もう春は近い筈なのに、テレビの予報は雪となっていた。今のところはまだ雪は降ってきてはいないが、夕方頃には薄っすら積もるかもしれないらしい。鈍色の空を見上げ、ふうと息を吐く。
時折吹き抜ける風が頰へと突き刺さる。こうも空気が冷たいと早く教室に入り、体を暖めたくなる。
三年間通い続け、夏場には苦痛に思ったこともある坂を登りきれば校門が見えてくる。
卒業式。
校門に立て掛けられた看板の前では親子や友達と写真を撮る姿が見受けられる。かわるがわる入れ替えては写真を撮る風景はまるで軽いお祭りのようだ。浩介は校門を通り過ぎ、昇降口へと向かう。
まだ実感がわかないのが正直なところだ。下駄箱から上履きを取り出し床に放り投げる。また明日になれば授業が始まるのではないか。そんな風にすら思えてくる。
階段を上がり教室に入れば、胸に卒業生であることを示すリボンを付けたクラスメイトが話していた。いつものように軽く挨拶をし、バッグを自分の机に置く。前回の登校日に机の中の荷物はすべて持ち帰ったため、いつもより軽くなった机はバッグを置いた反動で軽く揺れる。
重みのあるコートを脱ぎ椅子にかける。ぐるりと教室を見渡せば、ソワソワした雰囲気が漂っていた。浮ついた空気は卒業式を目前に控えているからだろう。
「進藤、おーす」
「おはよー」
「今日で最後だしさ、これにサインくれよ」
軽く肩を叩かれ振り返れば三年間同じクラスで過ごした男子がノートとペンを持っていた。数学と書かれたノートは、持ち帰るのを忘れてたいた物らしい。冗談で言っていることは直ぐに分かり苦笑いする。
「後で卒業アルバム貰ったら寄せ書きのところに書くので良い?」
「え、マジで?!」
最後の日だから別に良いかな。そんな軽い気持ちで了承したが、予想外に大きい声であったために周りのクラスメイトの耳にも入っていた。勢いよく立った拍子にガタガタとイスが鳴る。
「進藤君、それ本当? 私のアルバムにも書いて!」
「俺のも!」
あ、ミスったかも。
冷や汗をかくが、今さら断ることは出来ない。詰め寄るクラスメイトを前に頰を痙攣らせながらも頷いた。
卒業式は滞りなく進行していく。
国家斉唱に校歌斉唱。北宇治高校吹奏楽部の演奏をしっかりと聴くことが出来るのは今日が最後なのかもしれない。三年間彼女が属した部活だから部外者だけど思い入れはあるのだ。急に胸が締めつけられるように切なくなった。
ぼーっとしているつもりはないが、あすかの答辞を見ながらプログラムに目を落とす。順番からして、そろそろ式も終わりに近付いてきている。
体育館の窓から入る光がスポットライトのようにあすかを照らす。凛々しい姿は同性である女子人気の高さを伺わせ、その虜の一人であろう香織の姿が目に入る。彼女も一言一句聞き逃さないよう、やや前傾姿勢であすかの言葉に耳を傾けていた。
あすかに対し、友達以上に入れ込んでいるようにすら見受けられることもある彼女の態度に、もし付き合っていなかったらどうなっていたのだろうと思うことはある。
だが、仮のことで危惧してしまうのも可笑しい話である。浩介は首を回し気持ちを入れ替えると姿勢を正した。
校舎の外では、在校生と卒業生が最後の時を惜しむべく会話をしていた。
卒業式を終えて、教室で卒業アルバムを受け取る。担任の有難い挨拶を頂戴し解散した後に、友人やクラスメイトがお互いの寄せ書きのページにペンを走らせる中、例に漏れず浩介もひとつひとつにメッセージと名前を書いていた。
「ありがとう! これからも応援してるからな!」
「おー。ありがと。頑張るよ」
「次、私のに書いて!」
機械的になりつつある挨拶をしつつ、再びペンを手に取る。中にはほとんど話したことのない人もいるが、今さら書く人と書かない人の選別など出来る訳もない。とにかく手を動かし続ける。しびれを切らしたサッカー部員が呼びに来るまで擬似サイン会は続けられた。
校舎の外に出れば、冷たい空気が肺に行き渡り、暖房で鈍っていた頭をすっきりとさせる。でもやっぱり少し寒い。
予報通り若干雪がチラついているが、今のところ傘をさすほどではない。雪は地面に落ちるとそのまま溶けてなくなる。
「進藤先輩! 日本に帰って来たら絶対北宇治に来て下さいよ?」
「ドイツでも北宇治魂見せて下さい!」
校門近くの広場では卒業生に抱きつく下級生や、先生に挨拶をする卒業生が目に入る。暑苦しく泣きながら抱きついてくる後輩たちとのやり取りをほどほどに浩介は部室へと向かう。
後輩に指摘されるまで忘れていたが、部室のロッカーにはまだいくつか荷物を置いたままにしていた。新入生が入ってくる前に空にしておかないと下級生たちに迷惑がかかってしまう。
ベンチにバッグを置き、所々に錆のあるロッカーの扉を開け、放置していた荷物を次々に詰め込んでいく。
全てをバッグに詰め込み空になったロッカーの端には大分埃が溜まっていた。部室自体が元々少し埃っぽい空間ではあるために、仕方ない部分もあるだろう。
しかし。
立つ鳥跡を濁さず、か。
小さく呟くと雑巾を手に中を拭き始め、三年間でついたであろう汚れを丁寧に落としていく。鯖や埃で汚れる雑巾を洗い直し、また拭き始める。その作業を何度か繰り返せば、ロッカー自体の古臭さは消えないものの、新入生に明け渡すには問題ないくらいには清潔になる。
一通り掃除を終えて腕捲りしていたシャツを戻し学ランを羽織る。もしかしたら、もう二度とこの部屋には来ないのかもしれない。部室を出る前に振り返り、深く頭を下げた。
まだ式が終わってから大して時間が経過していないせいか、グラウンドには誰もいなかった。この後、午後からサッカー部の練習は予定されているらしいが、天気次第では室内に変更になるかもしれない。香織と待ち合わせているために中庭に戻ろうとし、ふとサッカーボールが転がっているのを見つける。まだ約束までは時間があることを確認し、暇つぶしにグラウンドに降りてボールを取りに行く。グラウンドは水分を吸収したために若干ぬかるんでおり、革靴のへりに跳ね返った泥が付着してしまう。
どうせもうこの革靴を履くこともないし、少しくらい汚れても気にしないでいいだろう。ボールを転がしながら、バッグを置いたベンチへと戻り、チャックを開ける。
先ほど部室から回収したトレーニングシューズを取り出し、革靴から履き替えると制服に泥が付かないように膝下までズボンを捲り上げ、再度グラウンドへボールを大きく蹴り走り出す。
グラウンドには浩介しかいない––––そこは静かな空間であった。目を瞑れば部員たちの声が聞こえてくる。冗談を言い合ったり、プレーの納得いかないところで怒鳴りあったり。誰もがサッカーボールを追いかけていたこの楽しかった時間も目を開けたら覚めてしまうのだろう。
やっぱり。
目を開ければ、部員たちはいない。楽しかった時間は過去になってしまった気がする。
グラウンドの中心までドリブルをして、ふと立ち止まる。
いや、そんなことはない。爪先でボールを上げてリフティングを始めた。リフティングしつつ視界の端に見える風景は何度も見てきたものだ。
その時楽しかったことはその時だから楽しかった。これからやって来る楽しかったことは、きっとその未来に楽しいと思えることなのだ。
少し切なさを感じつつ、ボールを高く蹴り上げる。曇天に同化し、落ちてきたボールをトラップしてゴールの方向を向く。
数メートル前に転がし、助走をつけた勢いで右足を振り抜きゴールへと蹴り込む。ボールはネットに包み込まれた後、地面をトントンと跳ねる。
「ナイスシュート!」
不意に聞こえた拍手に振り返れば香織がいた。後輩や吹奏楽部の人と過ごしているだろうから、とのんびりしていたが予想以上に時間は経過していたらしい。ポケットからスマホを取り出し時間を確認する。既に昼過ぎに差しかかろうとしていた。
「ごめん、待たせてた?」
「今さっき挨拶を済ませたところだから大丈夫」
香織は目の前に転がってきたボールを持ち上げる。少し顔に陰を落として、ボールについている泥を削ぐ。
目の前で浩介がサッカーをやってきているところをずっと見てきた。それはこれからも変わらないと信じていた。
しかし––––
「今日で最後なのかな……」
寂しさで胸がいっぱいになる。これからは自分の知らない浩介がいるのだろう。簡単に会いに行くことのできる場所ではない。それはとても不安なことである。何度も自分に言い聞かせてきた筈なのに、心は揺らいでいる。
もし許されるなら、ずっと隣で応援していたい気持ちは強い。
でも、自分にはやるべきことがある。そのために進路を決めたのだから。
ボールを浩介に投げて渡す。
「私ね、」
部活とかいっぱい大変なことがあった筈なのに、今はあまり覚えてないんだ。楽しかったことばかり思い浮かぶの。晴香やあすかと話してる時とか優子ちゃんと一緒に練習してる時とか。辛いことの方が多かった筈なのに……、何でだろう。
向かってきたボールを地面に落とさないように爪先を上げて足首との間にボールを挟む。
「努力は報われる。でもそれが望んでいた形とは限らない」
「どうしたの?」
「香織が充実していたのは努力したからだと思うんだ。確かにソロは吹けなかったよ。どれだけ頑張っていたか知ってるし、俺は香織に吹いて欲しいと願ってた」
あの日の香織の涙は強く脳裏に焼き付いている。
「不貞腐れてもおかしくなかったけど、香織は頑張ることを止まなかった。それが全国大会まで行くことの原動力になっただろうし、今部活が楽しかったことに繋がっているんだと思う」
「浩介……」
「あくまで予想でしかないし、違ってるかもしれないけどね。何となく、そう思った」
頭の高さまで軽くボールを上げると、落ちる前にゴールへシュートを放つ。ドライブがかかったボールは鋭く落ちながらネットに突き刺さる。
制服のズボンには跳ねた泥が付着していた。ただ、それを気にすることなく浩介は香織の前に立つ。
「香織に渡したい物があるんだ」
目が覚めればいつもの風景であった。すごく懐かしい夢を見たような気がする。筋肉痛に耐えながら体を起こし首を回す。既に隣にあったであろう温もりは感じられず、つまりはだいぶ前に起きているようだ。
耳をすませば隣の部屋から炒め物の音が聞こえる。また新しい一日が始まる音だ。もう少し寝ていたい気持ちはあるけれど、せっかくの料理が冷めてしまっては勿体無い。ベッドから出て体をグッと伸ばし、そのまま上半身を前に倒す。
ドアを開ければ、数年前よりも髪の伸びた妻がいる筈だ。
「おはよう」
今でもあの日を思い出す。
遠目から見ているだけしか出来なかった浩介が彼女に初めて声を掛けたあの日。
季節外れの焼き芋を食べる彼女を目の前に手のひらは湿っていた。
あまりの緊張に心臓が止まりそうになっていた。
「私の名前は、中世古香織だよ!」
––––もし香織先輩に彼氏がいたなら