活動報告に詳しくは書いていますが、少し更新スピードを落とします。
最後まで書き切る予定なので、応援よろしくお願いします。
紅葉も深まってきた十一月の中旬。浩介は通学路にある並木道をゆっくりと歩いていた。
時刻は朝七時前。陽は上がりきらず斜めに差し込むために視界に入り少し眩しい。初冬のやや冷たい空気が肌に突き刺さる。
浩介は空気をゆっくりと吸い込む。肺が新鮮な空気で満たされ、眠気を吹き飛ばす。昨日の試合の疲れと筋肉痛があるものの、それでも練習を休むという選択肢はない。
試合の次の日の朝練は、主に自主練にあてられる。普段であれば無理に体を酷使せずに休む部員も多い中、今日は様子が違っていた。
グラウンドにはほとんどの大会登録メンバーがストレッチを始めていた。誰もが、次の試合が正念場であることを理解していた。
立華高校。
ここ数年では、高校サッカーの京都府代表のほぼ全てを彼らが担っている。昨年の冬は、久しぶりに立華高校以外が勝ち上がったため話題になったほどだ。
北宇治高校サッカー部は、昨年に続いて全国大会に連続出場するべく府大会予選準決勝の立華高校戦を週末に控えていた。
ここまでは危なげなく勝ち進んできているが、次はそうはいかない。油断すれば一瞬で試合を決められてしまう。高校サッカーファンの間で事実上の府大会予選決勝とまで言われているこの試合を応援するべく、吹奏楽部部長の優子は滝に相談していた。
––––話は二週間ほど遡る
「そうですね、赴任して始めに言った通り、私は皆さんの自主性に任せたいと思います。皆さんが応援したいと言うのであれば、私は良いと思います」
滝は優しく微笑み、直ぐに許可を出す。演奏以外では優しいことから吹奏楽部員からは人気のある滝の笑顔に、反対されることを予想していた優子は思わず返事が大きくなる。
「あ、ありがとうございます!」
「ただ、バスの手配など、いきなりは無理なので、まずはサッカー部の山田先生や上の先生に相談してみますね。決まり次第、直ぐに吉川さんに伝えます」
失礼しました。優子は頭を下げ職員室を後にする。スキップしそうになる足を押さえつけ、クラスへ戻るために廊下を歩く。自然と早歩きになるのは、喜びの気持ちの現れだろう。
今回の件について、声は始めから挙がっていた訳ではない。当たり前であるが吹奏楽部にも練習はあるし、クリスマスには再び駅ビルコンサートを控えている。
キッカケはサッカー部の試合を観に行った部員数人からだった。相手高校の応援に吹奏楽部が来ており、音量で北宇治高校の応援を圧倒していた。負けじと声を出していたけれども、試合終了まで応援は負けていた。
サッカー部の部員たちは応援に感謝してくれた。でも、自分たちも吹奏楽でより応援を盛り上げたい。
昨年、全国大会に出場した際も、北宇治高校吹奏楽部は楽器を用いた応援はしなかった。それに全国的にサッカーの応援に吹奏楽を加えている高校は多くない。以前より少しずつ増えてはいるものの、高校野球ほど大々的であるとは言えない。
しかし、今年は自主的に声が出てきた。それならばやるべきだ。優子は吹奏楽部の部長としてそう判断した。
許可が出て、準備を開始して。二週間程度で何とか形にしなくてはならない。逆算して本格的に応援に参加出来るとしたら、準決勝からになるだろう。
順当に勝ち上がれば準決勝の相手は立華高校になるらしい。立華の吹奏楽部は、サッカー部の試合には大きな大会で参加している。全国大会に出場した吹奏楽部として、質で負ける訳にはいかない。
優子は無意識に拳を握りしめていた。
「それでは、五曲くらいが目安になりますね」
「分かりました。曲の希望とかありますか?」
「こういうのは初めてなので、何が良いとか難しいんですけど……、盛り上がる曲が良いです」
「では、野球の応援とかを参考にこちらで何曲かピックアップして、そこから選んでもらうのでも良いですか?」
「は、はい。よろしくお願いします」
サッカー部の大会登録メンバー以外の部員から応援団長が選出される。今年度は一年生の沼尻がそれを担っており、吹奏楽部部長の優子と話し合いをしていた。しかし、お互いが初めてのことであり、具体的な内容に踏み込むまでに時間がかかっている。
また、沼尻は教えられていたことと勝手が変わることに戸惑っていた。一年生の自分が話を進めていくことに不安もある。さらに目の前に座る優子のやや強引な姿に腰が引けている部分もあった。
空き教室で机を挟み、ノートに考えを書いていく。その手が止まり腕を組んだまま時間だけが過ぎていくことに二人は焦り始めていた。
「よ! どう? 捗ってる?」
不意に教室のドアが開けられ、浩介が顔を覗かせる。
突然の先輩の出現に弾かれたように立ち上がる沼尻を席に着かせて、浩介は机に飲み物を置いた。紙パックのジュースにはリンゴの断面図が描かれており、集中していて忘れていたが優子は喉が渇いていることに気付いた。
「食堂で雑誌のインタビュー受けてて、ちょうど今それが終わったから様子見ようと思って。これは差し入れな」
「あ、ありがとうございます」
「また雑誌のインタビューあったんですか?」
「大会中のこの時期にやめて欲しいんだけどね。インタビュアーがお世話になってる人だったから仕方なく」
「大変ですね」
ストローの先で飲み口のビニール部分を突き破る。吸い込まなくとも、パックの横を軽く押すだけでジュースは口の中に入ってきた。甘酸っぱいリンゴが喉を潤す。
一方で浩介の顔には少し疲れが見えた。ICレコーダーを置かれて、メモを目の前でとられることは、何度経験しても慣れることがない。深く息を吐き、グッと体を伸ばす。
「それで、話はどんな感じかな?」
「はい、楽曲を五曲程度、吹奏楽部でピックアップして、その後沼尻君に選んでもらうことになりました。お互いに初めてなので、それからは少しずつ擦り合わせていく感じです」
「ふむふむ。そういえば、今試合中に応援は声だけでやってるけど、あれって元が何の曲か分かれば、それに音つけてもらったり出来るんじゃないかな」
「それは思ったんですけど、何の曲か分からなくて……」
沼尻は自信がないように語尾が小さくなる。部員が多いサッカー部において、またベンチ入りすら出来ない一年生にとって浩介は雲の上の存在である。その人物が目の前にいる現状に萎縮してしまう。
浩介は優子の方へと視線を向ける。
「吹奏楽部の応援来てくれた子で曲が分かる人とかいれば、それを加えてもらって良い?」
「分かりました。聞いてみます」
「ありがとね」
浩介が来ただけで話はスムーズに進み始める。上手く物事を進められない自分との差に内臓が重くなるような感覚になる。先ほどまでとはうってかわって楽しそうに会話する優子の姿が、より自分を惨めにさせる。どうせ浩介も部の端にいるような自分の名前など知らないのだろう。
思考はマイナス方向へと止まらなくなる。
「それで、ヌマジーはあと懸念事項とかあるかな?」
「は、はい。えーと、とりあえず大丈夫です」
「ぬまじー?」
「部員が呼んでる沼尻のアダ名だよ。俺が呼んだのは初めてだけど」
「へえ、じゃあ私もヌマジーって呼ぶね?」
気圧されるように頷く。決してその笑顔に見惚れていた訳ではないと信じたい。
「片方だけアダ名って違和感あるから、ヌマジーも優子のことアダ名で呼ぶか」
「私アダ名とかありませんよ?」
「デカリボン先輩とか良いんじゃね?」
「ふざけるのは顔だけにして下さい」
「敬愛する先輩の彼氏に酷い言い草だな」
まるで漫才のようにテンポ良く会話が繰り広げられる。お互いを理解しているからこそのやり取りに羨ましくなる。
いつか自分も目の前の先輩と親しく話せるようになりたい。その思いは強くなる。
「そろそろ練習に戻らないと怒られるな。二人はもう少しかかりそうだし、先に戻るわ」
「はい、練習頑張ってください」
「お疲れ様です」
浩介が教室を出ていき、ドアが閉まると静寂が戻る。沼尻は緊張の糸が切れたようで、伸ばしていた背中をぐにゃりと曲げる。
「あんたどれだけ緊張してたのよ」
「進藤先輩とちゃんと話すの初めてだったんですよ。緊張するに決まってますって」
「何でそんなに緊張するの?」
優子の視点では、あくまで部の先輩の彼氏というものだ。年上ではあるけれども、色々な面を知っているために気を遣わずに関わることのできる人の認識が強い。
しかし、サッカー部の一年生にとって、同じ部活に籍はあれど浩介は話すことなどない別次元の人である。
「でも、ちゃんとアダ名まで知ってたのね」
「それは––––」
「勝手に一年生が浩介先輩のことを特別扱いしてるんじゃないの?」
沼尻は返す言葉がなく口を閉じる。言い返したい気持ちはあるが、優子の言葉は正論である。
「浩介先輩は、どこにでもいるような人よ。確かにサッカーはすごいんだと思う。私はサッカーは詳しくないから、どれくらいすごいとか全然分からない。でもね、冗談を言えば冗談で返してくれるし、香織先輩––––彼女のためなら疲れてヘトヘトでも会いに行ったり。普通の高校生と変わらないと思うの」
考えを書き記したノートをパラパラとめくるその顔は少し寂しそうにも見えた。
傾いた陽が優子の顔を赤く照らす。
「部員の名前は全員覚えてるだろうし、アダ名で呼ぼうとしてるくらいヌマジーと仲良くなろうとしてるんだよ。だから、特別だからってあまり壁を作らないで欲しいな」
「……先輩のことよく知ってるんですね」
「去年何回も暴言吐いたからね」
「それは……。よくサッカー部の人たちから非難受けませんでしたね」
「忌々しいけど、周りからはじゃれついているようにしか見えなかったみたい」
言葉に棘はあるものの、口角は上がっている。素直じゃないだけなんだな。沼尻は強引な人という認識を改める。
「応援の件、悩んだら進藤先輩に相談してみます」
「絶対にそうしなさい。その方が喜ぶだろうし、本当に忙しかったりしたら、別の人に相談するように言ってくれたりする筈だからね」
––––吹奏楽部はこっちです!
スタジアムの大きさに圧倒されている場合ではない。優子は我に帰ると、直ぐに部員に指示を出す。
北宇治高校の応援スタンドの一部に吹奏楽部の演奏スペースは設けられていた。事前の打ち合わせ通りに各パートごとに配置についていく。階段に並ぶ楽器の見え方が普段と違い、少し演奏しにくそうに思えるがそれはどうこう言っても変わることはないため考え自体を取り払う。
そして、ホールで演奏する時とはまた別の緊張感に手が震える。直ぐ目の前には緑色のグラウンドが広がっており、近くでプレーする選手の表情すら見えてきそうだ。
こんな場所でサッカー部はプレーするのか。
優子は息を呑んだ。