「寒いね」
ダッフルコートのポケットに手を入れ小さく縮こまる少女––––香織は新年の挨拶もほどほどに寒さに震えていた。
日付が変わり新しい年を迎え、まだ一時間も経過していない。
年末恒例の紅白を見終わり、翌日の準備をしている最中に浩介のスマホに着信が入った。
初詣に行こ?
それが三十分前の出来事である。冷やかす母親に悪態をつきつつ、家を飛び出したのが二十分前のことだ。
やはりというべきか、宇治神社へと続く道は多くの人でごった返している。人ごみが苦手な香織は一瞬嫌そうな顔をしたが、誘ったのが自分である以上、御参りせずに引き返すという選択肢はとれない。嫌な気持ちを忘れるように浩介の腕にしがみついた。
「こうしてれば暖かいね」
「それは良かった」
「うん……」
昼過ぎにはサッカー部は全国大会の二回戦に臨むため、バスに乗り込み試合会場近くのホテルへと向かう予定である。出発準備もあり、初詣に行くならこの時間しかない。香織は若干の眠気を我慢しつつ、浩介に連絡をとった。
試合を直前に控えた状態の選手を真夜中に引っ張ることが非常識であることは分かっていても、それでもどうしても会いたかった。
コート越しに伝わる僅かな熱を逃さないように力を入れる。首を傾げる目の前の彼氏は、自分の気持ちなど分かっていないと思う。
「お賽銭いくらにしよう」
「十円とかで良いんじゃない?」
「一万円とかにしたら敏捷ポイントもらえたりしないかな」
「せめてサッカーのゲームで例えてよ」
少しずつ列は動いていき、やっと自分たちの番となる。浩介は財布から銅色の硬貨を取り出し賽銭する。叶えたい夢は幾つもあるけれど、願い事は一つのみ。手を合わせ強く祈る。
一礼をして香織の方を向けば、同じタイミングで頭を上げた彼女と目が合う。ニコリと笑う天使の手を取りその場を後にした。
「浩介は何をお願いしたの?」
「うん? 将来のことかな」
「将来のこと……、プロで成功しますように?」
「ううん、ちょっと違うかな。香織は?」
これだけ人がたくさんいても意外と知り合いに会わないものだ。賽銭待ちの動く人の列を眺めているが、見覚えのある人は全くいない。人混みから避けるように境内の端の方へ移動し、ホッと一息つく。
途中にあった露店で購入した甘酒の湯気が鼻先を暖める。両手で優しく紙コップを持ちながら少しずつ口へと運んだ。
「私は……、恥ずかしいから内緒」
「恥ずかしいお願い事したってこと?」
「そうじゃないよ」
「ふむ、全然想像がつかないな」
顎に手を当て唸る様子から察するに、きっと答えは出ないだろう。勘が鋭い時もあるけれど、自分のことが関わると無頓着になることが多い。残り少なくなった甘酒を一気に口に流し込み、空になった紙コップをゴミ箱に捨てて戻ってきても、まだ目を瞑って悩んでいた。そこまで考えてまで知りたいらしい。
若干呆れつつも香織は両手で浩介の頰を包み込む。男子の癖に頰が柔らかいのが若干悔しい。
「これからも浩介と一緒にいたいって」
「え、」
「そうお願いしたんだよ」
ほら、おみくじ引こうよ、と恥ずかしさに耐えきれずに腕を引っ張る。体が暖かいのは甘酒を飲んだせいに違いない。浩介に赤くなった顔を見られないように、マフラーで口元を覆った。
「末吉か……。まあ、そんなものかな」
「私は中吉だって。どっちが運勢良いのかな」
「確か中吉だったと思う」
おみくじの内容はあまり気になることは書かれていなかったらしい。
香織はおみくじを丁寧に折り畳み財布に仕舞った。一方で浩介は若干無造作にポケットへと突っ込む。特に悪い運勢ではなかったので、結びどころに結ぶこともしない。一通り初詣でやる事を終え、浩介は時間を確認する。
「明日……、いや、もう日付けが変わってるから今日か。準備もまだ終わってないし、そろそろ帰るか」
「あ、うん……」
「とりあえず家まで送って行くから」
「遅くなっちゃうからいいよ」
首を振って断るが、聞く耳を持たないとばかりに香織の手を掴む。手袋を忘れたせいか、指先は氷のように冷たい。掴んだ手をそのまま自分のコートのポケットに入れる。ポケットは大きめに作られているため、二人分の手は問題なく入った。
「香織と一緒にいたいんだ。ダメかな」
「……うん」
肩に頭を預ける。
家までの道のりを時間を惜しむようにゆっくりと歩く。駅から神社までの道から少し外れれば途端に人気はなくなる。年が明けて間もない夜の空気はいつもと変わらない筈なのに、どこか新鮮に感じる。
「浩介は、」
「うん?」
「何をお願いしたの?」
「あれ、言ってなかったっけ?」
浩介は空いている方のポケットを探り、飴を取り出すと香織に手渡す。抹茶味の飴は浩介の好物であり、大抵ポケットやバッグに常備していたりする。一時期前世は大阪のおばちゃんなのでは?と本気で思ったことがあったが、今のところ他に証拠がないので保留している。飴を包んでいるビニールを破ると緑色の球形を口に入れる。
「ここの飴好きだよね」
「抹茶の味がしっかりしてるのと、甘過ぎないからね。少し値段が高いのが難点だけど」
それで、願い事の話だっけ。
「今後何年経っても、何十年経っても変わらずにありたいことを願ったんだよ」
「変にカッコつけてないで教えてよ」
「酷い言いようだな。……プロで成功するとか、全国大会で優勝できますようにとか。そういうのも、もちろん大切な夢だけど願い事ではないなって思ったんだ」
プロのサッカー選手になることは小さい頃からの夢であった。それはあと数ヶ月後には叶う夢となる。今さらながら感慨深い気持ちになる。
「だから、これからも変わらずにありたいこと。香織と一緒にいられますようにってお願いしたんだ」
「じゃあ––––」
「偶然だけど同じことを願ってたんだね」
同じことを考えていた。それだけで香織の心は暖かくなる。そしてそれはきっと偶然ではない筈だ。
彼はきっとこれからも変わらないのだろう。何一つ確証的なことなどないが、何かそう信じさせる予感があった。
「明日の試合も応援には行けないけど、テレビで観てるから」
「アップで映されたりするだろうし、恥ずかしいプレーは見せられないな」
「昨日の試合もだいぶ浩介のこと映してたからね。次もすごいと思うよ」
「マジか……」
ここまでで良いよ。
香織は浩介に向かい合う。見つめ合う二人の間に会話はなく、表情だけでやり取りをしているようにも見える。
不意に耐えきれなくなった香織の笑い声が漏れた。笑う自分が可笑しく思ったのか、お腹を抱えクツクツと震える。
「浩介の顔見てたら元気が出たよ」
「お褒めの言葉の筈なのに、あまり喜べないのは何でだろう」
「純粋に誉めてるんだから受け取って? ……本当はね、今日会うべきじゃないって思ってたんだ。昨日も試合があって、明日も試合があるから少しでも体を休めていなくちゃいけないって。でもね、不安になったんだ」
それはテレビを観終わって、冬季講習を受けている最中にふと襲われた。テレビで観る浩介は、普段隣りにいるのとは違う存在に見えた。もしかしたら、浩介は変わっていってしまうのではないか。自分の知る浩介はいなくなってしまうのでないだろうか。
「少し考えれば馬鹿げたことだって分かるよね。でも、受験のこともあって、ネガティブになっちゃってたんだ。我がままだって分かってる、それでもまたテレビで観るより前に、私の知ってる浩介に会いたかったの」
ほんと我がままだよね。
言い終える前に香織は強く抱き締められた。冬の空気にあてられたコートは冷たいのに、嫌な感触ではない。
浩介は耳元で呟く。
「次の試合を迎える前に、香織の我がままを聞けて良かったよ。香織の我がままを叶えられる存在なんだって思えたら元気が出た」
「……何それ」
「俺は香織の隣りにいて良いんだって。大好きな人に必要とされてるんだって再確認出来たから。明日の試合も頑張れる」
「浩介は単純なんだね」
「単純で構わないよ。香織が好きなだけなんだから」
「本当に浩介は彼氏バカだよ」
でも、ありがとう。
心の中で呟く。浩介の背中に手を回し気持ちを伝える。私はこの人を支えたい。
いつか新しい夢は生まれていた。
夢は原動力となり、進路を決めるキッカケになった。それはきっと間違っていない。
好きになって良かった。
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「北宇治高校の応援の方はこちらです! はぐれないように注意して下さい!」
東の方にあると言っても、東京も京都と変わらず寒い。
バスから降りた香織は、雲の間から差し込む光に目を細める。視線の先には、楽器を運んでいる吹奏楽部員の姿がいた。黄色のリボンの部長が指示を出している様子は、もう誰が見ても部長である。少し見ない間にすっかり板についたようだ。
それにしても。
「大きい……」
「流石国立だね」
晴香も口を開けたまま固まっている。コンクリートの壁が目の前で大きくそびえ立って見える。
後ろに見える駅からは絶えることなく人の列がスタジアムへと続いている。高校の応援団は、まとまって入ることが出来るため、まだマシなのかもしれない。チケット購入の列は非常に長くなっていた。
入場口を通り抜け、階段を登って行くと不意に視界が開ける。大きく広がる緑色の芝生。ぐるりと見渡せば何メートルも上の方まで観客席が並んでいる。
まだ試合開始の一時間以上前にもかかわらず、既に七割近くの席が埋まっていた。
今日の気温は十度であり、幸い強く風が吹いていないためにそこまで強い寒さは感じない。スタジアムの右側と左側の観客席の上には大きなオーロラビジョンが設置されている。何かしらリプレイなどが流されたりするのだろうか。
ボーッと眺めていると急にビジョンが光る。
『ついに始まる決勝戦。そして、今大会を盛り上げてきたのはこの二人。仙習高校、中本と北宇治高校、進藤。卒業後にヨーロッパのクラブチームへの加入が決まっている二人の引っ張る高校が、決勝への舞台へと勝ち上がってきた』
ナレーションに合わせて準決勝までの二校のハイライトが流れる。テレビの時もそうであるが、大画面に自分の彼氏が映るのは何処か気恥ずかしさがある。隣りに座る晴香がニヤニヤしながら、肘でつついてくる。
『––––そして北宇治高校の中心選手である進藤。進藤のゴールに対する嗅覚は今大会ずば抜けている。ドイツクラブチームに––––』
「彼氏が映ってるよ。良かったね」
「もう、茶化さないでよ」
周りの学生も香織が彼女であることを知っているために、温かい眼差しを送り、その視線が恥ずかしさを増長させる。誤魔化すように顔に手を当てればヒンヤリと熱を奪っていく。
ふう、と息を吐けば白い空気が空に溶けていった。
両チームの紹介を終え気がつくと試合開始時間は刻一刻と近付いていた。次第にスタジアムは観客で埋まり、ほぼ満席となっていた。五万を超える人が今日この場所に集まっている。
その事実だけで、緊張の高まりを感じてくる。浩介は大丈夫だろうか。手のひらにしっとりと汗が滲んでいた。
『大変長らくお待たせしました! これより千葉県代表、仙習高等学校対京都府代表、北宇治高等学校の決勝戦を開始します。それでは、選手入場です!』