第一話、正太と蓮乃が出会う話(その一)
空はよく晴れている。
気持ちのよい五月の空だ。まだ梅雨は遠く、空は抜けるような青色。頬を撫でる風は柔らかで、新緑の香りが鼻孔をくすぐる。入学、入社に花見に飲み会と、浮き足だった気持ちも落ち着き、仕事に学業にと皆本格的に身を入れ始めるころだ。
それに反して、帰宅途中の”宇城正太”の気分は陰鬱に沈んでいた。さほど中身が入っていないはずの鞄がやけに重く感じ、背中がだんだんと丸まってゆく。おかげでただでさえ宜しくない顔が、不細工当社比五割り増しである。睨み付けるに適当な細い三白眼は地面に視線を這いずりまわせ、形の悪いタラコ唇からは泥のようなため息が漏れる。
別段、五月病と言うわけではない。そもそも、五月病にかかるほど全力投球の春を過ごした覚えはない。それに、小学校の頃からこの陰鬱な気持ちは相変わらずだ。理由は簡単。
友人が、学校で何かを話せる人間が、一人もいないのだ。
誰かから虐められているわけではない。単につきあいがないだけだ。何か話すべき事柄があるならば、事務的ながらもしゃべりもする。だが、クラスメイトにとって彼は、単なる風景の一部と同じだ。ゲームの一枚絵で後ろにいる顔のないモブと何一つ違わない。
一人で登校し、
一人で授業の準備をし、
一人で休み時間を過ごし、
一人で昼飯を食べ、
一人で下校して、
一人で放課後を過ごす。
これが宇城正太の基本的な一日である。授業を受けるのは除くとしても、基本的に一人である。
正太に特徴がないわけではない。右手首を見れば正太が「特殊」な人間であるとた大抵の人はわかるだろう。だが、彼と同様の「特徴」を持ち、正太よりも優れた外観・社交性・運動能力・背景そのほかを持つ人間が複数いる現状では、とてもじゃないが、彼にスポットライトが当たることはない。
その上、とある事情で話し下手な正太は事務的な話ならともかく、それ以外の雑談では、話が一分以上続いたことが希だ。そんなだから誰からも相手にされなくなる。
おかげで背景化はさらに進み、もはやクラスメイトからは動く書き割りの扱いである。
虐められていないだけ、完全に無視されないだけ、まだましな方だ。いつも自身にそう言い聞かせて、正太は学校生活をやり過ごしていた。
今日もそうやって一日を過ごし、唯一安らげる場所である我が家へと、ため息を吐きながらの帰宅の真っ最中である。
正太は軽く頭を降って陰鬱な思考を追い出すと、大きく息を吸って深呼吸をした。若葉の匂いがしそうな五月の空気が胸一杯に広がる。ついで空を見上げれば、綿雲が点々と浮かぶ気持ちのいい青空だ。
そうだ、家に帰ったら居間でひなたぼっこをしながら、お気に入りの本を読もう。そのまま昼寝をしてしまうのもいいかもしれない。ちょうど、今帰宅したところで誰も家にはいない。父は仕事、母はパートタイム、妹は部活。家にいるのは、五匹のメダカと観葉植物だけである。少々自堕落なことをしても咎める人間はいないのだ。
平日夕方の過ごしかたを考えながら、正太は先ほどよりも軽くなった足取りで帰路を急いだ。
*
自宅のドアノブを回して、玄関へ足を踏み入れる。玄関先には、いつも通り家族の靴は一つもない。これから数時間は、我が家である間島アパート一〇三号室には自分一人だ。いつものように帰宅の挨拶が口をついて出る。
「ただいま~」
家に誰もいない以上、当然ながら返答の声はない。廊下の奥の居間を見ても、誰の姿もありはしない。当人も返答を求めて言ったわけではない。ただの習慣である。
踵を擦り合わせるようにして靴を脱ぐ。みっともない上靴を傷めるから母や妹にやめるよう注意されているが、誰もいないこの時間くらいは別にいいだろう。
足で投げるように靴を脱いで、左手側の子供部屋へと直行する。鞄をベッドに投げ置いて、制服から普段着に着替え、ようやく正太は一息をついた。
慣れたといえども制服は少し苦しい。特に腹の出ている自分にとって、ベルト必須の制服はきついものがある。このダボダボした、特に腹周りの緩い普段着に着替えると、家に帰ったという実感を強く感じる。
大きく伸びをして、辛い学校生活で強ばった体をほぐした。毎日毎日縮こまっているせいで、どうにもこうにも体が堅くなりがちだ。上半身を大ききよじると、背骨が軽快な音を立てる。こうして一通り体をほぐしたら、これからはお楽しみの時間である。
正太は趣味の本を集めた本棚を眺めて、これから数時間つきあう小説を選び出す。
いつものSFもいいし、さっくりとライトノベルを楽しむのも悪くない。じっくりとハイファンタジーを読み込むもよし。たまには趣向を変えて、現代文学を味わってみるのもいいだろう。
右へ左へ目移りを繰り返しながらタイトルを追うと、東南アジアの曼荼羅のような背表紙が目に留まった。それは「薙刀使いが主人公の和風ファンタジーシリーズ」の児童文学だった。
ファンタジーというと大半の作品が中世ヨーロッパの中で、東アジアの幻想世界を元としたこの作品は非常に新鮮で、思わず少ない小遣いをはたいて、シリーズ全部をまとめ買いしてしまったものだ。しかも、買うときに一般書籍のコーナーを探し回っていたせいで、見つけるまで二時間近くかかってしまった覚えがある。もっとも、その内一時間は、目に留まった作品の立ち読みに費やされたのだが。
――そうだ、児童文学もありだな。今日はそれにしよう。
胸の内でそう決めるが早いが、さっき見つけた和風ファンタジーシリーズに加え、ついでに手近な所にあった児童文学の分厚いハードカバーを手にとり、小脇に抱える。いざ鎌倉ならぬ、いざ居間へと体重に反して軽い足取りで、暖かな五月の陽光に照らされた、食堂をかねる居間へと向かった。
*
宇城家は四人家族であり、あとはメダカが五匹と観葉植物があるだけである。そして今の時間帯は自分を除く家族三人が、それぞれの用事で外へ出ているはずだ。
正太は現状について自問自答した。別にどこもおかしくはない。いつものとおりなら、それで間違いはないはずだ。
では、居間のテレビと低い机の正面にあるソファーの、その端からニョッキリと突き出た、生っ白いふくらはぎは一体全体誰のものだろう。
そのふくらはぎは高級な白魚を感じさせる真珠色に照り、ハウス栽培の白ネギの様に形よく細く、それでいて国産地鶏のもも肉めいてしなやかな弾力を感じさせる。おそらく人間のふくらはぎなのに、えらく美味しそうに見える。きっとさっぱりとした淡泊な味わいと、顎に心地よい素敵な歯ごたえをしていることだろう。
我が家に居る以上このふくらはぎは我が家の者に違いない。まずこれを前提とする。
宇城家においてふくらはぎを持つのは正太を含む、家族四人である。よって観葉植物とメダカ五匹は容疑からはずれる。
続いて父のふくらはぎならば、すね毛が充分以上にあるはずであり、目の前に見える白くてスベスベしたふくらはぎとは、全くの別物であることがわかる。
同様に、目の前に見えるふくらはぎにはたるみが全くなく、同時にしなやかな弾力を感じさせることから、母のふくらはぎでないこともわかる。
となれば残るは、自分か妹のふくらはぎということになり、自分はここにいる以上、妹のふくらはぎ以外あり得ないということになる。
つまり、あのソファーには我が妹である宇城清子が、ぐーすかと寝転がっているはずなのだ。
しかし、いつもに比べて妙に帰るのが早い。今日はクラブに行かずに直で帰ってきたのだろうか。それにしても早い。小学校は中学校より早く授業が終わるんだったっけ。
無駄に洗練された無駄な思考を無駄に回転させながら、早帰りをした妹の寝顔を覗いてやろうと、正太はソファーへと近づいた。
そしてソファーをのぞき込むと、目を四、五回瞬かせ、さらに三回目をこすった。
目の前にあるのは、まるで液体の黒曜石のように広がる黒い長髪。黒い絹のような髪は、指の間から流れ落ちそうなほど滑らかで軽い。
髪の下の肌は、夜の間に深々と降りつもった深雪か、夜の天の河に似た白である。しかも、陶磁器や大理石を思わせる硬質な滑らかさを帯びながら、その奥に生命の桜色と柔らかな弾力を帯びている。
紅梅花のような唇は、薄いながらも朱を塗ったように赤く、肌の白の中で寒椿の如く、凛と浮き立つ。その様は、幽玄のように幻想的な美を感じさせる。
瞳は閉じられて様とは知れぬものの、長く柔らかに伸びた睫と、白紙に引いた墨一線のような切れ長の瞼が、開いたときの麗しさを伝えている。
顔の各品は、最初からそう考えて作られたとしか、言いようのない配置に収まり、その姿の幼さ・肌の白・唇の赤を併せて、人形にも似た非人間的な美しさを表している。だが、肌の奥の薄桃色が、唇の間から漏れる吐息が、それが完成しきって凍り付いた美へ、生命の熱を与えている。
詰まるところ、目の前のソファーには、幼いながらもとんでもない美人さんが、すやすやと気持ちよさそうに寝ているのである。
正太は無駄に洗練された無駄な思考を先ほどよりも無駄に高速で回転させる。
問題はこの娘さんが、自分の妹とは似ても似つかないことだ。何せ妹は、とても悲しいことに自分と似た顔をしている。つまりはお世辞にも、美人とか美しいとかそういう形容詞を使える顔ではない、と言うことだ。もし使いたいなら、その前に「不」「非」だの否定語をしっかりつける必要があるだろう。
先の思考より、我が家の人間ならば、ここに寝転がっているのは妹でなければならない。しかし、ここに寝転がっているのは、どうみても妹ではない。
つまり、ここに寝転がっているのは、我が家とは何の関係もない誰とも知らない誰かさんである。
――どこのどいつだこの美人さんは!?