を正すと、正太は気分を入れ替えるべく、繰り返し大きく息を吸って吐いた。おかげで無意味なマイナス思考が多少抜ける。

 さらに気分を一新するべく正太は椅子から立ち上がると、居間の隣の台所へと向かった。気分が落ち込んだときは何か口に入れるに限る。どう考えてもデブ一直線なこの方法が、正太にとって一番のストレス解消法だったりする。こんなんで痩せるなど夢のまた夢、宝くじに当たる方がまだ確率が高い。自分の体型に文句があるなら、母の遺伝子にいちゃもんを付けるより、これに代わるストレス解消法を見つける方が遙かに有効だろう。

 

 台所に着いた正太は調整豆乳でも飲もうかと冷蔵庫に手をかけた。冷蔵庫の平たい扉はクリップボードの代わりに、些事と指示の書かれたメモで埋め尽くされている。母の字で書かれた数々のメモは、主に見る人間が母だけだからか「日選カタ五月終り予定」「蒼穹振込一万七千」「切手補充¥一〇〇×S一」などなど暗号文と見間違えそうなくらい端的だ。

 紙パックを取り出して扉を閉じた正太は取り出したコップに豆乳を注ぎながら、冷蔵庫の一面を覆うメモのウロコ文様を見ることなしに眺めていた。なみなみと豆乳の注がれたコップを口へと運び、一口目をのどの奥に流し込もうとした瞬間一枚のメモが正太の目に留まった。無数のメモ書き暗号が並ぶ中、ただその一枚に母の字で「正太へ」の一文が入っていたのだ。「母さんから自分宛のメモって何かあったっけ?」と内心首を傾げつつ、正太はメモの文面に目を通す。

 

 でんぷん米「かがやき四二」五kg、零余子芋(ムカゴイモ)・皮無し玉葱(カワナシタマネギ)各五個ずつ、酵母肉五〇〇g、ベルモントカレー中辛・甘口一箱ずつ等々、ズラズラと書かれた品名と個数。末尾には「お金は買い物かごの財布から出してください」の一文も添えられている。どこをどうみても買い物メモである。

 ああ、そういえばそうだった。頼まれて買い物にいくんだから、何を買うかのメモは必須だったんだ。大事なことを忘れていたと、正太は小さく舌打ちを響かせる。カスタード大福とお菓子の補充くらいしか正太の頭には残っていなかった。これでスーパーに行ったなら、帰ってきた後に油っ気がなくなるまでこってり絞り上げられていたことだろう。あまり楽しい想像ではない。

 

 やっちまったと後悔の渋面を作った正太は、額を覆って落ち込む代わりにコップをあおって一息で豆乳を飲み干した。失敗前に見つかったのだ、何か問題が起きたわけではない。「ヒヤリ」「ハッと」は事故や過失につながる道ではあるが、「危なかった」で終わらせずに次に生かせれば、事故の効果的な予防になる。これも下らない落ち込み癖を発揮するより、忘れないためにはどうすればいいかを、考えた方が何倍も有意義だ。

 豆乳最後の一滴を舌の上に落とした正太は、そこまで考えて気分を改めメモを見直す。材料を見るに今夜はカレーだ。好物だからこいつはうれしい。渋顔をカレーのイモよろしく煮崩して正太は頷く。だがそこで、ふと気がついた。

 

 ――この量だと帰りは両手一杯に紙袋を吊す羽目にならないか?

 

 さほど量のない酵母肉やベルモントのカレールーはともかくとして、ムカゴイモとタマネギは結構な体積をとるだろうし、でんぷん米五kgは確実に片手がふさがる。それに加えて補充用のお菓子数袋に箱入りカスタード大福まである。さらに言うなら、これを両手に持った上で蓮乃のお相手をしつつ家まで連れて帰らなければいけないわけで……

 

 「うっわめんどくせぇ」

 

 思わず本音が口から漏れた。言い出しっぺが自分とはいえ流石にこれは面倒くさい。基本的に蓮乃との会話はほぼすべて筆談であり、つまり可能なら両手が最低でも片手が空いていなければ会話ができない。にもかかわらず、買ったものを持てばほぼ確実に両手が塞がってしまう。つまり、会話不可能な状態であのゼンマイ過剰巻き気味女子を相手取らなければならないわけだ。

 せめて我が家最速の移動手段である自転車(車齢一〇年のママチャリ)が使えれば多少は楽になるのだが、母がパートの職場への移動に使用しているから今現在家にない。それにパートの職場は自転車片道三〇分の距離にある。そろそろいい歳の(否定してるが)母にその距離を歩けとは流石に言えない。

 他の手としてはリュックサックを用意するという手段も、あるにはもある。だが、旅行の時以外使わないそれの置き場は母しか知らない。探したとしても蓮乃が来る前に見つかることはないだろう。家中をひっくり返して、蓮乃のご機嫌を押し下げたあげく母の血圧を押し上げるのが精々だ。

 

 さらに加えて今日は徒歩の蓮乃がいるわけで、もしも自転車があっても正太は自転車を押して歩くしかない。これじゃやっぱり両手が塞がってしまう。まさに八方塞がりというわけだ。

 法に反していいのなら自転車二人乗りという手もあるにはあるが、そんなことをしたらお巡りさんの目に留まって免停を頂いてもおかしくない。そんなことになったら、油どころか血の一滴も残さずに両親から絞り尽くされかねないだろう。

 管理社会が浸透したこの時代、いろんな自由は許可制・免許制になっており、自転車免許こと「軽車両運転免許」もその一つだ。かつては好きな時に乗れて好きな所へ行ける、小回りの利く簡便な移動手段として重宝されていたのだが、現在は免許が必須である。免許の取得自体は難しいものではなく、一〇歳から簡単な講習と実技で簡単に手に入れられる。

 しかし、元々自転車事故の増加を切っ掛けに作られたものだけあって、事故原因になる「酒気帯び運転」「傘持ち運転」「二人乗り」のような危険運転への罰則は厳しいのだ。

 

 「どーしたもんかね」

 

 将棋で「王手詰み」をかけられた心境の正太はやるせなさそうな顔でため息をつくと、いつもの口癖をぼやきつつもう一杯豆乳を飲むべく冷蔵庫を再度開いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 太陽は天頂を越したが、日差しの強さがピークを迎えつつある午後早く。先ほどと同様に、正太は居間で食卓に頬杖をついて庭の方を眺めていた。机の上には使い古した強化紙製の買い物袋四枚を、折り畳んで帆布袋に押し込んである。

 これで買い物に足りるかどうかは不安だが、まあ最悪スーパーで紙袋を買えばいいだろう。買い物メモと財布と鍵はポケットの中に放り込んだ。カスタード大福の分は別枠で自分の財布を入れてある。蓮乃用にメモとペンも用意している。忘れ物はないはずだ。あと要るのは、お隣さんの娘っ子だけ。「出入りは玄関から」って言いそびれてしまったから、ほぼ間違いなく庭から来るだろう。

 『噂をすれば影が差す』というが、誰かを思い浮かべているとそいつを見かけることは多いものだ。今回もその例に漏れず、正太の視線の先にある植木の垣根がふるえるように揺れ動いた。当然そこから飛び出すのは猫でも犬でもないが、中身はある意味それそっくりな見覚えのある長い髪だ。

 

 「まーーー!」

 

 いつもの通り何を言っているのか全く解らない歓声を上げ、元気一杯に右手を振り上げご挨拶。正太が答えるように小さく手を振ると、飼い主に誉められた子犬のしっぽよろしく蓮乃は右手をぶんぶん振り回す。活力気力その他諸々あふれ気味の蓮乃の様子に、正太は優しげな苦笑を漏らした。

 さてさて蓮乃の奴は言われたとおり格好を変えただろうか。薄桃色のワンピースと白兎ポーチはそのままに、頭上のパナマ帽も相変わらず。膝から下は自分に言われたとおりに、普通の白靴下とビーチサンダルに履き替えて……ってビーチサンダル?

 

 正太の眉間にしわが寄った。改めて蓮乃を見直すと、確かに靴下は大きすぎる五本指ではなくサイズのあった普通の奴に代わっているのだが、その下の履き物は特撮ヒーローがプリントされたビーチサンダルのままである。

 眉間同様のしわが正太の顔に寄って不機嫌を示す渋い面を作る。このままいくと自分の顔でしわがデフォルトになりそうで怖い。覚えが正しければ、自分は蓮乃に『靴と靴下を履き替えてこい』と書いて見せたはずだ。靴下を普通の奴に履き替えてきた以上、知らなかったというわけはあるまい。なら一体どういうことだ。

 正太はでかいケツを椅子から持ち上げると、庭に面した窓際へと足を運んだ。当然、蓮乃との会話用にメモとペンは欠かさない。蓮乃のおかげで用意したメモとペンがすぐに役立つわけだ。まあ、元々蓮乃用に用意したものだから何にもおかしくはないのだが。

 

 『靴に履き代えろっていったろ?』

 

 正太は疑問をメモに刻んで蓮乃に突きつけた。さて、何と叱るべきか。胸の内で一人ごこる。だが、蓮乃からの返答球は正太の予想の頭上を越えて大暴投だった。

 

 『お母さんが洗っちゃってる』

 

 口の脇にひきつったしわが寄り、正太は思わず内心で頭を抱えた。昨日(第五話参照)、蓮乃に「睦美さんに買い物に行く許可を貰うように」と伝えておいた。蓮乃がこうしてここにいる以上、睦美さんに話が行っているはずであり、普通なら靴を洗うような買い物の邪魔になることはしないはずだ。それなのに蓮乃の言が正しいならば履き物が洗濯されてしまっていたのだ。

 

 ――蓮乃から話聞いていなかった訳じゃあるまいし、睦美さんいったいなにやっているんですかぁ!?

 

 思えばそもそも靴を洗っていたから蓮乃はビーチサンダルを履いていたわけなのである。それが判っていたなら先に書いて置いてくれよ、頼むから。文句を視線に込めて睨みつけるが、素知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいるのか、はたまた気がついてもいないのか、蓮乃はニコニコマークで笑っている。蓮乃の変わらぬ笑顔に気力が失せたのか、正太は敗北宣言代わりのため息をもう一つ追加でこぼした。

 

 『履き替える前に判っていたなら、はじめっから言ってくれ』

 

 「ん」

 

 正太の言葉を解ったのか解ったふりなのか解らないが、蓮乃は首を縦に振った。今更言ってもしょうがない。靴が無いから蓮乃はビーチサンダルを履いているのだ。叱ったところで靴が出てくるわけでもない。この話はこれでいいだろう。これで終いだ。

 蓮乃のいる庭の方から視線をはずして壁に掛けられた時計を見やれば、そろそろ午後二時半ば。自分も一応準備はできた。忘れ物がないかも確認した。蓮乃の方は言うまでもなし。準備万端の蓮乃を待たせるのも悪いし、ちょいと三時には早いが予定を少々早めるか。

 

 気分転換もかねて予定を早めることを決めると、それを告げるべく正太はメモとペンを手にした。


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