もし、一年生の頃に香織と知り合ってなかったら––––
もし、香織がサッカーの試合を観に行っていなければ––––
あり得たかもしれないifの話
ゴールテープを切ったランナーが笑顔でチームメイトと抱き合っている姿が映っている。明日は復路がありまだ前半戦ではあるものの、今日のスポーツニュースではどこのテレビ局でもこの映像が使われることだろう。
炬燵で横たわっている体を捻り、リモコンに手を伸ばす。限界まで伸ばした指先に触れたゴムを摩擦の力で引き寄せ手の中へと収める。炬燵から出なかったから今回はこっちの勝ちである。何の勝利なのか分からないが、謎の優越感に浸りつつチャンネルを適当に変える。
『後半が始まりました。エンドが変わり、一点をリードする立華高校は左から右攻めです』
緑の芝生の上を縦横無尽に走りまわる選手たちをボーッと眺めつつ、壁に掛けられた写真に目をやる。肩を抱き合いメダルを首からかけ、笑顔でピースをする北宇治高校サッカー部の姿がそこにはあった。たぶんあの一瞬は人生で最も幸せな瞬間だった。勝利の余韻以外に浸ることすら考えずにカメラに笑いかける自分の姿が鮮明に写っていた。なお、隣には吹奏楽部の写真も飾ってある。
北宇治高校サッカー部は、今回の京都府大会で立華高校に負け、全国大会に出場することはならなかった。仕事の関係で応援には行けなかったために、後輩からの連絡で結果を知り肩を落とした。しかしながら、最も落ち込んでいるのは戦っていた部員たちだろう。浩介たちの代の卒業後、北宇治高校は立華高校と隔年で出場するくらいに全国大会の枠を争うレベルに達していた。その健闘は賞賛に値する。きっとその悔しさは将来に繋がるものに違いない。
立華高校はそのまま京都府大会を勝ち上がり、全国大会でも初戦に勝利している。今日の試合も勝てそうな雰囲気である。北宇治高校の分まで勝ち上がっていって欲しいものだ。
「浩介、何ダラダラしてるの? そろそろ出掛けるよ?」
ガチャッとリビングと廊下を繋ぐドアが開かれ、一人の女性––––吉川優子が顔を覗かせた。化粧、着替えを終え、準備が整いつつある優子は、いつまでも準備を始めない姿にジト目を向ける。夕方になると混み始めるため、そろそろ出掛けたいのが本音のようだ。
「いや、一応もう直ぐに出られるよ。炬燵から出たくないだけで」
「またそうやって横着する。ほら炬燵のスイッチ切って! 早く行くの!」
頰を膨らます目の前の彼女を見て思う。いつから自分に対する敬語が無くなったのだろうか。大学で再開した時は、まだ敬語で話しかけられていた記憶があるものの、それこそ付き合う前には既にタメ口で会話をしていた。
あばたもえくぼとは良く言ったものだ。タメ口であることに不機嫌になるどころか、当時の浩介はむしろ距離が縮まったと喜んでいた気すらしてくる。惚れた弱みとも言えるそれは、出会った時に撒かれた種が実った結果であり、現在進行形でそれは枯れる兆しを見せることなく日々成長を続けている。
それはとても好ましいことであると常々思い続けていた。
つまりは、浩介は吉川優子が好きである。
「ほら、もう混んでるじゃない」
「いや、年明けだしどこもこんなものだろ」
「言い訳しない」
「厳しいな。もう少し優しくしてくれても良いと思うよ」
「浩介にはこれで十分よ」
浩介の持つカゴに新たに食材が入ってくる。年始だから、と思わせるような食材はなく日常の生活と変わらずだ。次々と入ってくる野菜や肉たち、それらは優子が瞬時に選別しており本人に言わせれば適当に持っているように見えて取る前からおおよそ判断をつけているらしい。
食料品コーナーはどこも人で溢れているため、カートを押す手も慎重になる。小さい子供たちはどこであっても遊びたくなるのが常である。これだけ人が多いと、人と人の間をいかに素早く通り抜けることが出来るか兄弟で競い合っているのが目に入る。
小さいと目に入らないことがあるためにカートがぶつかってしまわないよういつも以上の慎重さが求められる。
「まったく、親の顔が見てみたいくらいよ」
「子供は遊ぶのが仕事みたいなところはあるからね。こういうところで遊ばせるのはどうかと思うけど」
「浩介は子供ができたら甘くなりそうね」
「うーん、意外と厳しく育てるとは思うんだけどなあ」
絶対に甘やかすわよ、娘ならなおさらね。答えは分かり切っているとばかりに話を切り上げると優子は角を曲がった。そろそろ醤油がなくなりそうなことを思い出したらしい。解せないとは思いつつも特別身長の大きくない彼女を見逃さないよう浩介は後を追った。
「あと他に買うものあったっけ」
「ないと思うけど……」
指を折り買い忘れの物がないか確認しながらビニール袋を手渡してくる辺りちゃっかりしているなと後ろをついて行きながら浩介は後頭部に目を向ける。
以前大学の友達から、お前は彼女の尻に敷かれていると指摘されたことを思い出す。本人に聞かれたら間違いなく怒るであろうその言葉を聞いた時、どこか納得出来る自分がいた。まだ付き合い始めであるのにまるで長年付き添っているように見える二人の姿は、多分理想の関係でもあるのかもしれない。
彼氏に対し強く言ってくる女子が苦手の男子もいるが、浩介は全く苦手意識はなく、むしろ何を言うにしてもあまりにも飄々と受け止めていたことで優子が不安になったことすらある。
あの時の優子も可愛らしかったと思い出したことで顔が緩んでいたらしい。振り返った優子はジト目でこちらを見ていた。
「何ニヤニヤしてるの」
「いや、さ、泣きながら怒ってた優子のこと思い出してた」
「なッ! 何でそんなの思い出すのよ!」
「あの時の優子も可愛かったなって」
「こんなところで変なこと言わないで!」
頬を赤く染めながら抗議しても残念ながら全く怖くはない。微笑ましく思っていたら効果がないと分かったらしくフンとそっぽを向いてしまった。このまま機嫌を損ねたままだと晩御飯が出てくるか怪しくなる。年明けから牛丼も悪くないが、やはり恋人の手料理に勝るものはない。
浩介は小走りで追いかけるとその手を取った。一瞬戸惑うものの指を絡めてくるあたり本気で怒ってはいなかったようだ。
「ふう……、ごちそうさまでした」
「はい、お粗末様」
「洗い物はするから食器置いたままで良いよ」
「そう? ありがと」
無事帰宅までに機嫌を直すことに成功し手料理を堪能した後、浩介は視聴するテレビが始まるまでにやるべきことを済ませることにした。残念ながら料理はいまだに上達する兆しを見せないため、食事後の片付けなどは浩介が担当することになっている。片付けも初めは優子が交互にやることを申し出ていたが、同居する以上家事は半分ずつに分けておいた方が良いと浩介が一歩も譲らなかったことで現状に落ち着いていた。
なお、今後長く共同生活するのだから、という言葉が優子の心を直撃したことは浩介は知らずにいる。
「浩介、明日は用事何かある?」
カチャカチャと皿を洗っていると、寝ながらスマホを操作していた優子が体を起こしこちらを向いていた。明日は一月三日––––まだ三が日であり仕事は始まっていない。京都に帰っていれば旧友と飲んだりすることもあっただろうが、今年は二人の予定がかみ合わなかったこともあり帰省はせずに過ごしていた。
「うーん、特別予定はないかな。強いて言うならば、立華の試合を観るくらい」
「そう、」
「どうしたの?」
言い淀んでいる姿はいつもはきはきとしている優子らしくない。蛇口を閉めてタオルで手についた水分をふき取る。正方形のテーブルが上に載っている炬燵はテレビが真正面になるところが優子の、その斜め向かいが浩介の定位置となっていた。
いつもであれば自分の位置に座る、しかし今は少し気分が違った。
「……狭いんだけど」
「何となくこうしたかった」
「何よ」
敢えて優子の隣に座り腰に手を回す。ある程度密着していないと炬燵の足がぶつかるためぎゅっと優子を抱き寄せた。狭いと愚痴っているのに移動しないのは、つまり形だけの批判であることが分かる。
「うん、こうしてると落ち着く。あと良い匂いがする」
「変態」
「我々の業界ではご褒美です」
「何よそれ」
優子は呆れたと言わんばかりに深くため息を吐いた。
「明日ね、お母さんがこっちに来るって」
「お母さんが?」
「うん」
優子の両親––––今回は母親のみのようだ––––がこちらにやって来ること自体は特別珍しいことではない。挨拶自体は学生時代に済ませてあるし、父親の方とも優子を伴わずにご飯を食べに行ったりすることもある。
息子が出来たみたいで嬉しいと言われたことは浩介自身喜ばしいことだと思っている。その良好な関係を築いている親が来ることに何かあるのだろうか。
「いや、ね、特別何かある訳ではないの。ただ、」
「ただ?」
「あー! もう! 何で察しないかな!」
「いやいや、何をどう察しろと?」
「お母さんに! 早く花嫁姿が見たいって言われたの!」
完熟したトマトのように、これ以上ないくらい顔を赤く染め上げ優子はヤケクソ気味に叫んだ。
何でこんなことを叫んでいるのか、自分でも分からない。普段は何気なくフォローするくらいに察しが良いのに、今日の愚鈍っぷりが目に付いたに違いない。
キョトンとしていた浩介も徐々に意味が理解出来たのだろう、若干耳が赤い。その照れ臭さを隠すつもりで優子の頭を胸へ抱き寄せる。ふんわりと柔らかい髪がサラサラ指の間を流れていく。人前だと絶対に見せないが、二人の時は甘え癖があることを知っている優子も応えるように背中へと手を伸ばした。
「良かった……」
「何が良かったのよ」
「孫の顔が見たいって言われたらどうしようって」
「––––ッ!」
耳まで真っ赤になっていることが抱き締めていてもよく分かる。不意打ちに弱いところが可愛らしくて仕方がない。浩介の胸に強く額を押し付けてグリグリと擦る様はまるで赤ちゃんが駄々をこねているみたいだ。浩介はその頭をゆっくり何度も撫で続ける。
「まだ社会人として基盤が出来ていないと思うから、その言葉はちゃんとした時に言うつもりなんだ。……だからもう少し待ってて欲しい」
「うん。分かってる」
だいぶ落ち着いてきたことで、もぞもぞと優子は顔を上げた。赤く染められ上気した頰、潤んだ瞳––––全てが愛おしく、自分だけのモノにしたい衝動に駆られる。
「浩介?」
小首を傾げた姿は薄い壁一枚となっていた理性を破壊させるのに十分な威力を持っていた。
抱き締めた体を離さないように、顎に手を添えるとそのまま影を重ねる。もうテレビ番組なんてどうでも良い。
「愛してるよ」
浩介は小さく耳に呟いた。