二人の話   作:属物

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第五話、三人でお菓子づくりの話(その一)

 分厚い積層雲に蓋をされて、空はずいぶんと暗い。それに合わせたように、帰宅中の”宇城正太”の表情も沈んだ色合いだった。正太の中学校生活がうまくいってないのは以前からであり、別にそれが原因というわけではない。むしろ、家路を進み自宅のある間島アパートへ近づくにつれて、顔色が悪くなっている。原因は帰宅先に、より正確に言うならばお隣の一〇四号室の住人にあるのだ。

 

 「はぁ」

 

 無駄に重い息を吐きながら、正太は爪先を見つめて鉛のような大根足を動かす。薄暗い顔のまま考えるのは、その顔の原因である一〇四号室の住人、すなわち”向井蓮乃”と”向井睦美”の親子のことだった。

 つい昨日(第四話参照)、正太は睦美の異様を目撃した。異様といっても、年に似合わないトンチキなコスプレをしていたわけではない。ただ、睦美のまとった雰囲気が、浮かべた表情が、あまりに異常だっただけだ。とても尋常とは言えない睦美の様子は、夜になっても正太の脳裏から離れてくれなかった。

 清子に相談はしてみたものの「気になるなら聞けばいいし、それが嫌なら聞かなければいい」とばっさり切られてしまった正太は、頭を抱えつつも本日帰宅後に蓮乃に事情を尋ねることとしたのだった。

 

 「どーしたもんかねぇ」

 

 曇天に向けていつもの口癖をぼやく正太。どう考えても簡単な仕事ではない。人様の家庭の事情と思わしき事柄を、その家人に失礼にならないよう質問しなければならないのだ。”前の一件”で色々あって、コミュニケーション障害気味となった正太に、それは余りに過酷な行いであった。正太は蓮乃に対してならば、何とかまともなコミュニケーションをとれるが、それはあくまで日常的な事柄に関してだ。それが”前の一件”以前であったとしても難しい質問をするとなれば、気も重くなろうものだった。

 

 「聞くっきゃないんかねぇ」

 

 だが、いくら困難な理由を並べ立てようと「なさねばならぬ」のだ、どちらの意味でも。それが嫌なら清子の言うとおり聞かなければいい。気になるのは結局自分の感情と印象でしかないのだから。

 曇り空の下、正太は腕をぐるりと回して気分を入れ替えると、帰宅の足を少し速めた。

 

 

 

 

 

 

 ……少年の前に立ちはだかった男は、下劣な笑みを浮かべ脅しをかけるように刀の背で掌を叩いた。

 

 「鬼ごっこは終わりかい、おにいちゃん。ちょいと待ってな。直ぐに獣肉(ももんじ)よろしく八つに捌いてやっからよ」

 

 表情同様、言動も下劣だな。少年は胸の内で独り語ちると、着物の袂から一枚の札を取り出した。札に朱墨で書かれていたのは曼陀羅に並べられた梵字であった。

 それを目にした男は卑しい笑みを引っ込めて刀を構える。男は少なくとも少年が呪いを生業にしていることを聞いていた。それが札を出したとくれば、何かしらの妖術でこっちを欺きにくるだろうことは確実だ。よけいなことをしでかす前に、首と胴を泣き別れにする必要があった。

 だが、男の考えは水飴よりも甘かった。本当に呪い屋を相手取るならば、気が付かない内に一撃を持って即死させなければならない。わずかにでも気が付かれたなら、致命の呪いを両手の数より頂く羽目になるのだから。

 男は札をつかんだ手に気をやりながら、擦り足で間合いを計る。一方の少年に変わった様子はない。袂から出した朱墨の札を扇子よろしく扇いでいるだけだ。

 だが、男の目は何か違和感を訴えていた。男は視線の中心を少年から札へと無意識に移す。原因はあっさりと明らかになった。

 

 (札が増えた!?)

 

 そう、少年は「二枚」の札で扇いでいたのだ。男は思わず目を見張り、札を注視する。それを見た少年の口の端が、笑みの形につり上がった。これを待っていたのだ。札の数を増やしたのは、単なる手妻の類にすぎない。本当の呪いはこれからだ。

 少年は二枚の札を眼前に突き出すと、札を押さえる指を横に滑らせた。札は倍の四枚に数を変える。

 

 「二枚が四枚」

 

 さらに指を滑らせて数をさらに増やす。

 

 「四枚が八枚」

 

 「……八枚」

 

 今度は左右の手を重ねてまた開く。当然、札の数は倍だ。

 

 「八枚が十六」

 

 「は、八枚が十六」

 

 自身の自覚のないうちに、男の口は少年の言葉を繰り返す。

 

 「十六が三十二」

 

 「十六が三十二」

 

 気が付けば二人の声は唱和を始めていた。髄の髄まで呪いが染み入った証拠である。

 

 「「三十二が六十四」」

 

 それを聞いた少年は笑みを深めて、両手の札を空に投げた。ひらりひらりと朱墨の曼荼羅が月光に舞う。男は一心不乱に札を数え続けている。

 

 「六十四が百二十八。百二十八が二百五十よ、いや二百五十六。二百五十六が五百……」

 

 男の頭の中は宙に舞う札で満ち溢れ、もはや何を目的としていたかすら思い出せない。倍に倍にと増える数字をただひたすらに数えるだけだ。もう、正気に戻ることはないだろう。死ぬまで数を数えているに違いない。

 

 これぞ、夢路庵の呪術が一つ「重ね数えの術」である。

 

 少年は術中に堕ち、生ける倍数器となった男の様を一瞥した。そして地面に落ちた札を拾い集めながら、これからのことを思案し始める。

 さあて、この下らない下品な男を寄越した生臭坊主共はどうしてやろうか。釈迦如来に化けた狐狸を送って自裁させてやろうか。いや、女を犯し酒を食らい、現世で天狗道を突っ走っているあいつらが腹を切るなどありえぬ話だ。なら、二つに分けて滅びるまで殺し合わせようか。経典の始め一字の読み方あたりで殺し合わせるといいだろう。無為な一字で死に絶える様は、あの聖人気取りで錦をまとった乞食坊主共にふさわしい。それがいいな、そうしてやろう。

 札を拾い終えた少年は、暗い笑みを浮かべながら山道を急ぐ。少年が気が付くことはなかったが、その表情は先の男のそれとよく似ていた。人を呪わば穴二つ……

 

 

 

 

 

 

 「ふぅ」

 

 どのくらい経ったろうか。物語の海に潜水していた正太は、一息つこうと分厚い本から顔を上げる。手元に置いた氷水のコップは、結露でぐっしょりと濡れていた。

 家の鍵を開けて、玄関で靴を脱ぎ捨て、子供部屋で部屋着に着替え、好みの小説を抱えて居間へと向かう。あとはソファーに腰掛けて小説を読みつつ時間を過ごすのが、正太にとっていつも通りの帰宅後の過ごし方だ。最近はここに、蓮乃のお相手が追加されていたりする。

 今日はその蓮乃にこそ用事があるわけで、始めのうち正太は小説の文字を追いながらも、時折扉の方と庭の方へと視線をやっては手元に戻していた。しかしながら正太の趣味は読書であり、自覚のないまま扉と庭へ視線を送る間隔が延びていき、そしてさほど時間の経たない内に、正太は小説の世界へと没頭していたのであった。

 

 そういえば、今は何時だ。ふと視線を壁の時計に向ければ、清子の平均帰宅時間が近い。もう蓮乃が顔を見せてもいい頃だが、今日はやけに遅いようだ。やっぱり昨日、蓮乃と睦美の間で何かあったのだろうか?

 顎を掻きながら、正太はしかめっ面を浮かべる。これからそれについて、蓮乃に質問をしなければならないのだ。さて、どう聞くべきだろうか。

 

 「どーしたもんだろ」

 

 考えを指で空に箇条書きながら、正太は思考を進めてゆく。

 一.自分の目的は何か……昨日の睦美さんの様子の異常、その原因を知ること。

 二.目的の何が問題か……聞かれたくないことを聞かれるであろう睦美さんの怒り、蓮乃からの軽蔑、デリカシーのない行いに対する両親からの評価。

 三.解決策は何か……あくまで「心配して」という形を取る。質問はできるだけ平易かつ穏当なものにする。蓮乃が拒んだ場合はそれ以上踏み込まず、十分に謝罪する。

 四.策をどう実行するか……どうしよう?

 

 正太は顎を掻く手を強めて渋面を濃くする。少々強く掻きすぎたのか、顎の下が少しばかりひりついた。

 結局これが一番の問題なのだ。いくら柔らかい表現と適正な質問を考えたところで、聞けなければ意味がない。しかしながら、「前の一件」から自分は「他人と意識的に喋るとなると頭が真っ白になる」と言う、奇癖というか悪癖を抱えているのだ。ありがたいことに蓮乃と話すときは、この悪い癖が姿を見せたことはない。だが、この手のデリケートな質問を考えながらするとなれば、たとえ相手が蓮乃であっても発症は必死だろう。やっぱり聞くの止めるべきだろうか?

 顎を掻く手を後頭部へ移して、正太は頭を抱える。ちらりと時計に視線をやると、さっき見たときから長針が六〇度ほど動いていた。もう蓮乃が一〇三号室に何時来てもおかしくないだろう。正太は頭を掻きむしり、「あー」だの「うー」だの蓮乃じみた意味のない焦りの声をこぼす。それでも考えはまとまらず時間だけが無為に過ぎてゆく。

 考えすぎで頭が火照る。知恵熱まで出てきたようだ。ジリジリと神経を焦がす焦燥感に駆られた正太は、分離したドレッシングのようにまとまらない思考をまとめるためか、抱えた頭をひたすら上下させ始めた。

 

 「あーもー、どーすんだよ、どーすんだよこれ」

 

 無論、メタルよろしくヘッドバギングを繰り返したところで考えがまとまるはずもなく、最低高度で正太の頭蓋は唐突に停止した。そのまま正太は頭を抱え込み吐き気をこらえる。頭を散々上下に揺すれば三半規管もそれだけ揺すられる訳で、結果吐き気を生ずるのは当然のことであった。

 吐き気と焦りとその他諸々を、深いため息で吐き出す正太。ついでに考える気力も吐き出したのか、投げやり気味の思考が脳裏を占める。

 

 ――もういいや、蓮乃相手なら何とかなんだろ。出たとこ勝負でいこう。

 

 出たとこ勝負どころか、悪い癖が出た時点で試合終了なのだが、吐き気と知恵熱で脳味噌を煮崩した正太にその自覚はなかった。そのまま正太はヘドバンを終えた頭を抱えた体制でじっと休んでいた。

 しばらくして、脳髄から吐き気が抜けて知恵熱が冷めた。正太は、ゆっくりと頭を上げて首を回した。頸椎が小気味いい音を立て、神経が衝撃で痺れる。「首を悪くする」と母や妹からたしなめられることは少なくないが、それでも固まった首筋をほぐすのは心地いいものだった。

 

 そしてぐるりと首を回し終えた正太は、お隣一〇四号室との垣根に見覚えのあるワンピースを見いだした。どうやら噂の御仁がお出ましのようだ。待ち人である蓮乃の顔を拝もうと、正太はソファーから立ち上がる。

 視線の先にいる蓮乃は、いつも通りの黒髪ロングをなびかせて、いつも通りにレモン色のワンピースを身にまとって、そしていつも通りな元気過剰接種な表情をして…………いない?

 

 蓮乃の視線は斜め下の地面に固定され、未亡人のベールの様にうなだれた首を長い黒髪が覆っている。手動除草済みの大地を見つめる瞳は、西洋陶器人形(ビクスドール)の硝子目めいて寂しげに透明だ。そして黒髪の隙間から覗く顔は、哀切という言葉を凍り付かせた生き人形のそれをしていた。

 正太の知る限り、蓮乃は「活動的な明るい表情」がデフォルトである。不機嫌そうに「ウ~ゥ~」唸ったり、ドヤ顔で「ムフ~ッ」と得意げな顔をしたり、「フンスッ」とVの字眉で気合いを入れたりと、その表情は様々に色を変える。

 だが、少なくとも「不活発な暗い表情」を見せたことは数えるほどしかない。正太の記憶にあるのは出会った初日(第一話参照)ぐらいだ。だが、今目の前にいる蓮乃はその絶滅危惧種じみて珍しい、「落ち込みきった真っ暗な表情」を浮かべていたのだった。

 

 あまりに異様な蓮乃を見て正太の顔がひきつる。やっぱり昨日のことがなんかあるのか? なんかあるからあんな顔をしているんだろう。とてもじゃないがあの蓮乃を見るに、よけいな質問なんかできそうにない。したら最後、警察を呼ばれることになりかねん。ならばどうする?

 

 「とりあえず慰めてからだな」

 

 これからの行動方針を意図的に口にすると、正太は居間の窓を開けた。


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