二人の話   作:属物

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第五話、三人でお菓子づくりの話(その四)

 必要量を計り終えた材料は粉物を篩にかけてから、全てボウルに投入し粘土状にまとまるまでこねる。最初は黄色い粘液に粉化粧をした外観の混合物も、繰り返しヘラで刷り込むように混ぜ合わせると、綺麗なカスタード色したビスケットの元へと姿を変えていく。そして冷蔵庫で冷やし固めた後は、平たく伸ばして好きな形に型をぬき、もっぺん冷やしてオーブンシートを上に敷いたバットに並べる。あとは一七〇℃に暖めておいたオーブンへ。

 

 お菓子作りは順調に行程を消化してゆく。元々、ビスケット作りは簡単なのだ。そうそう間違えるものではない。

 

 一般家庭にしてはやや大きいコンロ下のオーブンに生地を並べたバットを入れると、清子はタイマーをセットした。これから一三分待てばビスケットは出来上がり。そこからはお楽しみのおやつタイムだ。

 宇城兄妹の母である”宇城昭子”は料理を趣味としており、その関係で業務用一歩手前の大型オーブンが一〇三号室の台所に置かれている。母の影響からかお菓子づくりを趣味とするようになった清子も、このオーブンは大いに活用させてもらっていた。

 程なくしてデンプンと合成卵液の焼ける甘い匂いが台所に立ちこめ始める。お菓子が焼きあがるまでの待ち遠しくも心地いい時間が流れてゆく。三人は素朴で甘やかな香りに表情を崩した。しかしまだやるべきことは残っている。

 二人を正気に戻すべく、清子は両手を打ち合わせ呼びかけた。

 

 「じゃ、兄ちゃん、蓮乃ちゃん。後かたづけ始めようか」

 

 「えー、『後』かたづけだし後にしようぜ」

 

 清子の宣言を聞いた正太は、驚きと面倒くささを足して二で割ったしかめ顔に変えた。今いい気分なんだから後回しにしてくれと言外に含ませて文句を付ける。が、清子はにべもなく正論で切り捨てた。

 

 「面倒だからって言い訳しないで。早めにやっといた方が汚れもよく落ちるし、面倒も少ないよ。それにお菓子食べていい気分な所で『さてやろう』って気分になる?」

 

 清子の正論に容赦の二文字はない。反論の言葉を失った正太は、深く嘆息すると首を縦に振った。グウの音もでないくらい正しい。

 

 「それじゃあ始めましょ。粉物入れた器はひとまとめにしていいから、ショートニングや卵液入れた器と分けておいて」

 

 二人へ指示を出した清子は、話は終わりと腕まくりをして、洗い物を始めるためにシンクへ向かう。その横で仏頂面で答えた正太は、蓮乃に清子からの指示を書いて見せていた。メモに書かれた文字を視線で追いながら、蓮乃はふんふんと鼻息荒く何度も頷いてみせる。

 文句たらたらな正太とは正反対に蓮乃はずいぶんとやる気満々なご様子だ。二人ともお菓子作りをするのは初めてだが、今まで何度となく清子がお菓子作りをするのを見てきた正太とは異なり、蓮乃は見るのもやるのも未経験だ。例えそれが面倒くさい洗い物であろうとも、それが新しい経験である蓮乃にとっては、新鮮で興味をそそる仕事に他ならない。

 

 正太がメモの最後に確認の一文を記し、それに蓮乃が首肯で答えた。それを確認した正太は、メモをポケットに突っ込んで一番大きなボウルを手に取った。仮にもこの面子の中で唯一の男手である。ならば一番重く大きいボウルを片づけるのは自分の役割だろう。

 自分はずいぶんな面倒くさがりではあるが、家族である清子に「やれ」と言われた以上、いい加減なことができるはずがない。「前」にあれだけ迷惑をかけておきながら、この後に及んで手を抜くようなら見放されても文句は言えまい。だからやるのだ。

 

 そうして屁理屈をこねくり回して気合いを入れた正太が、油物とボウルをシンクにまとめている間、蓮乃はそれ以外の粉物関係をコンロの隙間に集めていた。デンプン粉を入れた器、粉飴を入れた器、それと電子秤。使った道具を崩れないよう慎重に重ねてゆく。粉だらけの器や薄紙を取り扱ったせいだろうか、気がつけば蓮乃の両手の指は真っ白だ。そんなことは気にせずに蓮乃は重ねた道具をおっかなびっくり持ち上げようとする。

 が、あっさりと油物をシンクに入れ終えた正太に取り上げられた。蓮乃は「やりたかったのに」とぶすくれた顔で文句を訴えるが、正太は意に介さない。何せ、積み上げられた道具はぐらぐらと不安定に揺れ動き、端から見ててえらく危なっかしい。それを洗い物の経験もなさそうな蓮乃が持つのだ。とてもじゃないが放っておく気にはなれない。

 

 器を持っていかれて手持ちぶさたになった蓮乃はコンロに背を預けると、特に考えることなく指に付いた白い粉末を舐めた。正太か清子が見ていたら、しかめっ面か苦笑の顔で「行儀が悪い」とたしなめられることだろう。だが別に構いはしない。私は機嫌が悪いのだ。

 そんな子供らしい身勝手なことを考えつつ蓮乃は指をしゃぶる。しょっぱい。

 

 ――しょっぱい?

 

 蓮乃の口中に広がるのはデンプンの無味や粉飴の甘味ではなく、舌を刺すような塩味だ。今回作ったビスケットの材料は「デンプン粉」「合成卵液」「ショートニング」「粉末水飴」の四つ。当然塩は使っていないし、塩化ナトリウムや塩化カリウムが添加されているものも一つもない。なら、なぜ塩味がする?

 目を丸く見開いた蓮乃は、おそるおそる別の指をなめる。こちらもまた塩味だ。間違いない。だれかが何かを間違えて、塩をビスケットに入れてしまったのだ。そうでもなければ塩味がするはずがない。じゃあ、「誰が」「何を」間違えた? 姉ちゃんか、兄ちゃんか、それとも私か。

 

 ひたすらに思考を空転させる蓮乃は、指を口に入れたまま凍り付いている。その姿は端から見ているとずいぶんと間抜けなものだが、当人にはそんなことを気にしている余裕はない。

 しかし、当たり前だがそんなことをしているなら周りの人間は不審に思うもので、不可解そうに額のしわを増やした正太が蓮乃の形良い顔をのぞき込んだ。考えに考え込んだ蓮乃が正太に気がつく様子はない。眉根の皺を深めた正太は、続けてその眼前で手のひらを振る。

 が、二度三度と上下させるも蓮乃に反応はなかった。苛立ちでしわ山脈が成層圏を突破した正太は、もはや最終手段と蓮乃の肩をつかむ。そしてそのまま激しく前後に動かしだした。古い玩具のアメリカンクラッカーのように、一拍遅れて蓮乃の頭がガクガクと前後する。

 

 「うなぁ!」

 

 さすがに蓮乃もいい加減気がついたらしく、衝撃に目を丸くして正太の手をはねのけた。蓮乃としては重要なことを考え込んでいたところに妙なことをされたという認識な訳で、当然正太を見つめるその表情は険しい。

 

 『なんかあるのか』

 

 『なんでもない』

 

 なので反感を抱いた蓮乃は、伝えるべき事ではなく単なる拒否を即座にノートに書き込んでしまっていた。

 「とても機嫌悪いです」と書かれた顔で、言外に文句ありありな一文を正太に書いて見せた蓮乃。それを見た正太は、胸から溢れ出そうなため息を力一杯かみ殺した。「なんか」あるから聞いているんだがなぁ。こう書かれた以上、少なくとも「なんか」を口にすることはあるまい。言いたいことがあるならきっと言うだろう。

 自分の聞き方、やり口、タイミングが不味かったことに気が付かずに、正太はあっさりと質問を諦めた。本日初めて蓮乃と顔を付き合わせた時点で、昨日から気にしていた疑問を諦めたこともあり、正太としてはこの手の疑問は解けないものだと決めつけていた。

 

 そんな諦めて不満を足して二で割った正太の様子に気が付くこともなく、うつむいた蓮乃は改めて検分のつもりで指に付いた粉を舐めとっていた。指に舌をつけては何かを探るように虚空に視線をさまよわせる。必死で考え込んでいるようだが答えは出ていないらしく、その表情には焦りの色が見える。

 その姿を見た正太は目を細めた。好意や慈しみの類ではない。眉根が寄っているのがその証拠だ。当然、胸中の感想も「ばっちいな」と毒入りだ。いくら顔が良くても行動がこれじゃあな。子供と言えども最低限のマナーくらいは守ってほしいものだ。

 自分の行動を棚に置き忘れたまま、正太は一方的に蓮乃への辛口批評を続ける。先の返答のこともあり、蓮乃を見る視線はずいぶんと刺々しい。その一方、批評されている側の蓮乃はひたすらに焦りの色を濃くしながら考え込んでいた。

 

 ――えっとえっとええっと、ビスケットに入れる粉にさわったのは姉ちゃんと私だけだったはず。うん、姉ちゃんが材料一通りそろえて計ってた。私は姉ちゃんが揃え忘れた粉飴を計ってお皿に入れた。じゃあ塩が入ったのは何時?

 

 蓮乃はもう一度、指先を舌に当てた。さっきから変わらない塩味がする。他には何の味もしない。味がしない、無味だ。つまり甘味がない。つまり粉飴の味がしていない。つまり粉飴ではなく塩が入っている。そして粉飴を瓶から出して計ったのは自分だ。

 

 ――私?

 

 焦りの紅潮からショックの蒼白へと蓮乃の顔色が変わっていく。そう、蓮乃は粉飴を計ってなどいなかった。蓮乃は粉飴の入った瓶ではなく、塩の入った瓶から中身を出して三〇g計量していた。

 蓮乃をフォローするなら、粉飴は純粋な麦芽糖であり外観は真っ白な粉末で、同じく純白の粉末塩と非常によく似ている。だが、今現在オーブンで粉飴の代わりに塩の入ったビスケットが焼けている以上、何の慰めにもならないのが現実だ。

 顔色を寒色に染めながら、蓮乃は繰り返し時計とオーブンに目をやった。後、一〇分弱でビスケットは焼きあがる、それもお菓子には不適格な塩辛いだろうビスケットが。私のせいだ、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう…………

 もはや蓮乃の頭の中は「どうしよう」の一言で塗りつぶされて、何一つ考えることができない。

 

 「オイオイ、ほんとにどーしたよ?」

 

 心配そうに顔をしかめた正太が、わなわなと真っ青な顔で震える蓮乃の肩を叩いた。『何でもない』と文字に起こしておきながら、突然青い顔でわななきだしたのだ。これで心配にならないなら、そいつに端から一片の情も抱いていないと言うことだろう。少なくとも正太は毎日のように顔を合わせていた相手を、躊躇なく見捨てられるような人間ではなかった。さすがに先の苛立ちを、こんな状態の蓮乃にぶつける気にはなれない。

 肩を叩かれてようやく正太の存在に気がついたように、ゆっくりと蓮乃は顔を上げた。焦点が合っていない目で、定まらない眼差しを正太の方へと向けようとする。あまりといえばあまりな蓮乃の様子に、正太の顔がひきつった。何処をどう見ても蓮乃は大丈夫そうには見えない。

 

 「あ………え……ぅ……」

 

 言いたいが言えない。何を言って良いのか解らない。そもそも言葉を発することもできないのに、文字にすることも思いつかない。混乱して惑乱した蓮乃の頭の中は、混沌として混迷として、ぐっちゃんぐっちゃんでごっちゃごちゃだった。端的に言うなら蓮乃は大いにパニクっていた。

 とてもじゃないが大丈夫じゃなさそうだ。とりあえず事情を聞くより落ち着かせる方が先だろう。蓮乃の様子を見て取った正太は、落ち着くよう言葉をかけるべくポケットに突っ込んだメモとペンを探りだした。

 

 「なんかあったの?」

 

 台所の一角が異様な空気に包まれているのを察したのか、清子は妙な様子の二人に呼びかけた。ボウルと器四つは一通り洗い終わって水切り中。シンクに流していた水道の蛇口も締めて、今はタオルで濡れた手を拭いている所だ。

 清子からは、心配に焦りを上乗せしたような顔でメモにペンを走らせる正太と、その横で釣り上げられた魚のように喘いでいる蓮乃が見える。あまり心地いい状況ではなさそうだ。

 両手から水気を取るのもそこそこに、清子は二人のそばに近づく。岡目八目とはいうが、端から見てても判らないものは判らない。

 

 まともに話せる状況になさそうな蓮乃はひとまず置いといて、清子は多少なりとも事情がわかっていそうな正太へと視線を向けた。だが正太も首を捻るばかりで、事情が判らないらしい。だが、二人して首を捻っていてもしょうがない。まずは蓮乃を落ち着かせるのが上策だろう。

 口を開け閉めするのをやめて青い顔で俯いた蓮乃の前に、清子は中腰で顔の高さを合わせた。縋るような怯えるような瞳で蓮乃は清子を見上げる。

 

 ――姉ちゃんが作ってくれたのに私がやっちゃったんだ。どうしよう、私のせいだ。

 

 その途端、感極まった蓮乃の両目に涙の珠が膨らんだ。それを見た清子は正太同様顔をひきつらせる。だが、「あっ」と言う間もなく、涙の珠は表面張力の限界を突破して柔らかな蓮乃の頬を伝い落ちだした。

 

 「……ッヒ……ズズ……ヒッ」

 

 繰り返し息を飲みながら、肩をふるわせて蓮乃は涙をこぼす。鼻からも涙が漏れるのか手の甲で何度も目を擦った。それでも蓮乃の涙腺は緩んだままで、一向に止まる気配を見せようとしない。

 

 「ほんとにもう、どーしちゃったの」

 

 「オイオイオイオイ、どーしたんだよ」

 

 慌てふためく二人を後目に、しゃくりあげる蓮乃はいつまでも泣き続けていた。

 

 

 

 

 

 

 極論をいうなら例え台所で人が死んでいようとオーブンの動作には別段問題がないわけで。だから、蓮乃が泣きじゃくっていようともビスケットは焼き上がる。

 

 オーブンを開けると、クッキングペーパーのしかれたバットの上には、こんがりときつね色に焼き上がったビスケットが等間隔で並んでいる。香ばしくどこか懐かしい香りを漂わせているビスケットを、清子は菜箸で摘むと行儀悪くかじった。予想通り、塩が利いている。

 そのままビスケットを二つに割ると、隣の正太へかじってない半分を渡した。同じくビスケットをかじる正太は、言語化しにくい微妙な表情を浮かべる。強いていうなら、「格好悪い訳じゃないんだけど欲しかったロボットと違うロボットをクリスマスプレゼントにサンタからもらった子供」のような顔だ。何というか「コレジャナイ」感がすごい。

 そして「コレジャナイ」ロボットならぬ、「コレジャナイ」ビスケットの原因はというと、居間のソファーで膝を抱えてべそをかいていた。台所の端から顔を出せば、テレビの真ん前で涙に浸かる蓮乃が見て取れる。凹みきった蓮乃のあまりの惨状に、宇城兄妹は顔を見合わせた。

 

 「どーしたもんだろ」

 

 「どーしようか」

 

 さすがにこんな状態の蓮乃を怒るつもりはない。落ち着いてから多少注意するくらいでいいだろう。ここまで落ち込んだ子供をさらに追いつめてもいいことはない。問題は目前の涙の塩味ビスケットだ。

 

 「作り直すか?」

 

 バットに並べられたビスケットへ視線を移しながら、しょっぱい顔の正太が提案を挙げる。もったいないが失敗作を後生大事に抱えていたところで意味はない。だったら使い終わった薄紙同様、ゴミ袋にまとめて捨てるべきだ。それにどの材料も自分たちの小遣いで何とかなる範囲だし、事情を話して材料を補填すれば、母さんもわかってくれるだろう。

 時計に目をやれば短針は四時を少し過ぎたところを指している。ちょっと急ぐ必要はあるが、まだ時間はある。やって損はない。

 

 だが正太の提案に清子は答えず、なんだか考え込んだ顔をしている。思案顔のまま自分の歯形のついたビスケット半分をもう一口かじる。

 

 「いけるかもしんない」

 

 何かを確かめた様子の清子は、もう一回ビスケットをかじると「うん、いける」と小さく頷いた。なにが「いける」のか隣の正太には何にもわからないが、清子はなにやら納得した様子だ。清子の様子に疑問符を浮かべる正太を後目に、清子は台所を出ると体育座りでぐずっている蓮乃へ近づいた。

 

 『蓮乃ちゃん、悪い事したと思ってる?』

 

 清子の見せたメモに涙で潤んだ目だけ向けた蓮乃は、小さく小さく頷いた。

 

 『じゃあ手伝ってくれない?』

 

 『なにを?』

 

 清子の持つメモを受け取り、蓮乃はゴマ粒のような文字で疑問を書き込んだ。

 

 『しょっぱいビスケットをおいしく食べる準備』

 

 清子の言葉に、蓮乃は涙も忘れて首を傾げる。ビスケットは素朴な甘さが美味しいものだ。それを自分がしょっぱくしてしまった。前提からして甘いものを、塩味にしてどう美味しくするのだろう?

 理由は一切不明ながらやる気満々で腕まくりする清子に、正太は微妙についてこれてない。微妙な顔の微妙さ加減を深める正太を放り出したまま、清子は要り用になるものを指折り数える。

 

 「えっと合成チーズと酵母肉、豆腐と胡椒と七味唐辛子、ほかにカレー粉と……」

 

 「一体全体何作るんだ?」

 

 いい加減何をするのか教えてくれと、言外に込めて正太が問いかけた。口に出した材料名もクッキーやビスケットからは程遠い。清子が考えていることなど清子以外誰も知らないし、当然正太にも判らない。正太としては訳の分からないまま付き合わされるのは御免被りたい。

 

 「付け合わせ」

 

 だが清子の返答は正太の疑問を深めるばかりだった。


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