『両チームの入場です』
場内アナウンスの後、凱旋行進曲がスタジアム内を流れ、審判を先頭に両チームの選手が姿を現わす。事実上の府大会予選の決勝戦と位置付けられているこの対戦に、スタジアムには予選としてはかなりの人数の観客が入っていた。
観客は入場してくる選手に拍手を送る。府大会の準決勝において二万人を超える観客が駆けつけていることは稀であり、拍手の音はスタジアム内を大きくうねる。
その拍手を一身に浴び、選手たちはピッチに並んだ。
北宇治高校の応援席は、メインスタンドに向かって右側に位置している。
その反対側には赤いジャージを着たサッカー部の集団と、その隣に青い衣装に身を包んだ吹奏楽部の姿も見える。立華高校は、選手がピッチ内に入っていくと直ぐに応援を開始した。
その圧倒的な音量は、威圧感となり北宇治高校サッカー部及び応援席へと襲いかかる。北宇治高校の吹奏楽部員の多くは、今回初めてサッカー場に足を運び応援を行う。ホールとは異なる環境、三年生が引退して初めての外での演奏、相手に先手を取られ開始された演奏に戸惑いを隠せずにいた。
まずい。
浮き足立つ部員の様子に優子は内心で舌打ちをする。自分自身もそうだが、部員が空気に呑まれている。そして、その気持ちは演奏に出てしまう。この状態では、まともに演奏など出来ないし、部長としても決して始めるわけにはいかない。
そう判断し、応援団長を務める沼尻の元へと向かう。相手が大音量の応援をしてくる機会は別にこれが初めてではない。沼尻を始めとしたサッカー部員に焦りはなく、吹奏楽部の演奏があれば直ぐに応援を行う準備は出来ている。
優子はその落ち着きに安堵しつつ、沼尻の肩を叩いた。
「ヌマジー、ごめん。ちょっと部員が空気に呑まれてるみたいなんだ。もう少し空気に慣れるまで声だけの応援にしてもらっても良いかな?」
普通の会話の音量では相手に聞こえないため、やや張り上げるように吹奏楽部の現状を伝える。沼尻は頷くと、応援歌の名前が書かれた画用紙を部員に見せ指示を出した。
「今日が一番大事な試合になることは、全員が分かっていると思う」
自陣の中央に円陣を組み、浩介は全員の顔を見回す。メンバーは若干緊張を含んではいるが、充実した真剣な表情からは過度な気負いを感じない。
耳にはスタジアムの音が入ってくる。観客の声や、去年も府大会の決勝で聞いた立華高校の吹奏楽部の演奏。
そして、北宇治高校サッカー部の応援。
まだ吹奏楽部の演奏は始まっていないため、音量は負けているかもしれない。しかし、その熱気は決して劣っていない。浩介はクスリと笑う。
「よし、いつものいくぞ」
メンバーは固く肩を組み合う。
「ライン絶対に崩すな」
––––応!
「リスタートの集中切らすな」
––––応!
「サイド広く展開していくぞ」
––––応!
空気を大きく吸い込み、浩介は声を張り上げた。
「いくぞッ!!」
『応!!』
スタンドの拍手を受け北宇治高校イレブンがピッチへ散っていく。
いよいよ試合が始まる。
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陽が高い位置からピッチを照らし、緑色の芝生が明るく映える。試合開始を告げる笛が鳴り響き、芝生の上をボールが転がる。
午後二時。ついに、準決勝が始まった。
試合開始直後から激しい攻防が繰り広げられている。
準決勝までの五試合を三十二点叩き出し、超攻撃サッカーを展開してきた北宇治高校。
一方、シードであり、四試合を無失点かつ二十得点以上の完勝で勝ち上がった立華高校。
ここまでの試合、北宇治高校の攻撃の起点は浩介からのパスが大半を占めている。立華高校は、二人で浩介のマークに当たり、自由にプレーをさせないことで攻撃の芽を潰す。浩介もそのことは想定内であり、逆にそれを利用しボールに関わらなくともマークについてくる二人分、相手の守備の人数を減らすことで、岩田を中心にしたサイドを広く使う攻撃を展開する。
序盤は北宇治高校が主導権を握り始めていた。
「次、『ブラジル』いきます!」
沼尻の声に優子は頷き、部員に向かい手を挙げる。
楽器が構えられたことを確認し、振り降ろされた手に合わせ演奏が始まる。軽快な音楽が北宇治の応援スタンドから流れ始める。最初はスタジアムの独特な雰囲気に戸惑っていた吹奏楽部員も、試合が始まり戦っている選手の姿を目の当たりにし、やがて表情が変わる。優子の指揮に合わせ奏でられる応援は、立華の演奏に負けず、力強く選手を後押しする。
『今日の試合は、立華高校だけでなく、北宇治高校も吹奏楽部が応援に駆けつけています。北宇治高校吹奏楽部と言えば、今年の吹奏楽コンクールで全国大会に出場した強豪校です。その演奏が選手たちを、北宇治高校を盛り上げていきます』
『吹奏楽部強豪校同士の応援合戦も見所の一つですね』
香織はテレビの前で試合を観戦していた。塾の講習の関係でスタジアムまで応援に行くことは出来ないため、自宅から北宇治の勝利を祈っていた。
テレビでは実況と解説がいるために、サッカーに詳しくない香織にも何となくではあるが、試合の展開が伝わってくる。今は北宇治が優位に試合を進めているらしい。
ただ、テレビにあまり浩介が映っていないことが気掛かりであった。解説の話では、立華の選手が浩介に自由にプレーをさせないように常に二人張り付いている。そのため攻撃に浩介が関わる機会が少なくなっているらしい。
『10番の岩田のシュート! バーを弾いた!』
「あー!」
緊迫した展開からの得点に繋がりそうなシュートに思わず声が漏れる。
点が決まりそうで決まらない。もどかしい思いが募り、手に力が入る。正座していた足を崩し、横へと流す。膝には畳の跡がついていた。
『立華高校のカウンター! 北宇治の守備の枚数は少なくなっています。7番の泉がボールを持った。そのままサイドを駆け上がる!』
「うそ。まずいよ」
シュートの後のこぼれ球を拾われ、立華高校が反撃に入る。北宇治高校は攻撃で前かがりになっていたために、守備の人数が少なくなっており、相手の速攻に対応が遅れていた。
『中にボールを送り、キーパーと一対一。……止めたー!!』
立華の決定的な場面をゴールキーパーがセーブし失点を免れる。緊張のあまり息を止めていたことに気付き、香織は深く息を吐く。
「はあ……、心臓に悪いよ」
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ピーッ!
審判の笛が鳴り、前半が終了する。両チーム共に点は入らず、無得点のまま選手は控え室に戻って行く。
息をつかせない展開に四十分があっという間に感じた。
「五分後に応援を開始するので、それまで休憩にします!」
優子は吹奏楽部に指示を出し、足元に置いた水筒に手を伸ばす。
空気は冷たいけれど、燃えるように体は熱い。喉を通る水が熱を冷まし体を潤す。
白熱した展開とはいえ、ここまで心震えるものだとは思っていなかった。優子の正直な感想である。
スタジアム内には、全国大会の応援ソングが流れている。男性のデュオボーカルの歌声がハーモニーとなり心地よく響く。人気のアーティストを起用し、一般の人にも認知してもらうことでより高校サッカーの注目度を上げる。何でも全国大会の決勝では試合前に生ライブもあるらしい。
そこに北宇治高校サッカー部が立っている姿を想像し鳥肌が立つ。最後の最後まで負けることのない二校のみが立つことを許されるステージ。そこに北宇治高校の名前があったならば、どれだけ素晴らしいことだろう。
しかし、まず目の前の試合である。
相手は全国大会出場の常連校であり、現状では格上の強豪校だ。ただ、対等以上に試合が進んでいる状況にひょっとしたら、と期待を抱いてしまう。もちろんそう上手く物事は進まないだろうし、危険な場面も何度かあった。
「でも、きっと浩介先輩なら––––」
『笛が鳴りプレーが止まります。倒れているのは……、北宇治高校14番の進藤と、立華高校7番の泉です。二人とも倒れたまま起き上がれません』
リプレーで確認してみましょう。
実況の声に続き、ぶつかった場面の映像が流れる。空中にあるボールをヘディングしようと競り合った際に頭と頭が接触し、そのまま倒れこむ様子がテレビに映し出される。
香織は、口を開けたまま呆然としていた。
後半の開始早々、まだ時計は十分も過ぎていない。倒れている姿から思い出されるのは、夏の総体での敗戦した試合。
あの時も接触プレーから負傷退場していた。
浩介に何かあったら……。
気が気でなくなる。
『おっと……、進藤が体を起こしました。近くにいる選手がベンチに向かって丸を作っており、試合続行に問題はないみたいです』
頭を抑えながらも体を起こし、チームメイトと会話している姿を確認し、香織は安堵のため息を漏らす。激しい接触のあるサッカーなどのスポーツで起こる頭の事故が危険であることは、ニュースで見たことがあった。
過去には、選手生命どころか命に関わる事故なども起きたことがあることを知った時、浩介がサッカーを続けることで同じようなことが起きるのではないかと心配になったこともある。
きっとこの心配は浩介がサッカーを引退するまで続くのだろう。どうしようもない不安に襲われ香織は膝を抱え込んだ。
声がなくなっていた応援スタンドから安堵の声が聞こえる。しかし、プレーを続行すると思われた浩介は、審判に指示を受けてピッチの外へと出る。
優子は審判の意図が理解出来ずに、視界の端にいた沼尻に手招きする。
「何で浩介先輩が外に出されたの? まだ試合に出れるんでしょ?」
「はい、治療が終われば直ぐに戻れます」
「治療……?」
進藤先輩の額を見てください、と言う沼尻の言葉に視線を向ける。遠くからはよく見えないが、若干赤くなっているように視界に映る。
「血出てるの?!」
「接触した際に切れたんだと思います。ルール上、選手は止血するまでは試合に戻ってはいけないので、まず外で治療を受けるんです」
「……なるほどね」
「それよりも吉川先輩、」
沼尻の真剣な眼差しに思わずたじろぐ。何か悪いことをしただろうか、思い返しても覚えはない。
「今、北宇治は動揺しています。観客席もそうですし、グラウンドにいる選手も見ている限り平常心ではなさそうです」
確かに応援スタンドの生徒たちは、不安そうにピッチを見つめていた。先ほどまでの盛り上がりがすっかり姿を消してしまっている。
「今こそ、僕たちが応援で選手や観客を盛り立てていかなくちゃいけないと思うんです」
「そうね……。うん、ヌマジーの言う通りね」
「ではこの曲でいきます」
沼尻の持つ紙に書かれた曲名を見て、一瞬目を見開き、そして口角を上げた。
優子は頷くと、沼尻は曲名を吹奏楽部員に見えるように大きく掲げた。
「次、『サウンドスケープ』いきます!」