香織先輩に彼氏がいたならば【本編完結】   作:お家が恋しい

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劇場版公開記念!

原作で彼氏のいる久美子のストーリーを作るか悩んだけど何度も見ているうちに書きたくなってしまった。後悔はしていない。


if 黄前久美子 編

もし、一年生の頃に香織と知り合ってなかったら––––

もし、香織がサッカーの試合を観に行っていなければ––––

 

 

 

ありえたかもしれないifの話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

久美子が初めて彼のことを知ったのはいつのことだったか。

今となっては細かく覚えてはいないが、記憶が確かなら所属する吹奏楽部の低音パートの練習の時だった筈だ。

 

 

「吹奏楽部ではあすか先輩は特別だから」

 

 

一つ学年が上である夏紀の言葉に引っかかりを覚えた。

 

 

「吹奏楽部では?」

 

「あー、うん。実は、三年生にはもう一人いるんだ」

 

 

––––特別と言われている人が

 

 

 

それが物語の始まりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれ、今日ってサッカー部の練習休みじゃなかったっけ?」

 

 

ゴールデンウィークを二週間ほど前に控えた四月のとある放課後。北宇治高校吹奏楽部は春から顧問を務める滝の指導の元、サンライズフェスティバル––––通称サンフェスに向けてマーチングの練習を行なっていた。

海兵隊を合奏し、滝の合格を得たのが先週のこと。彼の指導により自分たちの実力が向上していることを実感した部員は、少しずつではあるが積極的に練習に取り組むようになっていた。今日も体操服に着替えグラウンドに向かう。マーチングで必要とされる何度も歩幅を合わせる作業は単純に見えて意外と身体を使う。過ごしやすい気候ではあるが、久美子の額には汗が滲んでくる。

周りの部員も同じである。発汗し放たれた熱は密集した空間の気温を上げ、それによりさらに汗をかく。あまり良いとは言えない環境の下、部員の体力は加速度的に奪われていくため適度に休憩を挟むことが必要になる。

 

 

「では、十分ほど休憩にします。水分はしっかり補給して下さい」

 

 

いつもは裏があるのでは、と考えさせられる笑顔も今は仏のように見える。久美子は木陰に置いてある水筒をいち早く手にし、熱した喉を冷やしていく。

そんな時であった。

葉月の視線を追うと一人の男子生徒がジャージに身を包み、黙々とサッカーボールを蹴っている姿が視界に入る。

身長は低音パートの先輩である後藤と同じくらいだろうか、高身長であり、しかし太過ぎる訳でも、ましてや細過ぎる訳でもない。絵に描いたようなスポーツマンの体型をした彼は、きっとサッカー部員なのだろう。なお、サッカー部という感じの顔でないために彼が部員であることを確信できずにいたりするのは余談だ。

 

だからこそ葉月の疑問がそのまま周りの疑問になる。元々、今日はサッカー部や野球部などグラウンドを広く使用する部活動が休みのために吹奏楽部がマーチングの練習を行なっている。

グラウンドの端で行われているそれは個人練習––––自主練なのかもしれない。何度も何度もゴールに蹴り込む姿は何故か久美子の目を引いた。

 

 

「あれが前に話したもう一人の“特別”な先輩だよ」

 

 

いつの間にか隣には夏紀がいた。

この先輩実は影が薄いのではないか。思ったものの流石に口にはしない。

 

 

「でもあの人は、あすか先輩とは違う」

 

「どう違うんですか?」

 

「それは––––、休憩終わりみたいだね。早く戻らないと怒られちゃうよ」

 

 

一瞬、夏紀の顔が崩れたように見えた。もしかしたら気のせいかもしれない。何か言い淀みつつ号令をかける晴香の元へ駆けていく後ろ姿を久美子はじっと見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「個人練行ってきます」

 

 

楽譜と楽器––––ユーフォニアムを持ち、いつもの校舎裏のスペースへ向かう。どの時間帯でも日差しで照らされることなく一人で練習するにはもってこいの場所である。

少し汗ばみ滑り落としそうになった楽器を持ち直し校舎の角を曲がると、そこには見慣れない男の人が横たわっていた。緑色のジャージに青のラインが入ったそれは、確かサッカー部の練習着の筈だ。男子生徒はスクールバッグを枕代わりに頭の下に置き目を瞑っていた。

 

 

「うん? でもこの人何処かで……」

 

 

あ、と手を叩く。

それと同時に男子生徒が目を覚ます。

 

 

「ふわぁ……、あ?」

 

「あ、えっと、」

 

「こんにちは?」

 

「こ、こんにちは」

 

 

マーチングの練習中に一人練習している姿が記憶に蘇る。夏紀が話していた“特別”な人。

 

 

「もしかしてここで楽器の練習しようとしてたのかな?」

 

「は、はい」

 

「ごめんね。今退くから」

 

 

グッと背筋を伸ばし立ち上がるとその身長は予想以上に高く、久美子は彼––––浩介の肩までも届かない。幼馴染も比較的高身長ではあるが、彼はそれ以上である。

正直なところ、少し身長をわけて欲しいくらいだ。理不尽な欲求は満たされることなく、またそれに気付くことなくバッグを肩に掛けた浩介の邪魔にならないよう椅子とユーフォニアムを端へとズラす。

浩介は楽器に視線を向けた後、不思議そうに首をかしげた。

 

 

「その楽器初めて見るかも」

 

「これですか?」

 

「後藤ちゃんが持ってたのよりは少し小さい気がするし、でも似てるような気もする」

 

「後藤ちゃんって……」

 

 

間違いなくチューバ担当の後藤のことを指しているのだろう。寡黙な大男を“ちゃん”付けする辺り、どこか残念なセンスを感じる。

 

 

「後藤先輩が扱っているのはチューバですね。これはユーフォニアムっていう楽器です」

 

「ユニフォーム……?」

 

「ユーフォニアムです。難しいことは省きますけど、ギリシア語の“良い響き”が語源になっているんです」

 

 

良い響き。

目を爛々と輝かせる先輩を前に喋りすぎたことを悟る。これは実際に演奏してみるまで、この場に留まり続けるのではないか。あすかから仕入れた––––勝手に話してきただけの間違い––––知識は変に話すべきではない。

一つ賢くなったと諦め、久美子はユーフォニアムを手に持った。

 

 

「音色聞いてみますか?」

 

「ぜひ!」

 

 

こうも期待されるとコンクールの時とは異なる緊張感に包まれる。

チューニングが問題ないことを確認し、ユーフォニアムは空気を震わせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今日も一人で練習してるなんて友達いないの?」

 

「今は個人練なんです。先輩こそ一人でこんなところにいて友達いないんですか?」

 

 

あれから幾度となく浩介は校舎裏のこの場所に現れた。あの日、初めて耳にした音色は強く心に訴えるものがあったらしい。

つまりはユーフォニアムのファンになったということだ。久美子の演奏を聴いた翌日に世界的に活躍するユーフォニアム奏者のCDを購入したと聞いた時は流石に顔が引きつってしまった。

制服の移行期間を終え、白いワイシャツが陽の光を反射しシルエットをより際立たせる。捲られたシャツの袖から筋張った腕がのぞき、見た目と異なりスポーツマンであることを思い出させる。

 

 

「量より質だからね。友達が多くないことは否定しないよ」

 

「ナックル先輩が友達なあたり、質もどうかと思います」

 

「黄前ちゃん、それは流石にヒドイよ」

 

 

思わず出てしまった発言に慌てて口を抑えるも、浩介は呆れた顔で諌める。三年生に対しても物怖じしないところが、この男子生徒は気に入っていた。

 

 

「それで今日は部活は休みなんですか?」

 

「明日試合があるからね。今日は軽く流しての調整だけで終わりだったんだよ」

 

 

サッカーの夏の総体、府大会予選は先日より始まっていた。北宇治高校サッカー部は順調に勝ち進んでおり、明日の試合に勝利するとベスト八である。

浩介の顔から気負いは感じられず、勝つであろうことを信じて疑っていない。そんな自信が羨ましくて仕方ない。

いつまでも上手く演奏出来ないパートがあることで、期日の迫ってくるオーディションに対して焦りが生まれていた。きっと目の前の先輩にその愚痴を話したならば、優しくフォローしてくれることは予想に難しくない。

おちゃらけたようであり、実は繊細である。会話の機会が増えることで周りから聞こえる噂とは違う人物であると久美子は理解していた。そして、兄のような、この先輩のことがオーディションとは別のベクトルで気になっていた。

 

 

「先輩、」

 

「うん?」

 

「頑張って下さい」

 

 

おう。

何故だろう。ヒラヒラと手を振る仕草は久美子の目に強く焼き付いた。まるで明日が引退試合かと思わされてしまう。そして、その予感が的中するかのように、その翌日サッカー部は試合に負けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え、サッカー部負けたんですか?」

 

「うん、昼休みに試合終わって帰ってきた部員が教室で話してたから間違いないと思う」

 

 

放課後の3年3組の教室。

いつも通り低音パートの練習が行われる場で夏紀の言葉は久美子の動揺を誘うに十分であった。思わずユーフォニアムを落としそうになり慌てて持ち直す。手汗がすごいことになっている。ハンカチで汗を拭き夏紀の方に向き直る。

その様子が夏紀にとって不思議であり首をかしげる。

 

 

「なんで黄前ちゃんが慌ててるの?」

 

「い、いえ、別に慌ててないです」

 

「久美子ちゃんは部長の進藤先輩のことが気になるんですよ!」

 

「ミドリちゃん?!」

 

 

思わぬ方向からの発言に心臓が喉から出そうになる。へえ、と口角を上げた先輩の表情に背中に嫌な汗をかく。

夏紀は久美子の首に手を回し、耳元でささやいた。

 

 

「黄前ちゃんは進藤先輩にお熱だったんだ」

 

「お熱なんてそんな古い表現––––」

 

「うん?」

 

「何でもないです」

 

 

別に浩介のことが好きな訳ではない。確かに学校内の男子の中では一番話しているかもしれない。しかし、心を乱される存在であるかと問われれば肯定することもない。

 

“特別な存在”

夏紀の言葉に興味をもって、話すようになっただけである。結局のところ“特別”である意味はよく分かっていない。

廊下で友達と話している姿は何ら他の学生と変わりないようであるし、二人で話している時も少し意地悪だけど優しい先輩だ。そこにあすかのような“特別”である欠片すら見当たらない。

 

 

「別に異性として好きとかそういうのじゃないんです」

 

 

これはきっと憧れなのかもしれない。今はまだ見えてこないけど自分とは違う、“特別”といわれるだけの存在であることへの憧れ。それを自分の目で確かめてみたいのだ。

 

 

「ふーん。でも、」

 

 

他の女子と話していても大丈夫なの?

ドキリと心臓が跳ねる。そんなこと想像していなかった。誰か知らない女子が浩介の隣りを歩く姿。キリッと胃が捻られるような痛みが走った。

 

 

「……分からないです」

 

「久美子ちゃん?」

 

「そういうところは見たくないのかもしれないです。でも、憧れの先輩のそういうところを見たくないのか、気になる異性として見たくないのか分からないです」

 

 

個人練行ってきます。

浮かない顔で教室を出て行く後姿に夏紀と緑輝は顔を見合わせる。少しからかうくらいなら赤面しつつ慌てふためく程度と考えていたため、久美子の反応は予想外であった。

彼女がいなくなりポツンと空いた空間がいつも以上に広く見えた。

 

 

 

 

 

 

 

浩介は元気だろうか。昨日の別れ際では負けることなど全く考えていない様子であった。意外と繊細な人間なのだ、落ち込んでいないはずがない。

霞んだ白色の廊下に視線を落としながら、上履きのゴムの部分が地面にぶつかりキュッと音を立てる。放課後のこの時間ともなれば普段は楽器の演奏する音が聞こえるくらいで閑散としていることが多い。

しかし、今日は珍しく前方の教室から話し声が聞こえてきた。帰宅前に雑談で盛り上がっているのだろう、男女の笑い声が耳に入る。

 

 

「やっぱり洛秋は強かったわ。良い感じだったんだけど実力が違ったね」

 

「でもベスト十六でしょ? 凄いじゃん!」

 

「まあ、俺が活躍したからね」

 

「お前何もしてなかっただろ」

 

 

どうやら声の主の一人はサッカー部員であり、やはり試合に負けたことは事実らしい。全く悔しさを感じ取れないその声の調子は久美子に違和感を抱かせた。

 

 

「進藤様々だよな」

 

「ホントそう。あいつが一人頑張って点を決めてくれるから」

 

「俺たちが全国なんて無理なのにな。去年少し良いところまで行ったから頑張っちゃって」

 

 

他人事のようなやり取りに血が沸騰する感覚に囚われる。全国大会出場はサッカー部の目標ではないのか。まるで数か月前の吹奏楽部の空気だ。

これ以上聞きたくない。これ以上ここに居たらきっと自分が自分でなくなる。久美子は耳を塞ぐように教室を通り過ぎた。

 

 

 

 

渡り廊下を外れ建物の角を曲がればいつもの場所にたどり着く。そこには影があった。

 

 

「せんぱ––––」

 

 

声を掛けようとし、蹲る浩介に思わず息が止まる。地面には水滴が落ちた跡があり、押し殺すように嗚咽が漏れていた。

 

––––泣いている。

今まで見てきた姿からは予想の出来ない浩介にどう声を掛けて良いのか分からない。いや、むしろ見なかったことにしてこの場を去った方が良いのかもしれない。来た道を戻ろうと後ずさり方向転換をした瞬間、譜面台が手から滑り落ち地面にぶつかる。

ガシャンと大きく響き渡る音は間違いなく浩介の耳にも入っただろう。諦めて振り返れば浩介がこちらを見ていた。

 

 

「黄前ちゃんか。こんにちは」

 

「こ、こんにちはです」

 

 

やっぱり気付いていた。

若干目が充血した状態で笑う浩介から無理をしていることがひしひしと伝わってくる。

 

 

「もしかして気を遣わせてちゃったかな」

 

「あ、いえ、」

 

「練習の邪魔になっちゃうから退くね」

 

 

何故か分からないけど、このまま見送ってしまってはいけない。無意識のうちに体が反応し、脇を通り過ぎようとする浩介の制服を掴む。クシャリとシャツに皺が寄る。

 

 

「先輩、」

 

「黄前ちゃん?」

 

「お疲れ様でした」

 

 

目を見開き口を開けたまま固まる。呆気にとられていたが次第に目じりから涙が溢れて頬を伝わる。

 

 

「何て言ったら良いか分からないです。でも、泣くことは悪くないと思います」

 

 

ありがとう。

小さくつぶやく涙を落とす姿は久美子の心に針を刺すような痛みを与えた。

ああ、分かった。そういうことだったんだ。

 

 

「私って単純なんだな……」

 

 

目の前の先輩をとても愛おしく感じる自分がいる。ギャップ萌えなのか、他の人が知らない浩介を知ることが出来たことへの優越感なのか。やっと自分の気持ちに決着をつけられた。

浩介が落ち着くまでの数分間、久美子は頭を優しく撫で続けた。

 

 

 

 

 

 

 

「この大会が最後だったんだ」

 

 

浩介は恥ずかしさもあったのだろう、若干顔を赤くしつつポツリと話し始めた。

何かを始める時、人や物事がキッカケとなることがほとんどである。久美子が姉の演奏している姿を見て楽器を始めたように、浩介のそれは幼馴染であった。元来あまり外に出ることのなかった浩介を誘った人間。

 

 

「千葉の仙習にいる中本って奴が、俺をサッカーに誘ってくれたのが最初だったんだ」

 

「高校の名前は聞いたことあります」

 

 

スポーツだけでなく吹奏楽部も強豪であり、吹奏楽に触れてきた久美子も耳にしたことのある高校。高校野球の試合などスタンドから大人数かつ高レベルな演奏で他校を圧倒する光景は多くの人に知られている。

その仙習高校のサッカー部でエースナンバーを着けている男が、その件の幼馴染であるらしい。

 

 

「中学まで一緒にサッカーをやってて、それこそ京都に来るまでずっと」

 

 

同じフィールドにはいつも幼馴染がいた。お互いにどこにパスを出せば良いか声に出さなくても分かるくらいには長く共にやってきた。だからこそ、千葉を離れる際、サッカーから距離を置くことすら考えた。中本がいない状態でサッカーをすることが想像できない。また、入学する予定の北宇治高校サッカー部は府大会二回戦を勝ち抜けるかどうかのレベルであり、もうグラウンドで顔を合わせることはない。

 

 

「でも引っ越すときに言われたんだ。次は全国の舞台で会おうって」

 

 

お前なら出来る。その幼馴染の言葉を胸に、入学後から積極的に部活に取り組んだ。自分がチームを引っ張るくらいの気持ちで一年生からレギュラーになり、少しずつチーム成績を伸ばしていった。

 

 

「そしてこの夏の総体が全国に行く最後のチャンスだった」

 

「え、でも冬にも大会ありますよね。夏で終わりなんですか?」

 

 

冬の全国大会があることは以前、浩介から直接聞いていた。よりチームの成熟した状態で臨むことが出来れば可能性があるのではないか。

 

 

「俺は夏の大会が終わったら引退するつもりなんだ。いや、もう終わったから引退したのか」

 

「え、嘘ですよね……」

 

 

不意を突いた告白に時が止まったように静寂が訪れる。目の前の先輩はこれからもずっとサッカーを続けていく、心のどこかでそう勝手に決めつけていた。初めて浩介のことを見たのもサッカーをやっているところだった。今後もそれが当たり前の姿なのだと。

しかし予想に反し、浩介は部を引退し大学受験の勉強を始めると言う。

 

 

「プロになれる訳ではないからね。結局どこかで辞める時は来るんだ」

 

「でも。前に先輩は大学から推薦の話が来てるって言ってたじゃないですか」

 

「大学の四年間をサッカーに捧げる勇気は俺にはない。将来のために勉強する時間に使いたいと思うんだ」

 

 

将来のこと、他人の未来に関わることに対して久美子は発言する権利を持たない。言いたいことはあるが我儘をいうことは出来ず、ただただ無力感だけが募る。浩介は困ったように頬をかき、久美子の頭に手を乗せた。

 

 

「黄前ちゃん、」

 

「はい……」

 

「去年までの吹奏楽部と違うのは知っているけど、どうしても急には変われないところもあると思う。だから黄前ちゃんには一緒に頑張れる仲間を見つけて欲しい」

 

 

じゃあね。

頭から温もりがなくなっても久美子は顔を上げることが出来なかった。自分の気持ちに気付いた瞬間に失恋したような。実際、失恋した訳ではないのに、心に大きな穴があいたような虚無感が支配する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次の日も、その次の日も。翌週になってもいつもの場所に浩介は現れなかった。もちろん個人練習をする上で誰かいることは良いことではない。浩介が顔を出していた今までが正しくなく、この状況が本来あるべき個人練習の環境のはずなのだ。それでも笑顔が見れない、声が耳に入らない。そのことが久美子の心をかき乱していた。

オーディションはクリアし、府大会に向けて全力で取り組まなくてはいけないのに神経の全てを注ぎ込むことが出来ない自分に歯がゆさが募る。いつか太陽の日差しも強くなり、日陰で練習していても汗が頬を伝って地面へと落ちる。

 

 

「黄前ちゃん!」

 

 

盲目的に楽譜に眼を通し指を動かしていたその耳に、不意に聞きたかった声が飛び込んできた。振り返れば浩介は青ざめた表情で慌てて肩に掛けたままのバッグを漁っていた。何事かと思っているとティッシュを取り出し久美子の鼻へとあてる。

 

 

「水分補給しないで練習するなんて何考えてるの!」

 

「へ?」

 

 

促されるまま下を向けば制服に赤い斑点がいくつか落ちていることに気付く。確かに校舎裏ともあり、あまり風通りが良くない場所で暑くはあったが自覚症状はなかった。まさか鼻血が出るまでとは。

 

 

「ほら、保健室行くよ」

 

 

有無を言わせず強引に手を掴み引っ張る後ろ姿は久しぶりなのに日常が戻ってきたような、そんな気持ちになる。決して笑える展開ではないのに、何故か笑ってしまう。振り返って不審そうに眉をひそめる浩介が可笑しく見えて笑いは止まらない。

 

 

「黄前ちゃん、鼻から血を流しながらヘラヘラ笑うのは怖いよ」

 

「へへ、すみません」

 

 

処置を終えスポーツドリンクを手に未だニコニコする姿に浩介が肩を落としてしまうのも仕方がないだろう。どうしても顔を見たくなって、でも去り際の気まずさから直接話しかけることも出来ず、少し影から見れるだけでも良いと思った。本当は声を掛けるつもりはなかったが、まさか鼻血を出しながら吹いているのを見過ごすことは出来なかった。

 

 

「先輩、」

 

「うん?」

 

「好きです」

 

 

そして鼻を押さえながら破顔した久美子の告白は浩介の思考を停止させるのに十分であった。あまりにも場違いなことに対する戸惑いと、気が付けば想い始めていた人からの告白に対する喜びが混ざり頰が中途半端に緩む。

 

 

「いや、あの、」

 

「ふふふ、先輩変な顔してます」

 

 

耳まで熱く顔が燃えるようだ。心を落ち着けるためにこの場から逃げ出したい衝動に駆られるが、仮にそんなことをすればもう二度と彼女の前に姿を現わすことは出来なくなるだろう。

あー、と唸った後に諦めたように浩介は深く息を吐いた。

 

 

「本当は俺から言うつもりだったんだ」

 

 

しかし部活に一生懸命な今、変に心を惑わすようなことは言えなかった。せめて府大会が終わってから、そう考えていた。

なんでこう、目の前の後輩は予想を裏切ることをしてくるのか。

 

 

「黄前ちゃん。俺は君のことが好きだ。遠慮なく意見してくれること、隣にいて分かったけど見た目に反して悪い子なところ。そして何より、笑顔が好きだ」

 

 

直接口に出して自分の気持ちを伝えることがこれ程勇気がいることだとは思っていなかった。心臓の鼓動が激しく耳に届く。恥ずかしさで久美子の顔を見ることが出来ず俯いてしまう。

 

 

「嬉しい……」

 

 

久美子は浩介の手に触れる。緊張しているのはお互い様らしい。皮膚越しに伝わってくる冷たさが熱を冷ましてくれる。可能ならいつまでも触れていたいが、そろそろ合奏の時間が近づいている。名残惜しくも手を離し、改めて浩介の顔を見つめる。

彼にもう一つ告白したいことがある。

 

 

「良かったらなんですけど、来週の府大会見に来てくれませんか?」

 

「え、ああ。コンクールもう来週なんだ」

 

「はい。ぜひ先輩に聴いてもらいたいんです」

 

 

吹奏楽コンクールの府大会は八月五日に行われ、金賞の中から選出された三校が関西大会へと進むことが出来る。決して府大会で留まるつもりはないものの、関西大会は兵庫で行われるため応援に来てもらうには少々遠方になってしまう。

また、浩介がサッカーを辞めることは仕方ないのかもしれない。でも辞める前にどうしても演奏を聴いてもらいたかった。

 

 

「個人的な我儘を言うと、私は先輩にサッカーを辞めてほしくありません。進路とかどうしても仕方ないのかもしれないですけど、まだサッカーをしている先輩を見ていたいんです」

 

 

––––私たちは全国大会に行きます。

 

昔、テレビか何かで誰かが言っていた。相手に熱意を伝えたい時、相手に百パーセントの熱を持ってもらうには自分は百二十パーセントの熱を持たなければならない。

きっと目の前の後輩は熱意百二十パーセントだ。心の底から沸々と湧き上がるものがそれを肯定している。

いつの間にか忘れていた。サッカーが好きで続けていたはずなのに、やる気にならない部員を見てサッカーが好きなだけの自分が恥ずかしくなって。勝手に幼馴染との約束のため、と気持ちを偽って練習に取り組んでいた。

それでは部員に熱意が伝わるはずもないし、サッカーもつまらないものになってしまう。

 

 

「だから、先輩もサッカーを続けて下さい」

 

 

彼女が隣にいてくれるなら、どこまでもやれそうな気になってくる。ここまで言われて辞めるなんて選択肢は取ることなど出来るだろうか。

浩介は諭された悔しさを隠すように久美子の頭を強く撫でた。

 

 

「俺に全国の舞台を見せて。サッカーを辞めたいなんて思わせないくらいにすごい世界を見せて欲しい」

 

「任せて下さい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『元日の空は高く青くこの国立競技場を見守っています。数多くあるサッカーの大会で最も古くから行われてきたこの天皇杯、決勝戦は誰もが予想していなかった対戦カードとなりました』

 

国立競技場は元日であるが、最上段まで埋まっておりまさに満席となり熱気に包まれている。大学に進学しさらにサッカーに取り組んだ最終学年。浩介は青々と生い茂るグラウンドを目の前に大きく息を吸い込んだ。

 

プロ、アマチュアのクラブチーム関係なく行われる大会で中心人物としてチームを引っ張り快進撃を続けてきた。そして、今日がその大学生活で最後となる試合。

相手のクラブチームでは幼馴染が待っている。あれからさらに四年も待たせてしまったが、やっと約束を果たせる時が来た。

ここからは確認出来ないがスタジアムの何処かで彼女が見てくれている。隣で励まし続けてくれた存在が試合に限らず常に力となっていた。浩介は早まる心臓を落ち着かせるようにトントンと軽く胸を叩く。

 

 

『プロサッカークラブが創立して以来、アマチュアのチームは厚い、非常に厚い壁に阻まれてきました。しかし、今日! ついにその頂に手をかけたチームが現れました!』

 

 

 

 

––––さあ、選手入場です!

 

 




アニメを見返す度に好きなキャラが増えてifストーリーの妄想が膨らむ。

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