アニメではバスドラムを担当しているパーカッションパートの一年生。
普段の生活では赤色のリボンを、府大会及び関西大会本番では黒色のリボンを付け演奏する堺ちゃんが好きな人は多いはず。
堺ちゃんの出番があるとテンション上がるのは私だけでないと信じている。
if 堺万紗子編
もし、一年生の頃に香織と知り合ってなかったら––––
もし、香織がサッカーの試合を観に行っていなければ––––
あり得たかもしれないifの話
一人の少女––––堺万紗子は京都駅に立ち尽くしていた。
公立高校の入試日。
元々京都に住んでいなかった万紗子は、春からこっちに越してくるということで、親の意向もあり高校受験も京都の高校で行うことになった。
受験予定高校は、北宇治高校。引越し先とそこまで距離がないという理由で選んだだけで、まだ見学も行ったことがなかった。
今の時代、スマホがあれば迷うことなくたどり着けるだろうと、何故か昨日の自分は自信があった。
しかし、初めての京都駅の構造は意外と複雑に見える。元々地図を見るのが苦手なことがそれに拍車をかけていた。何に乗れば良いかは分かるが、乗り場が分からない。スマホで時間を確認する––––乗る予定であった電車はもう出発するところであった。
どうすれば良いのか、このまま受験会場へと辿り着くことなく高校受験が終わってしまうのだろうか。
前日に下見に行っていれば良かった。
自らへの悔しさと悲しさがこみ上げてくる。涙で視界が滲んできた時、不意に声を掛けられた。
これが浩介との出会いであり、堺万紗子の恋の始まりでもあった。
『間もなく京都駅に到着します。どなた様もお忘れ物のないよう御支度下さい』
バス内にアナウンスが流れる。寝ぼけ眼であった浩介は、車内アナウンスを合図にグッと背伸びをした。
U-17日本代表候補の合宿の帰り道。新幹線の手配に失敗した結果、夜行バスで帰ってくることになり、合宿の疲れだけでなく長時間座席に座り続けたことの疲労が加わることで、身体は非常に重くなっていた。
それはバスを降りてからも変わらず、寝ぼけているせいか陽の光はいつも以上に眩しさを感じさせてくる。
陽の光にやられる吸血鬼の気分だ。
早く帰って寝よう。その一心で駅の改札へと向かう途中、人混みの中で立ち尽くしている女子を見掛けた。
今日は平日であり、朝の通勤ラッシュの時間ともなるとスーツ姿のサラリーマンを筆頭に、仕事へ向かっているであろう多くの人が行き交っている。
その中にポツンと立っている姿は、余計に目立って浩介の視界に入ってきた。
あまり京都では見ない制服だ。もしかしたら修学旅行とかかな。修学旅行中の学生がこんな早い時間に、それも一人で歩いているかは不明だが、このまま見過ごすと気持ち良く床に入れない気がする。
浩介は重い身体に鞭を打つと女子の方へと足を運んだ。
「どうしたの?」
万紗子は声を掛けられた方を向くと、エナメルバッグを肩に掛けた男子がやや眠そうな顔つきをしながらも不思議そうに首を傾げていた。サッカーか何かスポーツをやっている人なのだろう。ただ、顔つきがサッカーをやっているそれには見えなかった。
万紗子は掛けられた言葉に我に帰る。自分が泣きそうになっていることに気付き、慌てて目にハンカチを当てる。
「あ、すみません。ちょっと道に迷っちゃって……」
「京都って初めてだったりすると、意外と複雑な構造に感じるよね。修学旅行中かな?」
「いえ、実は––––」
気付けば試験開始までに、会場に間に合うか怪しい時間になっていた。目の前の男子が会場を知っているか分からないが、せめて最寄駅までの行き方を知っていますように、と一縷の望みを持って事情を説明する。
浩介は話を聞き終えると腕を組んだ。
「なるほど。じゃあ今から北宇治高校に行かなくちゃいけないのか」
「はい。でも、もう間に合わないかも……」
「いや……、ちょっと待ってね」
浩介はスマホを取り出し何やら調べ始める。一分も経たないうちに確認を終えると、よしと小さく呟いた。
「まだ間に合うね。高校まで案内するから––––ほら、行くよ?」
「え、あ、はい」
万紗子は浩介の言葉に頷くと、やや早歩きながらも迷いなく歩くその後を小走りで追いかける。
事情は理解してくれて、とりあえず受験会場まで連れて行ってくれるらしい。正に渡りに船である。
浩介は階段を上がると角を曲がる。決して止まることなく歩き続けながら万紗子に問いかける。
「ICカードは持ってる?」
「はい。お金もちゃんと入ってます」
「了解。じゃあ改札通るよ」
言われるがまま改札を抜け、ホームに停まっている電車に乗る。始発の電車は比較的空いており、二人は空いている席を見つけ腰を掛けた。万紗子はひと息つき、水筒のお茶で喉を潤す。
予定していた電車には乗れなかったけど、何とかなりそうである。
浩介は出発までに少し時間があることを確認すると、椅子にバッグを置いてホームに戻りスマホを耳に当てた。誰かに電話を掛けているらしい。
通話が終了すると万紗子の元へと戻ってくる。
「これに乗って十分ちょっとで最寄りの駅に着くよ」
「ありがとうございます! もうダメかと思っていたので、本当に助かりました」
「お安い御用だよ。あとは駅から学校への迷わない所まで案内するから」
「いえいえ! そこまで手間かけさせる訳には!」
「京都駅で迷いかけてたんだから甘えときな? それに、ここで迷われても寝覚め悪いからね」
「では……、お願いします」
万紗子は素直に頭を下げる。おう、と言う返事が頼もしく聞こえた。
動き出した電車に揺られ景色は移り変わっていく。初めての景色に目を奪われていると、不意に浩介がポンと手を叩く。
「そういえば、シャーペンとか消しゴムとか大丈夫?」
「多分大丈夫だと思うんですけど……。さっきのこともありますし、ちょっと心配になってきました」
「試験会場で無いってなったら不味いから、今のうちに確認しといた方が良いよ」
その言葉に頷き、バッグのチャックを開けてペンケースを取り出す。中身を確認していく中で、小さくあれ、あれ?と声を漏らす。ペンケースの中身を全部出しても見つからない。
顔を上げた万紗子の目は再度潤んでいた。
浩介は不覚にもドキッとしたが、悟られないように冷静に返事をする。
「どうしたの?」
「消しゴムが……」
差し出されたその手に握られていたのは練り消しゴム––––通称練り消しであった。予想外の物が出てきたことに浩介は思わず笑ってしまう。
「これじゃ試験受けられないですよ……」
「フフッ、まさか練り消しなんて、すごい久しぶりに見たよ」
項垂れる万紗子に、ちょっと待ってねと浩介は自分のバッグからペンケースを取り出す。合宿でもミーティングを行う際に筆記用具は必要になる。持って行く時はこんな余計な荷物と思っていたが、まさかここで役に立つとは思いもよらなかった。
消しゴムに落書きなどしていないことを確認し、万紗子に手渡す。
「良いんですか?!」
「むしろここで見せるだけで貸さない、なんて選択肢を取ったら俺ヤバい奴だよ」
「ありがとうございます! あ、でもどうやって返したら良いですか?」
流石に入試が終わるまで待っていてもらうなんてことは出来ない。浩介にもこの後に用事があるかもしれないのだ。
「そうだね……。じゃあ、うん。キミが北宇治に受かったら返しにきて?」
「でも、それだと落ちたら––––」
「これから試験受ける人が落ちた時のことなんて考えないの」
そうだ、と万紗子も思い直す。ここに受かって新しい高校生活を送るのだ。
高校生になったら何か新しいことを始めたい。勉強だけじゃなく、部活や恋もしたい。
今日がそのための一歩である。
「絶対に受かって返しに行きますね!」
「その意気だよ」
消しゴムを受け取りペンケースにしまうと間も無く最寄駅に到着するアナウンスが流れる。
万紗子は急いでチャックを閉め、バッグを肩に掛けた。
駅の改札を通過したその先の交差点には、一人の男子がこちらを見て手を振っていた。浩介は手を振り返すと、バッグを置いてストレッチを始める。男子は自転車を押しながらこちらへ向かってきた。
「急にごめんな」
「暇だったし、全然良いよ」
「じゃあ少しの間、バッグもお願いしても良いかな?」
「フランクデニッシュ一つな」
「分かった」
万紗子は展開についていけずに首を傾げる。急いで学校に向かわなくては行けない筈なのに、何故ここで話し合っているのか。
せっかく間に合いそうなのに、ノンビリとストレッチをしている浩介に少しずつ焦りが生まれてくる。
「あの……、先輩?」
「うん? あ、ごめん。説明してなかったね」
浩介の話によると、駅から高校へは少し離れているために、ここからは自転車に乗って行く予定であること。
ただ、二人乗りで警官に見つかった場合、有り難い御説教をいただくことになり間違いなく入試の時間に間に合わなくなる。それを回避するため、万紗子が自転車に乗って、その隣を浩介が並走しながら案内するらしい。
まさかの方法に思わず首を横に振る。
「いやいや、自転車と並走なんて無理ですよ!」
「こいつなら大丈夫だよ。一応サッカーやってる人間だし、体力はあるから」
「一応じゃなくて、結構しっかりやってるからな? よし、じゃあ行こっか」
「は、はい。では自転車お借りします」
「おう! しっかり受かって来なよ」
万紗子は頭を下げると自転車に跨った。浩介はバッグを友人に預けているため身軽の状態で隣を走る。
こぎ始めた自転車は、いつもと同じかそれ以上にスピードを出しているのに、全く息切れする様子もなく道案内をする浩介に驚きながらも、曲がる場所を間違えないように注意する。
まだ春先ともなると空気は冷たく、自転車に乗っていると鼻が冷えているのか、感覚がなくなってきていることが分かる。でも、どうしてかあまり寒さは感じていなかった。どこか暖かいような、そんな気持ちになっていた。
それは心強い味方がいるからなのかもしれない。
「次の角を右だよ」
「分かりました!」
漕ぎ出してから十分も経つ頃には目の前に長い上り坂が見えてくる。そのふもとまでたどり着くと二人は一度止まった。流石に少し疲れたみたいで、浩介は膝に手をつく。
「この坂を上っていくともう高校に着くよ。流石に自転車はキツくなってくるから、案内もここまでかな」
「予定してた時間より少し遅れるくらいで着きそうです。本当にありがとうございました!」
「いえいえ。春に会えるのを楽しみにしてるよ」
「はい! では行ってきます!」
万紗子は自転車のカゴからバッグを取り出すと坂を上っていく。
その後ろ姿を確認し、浩介は自転車に乗り踵を返した。
万紗子は、無事遅刻することなく北宇治高校に到着すると、受験する教室に入り、自分の番号の書かれている席に座る。
バッグから受験票と筆記用具を取り出し、最終確認のため参考書を開く。
あれだけ動揺していたのに、今は落ち着いている。あの人がいてくれたから無事に受験することが出来る。
また会いたいな。
もっと話がしたい。
あの人といると心が温かくなる。
一緒にいたのは短い時間なのに、いつかそんな気持ちになっていた。
「先輩の名前聞くの忘れちゃった」
試験官が入ってきたために、参考書をバッグに仕舞う際に思い出す。
入学してまた会った時に、改めてちゃんと聞くんだ。そう決意すると試験用紙をめくった。
***********************
春。
北宇治高校に無事入学した万紗子は、浩介を探していた。
知っているのは顔とサッカーをやっていることだけ。
初めは直ぐに見つかると思っていた。それこそサッカー部に絶対にいるのだろうと。
しかし、吹奏楽部に入部したところ、今年度から顧問が変わったことで練習量は圧倒的に増え、放課後にサッカー部のいるグラウンドに行く時間は取れずにいた。吹奏楽部の練習が終わる頃には、いつもサッカー部の練習は終わっているのだ。
また、昼休みに会いに行こうとしても、学年もクラスも分からない。
サンフェスが終わり、本格的に府大会に向けた練習が始まっても、結局のところ万紗子は再会出来ずにいた。
もしかしたら卒業した先輩だったのかもしれない。入試前に私に変な遠慮をさせないように、在校生のフリをしていたのだろうか。
思い返すと北宇治高校サッカー部の部員が着用しているジャージとは異なる色のジャージを着ていた。
––––もう会えない、その事実だけで心が強く締め付けられる。
あの日以来、ペンケースには消しゴムが二つ入ったままであった。
「堺、元気ないな。どうした?」
「あんたが無意識にセクハラしたんじゃないの?」
「しねえよ!」
オーディションを間近に控え、吹奏楽部員はより練習に熱が入ってきている中、万紗子のため息にパーカッションパートリーダーの田邊名来は練習の手を止めた。
同パートの三年––––加山沙希の茶々に大げさに反論しつつ、万紗子の様子を伺う。沙希も名来を使って雰囲気を明るくしようと冗談を言うも、いつものように笑顔にならない万紗子に不安をのぞかせる。
「少し悪いことが重なってしまいまして……」
たはは、と無理に笑う様子に名来と沙希は顔を見合わせた。これは普通ではない。このまま練習を続けても無駄な時間になってしまう可能性がある。
早めに解決出来るならその方が良い。そう判断した名来は、椅子を三個向かい合わせると万紗子に座るよう促す。
「もし話して楽になるなら俺らが聞くぞ?」
「ナックルがいない方が良いなら退かすわよ?」
「おい」
「……ありがとうございます」
二人の先輩に感謝しつつ、万紗子は少しずつ話し始める。
今日の授業中に受けた小テストの点が良くなかったこと。それはそこまで大きなショックではなかった––––副顧問の松本に聞かれたら雷が落ちるので口にはしないが。
しかし、問題はその後に起きた。
「へ? 消しゴムを無くした?」
「そんなに大切な物だったの?」
「はい。ある人から借りている消しゴムだったんです」
頷くと入試の日の出来事を、少しずつ思い出しながら話していく。
二人も万紗子の真剣な表情に何とか手助けをしたい気持ちに駆られる。しかし、二ヶ月近く探しても会えなかった人が本当に学内にいるのか、万紗子の予想する通り卒業生の可能性が大きいように考えられた。
沙希はチラリと名来を見る。失礼な言い方だが、いつもの彼からは考えられないくらい何か悩んでいるようであった。心当たりがあるのだろうか。
「ナックル、何か思い当たることあるの?」
「本当ですか?! ナックル先輩!」
「いや、確証は全くないんだけど……。堺、そいつは青いジャージを着ていたんだよな?」
「はい。入学してからサッカー部のジャージの色が違うことを知って……、だから在校生ではないのかなって」
「その青いジャージ、胸のところに何か黒い鳥みたいなマークなかったか?」
「ちょっと、それ本当に関係あるの?」
「かもしれないってだけだけど……、覚えてるか?」
名来の言葉にその時の格好を必死に思い出そうと頭を捻る。エナメルバッグを肩から掛けて、その左胸には––––
「あ、あったかもしれないです!」
「……よし。じゃあ最後の質問だけど、」
「部活中ごめん、ナックルいるか?」
名来の言葉を遮るように音楽室に現れたのは浩介であった。名来は浩介を指差す。
「それはあんな顔をしていたか?」
「うそ……」
浩介の顔を見ると、万紗子は椅子が倒れるのを気にすることなく勢いよく立ち上がった。
ずっと会いたかった人。
ずっと探していた人。
心臓が強く鼓動する。
「進藤、今練習中よ? 松本先生に見つかったら怒られるんじゃない?」
「ちゃんと二人の先生の許可は貰ってるから大丈夫。それよりさっさと今日までの提出の用紙出せよ。俺まで担任から怒られることになるんだからな」
「あ、悪い。今持ってくる!」
名来がバッグを取りに部屋を飛び出して行ったのを確認し、浩介は万紗子の方へと向き合う。
頭を掻くその顔には少し照れくささを含んでいた。
「そっか。無事に合格してたんだね」
「……はい」
俯いたまま顔を上げようとしない。
不審に思った沙希が顔を覗き込むと、その目に涙が溜まっていた。
「万紗子ちゃん?!」
「すみません……。もう会えないんだと思ってたので」
「ごめんね。俺もいるかなとは思って探していたんだけど、それこそ名前すら知らなかったからさ」
浩介からハンカチを受け取ると、万紗子は目に当てる。
嬉しい筈なのに涙が止まらない。笑顔で涙を流す万紗子の様子に、浩介は沙希と顔を見合わせるとクスリと笑った。音楽室は暖かい雰囲気に包まれていた。
「進藤! 待たせた!」
ガラガラと大きな音を立ててドアを開け、開口一番謝罪の言葉を伝える。急いで走ってきたのか、軽く息を切らしながら膝に手をついている。
その努力は褒められるものであるが、雰囲気をぶち壊す名来に沙希は頭を痛めた。
「ナックルもうちょっと空気読もうよ」
「え?!」
「せっかく部活で女の子に囲まれてるのに彼女の一人も出来ない訳だ」
「進藤まで?!」
いつの間にか、音楽室はいつもの空気に戻っていた。万紗子も涙を拭きながら笑っている。通常ならここで雑談に花が咲くところであるが、今日はそういう訳にはいかなかった。
「進藤! いつまでサボってる!」
不意にドアが開かれる。
松本は雑談している様子の浩介を見つけ、すかさず雷を落とす。浩介はヤバ、と小さく呟くと名来からプリントを受け取った。
「すみません。今戻ります」
「あ……」
教室を出て行こうとする浩介に、万紗子は名残惜しそうに手を伸ばす。
また会えなくなってしまうのだろうか。もうそんな気持ちは味わいたくない。
一緒にいたい。
その気持ちが通じたのか、浩介はふと思い出したように振り返った。
「後で名来からアドレス聞いといて?」
「は、はい!」
浩介は、少し頬を赤く染めながら返事をする万紗子の様子に、満足そうに頷くと今度こそ音楽室から出て行った。
「その人とはもう離ればなれにならなかったの?」
「そうだよ。いつもお母さんの隣にいてくれたの」
「そっか! じゃあ、お母さんは幸せになったんだね!」
「そうだね。よし、そろそろ今日のお話は終わり。続きはまた明日ね?」
はーい、と返事をすると布団に潜り込む。
万紗子は子供が寝たのを確認し、起こさないようにゆっくりと部屋を出た。
幸せになった。
洗い物の音に混じりガチャと鍵が回る音が聞こえた。あと幾分も経たない内に浩介がリビングに入ってくるだろう。
万紗子は一度洗い物を中断すると、冷めてしまったスープに再度火を点ける。
今日は娘からねだられて、久しぶりに懐かしい記憶を掘り起こした。あの頃は、まだ憧れだけが全てであり、周りは見えていなかった。
何が正解で、何が間違いなのか––––それすらも分からずに部活に勉強に、そして恋に。でも、とにかく全力で取り組んだからこそ、今この道を歩くことができている。
北宇治吹奏楽部のみんなとは今も定期的に会っている。楽しいことも辛いことも共有出来た仲間は、簡単に縁が切れることなく、会えばあの頃のように振る舞うことが出来る。
それは万紗子の宝物であった。
そして、もう一つ宝物がある。
「ただいま。今日は結構冷えたな」
「おかえりなさい。今スープ温めてるから」
あの日、無くした消しゴムは結局見つけることが出来なかった。必死に謝ったけど、浩介は全く意に介していないと笑って許してくれた。浩介は消しゴムを御守りと言った。
『あれはきっと堺さんが北宇治に受かったから役目を果たしたんだよ、きっと』
万紗子は御守りではなく、むしろチケットだったと考えている。あの消しゴムがあったから浩介と再会することが出来た。消しゴムがなければ再会はきっと出来なかったと強く信じている。
「今日あの子にお願いされて昔の話してたの」
「昔って言うと?」
「初めて出会った時からまた再会するまで、かな」
「懐かしいな。初めての時はもう体がクタクタで疲れてた記憶しかないよ」
そのせいか、実際再会した時も直ぐには分からなかったからね。浩介は出されたスープを口に運ぶ。冷えた体にじんわりと暖かさが戻ってくる。
「でも思い出してくれた。私はそれだけで嬉しかったよ」
向かいに座った万紗子は頭に付けている黒いリボンに触れる。付き合って初めて貰ったプレゼントは、だいぶ傷んではきているが、今でも家の中にいる時は身に付けている。
それを初めて身に付けた関西大会の日からもう何年も経っており、気が付けば子供もいる。
離ればなれになりたくない。その一心が手に入れた私のもう一つの宝物。
これからもずっと抱きしめ続けるのだ。
いつか娘も音楽を始める時がくるのかもしれない。その時に改めて伝えよう。
続きの物語を。
もしかしたら他のキャラクターでも書くかもしれないです。