二人の話   作:属物

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第三話、三人でTVを診る話(その三)

 ……血にまみれた冷たい「ウィンナー」の屍を、「クロ」と「サクラ」は約束通りに墓へと埋めていました。夕闇が現れ始めた頃、ようやく「ウィンナー」のお墓に最後の土をかぶせ終わりました。それを終えた「サクラ」の目に涙がにじみます。

 

 『チワワやコーギー、ダックスフント。あたしは警察犬を辞めてから、そんな一匹で生きれないような犬たちを助けてきたんだ。ずっとそう思ってた』

 

 「クロ」は目を閉じたまま、静かに「サクラ」の独白に耳を傾けます。

 

 『でも実際は違った。助けられたことで、この子は苦しんでいた。でもあたしはそれに気がつけずに、良いことをしていると、ずっと、ずっと思いこんできただけだったんだ!』

 

 「サクラ」の鼻を大粒の涙が伝い落ちました。

 

 『なあ「クロ」、あたしはどうすればよかったんだろうなぁ』

 

 「クロ」は「サクラ」の言葉に答えません。答える言葉がないからです。そして言葉で答えるものでもないからです。「クロ」は空を仰ぐと長い長い遠吠えをしました。それは「ウィンナー」の死を悼み、その魂が天国へと行くようにと祈る、鎮魂の遠吠えでした。その遠吠えは一つではありません。「サクラ」もまた「ウィンナー」を思い偲び、遠吠えを響かせました。

 その時です。二匹の耳がピン、と立ち上がりました。「クロ」と「サクラ」の他に遠吠えをあげている犬がいるのです。それは、また一つ、また一つと数を増やして行きます。それは「サクラ」の群から聞こえてきました。気が付けば辺りは「ウィンナー」への鎮魂の遠吠えで満ちあふれていました。

 「サクラ」の右腕である「キクマル」だけではありません。いつもはいがみ合っている「アイブル」と「モベット」も、「サクラ」に文句ばかり言う「モンペ」も、みんな「ウィンナー」の魂が天国へたどり着けるように遠吠えを響かせていたのです。「サクラ」の目からもう一粒、涙がこぼれました。

 遠吠えを終えた「クロ」は「サクラ」へと向き直りました。

 

 『あんたはあんたの群とあるべきだ。俺は俺の群に行く』

 

 頷いた「サクラ」を見届けた「クロ」は、自分の群へ、そして親友の「ノラ」の元へと向かって駆け出しました。その背中を「サクラ」の声が後押しします。

 

 『「ピーマン」を「ウィンナー」と同じ所に送ってやっておくれ! きっとそれが二匹の望みだから!』

 

 その声に答えるように一声吠えると、「クロ」は一段と足を速めて駆けて行きました……

 

 

 居間のTV画面は、己の群と親友「ノラ」の元へとひた走る「クロ」の人形をパノラマで写している。その姿に併せて徐々に盛り上がる字幕とナレーション、そして音楽は物語が佳境へと向かいつつあることを伝えていた。

 だが、正太と清子の顔色は硬い。引き吊っているとすらいえる表情だ。この作品が面白くないわけではない。むしろ、最近見たドラマや映画の中でも一二を争う位の代物だと言える。二人だけ、もしくは宇城家だけで見たならば大満足出来ただろう。

 

 問題は一つ。子供向けの「動画人形劇シリーズ」のくせに、どう考えてもストーリーが昭和のヤクザ映画のそれだからだった。

 

 己が群を、意地を、面子を守るため抗争を繰り返す野良犬達に、その姿を嘲り遊興にふける飼い犬達。さらに命がけの抗争を低俗な娯楽として知らせ回る鳥達に、町の覇権を奪わんと暗躍する野良猫達。野良犬を任侠者、飼い犬を高等遊民、鳥はパパラッチ、そして野良猫は海外マフィアと置き換えれば、それだけでヤクザものが一本が出来上がりそうな仕上がりだった。

 その上出てくるキャラクター達も一癖二癖どころではない。例えば、今弔われた「ウィンナー」という雌のミニチュア・ダックスフントは、「かつては飼い犬だったが、野良犬と恋に落ちて飼い主から捨てられた挙げ句、力不足から産み落とした子犬達を飢え死にさせてしまい、自分の無力さに絶望している」という設定だったりする。他にも敵役の大型雑種犬「ピーマン」は「子犬時代に飢えから兄妹で殺し合い、その肉を食らって生き延びたため、同族以外を口に出来なくなってしまった」と回想シーンで語られている。

 

 ――これ子供に見せていいの!?

 

 二人の胸中にほぼ同じ疑問が浮かぶのも当然のことであった。繰り返して言うが、ストーリーが面白くないわけではない。問題は、この血で血を洗う抗争の殺伐極まりないお話が、公共放送である「日放教育チャンネル」、その中でも子供向けの「動画人形劇シリーズ」で放映されていることなのだ。

 

 むしろこう言ったものは、人間の役者で映画として放映した方がいいのではないだろうか? 正太の脳裏に疑問が生じる。

 だがしかし、ストーリーは(ヤクザものではあるが)王道でよくできているものの、これといった人を引き寄せる特徴が、別の言い方をするなら「花」がないという点もある。もしも、正太の考えの通りに人間の役者で映画にしたならば、せいぜいが埋もれた名作扱いで十分な視聴者数も次回作分の予算も得られなかっただろう。

 変わらぬ人気の古典映画や雨後の竹の子のように現れる新作映画、個人制作映画でも技術の発展で馬鹿にならない作品もある。さらには現代のネットTVは、かつてと比べれば破格の安さで大抵の映画を視聴できる。この中で、人気を得てランキングを駆け上がるのは至難の業と言えるだろう。それを考えるにスタッフや監督は、あえて、子供向けとされる「日放教育チャンネル」「動画人形劇シリーズ」で、この作品を世に放ったのではないか。

 

 正太が思考を空回りさせる一方、この作品を選択した蓮乃はというと、「サクラ」と「クロ」の不器用な愛情、そして「ウィンナー」の悲しき愛の行方と死に様に感動しているのか、鼻を鳴らして両目に涙を滲ませている。

 それに気づいた清子がポケットに突っ込んでおいたハンカチを渡すと、蓮乃は顔全体を擦るようにして涙を拭った。

 その様を目にした正太は、その光景に引きずられるように昨日一昨日のことを思い返した。自分が泣かしてしまった時も、こんな風に顔を拭いていた。この調子だと番組を見終わる頃には、顔がニホンザルと同じ色合いになっていることだろう。

 頭をハタかれては目を潤ませ、怒鳴られては涙をこぼし、拳骨を頂いては泣きじゃくる。そして今度はTVの人形劇に感動してハンカチを濡らしている。この娘っ子はずいぶんと涙もろい。というより、感情が表に出やすい質なのだろうか。泣いたと思えばすぐ笑い、頬を膨らませたと思えば得意顔で鼻を鳴らす。ことわざで「泣いたカラスがもう笑う」と言うが、この娘はまさにそれだ。

 

 正太の空転中の思考は、場面転換とともに始まった「ピーマン」と「ノラ」の群の戦いに急停止を余儀なくされた。

 他の犬の三倍はある人形が、「ノラ」の仲間の人形をちぎっては投げちぎっては投げ飛ばす。投げ飛ばされた犬達に動く様子はない。死んだということなのだろうか。一方、主役の「ノラ」はただ一匹「ピーマン」の猛攻を避け続ける。それでも、幾度となく「ピーマン」の牙が体をかすめ、流血や消耗をナレーションと字幕がやけに克明に説明する。

 それに合わせ、蓮乃は腕を風車よろしくグルグルと振り回して「ノラ」を応援し始めた。

 

 「らぬぁ、かなぇーっ!」

 

 たぶん応援した始めたのだと思う。正太にも清子にも、蓮乃がなんといっているかはまっっったくわからないのだが。

 蓮乃の応援を知る由もなく、画面の中の人形達の死闘は続く。もはや残りわずかとなった群の仲間に下がるよう命じると、「ノラ」は「ピーマン」とただ一匹向き合った。背水の陣を引いた「ノラ」にもはや後はない。だがそれでも、この怪物に食われた仲間のためにも引くわけにはいかない。覚悟を固めた「ノラ」が牙を剥く。

 

 その時だった。高らかに響くメインテーマと共に、夕日を背にした「クロ」が画面に姿を現したのは。その名の通りに夜の色合いをした体を逆光の中に際だたせ、両目を黄金色に輝かせた「クロ」は、短く、けれども力強く吼えた。そして、定位置である「ノラ」の隣へと陣取ると、親愛の意味かお互いの肩を軽くぶつけ合う。

 

 『待たせてすまなかったな』

 

 『遅いぞ、バカタレ』

 

 

 

 

 

 

 

 夕日が「クロ」を「ノラ」を、そして「ピーマン」をオレンジ色に染めてゆく。物語は最高潮に達しつつあった。

 

 ほう、と清子は小さく息を吐いた。自分もずいぶんと熱中していたらしい。中々に引き込まれる良作だ。蓮乃をこれじゃ笑えないな、そう思って苦笑を口の端に浮かべる。すると、テーブルの向こうからなにやらブツブツと念仏を呟くような声が聞こえてきた。

 

 「……そうだ、そう、おまえ達が「ピーマン」を「ウィンナー」の元に送ってやるんだ。それが必要なんだ」

 

 念仏の音源は正太だった。何かを確かめるように小さく何度も繰り返して頷いている。どうやら、蓮乃同様に正太も一緒に熱中して応援までしていたらしい。

 

 「兄ちゃん?」

 

 「あ、いや、ええとその」

 

 呆れの混じった声を清子が投げかけると、焦りを含んだ返答が正太から返ってきた。正太の視線は左右に泳いで、自身の狼狽を大いに分かりやすく表現している。そうして正太がワタワタと慌てふためきながら身振り手振りで言い訳を取り繕っていると、その横腹が唐突に突っつかれた。

 そちらに目を向けると、真珠色の細い指先とその持ち主である蓮乃がいる。その蓮乃は中に黒玉が入っているのかと誤解しそうになるくらいに、その両目をキラキラと輝かせていた。

 その顔に何とも微妙な表情を浮かべて見ていた正太は、何か「ピン」と来たのかノートに文を書き付けた。

 

 『一緒に応援しようってことか?』

 

 「んっ! 」

 

 蓮乃は上半身全部で頷いて、元気一杯に肯定を示した。それを見た正太の顔はさらに表現しがたい色合いに染まった。恐る恐る視線を清子の方へと向けると、清子は優しい顔で正太に頷いた。それも、「だだをこねすぎて玩具売場で転げ回ったあげく頭を打って涙目の子供」を見るような、慈しみと呆れの混ざった「アホの子」をみる目をしながら。

 

 「……やれば?」

 

 兄としてのプライド、プライドを優先する愚行の結果、蓮乃に合わせてやりたい親(?)心、そしてなによりこの番組を大いに楽しんでいる自分自身。それら他諸々が正太の中でごちゃごちゃに煮詰まり、口から蝦蟇の脂を圧搾機で絞るが如き怪音が漏れ出した。

 

 「ぬぁぅぅ」

 

 そのアホくさい兄の葛藤を目の端に追いやりながら、TVの方へと清子は再び顔を向けなおした。画面の中では、タイトルコールと主題歌の演奏が終わり、「ピーマン」と「ノラ」「クロ」の対決を主題とした一話が始まろうとしていた。二人のせいで気が削がれちゃったなと、やくたいもない文句を口の中で転がしながら、清子は頬杖ついて人形活劇を眺める。モニターの中、夕日を背景に三つの影が近づいてはまた離れる。

 

 その視界の端っこでは、結局応援することを決めた正太が、蓮乃と一緒になって「ノラ」「クロ」コンビに声援を送っている。

 この様子を見るに、さっき考えていた「兄は年相応の行動は最低限できる」という事柄の方が間違いだったように思える。考えてみれば、「前の一件」とて兄のガキ臭い行動が元と言えば元なのだ。本質的には、兄はどうしようもなく「子供」なのかもしれない。

 正太に対して非常に失礼な思考を、つらつらと進める清子の脳裏に疑問がよぎった。

 

 ――なぜ、その「子供」な本質が家族の前ではなく、蓮乃と遊ぶときのみ現れるのだろうか?

 

 兄が家族を信頼していないのか? ……正直言って考え難い。兄の家族(両親とおそらく自分)に対する信頼は、年代を考えれば少々異常な部分があると思えるほどに強いものだ。この考えは間違いだろう。

 

 蓮乃ちゃんを家族以上に信頼しているのか? ……昨日今日、いや昨日一昨日の付き合いでしかない蓮乃ちゃんを、そこまで信頼するとは思いづらい。そもそも、兄より精神的な意味でも年下で、兄以上に子供子供している蓮乃ちゃんに、たとえ兄といえども自分を預けるとは思えない。実際、ガキ臭さ全開であるものの、蓮乃ちゃんへの兄の態度は年長のものだ。

 

 ではなぜ? ……なにかあるのだろう。蓮乃ちゃんと兄の間に自分が思いもつかない精神的な繋がりのようなものが。はたまた、兄の内面になにか蓮乃ちゃんを特別視させるような何かが。せいぜいありそうなこととしたら、「前の一件」関係の何かだろうか。

 

 ちらりと正太に目を向けてみるが、清子の視線に気が付きもしない。展開に興奮してるのか兄の頬は紅潮し目が輝いている。

 正直、自分と同じような顔でああ言う表情されるとゲンナリするものがある。その上、隣で似たような表情をしている蓮乃ちゃんとつい比べてしまい、さらに気分がゲンナリする。かたや満月を思わせる涼やかな顔立ちに、かたやスッポンどころかカミツキガメの甲羅の如き凹凸注意の面構え。兄と同じような遺伝子を持つ自分もまた、ワニガメ甲羅の凸凹顔なのだから、二重三重にゲンナリだ。

 こっちも一緒に高揚できれば気にならないのだろうが、自分以外がノリに乗っていると逆に醒めてしまう質なのだから、こう言うときは辛くなる。と言うより、この質が役に立ったことはあまりなかったりする。なにせ、皆が楽しんでいればいるほど、そこから距離を取ってしまうようなものなのだから当然だ。精々、周囲のクラスメイト(主に男子)が勢いに任せて大バカやろうとしているのをいち早く察せたことくらいだろう。

 もっとも、それに対してやったことと言えばその場を離れただけなのだが。なにせ、勢いに乗っている面々に苦言を申せば反感をダース単位で買うのは明白だし、半端にブレーキをかけてそいつ等が問題を起こせば「なぜ止めなかった!?」と詰問される羽目になりかねない。だから兄やら蓮乃ちゃんやら、そういったバカやっている人間は遠くで離れて見るのが一番安ぜ……

 

 そこまで考えて清子は醒めた、いや覚めた。

 

 ――あ~~~もう、やだやだやだやだやだなぁ。まぁっったこんなこと考えてるよ、ほんっともうやんなるなぁ

 

 他人の批判と嘲笑に酔っている自分から、目が覚めたのだ。コールタール色をしているだろう自分のハラワタを全部絞り出す勢いで、清子はヘドロ臭の重いため息を吐き出す。今の自分の顔色もきっと、コールタールかヘドロとよく似た色合いをしていることだろう。苦い肝を噛みしめたような感覚が口中に広がる。

 清子は額に手を当てたまま二度三度と頭を降って、少しでも頭骸の中に巣くった自己嫌悪を振り落とそうとする。だがしかし、脳髄にしがみついたそれは簡単には離れてくれない。

 繰り返し繰り返し、清子は何度も何度も頭を振っては長い息を吐く。それでも蜘蛛の巣が絡み付いたように、内臓と脳髄にへばりついた清子自身への嫌悪感は、離れる様子を全く見せない。口を押さえて俯いたその顔には、まるで吐き気を堪えるような表情が浮かんでいる。いや事実、清子は胃の腑からこみ上げる物を感じていた。

 唇を強く噛んで目を強くつむり、食道を逆走しようとする昼飯の残骸を息を止めて押さえ込む。接着剤でくっつけるように堅く閉じたまぶたの端から、涙が一粒こぼれ落ちた。頬を伝うそれを感じた清子は、口を押さえていない右手の指で拭おうとする。

 

 が、それよりも僅かに早く、柔らかな、そして少し湿った感触の布が清子の頬を撫でた。布は、涙の珠もその跡もぬぐい去って頬から離れた。清子は目を見開き、視線で頬を拭った物を探す。それは、心配そうな表情を浮かべた蓮乃の手に握られた、見覚えのあるハンカチだった。見覚えがあるのは当然だ。それは自分のハンカチで、さっき蓮乃に手渡して彼女の涙を拭ったのだから。

 

 『姉ちゃん、大丈夫?』

 

 「どーしたよ、お前? 調子悪いのか?」

 

 心配の上に不安をかけた顔で蓮乃がノートを差し出した。その真後ろの正太から、蓮乃の顔と同じような色合いの声が放られる。表情も蓮乃とそう違わないだろう。

 

 「あ~、うん、ちょっぴりね」

 

 二人にこれ以上心配させまいと、清子は吐き気と自己嫌悪を一息で飲み下し、ばつ悪げな表情を代わりに浮かべた。いや、正直なところ本気でばつが悪い。二人が大いに楽しんでいる横で、上から目線の批判に酔いしれた挙げ句、自己嫌悪で一人上手に落ち込んでしまっていたのだ。せっかくの楽しい時間だと言うのに、陶酔混じりの自己嫌悪を放射して、二人に心配をかけさせてしまった。ああ、余計にあたしが嫌いになる。

 

 「ちょっと待ってろ」

 

 無理に作った清子の表情に気づく様子もなく、正太は何かを取りにソファーから腰を上げ、台所に足を向けた。

 冷蔵庫から「豆乳」と書かれた紙パックを取り出すと、マグカップへとクリーム色の液体を注ぎ入れ、電子レンジにかける。ジリジリとつぶやく電子レンジの稼働音を背景に、調味料の瓶の並びから「粉飴」と表記された小瓶をつかんだ。そこで正太は台所を見渡す。いつもの場所にスプーンが見当たらない。「スプーン、スプーン」と答えるはずのない呼び出しをかけつつ、引き出しを開けて中を覗く。

 そしてスプーンを捜し当てると同時に、甲高い「チン」の音で電子レンジがカップを暖め終わったことを告げた。流しの横に取り出したマグカップを置くと、粉飴の小瓶から白い粉を一匙放り込んだ。一匙の粉飴は溶けたのか見えなくなったのか、白い液体の中にあっと言う間に消え失せた。

 

 正太が取っ手を握るマグカップからは、暖められたこともあり特有の臭いが沸き立って、その中身を見るまでもなく教えてくれる。居間へと向かう正太はこぼさないように注意しながら歩を進めるが、バランス感覚には全く持って自身がないので、出来るだけゆったりと、かつ上下動を減らして歩く。おかげで端から見ると、ロボットの歩く姿そのものだ。もっともショーモデルか個人制作を除けば、ほぼ全ての商用ロボットは二足歩行をしないのだが。

 

 正太の視線の先には、調子の悪そうな清子と、何とも言いがたい顔で正太の持っているカップをにらみつけている蓮乃がいる。蓮乃としては正太の行動が非常に気になってはいるのだが、調子の悪そうな清子を放っておけず、腰を浮かせては下ろすという無意味極まりない上下動を繰り返していたりする。

 そんな蓮乃を「腕立て伏せを始めた子猫」を見るような目で見ながら、正太は真ん中の低いテーブルにカップを置いた。

 

 「心の不調は体の不調。そしてその逆もまた真なり、だ」

 

 つまり正太曰く、体調をよくすれば気分も回復すると言うことだ。テーブル上のカップに並々と注がれたクリーム色を見ながら、清子が正太へ問いかけた。

 

 「ねぇ兄ちゃん」

 

 「なんだ」

 

 清子が指でクリーム色の水面に触れると、水面にしわが寄った。そのまましわをつまみ上げると、滴を落としながら膜が垂れ下がる。

 

 「湯葉張っているんだけど」

 

 「人の作ってきた物に文句言うなよ」

 

 せっかく持ってきた粉末乾燥水飴入りのホット豆乳に文句を付けられて、正太は憮然とした表情を浮かべる。ただし、清子の指摘も間違いというわけではない。湯葉が張っている豆乳は飲みづらい上、口にべったりと湯葉が張り付き見目の悪いことこの上ないのだ。せめて箸か楊枝か何かで湯葉を取とってくれればよかったのだが。兄のこーいう所が、詰めが甘いというか、気が利かないというか……

 

 あ、また批判してる。腹の底から沸沸と沸き上がる自己嫌悪の感触。だが、清子は大きく深呼吸して、自己嫌悪に浸りそうになる自分を戒める。まずはこの豆乳飲んで調子を戻そう。あたしを嫌うのは後でもできるから

 

 「兄ちゃん、ありがとね」

 

 「おう」

 

 マグカップを持ってきてくれた正太に改めて礼を言うと、清子は舌を焦がしながら甘い豆乳をすする。予想通りに口にへばりついた湯葉を指でこそぎ落し、行儀悪く舌でなめ取った。

 牛乳に比べ格段に癖のあるこの味が嫌いな人は少なくないが、清子は結構好きだったりする。それに、納豆しかり塩辛しかり、癖のあるものほど慣れると病みつきになるものだ。実際、父は日々の晩酌にアミの塩辛を欠かさない。ぼんやりと意味のないことを考えつつ、ちびちびと熱い豆乳を舐めていると、ふとこちらを見つめる蓮乃と視線があった。

 

 烏の濡れ羽色した黒髪に、朝日に照る新雪の肌。紅一点の唇は寒椿の紅色で、切れ長の目蓋から覗く瞳は黒玉のよう。人の外観を司る神様がいるとしたら、清子としてはマウントと取ってしこたまぶん殴りたくなるくらいに綺麗な子だ。だが、その美貌に浮かぶ表情は、犬か猫の類かと言わんばかりの愛玩動物そのまんまだったりするのが、ある意味すごい話である。

 そして今、その顔には「興味津々」という文字がでかでかと書かれていたりする。机に両手をついて、机から体を乗り出しの清子の手元をのぞき込む蓮乃。何ともわかりやすい限り。清子の顔に優しい味の苦笑が浮かぶ。

 

 『飲む?』

 

 『うん!』

 

 きらきらと好奇心に瞳を輝かせながら、マグカップを清子から受け取った蓮乃は「むふぅ」と満足げな息をもらした。

 口を付けてまずは一舐め。予想より熱かったのか、蓮乃は顔をしかめてマグカップを口から離した。口の中で豆乳を冷ましながら味を確かめる。考え込む表情で、一、二、三秒。

 もう一口。もう一度、舌の上で転がして味を再確認する。

 さらに一口。もう確認はいらないようだ。一瞬の躊躇もなく豆乳を口の中にそそぎ込んだ。

 蓮乃は豆乳の味を気に入ったのかグイグイと飲み進める。小さな唇周りに湯葉で出来た白い髭が生えるが、時々無遠慮に舌で舐め落とすだけで、蓮乃に気にした様子はない。蓮乃は夢中でカップを傾ける。

 気がつけば、カップのほぼ全部が蓮乃の喉を通っていた。とてもおいしいものが飲めたと、「ホフゥ」と満足げな息が漏れる。そして、底に残った最後の一滴を飲もうとカップを一八〇度傾けようとして、苦みを増した清子の苦笑が目に留まった。

 

 ――そう言えば、私はなんでこれを飲んでいるんだっけ?

 

 清子に焦点を合わせていた蓮乃の瞳が、つぃとずれた。視線はそのまま同じ色の苦笑を張り付けた正太の顔に止まり、さらにずれた。

 蓮乃の口の端がひくひくと痙攣し、視線は宙を泳ぎ回る。おそらく内心では「やっちゃった」の一単語が連呼されていることだろう。何せ、調子の悪そうな清子のために正太が持ってきたホット豆乳を、別段調子が悪くも何ともない蓮乃が一滴残らず飲み干してしまったのだ。決まりが悪くて仕方がないに違いない。

 視線を合わせられず頭を下げた蓮乃は、ものすごくばつの悪そうな表情を浮かべたまま、おずおずと差し出すようにマグカップを清子の前へ置いた。もし子犬なら耳を畳んで尻尾を巻いてるだろう蓮乃の姿に、正太は思わず苦笑いと愉快の笑みを一緒にこぼした。

 

 「もう一杯持ってくるか?」

 

 「おねがい」

 

 清子は微苦笑しながら、カップを掴み上げた正太に注文を返した。「自分」は好きに慣れそうにないけど、少なくとも今の気分は悪くないな。そう思いながら。


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