理想のカップル対決
何でこんなことになったのだろうか。
浩介は吹奏楽部員の視線を集めながら、目の前のケーキに目を落とす。
隣には何故か楽しそうに笑顔を浮かべる香織の姿が目に映る。
事の発端は昨日まで遡る––––
「私も香織先輩みたいに、ちゃんと想ってくれる彼氏が欲しいな」
吹奏楽コンクールの全国大会も終わり、秋が深まってきた十一月のとある日。
今日の練習は珍しく、北宇治高校吹奏楽部顧問の滝と副顧問の松本が休みであり、それに伴い部内の空気はやや緩んでいた。明日からまた緊張感のある日々に戻るのだ。今日くらいのんびりしても良いだろう、というのが部員の総意である。
新生北宇治高校吹奏楽部の部長である優子は、机に突っ伏すと誰に聞かせる訳でもなく願望を口にする。
全国大会を終えて既に引退しているが、部活の先輩である香織と、その彼氏である浩介は理想のカップルであった。外見だけでは決して判断はつかない。しかし、香織には浩介が、そして逆もまた然り––––二人はお互いの存在があって一つである。入学時から二人の後ろをついて歩いた優子が出した結論だ。
二人以上の理想的なカップルはいない。
願わくば、自分もそのような相手を見つけたい。いつかそんな風にすら思うようになっていた。高校に入学してから一年半以上が経過し、何度か告白される機会はあるものの、残念ながら同学年の男子は子供にしか見えない。それがより理想を理想たらしめていた。
「梨子と後藤の方が理想的でしょ」
不意に頭上から自分の考えを否定する声がかかる。顔を上げれば、案の定夏紀がため息をついていた。
初めて会った時から、彼女は優子のやる事なす事、大抵のことに同調することなく、いつでも否定してくる。つまるところ、お馴染みのやり取りだ。
今日は滝がいない反動で緩みきっていたこともあり、また反論する元気もないため、大したことない内容であれば突っかかることなく流そうと思った。
しかし、尊敬する二人の先輩のことである。
決して否定されたままにしておくことはできない。
「はあ? 何言ってるの?」
「そっちこそ何言ってるの」
またいつもの事だ。周りは二人のいがみ合いを、何でもない雑談のように流し、いつものように準備をする。火を注ぐ存在がいなければ、ものの数分で鎮火するだろう。それが吹奏楽部員の共通の認識であった。
「でも確かに。どちらも素敵ですよね」
だが、今回は火を注ぐ存在がいたらしい。
少女漫画に憧れ、女子校から共学の公立高校へ進学した緑輝は、手を合わせ目を輝かせていた。恋に恋する高校生には、どちらも理想的に映るようだ。
「ミドリちゃん、その話は今はマズイよ」
「久美子もだよ」
葉月の指摘に久美子はハッとなり口を抑えるが既に遅い。
「香織先輩だって言ってるでしょ!」
「梨子だって!」
ヒートアップする二人を止められる存在はいない。梨子はオロオロと顔を見比べるのみ。希美は我関せずとみぞれとの会話に没頭––––久美子はため息をついた。何とかして止めないと練習は始まらない。
「せんぱ––––」
「それならば! どちらが理想のカップルか、みんなで決めれば良いじゃないか!」
突然の乱入者に場が静まる。
吹奏楽部員の視線の先には、引退した筈のあすかが腕を組んでいた。トレードマークでもある赤いフレームのメガネが光る。久美子は、自分の言葉を遮られた不快感よりも、突然あすかが現れた驚きに心臓が止まりそうになる。しかし、肝心のあすかは久美子の視線に気付くことはない。
元副部長はニヤリと笑い黒板へと向かう。その手にはいつの間にかチョークが握られていた。
『第一回 理想のカップルはどっちだ⁈ 私の愛を受け取って選手権!』
小気味良いチョークの音からは想像もつかないワードが黒板に叩きつけられる。
正直ダサい。久美子の率直な感想である。
「何ですか、これ」
「よく聞いてくれた、黄前ちゃん!」
いや、別に聞いた訳じゃない。因みにモノマネをした訳でもない。
久美子の発言を無視し演説を始める様子に何処か懐かしさを感じつつも、その内容は明らかに下らないものであった。
曰く、愛を確かめるには、お互いに食べさせる様子を見れば判断しやすい。
曰く、明日の家庭科実習はケーキ作りである。
「お互いに食べさせ合う様子から、どちらが理想のカップルに相応しいのか! 投票で決めれば万事解決!」
「いや、どう考えても解決なん––––」
「分かりました」
「その勝負受けて立ちます」
何で。
静かに睨み合う二人を目の前に、頭痛がしてくる。乗り気なのは、あすかと優子、夏紀の三人だけである。
当事者の梨子は後藤と食べさせ合うところを想像したのか赤面しており、後藤は巻き込まれつつあることに対し、目を抑えてため息をついていた。
「ケーキを食べさせ合うなんて結婚式みたいです! ミドリも楽しみです!」
手を合わせ目を輝かせる緑輝の言葉を皮切りに、少しずつであるが同調の声が挙がる。
次第に大きくなる拍手に、あすかが満足そうに頷いたところで後藤が抗議する。
「あの、俺は出るなんて一言も言ってないんですけど」
「え、後藤何言ってるの? あんたに拒否権はないわよ」
「そんな恥さらしみたいなことなんてしたくないです」
後藤ちょっと耳貸して。
明らかな不満顔の後藤を呼び寄せ、あすかは彼の耳にだけ聞こえるように囁く。始めは胡散臭そうにしていた後藤の目が見開かれる。
「何であすか先輩がそれを––––」
「内緒よ。これに出てくれるなら、このことはこれからも胸の中に秘めたままにしておくから」
分かりました。
苦虫を噛み潰したような表情で後藤は頷いた。
何を言ったのだろうか。新低音パートリーダーが陥落するその様子に久美子は戦慄を覚える。
「じゃあ、舞台は明日の昼休み! 面倒なことになるから、くれぐれも先生にバレないようにね!」
嵐のように去っていく後ろ姿を眺めながら、ふと疑問に思う。
「そもそも進藤先輩たち来るのかな」
疑問が解消されたのは、翌日の昼休み。
午前中の授業終了のチャイムが鳴り、ワクワクを隠せない緑輝に背中を押されながら音楽室に到着すると、既に会場はセッティングされていた。
脇には香織と笑顔で話す浩介の姿もある。
正直なところ、意外だと思ってしまう。学校生活を見ている限り、浩介は香織と一緒に行動することは多くない。クラスが異なることも理由の一つかもしれないが、時々昼食を一緒に済ませるか下校の時間が合えば待ち合わせる程度である。
人前でイチャつくことを良しとしない。久美子は勝手にそう結論付けていた。
「あ、黄前ちゃん。久しぶりだね〜」
「こんにちは」
「今日ケーキが食べられるって聞いたんだけど、みんなでワイワイ食べる感じなの?」
あ、この人騙されてる。
純粋な目に耐えきれずに視線を逸らすと隣にいた香織と目が合う。
申し訳なさそうな表情から、香織は今日行われる内容を知っているようだ。香織が本当のことを言わずに浩介を連れてきた。
つまり、浩介の望まないシチュエーションであることは間違いない。
「美味しいケーキだと良いですよね」
「え、何で急に可哀想な物を見る目でこっちを見るの? ゲテモノとか出てきちゃうの?」
話せば話すほど、浩介が憐れになる。
久美子は適当に相槌を打ち、緑輝たちの元へと向かう。対決の始まりを今かと待ち望んでいる姿は、対照的に映る。
「準備も出来たので、そろそろ始めるよ!」
パンパンと手を叩くと騒がしかった音楽室が静かになる。まるで部活の時のようだ。教壇に立つあすかへと視線が集まる。
「それでは、これから第一回、理想のカップルはどっちだ⁈ 私の愛を受け取って選手権! を始めます」
開幕の宣言に拍手と口笛が鳴り響く。まるでお祭り騒ぎだ。いや、実際にお祭りのようなものなのだろう。
盛り上がりを見せる吹奏楽部員とは別に一人状況の掴めない人間がいる––––浩介だ。
浩介は手を挙げると、あすかへ質問を飛ばす。
「ケーキが食べられるって聞いて来たんだけど、何かすごい陰謀に巻き込まれてる気がするのは気のせいかな」
「何言ってるの。これからケーキ食べられるわよ? 香織の手で」
「香織の手……?」
「ごめんね、浩介」
手を合わせる香織を尻目に、あすかは内容の説明に入る。
「ルールは簡単。今から、ケーキをお互いに食べさせて、そのイチャつき度合いを吹奏楽部員に判断してもらい、どちらがより理想のカップルか判定します。判定は拍手の大きさで決めたいと思うので、良いと思った方に盛大な拍手を送って下さい!」
「え、お……?」
「では、まずは二年生ペアから! 後藤と梨子!」
顔を赤くしたまま着席する梨子と、諦めの表情の後藤。机には一ピースに切られたケーキが皿に乗せられ出番を待っている。
「もしかしてだけど、あれを俺と香織もやるの?」
「……うん」
マジか。小さく呟きは、囃し立てるような声にかき消える。
フォークに一口サイズに切り分けられたケーキが刺さり、梨子の口へと運ばれる。
パクリと口の中に消えると、拍手が起こる。
「では、次に梨子が後藤に食べさせて」
「あすかから言われたの。浩介が誰のものなのか、はっきりアピールしておいた方が良いって」
ケーキを一口大に切り分ける梨子の姿を横目に、香織は浩介にだけ聞こえるように呟く。
浩介のドイツのクラブチームへの加入が発表されて以来、今まで話したこともなかった人も浩介に話しかけるようになっていた––––男女関係なく。
香織自身は特に思うことはない。それだけのことを成し得た、それが偶々彼氏であっただけ。しかし、周りの人間はそう考えてはいなかった。
「ボーッとしてると誰かに取られちゃうかもよって。晴香も脅してくるの。だから私の彼氏ってことを見せつけなさいって」
「取られるなんて。香織以外考えられないのに」
「私も浩介のこと信じてるよ。だから今日は巻き込んでごめんね。……これも無理にやらなくても良いと思う」
拍手が沸き起こる。後藤がケーキを食べたようだ。大柄なパートリーダーの耳は赤く染まっていた。無表情を装っても恥ずかしさは隠しきれていない。
周りの部員たちは次のカップル––––浩介と香織の登場を待っている。
この雰囲気で、やっぱり俺は食べません、参加しません。
そんな香織に恥をかかせるようなことが言える筈もない。
さらに言うならば。
「どうせなら思いっきり見せつけようか」
「え?」
「吹奏楽部のマドンナだった香織の彼氏が誰なのか。全員に見せつけようか」
次は、進藤、香織ペア!
あすかの紹介に、浩介は立ち上がる。
「じゃあ、まず進藤が食べさせて」
「了解」
ケーキをフォークで切り、香織の口へと運ぼうとし、ふと思い出したように止まる。
観客と化している吹奏楽部員の方を向き、首を傾げた。
「何で誰もスマホ構えてないの?」
浩介はケーキを一度皿に置くと、立ち上がる。
「あーん、をされて恥ずかしがる香織の姿なんて、今後結婚式まで見れないからな?! ちゃんとここで撮っとかないと!」
「ちょっと、浩介! 何言ってるの?!」
「そして誰か撮ったら後で俺に送って!」
「私に任せて下さい!」
「優子ちゃんまで?!」
「恥ずかしがる香織先輩マジ天使です!」
まだ口に運ばれていないのに、既にカメラモードにしたスマホを連打する。優子の行動に感化されるように、部員もスマホを取り出した。
「よし、」
浩介は撮影の準備が出来たことを確認すると、椅子に腰を掛け再びフォークを手に持つ。
「あーん」
香織はリンゴのように頬を赤らめながらも、差し出されたケーキを頬張る。
梨子が食べたときのような拍手などはなく、むしろ普段見ることの出来ないマドンナの姿にどよめきとシャッター音が響く。
普段の練習とは異なる謎の緊張感が場を支配していた。
じゃあ、次は香織が進藤に食べさせて。
あすかの進行に香織は頷く。
何故か笑顔が怖い。浩介は向かい合う香織の雰囲気が変わったことに気付き、背中に冷たいものを感じた。
香織はフォークを持つとケーキを一口大に切ることなく、一ピース丸ごと持ち上げた。
「え、香織さん……?」
「浩介のカッコ良いところ見てみたいな?」
「物理的に口に入らないの分かってるよね。カッコ良いとことか、そういう問題じゃないと思う。むしろ口周りクリームだらけにしてカッコ悪いと思う」
「はい、あーん」
「あ、これ怒ってるわ。マイ天使マジおこだ」
腹をくくるしかないようだ。
浩介は意を決して口を開けた。
結論から言えば、ケーキは無事浩介の中に消えていった。
苦しさから若干涙目になりながらも、何とか下に落とさないよう上を向きながら口の中に運び入れる姿は、二人の愛情など微塵も感じられない。
「ミドリが想像してたのとちょっと違います」
「ちょっとなの? 私は大分だけど……」
机を授業態形に戻しながら頰を膨らます緑輝に葉月は頬をかく。
見てて楽しくはあったが、コントのようになっていた。もしかしたら香織なりの照れ隠しだったのかもしれない。
票を取るまでもなく、梨子&後藤ペアの勝利であった。
期待していた展開と異なり消化不良感はあるものの、そろそろ昼休みの終わりも近付いてきていた。
「やっぱり梨子と後藤の方が理想のカップルだったでしょ」
「浩介先輩がバカなことをしなければ、香織先輩が勝ってたわよ!」
「え、俺がいけないの?」
何その理不尽。
浩介の抗議は優子の耳に入らない。夏紀が煽るように口角を上げれば、優子の眉間にシワが寄る。
このまま後輩二人の隣にいても、飛び火して攻撃を受けるだけになりそうだ。浩介は言い合いに熱中する二人の視線に入らないように後退した。
数歩下がりそのまま反転すると、晴香と話す香織の姿があった。
浩介に気付くと香織は申し訳なさそうに俯く。
「私があんなことしたから……。せっかく浩介がやる気になったのにごめんね」
「俺も調子に乗り過ぎたよ。こちらこそごめん」
そういえば、と浩介は思い出す。
「俺が食べたケーキ作ったの香織だったんでしょ? 美味しかったよ」
「班で作ったから私だけではないけどね。……って何で知ってるの?」
「小笠原が教えてくれた」
教室の端であすかと話す晴香の姿が見える。香織の視線に気付くと、ごめんと、手を合わせる。
香織は、自作のケーキを食べさせたことを浩介に伝えるつもりはなかった。
理由は単純であり、素直に恥ずかしいから。
優子のようにお菓子作りが得意なら、特に気にすることなくこともなかった。
「でももっと美味しく作れる人いるし、」
「もちろん美味しいに越したことはないけど。それでも、結局誰が作ったのか、それが大切なんだと思う」
浩介は香織の頭に手を置いた。
校内で、しかも人がいる前ではすることのない行動に、弾かれるように顔を上げれば柔らかい笑顔があった。
「今度また作ってね?」
「……うん」
「香織もあのやり取りをさっき見せれば勝てたのに」
「まあ、でもわざと見せつけるでもなく、素で出てくるのがあの二人の良いところだからね」
晴香の頰は自然に緩む。
願わくば、卒業しても––––浩介がドイツに行っても二人は変わらないでいて欲しい。
それはきっと叶わない願望ではないことを元部長は確信していた。