二人の話   作:属物

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第四話、正太と休日の話(その四)

 天井から冷たい白光が人工大理石の吹き抜けを照らしている。その光は清潔で明るいが、同時に無機質で素っ気ない印象を与える。公共機関であるこの「図成町公民館」には、ある意味よく似合っていると言えるだろう。

 そして、その受付前の長椅子の上に腰掛けて背もたれにもたれ掛かった向井蓮乃は、頭上の蛍光灯を見ながら人生において何の役にも立たなそうなことをぼんやりと考えていた。

 

 けいこうとお、KEIKOTO、蛍光灯。えっと「蛍光」で「蛍の光」、そんで「灯」は「照明」とか「明かり」とかの意味だから、「蛍の光の照明」って意味だよね。図鑑で見た蛍はもっと緑色に光っていたけど、蛍光灯は蛍っぽくない。どーして蛍光灯は蛍光灯なんだろう?

 「蛍光灯」という単語がゲシュタルト崩壊を起こしそうな疑問を頭の中でこねくり回しながら、蓮乃はつまらなそうに延びをした。形のいい小さな口から妙な長音が漏れ出す。

 

 「いにぁ~~~」

 

 その声に周りの客が迷惑そうな表情を浮かべた。そして蓮乃の方へ視線を向けると、皆揃って「自分の尻尾を噛もうとグルグル回る子犬」を見かけたような生暖かな苦笑へと表情を変えた。公共の場で声を上げているとはいえ、幼い子供のやることだ。その上、「ドの付く美少女」かつ「行動は子猫のそれ」とくれば怒る気も失せよう。

 ただし、それでも数人の客は不審そうに眉をひそめている。休日真っ最中の日曜の公民館に、蓮乃のような子供がいるのが少々珍しいのだ。さらに言うなら(客たちは当然知らないが)普段外出をしない蓮乃が公民館にいるのはさらに珍しい。正しくは、睦美が外出を許してくれていない。

 そんな蓮乃がここにいるのは、当然睦美がつれてきたからであり、本日公民館にて行われる「障害のある親子向け相談会」に二人で出席していたのだ。そして相談会が終わった今、睦美は区の児童相談員と面談中で、退屈した蓮乃は児童待機所から抜け出して受付前へ逃げ出した。

 

 しかし、逃げ出した先でも退屈から逃げきることは出来ず、蓮乃は生あくびを整った顔に浮かべていた。どうしようか、部屋に戻ろうかな? でも部屋にあるの小さい子向けの絵本とか積み木とかだし、戻ってもあんまり楽しくないな。それにあそこの子は喋れないってバカにするから嫌い。けど、ここでボーっとしてるのもつまんない。これからどうしようかな。

 蓮乃は靴を脱ぎ、長椅子の上で膝を抱えた。長い黒髪が柔らかな紗のように両足を包む。その視線は受付後ろに掲げられたゴッホ作「ひまわり」のコピーに向けられていた。

 

 蓮乃は小さな頭の中から関連する記憶をひっくり返す。あの絵、なんて言うんだろう? どっかで見たことあるようなないような。小説かな、テレビかな、それとも雑誌かな? お母さんに聞いたら教えてくれるかな。でも、お母さん機嫌悪いとすごく怒るしすぐ泣くし、やだなぁ。それに『どうして?』なんて聞いても『あとで』とかで、あんまり教えてくれないしなぁ。兄ちゃんや姉ちゃんなら教えてくれるかな?

 蓮乃は吹き抜けの虚空に、豚と鬼瓦と人を足して三で割ったような正太の顔を思い浮かべる。その顔は「渋柿だとわかっているがこれしかないのでしょうがなく頬張った」表情を浮かべている。蓮乃と一緒の時は大抵これなおかげで、蓮乃内の正太像はこの柿渋顔にデフォルト設定されていたりする。正太から言わせれば「お前みたいなガキンチョ台風の世話見てりゃ嫌でもこうなる」と文句をこぼすとこだろう。

 

 苦虫を追加した顔で睨む正太のイメージを蓮乃はぼんやりと想像する。その脳裏に一〇〇WLED電球が瞬いた。教えてくれそうな気がする! この間怒ったときも『どうして』か教えてくれたし。じゃあ家に帰ったら「兄ちゃん家で」、『なんで蛍光灯が蛍光灯なのか』とか『あの絵何なのか』とか聞いてみようっと!

 自分の中での決定項を前提とした予定を蓮乃はズラズラと並べててゆく。正太が此処にいたならば、宇城家へ侵入を予定する蓮乃の頭をヒグマよろしく掴み込んで、ベソをかくまで長い長いお説教をしてくれたことだろう。だが、蓮乃が此処にいない正太の憤怒を考慮することはなく、身勝手な未来予想図を当然のこととした蓮乃の顔には満足げな色が浮んでいる。そして長椅子の上から足を下ろした蓮乃は、花柄の靴下に包まれた両足を振り子にしながら、母である睦美の帰還を待つことに決めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 頭上からEL天井灯の冷光が合成木板の机を照らしている。二階層分はある吹き抜けの解放感溢れる受付前とは異なり、この個室の天井は圧迫感すら感じるほどに低い。

 いや、実の所を言えばそこまで低い天井ではない。少なくとも、近くの部屋や廊下、お手洗いなどと比較しても特筆するほど低いわけではない。ただ、目前のお堅い女性相談員から心理的な逃げ場を失いつつある睦美が、そう感じているだけの話なのだ。

 

 「ですから、向井様が蓮乃ちゃんのことを大事に考えているなら、もっと一緒の時間をとるべきだと申し上げているわけです」

 

 微妙にサイズが合っていないのか、相談員は細縁の銀フレーム眼鏡を繰り返し押し上げる。ガラスレンズの裏から睦美へと向けられる視線は、鋭く冷たい。真面目と堅物の合金を理想という金槌で鍛造したようなこの若い女性相談員にとって、子供をないがしろにする(ように見える)睦美の行動は、とてもじゃないが受け入れられないものだった。そんな彼女から針じみた視線を向けられた睦美は肩をすくめて縮こまり、叱られた犬のように視線だけを相手へと向ける。

 

 「で、ですが」

 

 「旦那様を亡くされた向井様が、ご自身の万一の不幸を気にされるのは非常によくわかります。しかしながら、それを理由にすれば蓮乃ちゃんに寂しい思いをさせていいというわけではありません」

 

 うなだれた睦美は力ない反論をこぼそうとした。睦美が日々前野製作所の事務員として朝から夕まで働き、休日はスーパーでレジ打ちをしているのは、万一があった時の蓮乃のためであって、蓮乃をないがしろにしているわけではないのだ。だが、相談員の容赦ない正論は、反論を放たれる前に押しつぶしてみせた。

 

 「それは……わかっています」

 

 「わかっているのならば、なぜその時間を作ろうとしないのですか!?」

 

 睦美の絞り出すような返答に、相談員は臓腑をえぐるナイフの質問を突き出す。睦美は答えに窮して、うつむくことしかできない。その様子が頭に来たのか、それとも自分の言葉に当てられたのか、彼女の堪忍袋に加わる圧力と脳味噌の温度は劇的な上昇を見せていた。

 

 「それは、その」

 

 「いいですか、向井様のお宅へ私どもの調査員が三度、間島アパートの一〇四号室に伺っております。その内、蓮乃ちゃんが一人でお留守番をしていたのが、三度! つまり全てです! それも午前、午後、夕方全て!」

 

 腹の底から煮え立っている相談員の様子に、睦美は言葉を返せない。あえぐような相づちもどきをこぼすのが精一杯だ。

 

 「あの、その」

 

 「あなたの行動はネグレクトと判断されてもおかしくないんですよ!」

 

 ネグレクト、すなわち蓮乃への対応は「放置」という形を取った虐待であると、相談員は口にした。その言葉に、睦美は半ば呆けた表情で絶句し、喘ぐ口を震える手で覆う。その手は元々の白磁の肌も相まって死人めいて色を失い、その唇は血の気を失い冬場のそれのように青ざめきっていた。

 

 「……ッ!?」

 

 「……すみません、少々語気が荒くなってしまいました」

 

 その様子を見て興奮しきった相談員の頭から、高温の血が引いてゆく。たとえ相手に問題があるとしても、相談員である自分が熱くなっていい道理はないのだ。深々と頭を下げた彼女は、これまた深々と息を吐いた。そして自分の中から興奮の残滓を吐き出してゆく。冷静に、冷静に。

 

 「障害と特能を合わせ持つ以上、通常の小学校に通学することが難しいことは理解しております。だからこそ蓮乃ちゃんには、より多くお母様と過ごす時間が必要なのです」

 

 特能すなわち魔法を持つ子供は、その魔法故に過信したり暴走したり極端に走ることが少なくない。また、障害を持つ子供は程度にもよるものの普通の学校に通うならばサポートは必須である。なら両方を合わせ持つ蓮乃は、相談員の言う通り普通の小学校に通学することが難しいと言える。

 

 「そして可能ならば外で様々な出来事に触れさせて、十分な情操教育を施すべきです。障害と特能を合わせ持つからこそ、多くの事柄を体験させて、蓮乃ちゃんの成長を促す必要があるのです」

 

 「は、はい」

 

 だからこそ、彼女は親子の触れ合いを持って蓮乃に心の教育を施すべきだと、そう考えている。それなのに目の前の睦美は、ひたすら縮こまって恐縮しているだけで反省する様子は見られない。少なくとも彼女の目にはそう見えた。

 いくらか冷めたはずの頭に再び熱が上る。本当にこの人は反省しているのだろうか? 単に頭を下げればいいとでも思っているのだろうか? 一人の子供の人生がかかっていることなのに。

 その思いは睦美にとっては余りに厳しい言葉となって、彼女の口から放たれた。

 

 「今回は厳重注意に留めておきますが、これ以上このようなことが続くようならば、最悪の場合は向井様に保護者として不適格であるとの判断を下さなければなりません! そのことは重々注意しておいてください!」

 

 「そ……そんな!」

 

 相談員の言葉の意味は明白だった。「(最悪の場合ではあるが)親権の剥奪もあり得る」、彼女はそう告げているのだ。只でさえ血の気のない睦美の顔が蒼白を通り越して白く染まった、いや色を失った。

 

 「無論、今後睦美様が蓮乃ちゃんと過ごす時間を十分に取られるのなら、そんなことは決してありません。これはあくまでも最悪の、万一の場合の想定ですから。しかしながら、よくよく承知しておいてください」

 

 睦美の様子を見て流石に言い過ぎてしまったと思ったのだろうか。「よほどのことがない限り」という意味合いのことを相談員は付け加えた。

 しかし、睦美にそれをまともに聞ける余裕はない。青ざめて震える唇から、絞り出すような声で返事を返すのが手一杯だった。

 

 「…………わかりました。どうもありがとうございました」

 

 返事と共に深くお辞儀をした睦美の表情を、相談員は見ることはなかった。もしも、その顔を見ることができたならば、しばらく後のことは少し違ったのかもしれない。けれど、彼女が見ることはなかった。なかったのだった。


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