二人の話   作:属物

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第五話、三人でお菓子づくりの話(その五)

 まずは、冷凍庫の片隅で凍り付いていたお中元の明太子、正太がスーパーまでひとっ走りして買ってきた絹ごし豆腐、鰹節風味の顆粒出汁、宇城家の定番ポン酢醤油。これらを混ぜて明太子とお豆腐のディップ

 続けて、同じく絹ごし豆腐・朝の味噌汁用白みそ・昨年母が漬けたしそ梅を和えて、粉飴・サラダ油・食酢で味を調えた、豆腐としそ梅ディップ。

 さらに、缶入りのカレー粉と顆粒スープの素をマヨネーズ風ソースと豆乳であえたカレーディップ。

 最後に、アナログチーズとショートニング、粉飴、ケーキシロップをよく混ぜて、甘めのクリームチーズ風ディップ

 各種ディップに加えて、合成タンパクの整形ハムとアナログチーズ、七味唐辛子、胡椒、ジャムをお好みで。飲み物は豆乳とラムネをご用意。

 

 居間に鎮座する宇城家の食卓に、幾多の付け合わせがずらりと並んだ。その真ん中には、さっき作った塩味のビスケットが大皿に積まれて小さな山を作っている。

 テーブルの半分を占める皿の軍団に、正太は顔をひきつらせた。食事とおやつは大好きだが、ここまでされると乾いた笑みしか浮かんでこない。

 

 「なあ清子、これもうおやつじゃなくて軽食じゃねぇ?」

 

 「うん、ちょっと作りすぎたかもしんない」

 

 大皿に積み上げられたしょっぱめのビスケットを眺めながら、清子は苦笑いを浮かべた。いい考えが浮かんだのでついついノってしまった挙げ句がこの有様である。どう考えても作り過ぎた。全部食べたら夕食は確実に入らないだろう。

 炭酸の泡のようにふつふつと浮かぶネガティブ思考を、清子は首を振って振り払う。まぁ、冷蔵庫で保存してちびちび頂けばさほど問題はないと思う。父の晩酌のアテにしてもよさそうだし。それになにより、蓮乃ちゃんがご機嫌になったのだから一番の懸念事項は解決しているといえる。

 

 清子が視線を横へとやると、目をまん丸に見開いてテーブル上に並べられた軽食を見つめる蓮乃の姿があった。未知の味への期待と自分が手伝った食事へのちょっぴりの不安、そして何より「自分もこんなことができるのだ」という満足感に両目をキラキラと輝かせている。例え心配性の睦美さんと言えども、この表情を見て落ち込んでいるとは考えないだろう。

 蓮乃の様子に安堵のこもった息を吐くと、清子は合図に両方の手のひらを打ち合わせた。

 

 「じゃ、おやつにしますか」

 

 ビスケットもその付け合わせも眺めるもんじゃない。食べるものである。いつまで眺めていたところで、おなかが膨れるわけでもない。せっかく作ったのだから美味しい内に味わうのが食べ物への礼儀と言うものだ。

 三人は思い思いの席に腰を下ろした。正太はテレビを背にして、蓮乃は正太の向かいに、清子は二人と直角の椅子へ。それぞれの前にはクラッカーの取り皿ととりあえず豆乳の注がれたコップが鎮座している。清子と正太は両手をあわせ、蓮乃もまねして合掌する。居間に三人分の挨拶が響いた。蓮乃のそれはよく判らないが

 

 「いただきます!」

 

 「いただきます!」

 

 「いななきまう!」

 

 食前の挨拶が済めば後は食事の時間だ。ビスケットの一枚をつまみ、その上に豆腐としそ梅ディップを一匙乗せる。そのままかぶりつけばざくりとビスケットは崩れ、でんぷんの素朴な甘みとともにまろやかな酸味が口中に広がる。鼻に抜ける紫蘇と梅の香りがこれまた心地よい。実にうまい。

 

 「うん、いけるなこれ」

 

 指についたビスケットの粉を取り皿にはたき落としながら、正太は感想をこぼした。

 正太の中の固定観念では「ビスケット=甘い」となっていたが「ビスケット≠甘い」でも何の問題もないようだ。いやそれどころか、「甘くないビスケット」は甘いビスケットに比べてより多くの食材と組み合わせることができるように思える。先に「おやつではなく軽食」と表現していたが、意図せずに的を射ていたらしい。おやつだけで終わらせるのがもったいないくらいだ。

 ハムとチーズを乗っけたビスケットを頬張る清子にそんなことを話したら、別の意味で驚かれてしまった。

 

 「知らないの? 甘くないビスケットをクラッカーって言うんだよ」

 

 そんなことは今初めて知った。言われてみれば確かに、ビスケットもクッキーもクラッカーも全て「小麦粉と油と砂糖もしくは塩を練って焼いたもの」であることに違いはない。さらに言うなら、ビスケットはフランス語の「ビスキュイ(二度焼きパン)」を語源としているのだが、これは今で言うカンパンのことを意味するそうだ。つまりビスケットはそもそも甘いものではなかった。そう考えるならば、甘くないビスケットをクラッカーと呼ぶことも別段おかしい話ではない。

 清子の言葉に納得した正太は静かに頷くと、カレーディップをつけた塩味ビスケット改めクラッカーを口の中に放り込んだ。これもなかなか。加えて麦茶のコップをあおる。とても良い気分だ。

 

 「そういえばさ、お菓子もう無いって言ってたけどどうする?」

 

 「そりゃ、買ってくるしかないだろう。空から降ってくるわけでもあるまいし」

 

 思い出したような清子が問いかけに、正太は当たり前のことを無意味に捻って答えた。確かに無いなら買うしかない。能動的に市販のお菓子を得たいなら、他に方法はないだろう。犯罪に手を染めるなら別だが、高々数百円のおやつのために留置所生活は御免被る。

 

 「それなら面倒なくていいんだけどね」

 

 「それはそれで面倒じゃないか? 取り合いになってもおかしくないし」

 

 返答を聞いた清子は小さく笑って正太を揶揄する。

 

 「お菓子だけに?」

 

 正太の口が「へ」の字に曲がった。頬杖を付いて憮然とした顔を正太は浮かべる。意図して駄洒落を口にしたわけではない。不機嫌そうに顔をしかめる正太を笑いながら、清子は頬杖は行儀が悪いと注意した。

 

 どうでもいい雑学や雑談を話しながら和気藹々と軽食は進む。やっぱり甘いものよりそうでない方が好みなのか、正太が食べるのは辛口のディップがほとんどだ。一方、どっちもいける派の清子はえり好みせず一通りを口に納めている。それに、どれもこれも自分が中心で作ったものだから、どれであろうと美味しく感じるものでもある。そして蓮乃はと言うと、ネズミのごとくに頬を膨れさせて文字通りクラッカーを頬張っていた。口の中に詰め込まれているのは、子供らしく甘いクリームチーズ風ディップとカレーディップの二種類だった。しかし意外にも三:七とカレーの割合が多かったりする。

 小動物そのまんまな蓮乃の有様を見て、正太は喉の奥から気持ちの悪い笑い声をこぼした。口にクラッカーを詰め込む作業に大忙しの蓮乃の肩をつつくと、半笑いの顔で一応の心配事を書いたメモを見せた。

 

 『夕飯入んなくなるぞ』

 

 『ちゃんと夕ご飯食べるから大丈夫』

 

 正太の警告に蓮乃は全く信用のおけない答えを返す。口一杯にクラッカーを押し込んだその様を見て、蓮乃の言葉を信用できる人間はそうはいない。正太もその一人であり、蓮乃へと不信の意味を込めた不審な視線を向けた。正太の白い目を無視して、蓮乃は口に詰めたクラッカーをもぎゅもぎゅとかみ砕くと、コップの豆乳で一気に流し込んだ。端から見ていると本当に味わって食べているのか考えたくなる食べ方だ。

 ゆっくり味わって食べろと言いたい所だが、その前に言わなければならないことを思い出した。まあ、正しくは「言う」ではなく「書く」だが。これからすることを思い少しばかり目を細くした正太は、案の定行儀悪くゲップをこぼしている蓮乃の肩を揺すった。

 

 『蓮乃、ちょっといいか。さっきの件で一つ、お説教がある』

 

 「蓮乃ちゃんが塩と間違えたことならもう終わったじゃん。蒸し返すことないよ」

 

 正太が蓮乃に見せたメモに、横からのぞいていた清子が渋い顔でツッコミを入れる。

 清子の言うとおり三〇分以上今更の話である。それに主に被害を受けた清子がもう良しとしているからには、正太がくちばしを差し込む話ではない。さらに言うなら問題が発覚したときに言うべき事柄だ。どう考えても遅すぎる。

 

 「いや、そっちじゃなくてな」

 

 正太は顔の前で手を振って、清子の言葉を否定した。予想外の返答に清子は首を傾げる。さらにもう終わったはずの事を蒸し返す一文に蓮乃も首を傾けた。疑問符を浮かべる二人に正太は、追加でメモを書いて見せた。

 

 『俺がお説教することはな、蓮乃が失敗したのを「話さなかったこと」についてだ』

 

 納得した顔で手を打った清子と不可解そうに眉根を寄せた蓮乃。正太の言葉に二人は対照的な反応を返した。

 

 

 

 

 

 

 プレゼンテーションはまず結論を第一に示す。後々から示されると、話し初めの頃の内容が何を伝えたいのか解らなくなりがちだからだ。それを知ってか知らずか、正太は一番初めにお説教の結論を書いたメモを蓮乃の前に突き出した。

 

 『俺が言いたいのは、「何か失敗したならそれについて書いてくれ」ってことだ。文字にしてもらわなきゃ、こっちは何にもわからんのだ』

 

 人間は他人の心を推し量ることができる。だがそれは「推し量る」という言葉通りに「当て推量」にすぎない。たとえ頭蓋をこじ開けて脳味噌に電極を刺したとしても、魔法でもなければ考えていることが解るものではない。普通の人間には、ただ相手が僅かに示す「表情」「目線」「身動き」「癖」などなどの行動から推察するのが関の山だ。当然、思考を推理する側の「能力」「知識」「経験」などによって結果は異なってしまう。

 だから、もし本当に相手に判ってほしいのならば、文字にするなり口にするなり外部へと出力する必要がある、と正太は考えている。他人の機微を察するのが壊滅的に苦手な正太としては、そこの所をはっきりとして理解して欲しいのだ。

 

 『だって兄ちゃん変な事するし、いっぺんしか聞かなかったし』

 

 蓮乃も自分が文字にしなかったことを理解しているのか、目線をそらしてノートに正太への文句を書き込んだ。実際、先の正太の行動は良いものとは言い難い。確かに気づかせるためとはいえ、思いっきり揺さぶったのは事実だ。それに一回聞いただけで諦めてしまったことも言い訳できない。

 

 『人聞きの悪いこと言うな』

 

 しかし言い方というものがあるだろうに。こんなことを書かれては、お巡りさんに肩を叩かれてしまう。自分と蓮乃の外観を鑑みれば倍率ドンで大当たり、今日の夕飯はカツ丼で決まりだ。テーブルの上に出したノートを見ながら、頭痛が痛そうな顔で正太は額を押さえた。

 

 『変に揺さぶったことについては謝る。すまなかった。それからちゃんと聞かなかったことも悪かった』

 

 それでもまずは自分から謝るべきだ。間違えたならちゃんと自ら頭を下げる。両親から躾られた大事なことだ。テーブルに差し出された謝罪文を見て、蓮乃は納得の表情で深々と頷く。

 

 『やっぱり兄ちゃんが悪い』

 

 『けどお前も失敗したこと言わなかっただろ』

 

 そして自分が謝ったなら、蓮乃にも謝ってもらわないといかん。蓮乃が言わなかったのは確かなのだ。正太は間髪入れずにカウンターを返した。

 

 『で、でも、あの時はもうオーブンにビスケット入れてちゃったから』

 

 図星を突かれたのか蓮乃の顔色が変わった。視線は左右に平泳ぎ、口を開こうとして閉じるの繰り返し。よっぽど焦ったのか、正太でも解るくらい狼狽が顔に出ている。その上、ノートの文字も崩れて書き損じも目立つ始末だ。

 

 『確かにその通りだ。けどな例えどうにもできないとしても、言うと言わないじゃ全然違うんだ』

 

 正太は蓮乃の言葉に頷きつつも否定を返した。蓮乃の書くとおり、蓮乃が塩と粉飴を間違えた時点でオーブンにビスケットは入れられてしまっていた。だがその時点で知らされていれば、何らかの対応はできただろう。例え対応できなかったとしても、知っていたのと知っていなかったのでは失敗の受け取り方が違ってくるのだ。

 しかし、正太のメモを読んだ蓮乃に納得の色は見られなかった。正太の返答にも、納得し切れていない様子で唇を尖らせている。すねた顔でそっぽを向く蓮乃に、正太は豚のと同じ唸り声をこぼした。どうしたものかと顎をさすり首をひねる。とりあえず思いつく範囲で一番いいのは、卑近な例で実感させることくらいか。勝手に題材にしてすいませんと胸の内で謝罪しながら、正太はペンを持ち直した。

 

 『例えば、睦美さんが仕事とかどうしても外せない用事があって出かけたとする。その時、なにも言わなかったたら不安になるだろ? それと大体同じだ』

 

 蓮乃にとってもっとも近しい人は母親である睦美さんを置いて他にあるまい。これならば自分に当てはめて多少なりとも理解できるだろう。正太は捕らぬ狸の皮算用で蓮乃の理解度を算出する。だが、蓮乃の返答は正太の思考の斜め上をかっとんでいった。

 

 『お母さんいつもなんにも言わない』

 

 ――なにやってんですか睦美さん

 

 思わず正太は天井を仰いだ。正太は向井睦美のことを「神経質で張りつめた印象を受ける人ではあるが、同時に真面目で細やかな方だ」と思っていた。だからそういった連絡はきっちりやっている人なのだと考えていたが、実のところそういうわけではないらしい。これじゃあ睦美さんを題材にしても、蓮乃への説得効果はなさそうだ。

 ならばどうする、どーしたもんか。「あー」だの「うー」だの蓮乃めいて呻く正太。頭を捻って体も捻ってどうにかこうにかアイディアを絞りだそうとする。親御さんである睦美さんはダメだった。しかし近くの人間で例を挙げるのが一番理解しやすいのは事実だ。他に近しい人といえば、俺か清子かその辺りか。

 とりあえず一番後腐れなさそうな自分を題材にして、正太は文を捻り出した。

 

 『じゃあこうしよう。お前さんが我が家に遊びに来た。でも俺はその日学校行事で遅くまで帰ってこない。これを前もって言っていなかったら、当然お前さんは待ちぼうけを食らう羽目になる。とてもじゃないが良い気分じゃないと思うぞ』

 

 自分で書いていて何だが、かなり解り易くできたような気がする。正太は顔に出さずに文章を自画自賛した。実際、正太が帰宅するまで蓮乃が待ち惚けていたことはあるのだ。正太に気が付くまでの蓮乃の顔は、大抵が無色透明な無表情やつまらなそうな退屈顔。少なくとも良い機嫌や上機嫌とは言い難い表情をしているのがほとんどだ。

 だがやっぱり蓮乃の答えは正太の予想を大いに外してくるものだった。

 

 『そうだけど、今日のこととは違うと思う。だって、ほっといたってビスケットは焼きあがるし、それに手が粉だらけで書くに書けなかったから』

 

 ――あーいえばこーいうんだな、このガキは

 

 苛つきが正太の脳内で音を立てて膨れ上がった。それはコメカミに浮かぶ青筋という形で表現される。サイズを増した苛つきに脳味噌から押し出されて、気が付けば端的で単純な考えなしの反論がメモに書き込まれていた。

 

 『いや、同じだよ』

 

 『違う』

 

 そして蓮乃のノートにも同じく考えのない反発、もとい反論が刻まれる。それを書き込む蓮乃の唇はとんがりすぎてアヒル顔だ。

 

 『同じだ』

 

 『違う』

 

 『同じ』

 

 『違う』

 

 繰り返される水掛け論に正太の苛つきは膨れ上がる一方だ。苛つきのバロメータなのか血圧が上がるに従って、正太の両目は徐々に見開かれてゆく。一方、蓮乃の心境も同じなのか、眉の間には小さな山脈が日本アルプスを作っている。ついにイライラが頂点に達したのか、正太はメモを抉りかねない筆圧で長文を書き殴ると、メモをテーブルに叩きつけた。

 

 『じゃあお前、失敗を先に知らされるのと、後々になって告げられるのどっちがマシだ? 少なくとも俺は前者の方がいい。なにせ多少は覚悟できるし、対策もとれるからな』

 

 正太の書いた文章には、先までほんの耳掻き一杯程度は残っていた諭す気持ちももはやない。ただ自分の思う正しさをぶつけるだけの荒々しい文体を向かいの蓮乃へと突きつける。正太は興奮しているのか、蓮乃をにらみ付ける顔は真っ赤に色づいている。

 

 『対策なんてできなかったもん』

 

 そんな「おまえの事情なんぞ知らん」と言外に記されている文章を押しつけられれば、人間は反抗心を抱くものだ。ましてや押しつけられたのが色々幼い部分の多い蓮乃と来れば反発必須である。

 

 『いーや。もしも、もう少し早く告げられていれば付け合わせももう少し早く作り始められたはずだ』

 

 蓮乃の感情的な反発に、同じく感情的な正太の意見が投げつけられる。正太もかなり脳天が茹だっているようで、希望的観測が混じる「もしも」やら「はず」やらを語りだしていた。当然ではあるが付け合わせを思いついたのも作ったのも清子な訳で、本当にそうなったのかを正太が解る由もない。これについて、多少なりとも信憑性を持って答えられるのは、清子だけである。

 

 「清子、蓮乃に解るようにいってやってくれ」

 

 なので脳味噌がとてもよく煮えている正太は、直角方向の清子へ自分の弁護をするようにとメモとペンを渡そうとした。しかし清子は掌を立ててそれを拒否する。

 

 「いい加減落ち着きなよ兄ちゃん」

 

 清子には喧嘩と不和の種をばらまく趣味はない。それにこんなことで蓮乃ちゃんと兄が仲を悪くするのも、楽しい時間を不意にするのも余りに馬鹿馬鹿しい。

 確かに先の兄のお説教に多少の理はあるが、冷静に理解できるように言い含めてこそだ。双方の頭から湯気が立っている現状ではどんな正論であれ、いや正論だからこそ火に油を注ぐに違いない。頭蓋骨の内側からグツグツと音が聞こえそうな兄に肩入れしたところで、自分にも兄にもましてや蓮乃ちゃんにも得にはならないだろう。まずは冷静になってもらわなくては。

 

 「俺は冷静「てんで見えないよ」

 

 正太の全く信用できない発言に被せて、清子は間髪入れずに突っ込みを入れた。妹である自分より年下の蓮乃相手に意固地になっている様をみて、「兄は冷静だ」とは口が裂けてもいえない。

 突っ込まれた側の正太も、清子の台詞に思うところがあったのだろう。口をヘの字にひん曲げながらも、一応は清子の言葉に耳を傾ける。

 

 「まずは深呼吸、深呼吸」

 

 清子に言われるがまま、正太は大きく息を吸って吐いた。続けて吸って吐く。繰り返し吸って吐く。三度も深呼吸を繰り返すと熱暴走していた脳味噌も空冷されて、いくらか正太に冷静さが戻ってきた。確かにさっきまでの自分は、蓮乃相手にずいぶんと感情的になっていた。

 正太はもう一度深く息を吸って長い息を吐き出す。そして頭を強く振ると、改めてメモにペンを走らせた。

 

 『俺も意固地になりすぎた。すまん』

 

 まず正太が書いたのは謝罪の一文だった。続けて正太は蓮乃へと深く頭を下げる。こうして多少なりとも客観的に自分を省みれば、言われている通りに熱くなりすぎていることがよく解る。とてもじゃないが年上が年少の子供にとる態度とは言えない。ならば年かさの人間として、やったことに自省しなくてはならないだろう。

 正太の真っ正面からの謝罪に多少は気が晴れたのか、蓮乃のアヒル顔はなりを潜めた。だがそれでも不満がまだあるのか、両の目はじっとりと湿っぽく細められたままだった。

 

 『確かにおまえの言った通り、対策は取れんかったかもしれん。結局、俺が言っていたのは終わった後の話なのだから、言ったところでしょうがない。それにちゃんと聞かなかった俺が、どうこう言って良い話じゃない』

 

 後知恵なら何とでも言えるが、その場その時その状況になってみなければ、どの判断が適切かなど分かりはしない。転ばぬ先に「杖を手渡された」ならともかく、転んだ後に「杖を使えばよかった」など言うべきではない。その時にちゃんと聞かなかった自分がそれを言うとなれば、失礼千万といっても差し支えはない。

 一方、蓮乃は正太の差し出す文章を読みながら、両手で頬杖を付いている。正直言って人の話を聞く態度ではない。だが正太から視線をはずしていないあたり、多少の聞く気はあるようだが。

 そんな蓮乃を九〇度横の清子は、指で頬杖を突っついて注意した。他人の話を聞くならば最低限とるべき態度というものがある。蓮乃の態度は余りに悪い。突っつかれた蓮乃は顔のむっつり具合をさらに深めるものの、清子の注意に従っておとなしく両手を膝の上に移した。

 

 『それと、さっき俺を例を挙げた時にお前答えたよな、「そうだ」って』

 

 正太は二人のやりとりに気づくことなく文を進める。伝えるべき言葉をいかに平易な文章にするかで、容量一杯一杯なのだろう。

 そんな様子の正太を睨み付けたまま、蓮乃はわずかに頷いて質問に答えた。確かに待ち惚けを食らうのはイヤなことだ。お母さんのおかげでイヤになるくらいよく知っている。だから「そうなる前にちゃんと教えるべきだ」という意見には納得できた。

 

 『俺が言いたかったのはそれなんだよ。ちゃんと伝えなきゃ、伝えてもらえなかった側は不安になるし、後から聞かされればイヤな気分になることもある。そういうことが続けば、最後には相手を信用できなくなってしまう。だから何かあったらちゃんと伝えてほしいんだ』

 

 しばらくの間、食卓に無言の空白が浮かんだ。それから二十は数えただろうか。蓮乃はのそのそとノートにペンを滑らせた。

 

 『わかった』

 

 書いたのは小さな文字で短く書かれた返答の一文だった。不満を押し込めて納得の外観だけを整えた、文章と言うには短すぎる文句。だがそれでも正太の謝罪に蓮乃は承知を示した。

 最低限の(いやそれ未満かもしれないが)納得を見せた蓮乃の様子に、正太は素潜り後の海女のような深い息を吐いた。さらに椅子に深く腰掛け直すと、背もたれに押しつけるように背筋を伸ばした。

 「怒る」ことより「叱る」ことは疲れるが、「叱る」ことより「諭す」ことは輪をかけて難しい。これをやってのける教職の方々や世間の親御さん、なにより我が家の両親には本当に頭が下がる思いだ。

 

 「じゃあこれでお説教終わりってことで」

 

 パンと軽い音がテーブル上を走った。端で二人の様子を眺めていた清子が、終幕の合図よろしく文字通り「手を打った」のだ。話も終わったようで区切りも良いようだし、ここらで一つ終わりにして貰おうと、清子は合図を出した。

 今回のように、真っ当な道理に基づく落ち着いて理性的なものだとしても、清子はお説教を聞きながら軽食を美味しく頂く気にはなれない。人が叱られていると言うのは、当人のみならず周囲にもストレスを振りまいてしまうものだ。今回のお説教は必要なことだが、だからと言って至近でやられて気持ちのいいものではない。「いい加減にお説教を終わらせて気分良く軽食を再開したい」というのが清子の本音だった。

 「それもそうだな」と相づちを打った正太は、蓮乃が解るようにメモに書き込んだ。

 

 『ここらで一区切りとしようか』

 

 「……ん」

 

 蓮乃もいい加減疲れたのだろう。小さく首を縦に振って、表情は不満げながらも同意を示したのだった。


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