目の前で大きな楽器を持ってヨロヨロと歩いている女子がいたら、そしてその女子が顔見知りならば、手を貸さないなんて選択肢を選ぶことは出来ないだろう。
部室へと向かう途中の廊下を大きな楽器が歩いていた。よく見れば必死に担いでいる葉月であった。今日、吹奏楽部は本番を想定し外部のホールを借りて練習を行うらしい。そのために楽器の運び出しを行っているのだろう。
浩介は後ろから追いかけると葉月の横に並んだ。
「カトちゃん、カトちゃん」
「え、あ、進藤……先輩。こんに、ちはで……す」
「ほら貸して?」
「え、いや、吹奏楽部員じゃない先輩に持たせるなんて––––」
「後輩を見知らぬフリして、結果的に怪我なんてさせたら香織に怒られちゃうよ」
おどけたように言うとそのまま葉月から楽器を受け取る。意外に重量感がある。これを女子が持って階段を歩くのは大変だろう。カッコつけた手前、葉月にバレないよう力を入れる。
「男子が少ないと、こういう重いのまで女子が運ばなくちゃいけないから大変だね」
「最近は慣れてきましたよ。ありがとうございます」
「困った時はお互い様だよ」
あんなに重い楽器を軽々しく運んでいる姿を見ると、やはり体育会系の部活の人間なんだと再認識する。……実際は軽々ではないのだが。
楽器を積み込むため昇降口へと向かう途中、ふと葉月は思い出す。
そういえば、今日ソロパートのオーディションのやり直しがあることは知っているのだろうか。思い浮かんだ疑問は図らずも浩介の世間話の中にあった。
「今日ホールで香織と一年生の子がソロのオーディションもう一回やるんだっけ」
「あ、知ってたんですか?」
「香織とか小笠原からね」
「先輩は……、やっぱり香織先輩にソロやってもらいたいですか?」
「もちろん晴れ姿を見たい気持ちはあるよ。彼女だし、何より頑張ってきた姿はずっと見てきたからね。でも、今はそれ以上に吹奏楽部に全国に行って欲しいかな」
「ということは、結果として高坂さんがソロを吹くことになっても反対しないんですね」
「だって俺は二人の実力なんて分からないからね。分かる人が聞いて、上手い方を選ぶべきだと思うよ。そりゃ、香織がソロをやって全国行ければ理想だけど」
昇降口まで行くと楽器を積み込むためのトラックが停まっている。男子部員の仕事は主に運ばれてきた楽器の積み込みのようだ。
「ナックル、これよろしく」
「進藤じゃん、ありがとう!」
「進藤先輩ってナックル先輩と知り合いだったんですね」
「こいつだよ、俺のことナックルなんて呼び始めた奴」
「オレだけじゃなかったじゃん。みんなで流行るニックネームを考えようって言って、結果的に出てきたやつだし」
「ほら雑談してないの」
当時のことを思い出し懐かしそうに話す二人を咎める声が後ろからかけられる。
振り向くと晴香が楽器を持って立っていた。少し不機嫌そうな––––いや、責任ある立場に立つ者としての不安を抱えているようにも見える。
「進藤も楽器運んでくれたのは助かったけど、あまり長居されると移動に時間かかっちゃうから」
「そうだな、ごめんごめん」
「先輩、ありがとうございました!」
「いよいよー。練習頑張ってね」
平然を装っていたが浩介はもし香織に会ったら、と内心気が気でなかった。
オーディションを前に何を話したら良いか分からない。
––––頑張って
そんな言葉など今さら言うべき言葉ではないだろう。香織の隣で努力を見てきているのだから。
だから彼氏として情けないが、浩介は少しホッとしていた。
「中世古さん、高坂さんはオーディションの準備をして下さい」
晴香は準備の為に舞台袖へと消えていった香織の後ろ姿を不安げに見つめていた。適度な緊張であれば問題ないが、顔の強張りが適度でないことを示していた。このままでは失敗するのではないだろうか。
誰か隣にいて少しでも緊張を解してあげなくてはならない。そんな気持ちに駆られる。
「あすか、ちょっと香織のところ行ってきてあげて?」
「うん? 私副部長だからそんな無責任なこと出来ないよ。……あ、それそっち置いて」
「こんな時までそう言うの?」
「そんなこと言われたってねー。それに、今あの子が欲しいのは私の言葉じゃなくて、あいつのだと思うけどね」
何となく晴香にも分かっていた。
あの極度の緊張状態を緩和させられるとしたら浩介しかいないだろう。
様子を見に行く気のないあすかにため息をつくと、晴香は滝に見つからないようこっそりスマホを取り出した。
香織は心拍数の上昇を感じる。ついに来たんだ。あれだけ練習してきたんだ。不安を取り除こうと何度自分に言い聞かせても、心臓は落ち着いてくれない。むしろ緊張が手にも現れている。
手を握って、開いて––––運動を繰り返しても震えは止まらない。怖くて仕方がない。
このままでは実力を発揮するどころでは無い。落ち着こうとするその気持ちが焦りを生んでいた。
「私は大丈夫だから、優子ちゃんは準備に向かって?」
「はい。あの、香織先輩……。応援してます」
どこか憂いを帯びた表情で応援の言葉をかけた後、優子は会場へと戻って行く。
入れ替わりにやってきたのは晴香であった。
「だいぶ緊張してるね」
「うん、これが最後のチャンスだと思うとね。手まで震えてきちゃってるよ」
「そっか……。じゃあこれ、はい」
「ケータイ?」
晴香から手渡されたスマホを受け取ると、促されるように耳を近付ける。耳からは今一番欲しかった声が聞こえた。
『香織?』
「こ、浩介?! どうして?」
『目の前にいるバカが香織が死にそうな顔してるって言うからさ』
「死にそうな顔なんてしてないよ!」
欲しかった声ではあるけど、今は部活中の筈だ。
予想外の展開に思わず声が大きくなる。
軽い混乱状態に陥っていると電話口からクスクスと笑い声が聞こえた。
『良かった。声は出てるね』
「え?」
『声が出ないくらい緊張しているなら心配だったけど、ちゃんと声が出るなら大丈夫だ』
浩介は一呼吸おくと話を続ける。
『大きいステージで、それもたった一人の演奏をみんなに聴いてもらえるなんて、もう一生ない機会かもしれないんだからさ。いつか俺に聴かせてくれた時みたいにのびのびとやってきな?』
「……人が緊張している時に簡単なことみたいに言うんだね」
『言うのは簡単だからな。でも、あの時の香織の表情はとても綺麗だった。それをみんなにも見てもらいたいんだ』
顔が急激に熱をもつのが分かる。以前、まだ付き合い始めた頃に、演奏を聴いてみたいと希望されて、誰もが知っている曲を吹いたことがある。
その時のことを言っているのだろう。確かにあの時はプレッシャーなんて無かったし、自分の好きな音楽を浩介にも楽しんでもらえたら––––そんな気持ちで吹いていた。
上手く吹かなくちゃ、失敗しないようにしなくちゃ。
緊張し過ぎてそのことばかり考えていた。でも、せっかくもらえたチャンスなのだ。聴いてくれる人に楽しんでもらえるような演奏が出来たなら、それはきっと最高の演奏になるに違いない。
『香織?』
「あ、ごめん。……うん、ありがとう」
『少しでも助けになったなら良かったよ』
「だいぶ落ち着いたよ」
『そっか。じゃあ学校で待ってるから』
「うん。また後でね」
通話を終了すると目を閉じた。大丈夫、手の震えも治まってるし、心臓の音も少し静かになってる。心の中で感謝の気持ちを伝える。
「大丈夫そう、だね」
「うん、ありがとね」
「部長ですから」
「人頼りな部長だね」
「なんだとー?」
いつも通りでいようとしてくれる晴香に幾分か心も楽になる。本当に心優しい部長だ。彼女もいつも応援してくれていたのだ。
「今なら実力以上の演奏が出来そうだよ」
「じゃあ……ソロ勝ち取ってね」
準備の続きをするから、と戻って行った晴香を見送る。
最後のお願いには頷けなかった。
ほとんど結果の分かっている対決だ。自分の我が儘で貴重な練習時間を削ってしまっている。そのことはしっかりと心に刻んでおかなくてはいけない。
そして、精一杯吹いて––––
優子には舞台に立った香織は自然体に見えた。さっきまでの緊張した顔の面影はもうどこにもない。
滝の指示により香織がトランペットを口へと近付ける。
いつも隣で聴いている音より伸びやかに聴こえる。ずっと憧れていた、いやこれからも憧れの存在。聴いているだけで涙が溢れそうになってくる。これが香織なのだと、音が証明している。
演奏が終わると誰よりも強く拍手を送る。誰にも負けていない演奏だった。ここまでならば、多くの部員が香織がソロを担当するべきだと思っただろう。
そして、麗奈の演奏が始まる。
あ、と声が漏れたのは優子だけではないだろう。香織の演奏は確かに上手かった。しかし、レベルの違いがそこにはあった。
高校に入って吹奏楽部にいた先輩はとても素敵な先輩で、一目見た時から憧れの存在だった。
容姿も整っていて、頭も良くて優しくて……そして何よりトランペットが上手だった。唯一、彼氏の浩介のことが気に入らなかったが、そんな先輩に私が懐かないはずがない。
そんな先輩が。
「……吹きません。吹けません。ソロは、高坂さんが吹くべきだと思います」
なんでそんなスッキリした顔するんですか。
先輩は諦めちゃいけないんです。
ソロは先輩が吹くべきなんです。
先輩が––––
『トランペットが好きだから』
声にならない声が溢れる。
そこには私の望んだ未来は無かった。