「そういえば、先輩ってすごい香織先輩のこと好きじゃないですか」
「うん? それはもう香織先輩マジ天使だからね。好きじゃない人の方がどうかしてるわよ」
「あ、はい。……そ、それで、そんな香織先輩に彼氏がいるのを認めてるのが少し不思議でした」
「あー、それね」
合宿の二日目の夜。昼間とは異なり暗く静かな練習用の部屋で久美子は、優子から去年の話を聞いていた。
今まではあまり関わることがなかったこと、麗奈と香織のソロパートの出来事もあり、教員である滝に食ってかかるところなど見ていたことから少し怖い先輩と思っていたけれども、話してみて意外に優しい先輩なんだと認識を改めつつあった。
どうせなら、もう少し話を聞いてみよう。そう思い踏み込んだことを尋ねてみたが、苦虫を噛み潰したような表情をする優子に地雷を踏んだことを確信した。
顔に出ていたことに気付いたのだろう。優子は慌てて否定すると、久美子に席に座るよう促す。
「そりゃあ、最初は認めてなかったよ? カッコいい訳でもないし、何で香織先輩の隣にいるんだろうって」
でもね、と優子は目を閉じる。
認めざるを得なかったんだ。
夜の合宿所は静かであり、言葉を切ると二人の間に静寂が訪れる。
昼間は煩いくらいの蝉の声もこの時間は聞こえず、時折イスの軋む音だけが部屋に小さく響く。
やがて優子は、瞑っていた目を開け語り始める。
「それで、香織先輩って言うんだけど、すっごい可愛くて優しいの!」
「優子、その話もう何回も聞いたから」
「香織先輩のことはまだ全然語り尽くせてないから!」
北宇治高校に入学した優子は、中学に引き続き、高校でも吹奏楽部に入部した。正直なところ、吹奏楽を続けるか悩んだ部分もあった。全国大会はおろか関西大会にすら出場することが出来ずに一時は自信すらなくなってしまった。しかし、他にやりたいことも見つからないしとりあえずは入ってみよう。そんな惰性にも似た気持ちで入部を決意した。そしていざ、入部してみると同じトランペットパートを担当する先輩に、とても可愛い先輩がいる。
クラスメイトは、入部直後からその話を聞いていたが、日に日に傾倒っぷりが増してくる状況にやや辟易としていた。
その先輩の件を除けば、面倒見の良さや意外に家庭的なところなど友人としては文句がない。しかし、その件が彼女の魅力を大きく損なわせていた。少なくとも友人の目線ではそう見えている。
「でも、それだけ可愛いなら彼氏とかいるんじゃない?」
瞬間、優子は無表情になる。
しまった。そう思ったが、既に遅い。トントンと指で机を叩き、苛立ちを隠さない様子に息を呑む。
「私は、あれが香織先輩の彼氏なんて認めないから」
「あ、やっぱりいるんだ」
「私は彼氏だなんて思ってない」
いや、それはその香織先輩が決めることだろ。喉まで出かかった言葉を呑み込む。
間違いなく火に油を注ぐ発言だ。
「何であんな人が彼氏なの?!」
「いや、私その人知らんし」
「香織先輩の彼氏ならイケメンで優しくて頭良くなくちゃいけないの!」
「まるで漫画の主人公だね」
「そう! それくらいの人じゃないといけないの!」
「冗談のつもりだったんだけど––––」
「なのに!」
うがー!と喚き立てる姿から、その件の香織先輩の彼氏のことを本当に気に入らないことが伝わってくる。しかし、そこまでいくと逆にどのような人物なのか興味が湧いてくるのも心情だ。
「つまり、その香織先輩の彼氏はかっこ悪いと」
「ブサイクではないけど……、まあ普通ね」
「それで乱暴で」
「香織先輩が言うには優しいらしいけど」
「頭が悪い」
「香織先輩より頭は良いみたい」
友人は首を傾げる。聞いていた話と違うのではないか。
「そこまで不良物件ではないよね?」
「優良じゃないとダメなの」
フン、とソッポを向く優子にそれはただのワガママなのでは、と思い始める。結局は香織の心を掴んでいる彼氏に嫉妬しているのだろう。
しかし、これだけ騒いでても男子から人気があるのは不公平な気がする。最後のクッキーを口に放り込み、手に付いた粉を振り払った。
香織への愛を訴える優子の態度が気に入らない人間は少なからずいる。それは優子自身理解しているし、そういった人とは関わらなければ良いだけと判断していた。ちょっとした嫌味な発言などは無視して、吹奏楽部の人間––––例えば梨子––––や仲良くしているクラスメイトと会話していれば問題はなかった。
「何が香織先輩マジ天使だよ。うるせえな」
「あんなのにフラれた千葉君が可哀想」
遠くの席から、優子の喚きに高い声を聞きながら悪態を吐く。
好意を寄せている男子が優子にフラれた。その事実は優子を妬む理由になり、嫌がらせを悪化させる原因になる。しかし、あまり派手に動けば、逆に自分たちの立場が悪くなる。なるべく周りには気付かれずに、彼女にのみダメージを与えるようにしなければならない。
「そういえば、あいつ先輩の彼氏に嫉妬してるんだっけ。そこを上手く使えないかな」
「いけるかもしれない」
二人は顔を見合わせニヤリと笑った。
それは優子の周りに人がいないタイミングを狙って行われた。制服は夏服に切り替わり、クラスの空気も浮つきがなくなってきた六月。
その日、担当になった日直の仕事として日誌を書かなくてはならないために、優子は一人教室に残りペンを動かしていた。放課後になれば直ぐに部活が始まる。遅刻しないよう梨子や吹奏楽部員は先に音楽室に行っており、他のクラスメイトも既に教室を後にしている。
少しずつ陽が傾いて橙色に染まる空間でペンを走らせていると、微かにトランペットの音が聞こえた。もしかしたら香織の音だろうか。今日も早く先輩に会いに行きたい、その一心で日誌を書き終え荷物をバッグにまとめる。
いざ教室を出ようとした時、ガラガラとドアが開いた。
入ってきたのは二人の女子である。普段からさり気なく嫌がらせをしてくるために、なるべく関わらないようにしていた二人は、ニヤニヤと笑顔を貼り付け、出口を塞ぐように立っていた。
彼女らの様子に眉を顰めつつも結局のところ関わらなければ良い。そう判断し、優子はバッグを肩に掛けた。
優子が二人の間を通り抜ける瞬間、女子の一人がわざとらしく声をあげる。
「それにしても憐れだよね。ウザがられてるって知らないで、天使とか言ってつきまとってるの」
「ほんとほんと。先輩に同情しちゃうよ」
言葉の矛先が優子に向いていることは明確である。いつもであれば無視をするのであるが、発言には香織のことも含まれていた為に、聞こえないフリをするという選択肢は取れなかった。立ち止まり敵意を持って振り返る。
「あんたたちが香織先輩のこと分かるはずないのに、そうやって適当なこと言わないで」
強い口調で反論するも、二人は笑みを浮かべたまま優子を見下す。
「あんたは知らないかもしれないけど、あたし聞いちゃったんだよね」
「何を」
「その先輩が、彼氏につきまとわれて困ってるって話をしてるところ」
「ね。彼氏の方もうんうん、って頷いてるの」
「––––ツ!」
そんなことはないと否定したいのに、思わず言葉に詰まる。確かに思い当たる節はある。浩介と香織が二人でいるところに、話し掛けに行った際、浩介に呆れたような顔をされたことが何度かあった。
「傷つけないように距離置くにはどうすれば良いかなって話し合ってるの。マジでウケる」
「だから、さ。あんたが好きなその先輩だって、あんたのことウザいって思ってるんだよ。勘違いしてないで身の程を知れよ」
言葉のナイフが優子に刺さる。優子にとって香織に嫌われることほど恐ろしいことはない。
あの優しい先輩がそんなことを言うはずないと信じたい。しかし、隣りにいる浩介はどうだろうか。あれだけ彼氏に相応しくないなど好き勝手言っておいて、今さら私のことを嫌いにならないで下さい、なんて虫が良いにも程がある。
香織も困ったような顔をすることがあった。
本当に嫌われているのかもしれない。
負の感情が心を支配し、喉が熱くなる。スカートの裾を掴んで俯いたまま優子は動くことが出来ずにいた。
その姿に溜飲が下がったのか、女子は口角を上げて優越感に浸っていた。これでこの女も大人しくなるだろう。そんなことすら考えていた。
だから油断していたのか、二人は過ちに気付くことはなかった。
「あれ、吉川じゃん。今日は部活休みなの? 香織は普通に音楽室行ってたけど」
一つは香織の彼氏の顔を知らなかったこと。
「この子、尊敬する先輩に嫌われてることに気付かないで、つきまとわれて困ってるって言われたんですよ」
「可哀想ですよね」
もう一つは、気分が高揚したことで目の前の男子に有りもない話をしたこと。
「へえ、そうなんだ」
優子は声の主が誰なのか直ぐに分かった。今、会いたくない人の一人。
ここで二人の言葉に同意されたら、もう立ち直ることは出来ない。
優子は溢れ出そうな涙を我慢するために目を瞑った。
「でも、その彼氏は、彼女に可愛らしい後輩が出来たって喜んでたらしいよ?」
その予想外の言葉に優子は思わず顔を上げた。声の主は……、やはり浩介であった。
彼女たちはその発言が気に入らないようであり、浩介の言葉を切り捨てる。
「は? 何言ってるんですか?」
「何で庇おうとしてるのか分からないですけど、あたしたちはその場面を見てたんです。テキトーなこと言わないで下さい」
そこで初めて優子の頭に疑問が浮かぶ。香織の彼氏が浩介であることなど、陰口を言っていた場面を見ていたのなら直ぐに分かる筈だ。
「ふーん、何か俺が聞いてた話と違うな」
「嘘言われてたんですよ。普通、つきまとわれて可愛らしいなんて言わないですから」
どうしても優子を貶したいらしい。
そして、その理由は新たな登場人物が関係しているようだ。
「あれ、進藤先輩? 一年生の教室に何か用ですか?」
「うん、ちょっとね。そうしたらさ、俺の話している集団があったから何だろうなって」
浩介に話しかけてきたのは、女子たちが優子に嫌がらせを始める原因にもなった千葉であった。サッカー部に所属している千葉は、先輩である浩介を見つけると不思議そうに近づいて来る。意中の人の登場に彼女たちは色めき立つ。
「え?! 千葉君?!」
「それに"俺の話"ってもしかして––––」
「彼女が、このちっこいのにつきまとわれている進藤です。どうぞ、お見知り置きを」
嘘でしょ。女子は顔を青くしながら思わず呟く。自己紹介が本当ならば、目の前の存在は地雷である。
もし、今自分たちがやっていることが千葉に暴露されてしまったら––––
「ねえ、ヤバイよ」
コソコソとやり取りをする姿を見て、優子は話の流れが段々と掴めてきた。つまり、浩介と香織の会話を聞いたということはまったくの嘘であり、千葉のことをフッた自分を貶めるためにやっていたことらしい。
そんなバカげた理由で、香織のことを持ち出したのか。
沸々と怒りがこみ上げてくる。何よりも尊敬している香織を語った事実は許されることではない。女子につめ寄ろうとしたところで、浩介に手で制された。電気のついていない廊下は少し薄暗くなってきている。
「千葉、吉川に用があるんだけど、先にこの子たちと少しお話したいから、ちょっと吉川の相手しててもらっていいかな?」
「え……、あ、はい。分かりました」
「ちょっと進藤先輩!」
「吉川、ちょっと待ってて?」
笑顔ではあるものの、有無を言わせない雰囲気があった。もしかしたら怒っているのかもしれない。香織の名前を出したことは浩介にとっても許されることではない筈だ。優子は浩介が怒ったところを見たことは一度もない。初めての様子にどう対応して良いか分からずコクン、と素直に頷いた。
浩介は振り返ると女子たちの方へと歩いていく。
「じゃあ、少しお話しよっか?」
優子たちに内容を聞かれないために教室内に入る。
女子は内心怯えていた。勝手に自分が悪口を言ったことにされたのだ。怒らない訳がない。浩介の笑顔の裏に怒りが隠れているようにすら見えてくる。
浩介は二人に席に座るように促し、自身もその向かいの椅子に腰を掛けた。
「さて、どうしてあんな嘘をついたのかな、って思ったんだけど。何となく予想はついているんだ。どっちかは知らないけど、千葉のこと好きなんでしょ?」
核心を突く発言に、一人が咳き込んだ。その様子から、予想は外れていなかったらしい。
浩介はクスクスと笑うと、両手を組んだ。
「当たったのかな? 千葉が吉川に告白して、フラれたのは知ってたからさ。今回のは、その逆恨みなのかなって」
「……ごめんなさい」
「すみませんでした」
「うん、許します」
的確な指摘に、耐え切れずに頭を下げる。ちょっとした出来心で嫌がらせを始め、落とし所が分からず加熱していってしまった。
誰かに止めてほしかった。言い訳かもしれないけど、それが本心にあったのは事実だ。
浩介は謝罪の言葉を受け入れた。それは彼女たちにとって予想外の対応だったらしい。呆けたように口を開けたまま固まる。
「え、」
「良い……んですか? 先輩を悪者にしようとしたんですよ?」
「だって、反省して謝ったんだよ? 責める意義がないし、遺恨が残るだけだと思うんだ」
でも、と笑顔を消して真剣な表情に変わる。
「一つお願いがあるんだ。……吉川のことを好きになれとは言わないけど、嫌がらせはもうしないと約束して欲しいんだ。それだけ守ってくれるなら、この話はもうお終いだよ」
「……ありがとうございます。もう絶対にしません」
柔らかくなった空気に触れ、体が軽くなったのは気のせいではない筈だ。
じゃあ、先輩からプレゼントをあげよう。
浩介はポケットからスマホを取り出し、画面を操作する。見せられた画面には一人の女性が映されていた。
「この人が、今千葉がハマってる歌手なんだって。日本ではあまり知られてないみたいで、周りに話が出来る人がいないって嘆いてたから、もし話題に出来たならすごい食いつくと思うよ?」
「そ、そうなんですか?!」
「うん。だからもし聴いてみて好きになれそうなら、是非千葉に話してみてよ」
「ありがとうございます! ……でも、なんでそんなアドバイスくれるんですか?」
「いえいえ。だってさ、上手くいかないことを誰かのせいにしてたり、陰口を言うのはつまらないから。どうせならその時間を好きな人に近づくために使った方が良いでしょ?」
***********************
「その後どうなったんですか?」
「まさかなんだけど、千葉君とその女子は付き合い始めたの」
「冗談、ですよね?」
「私も驚いたからね。その歌手が日本でライブをした時に観に行って、帰りに告白して成功したんだって」
「そんなことがあるんですね。進藤先輩がキューピッドなんて想像つかないです」
確かについさっきも相談の電話をした際に、忙しそうであったけれど時間を割いてくれた。いつもへらへらしているようにも見えるし、知り合う機会がなければ積極的に関わりたいとは思わなかっただろう。
優子も頷く。だからこそ、始めは香織の彼氏であることが気に入らなかった。しかし、知れば知るほど痛感する。そして、今は香織の理想の相手なのだと確信している。
「だから、あんたも気になる人がいれば相談してみれば? 意外と成功するかもよ?」
「な……、そんな人いないですよ!」
「はいはい。じゃあ、そろそろ部屋に戻るわよ」
優子は椅子から立ち上がった。グッと背伸びをして凝り固まった筋肉を動かす。
振り返れば耳を赤くした後輩が頬を膨らませており、それが何だか可笑しく思えてくる。なるほど、浩介が久美子を構う理由が分かるかもしれない。
優子は納得出来ずにいた。教室から出てきた浩介と女子は何故か笑顔で会話しており、そこには何の遺恨もないように見える。
女子は優子を見つけると、深く頭を下げて謝罪をした。あまりの変わりように怒る気分もなくなり、結局のところ許す以外の選択肢はなかった。
そのやり場のないモヤモヤは浩介にぶつけられる。
「何で先輩がしゃしゃり出たんですか」
「まあ、何となくかな」
「あんな奴らに優しくする必要なんてなかったのに」
口を尖らせながらも、音楽室へと向かうために大人しく浩介の後をついていく。目の前の存在は憎まれ口を気にした様子もなく、靴で廊下を鳴らす。もしかして、子供が駄々をこねているように思われているのだろうか。そんな風に思われているならば余計に癪だ。
「まだ一年生なんだから、つまらないことで世界を狭めちゃいけないと思うんだ」
不意にかけられたその言葉は、実感がこもっているように感じた。
どうしてかは分からないけれど、まるで自分が経験したかのような気持ちをこめた発言に思え、優子は思わず顔を見上げた。
「つまんないことなんて放っておいても勝手にやってくるんだ。こっちからわざわざつまらない方向に進む必要はないよ。吉川は香織の大切な後輩だから、俺はそうあって欲しいんだ」
先輩の勝手なお願いだから気にしなくていいよ。
浩介は困ったような表情で謝り、そのまま音楽室手前の階段を降りていった。
「先輩!」
何か言わなくちゃ、気持ちだけが前に出てくる。気付けば口は勝手に開いていた。
「私は先輩が何を言いたいのかよく分からないです。でも私は、私なりに考えて正しいと思う行動をします!」
「うん、それで良いと思うよ」
その時の浩介の笑顔は今でも覚えている。
優子は、自分の思う正しい行動を起こした。オーディションの時もそうだし、現在進行形で起こっているみぞれと希美の件もそうだ。それがきっと良い方向に進むと信じている。
––––少しは先輩に近付けていますか?