「浩介ー! 学校行く時間だよ!」
「今日は怠いからいいや」
予選敗退を決めた翌朝。浩介は目が覚めてからも布団の中にいた。学校に行きたくない抗議として起床を促す母の声を無視する。
別に怠い訳ではない。ただ気力がないのだ。やらなくちゃいけない筈なのに、やってはいけないと否定されたような、そんな気分であった。
ピンポーン、と来客者を告げるインターホンが鳴る。はーい、と母が対応している音が微かに聞こえた。
誰かは知らないけれど、何処の家庭でも準備で忙しいであろう朝早くから迷惑な人もいるもんだ。浩介は布団を被り直した。
「やっぱり」
部屋のドアが開いた音が聞こえ、顔だけ出して相手を確認すると呆れた顔をした香織が立っていた。もちろん制服姿である。
「どうしているの?」
「浩介のことだから、今日は学校行く気がしないとか言って休むだろうなって」
「よくご存じで」
「これでも浩介の彼女やってるからね。ほら起きて学校行くよ?」
有無を言わせず香織は布団を引き剥がしにかかる。幸か不幸か自宅まで迎えに来た彼女を追い返せるほど浩介の肝は座っていない。渋々ではあるが布団から這い出ると何とか気持ちを切り替えた。
制服に着替えるためにパジャマ代わりに着ていたジャージを脱いでいる途中で香織が見ていることに気付く。とっくに部屋から出ているものだと思っていたけれどずっと視線を送り続けていたようだ。
「着替えるけどそこにいるの?」
「見てないとまた布団に逃げ込むかもしれないからね」
別に今さら裸を見ても恥ずかしいとかは無いのだろう。ここで無駄に時間を費やすと登校時間に間に合わずに遅刻してしまう。そう判断し着替えを続行する。が、視線を外しながらもチラチラと見てこられると流石に気になってくる。
「ちゃんと着替えるから恥ずかしいなら部屋の外にいなよ」
「は、恥ずかしくなんかないよ!」
「顔を赤くして言っても説得力ないからね」
結局香織を部屋の外に追い出し着替えを済ませる。机の脇に置いてあるバッグを持つとドアに手を掛け、ふと立ち止まる。
振り返った視線の先には練習用着が置いてあった。いつもなら忘れずにバッグに入れているもの。何故だろう、今日に限って過去の思い出の品のように見えた。いや、きっと気のせいに違いない。
「今日はいいや」
言い訳するように一人呟くと部屋を後にした。
「それで今日は一緒に来たのね」
「小笠原からも後で香織に何か言ってくれよ」
「良いじゃん。毎日迎えに来てもらえば?」
「何でだよ」
廊下で香織と別れ教室に入ると、そこで待っていたのは晴香であった。教室の窓から二人して登校している様子を見ていた晴香の口元はニヤけている。
「もう少ししたらオーディションがあるだろうに。俺に構ってる暇なんかない筈だろ」
「もし進藤に構っていて練習が疎かになっていたなら私からも言うけど、現状しっかりやってるし、リーダーとしてもパートを引っ張っているからね」
暖簾に腕押し状態の晴香にため息をつく。今の状態では何を言っても流されるのだろう。
「今日は一緒に帰るの?」
「ああ、何か行きたい所があるって言われて」
「そっか」
浩介は机に突っ伏す。もう会話は終わりの意思表示であることは晴香にも分かった。
きっと香織は気持ちを伝えるつもりだ。今の気持ちを正直に。
それを受け取って目の前の天邪鬼がサッカーを続けるのか、あとは香織次第。
晴香は親友の成功を祈っていた。
***********************
教室にいると視線を感じる。
サッカー部の二回戦での敗退は学内でもそれなりに大きな話題になっていた。クラスメイトは詳細を知りたいけれど、昨日の今日で傷心気味の部員に聞くことはなかなか出来ない。浩介をはじめとしたサッカー部員にそわそわと視線を送っていたことは浩介自身分かっていた。
ただ、今は特にその話題には触れられたくない。そのために学校を休もうと思っていたくらいだ。
自由な時間が生まれる昼休みに入るとかき込むように昼食を済ませ、視線から逃げるように教室を出た。
珍しく外にはほとんど人影はなかった。天気は良いのにベンチで弁当を食べている人もいない。浩介としては有難かった。ベンチに腰掛け後ろに倒れるようにゴロリと寝転がる。空の青さが先ほどまで教室で感じていたストレスを吸い取ってくれる。青い光には浄化作用があるのかもしれない。
思えば最近はあまり一人の時間はなかった。香織であったり、サッカー部のメンバーであったり……。誰かしらと一緒にいることが多かった。それは嬉しいことではあるけど常に誰かが––––特に部員やクラスメイト––––横にいることにどこか息苦しさも感じていた。もちろん別に嫌っているわけではなく、ただ面よりも点で付き合っていた方が精神的に楽な性格なのだと自分では考えている。
今後は部活も辞めるし、そうすれば自ずと一人の時間は増えるだろう。
心地よい風に髪が揺られるのを感じながら浩介はゆっくり目を閉じた。
授業に集中していたせいか、放課後が来るのは意外と早く感じた。事務的なホームルームが終わると急ぐように浩介は教室を後にする。
結局最後までクラスメイトの視線は感じたままであった。今の自分の心境であの空間にいるとストレスがたまっていく。しかしそれも数日もすれば段々と興味がなくなってくるはずであり、きっと今だけの辛抱だ。
廊下に出るとちょうど教室から出てきた香織とかち合う。香織は浩介を見つけると顔を綻ばせた。
「部活が終わるまで待たせることになってごめんね?」
「大丈夫だよ。部活頑張ってね」
「うん!」
羨ましい。部活に向かう香織の後ろ姿を見て思う。
まだ部活に取り組めることがどれだけ幸運なことか、知らない学生は多いのだろう。
いや、昨日までは自分もその一人だった。終わって初めて気付くことが出来た。当たり前になっていると、その大切さが分からなくなっているのだ。
そんなことを誰かに言ったならば、きっと冬まで続ければ良いと言われるかもしれない。でも、そう簡単に割り切れるものではない。
だから引退するのだ。昨日一晩中考えて、そして出した結論。後悔はあるけれど、もう次に進むべきだ。
だから羨ましいなんて思ってはいけない。
頭を振ると浩介は図書館へと向かった。
「待たせてごめん!」
香織と別れてから二時間くらいの間、あまり勉強には集中出来なかった。いや、ほどんどの時間を勉強に費やせていない。終始ただボーッとしているだけの時間になってしまっていた。
せっかくの時間を無駄に消費してしまった自分に若干の腹立たしさがあるものの、それを香織にぶつけてしまうことのないよう大きく深呼吸をする。
約束の時間になったため昇降口で待っていると息を切らせながら香織がやってくる。少し予定より遅く終了したことの罪悪感が彼女を音楽室からここまで走らせたようだ。
「そんな走らなくても良かったのに」
「そんな訳には行かないよ」
息を整えると浩介の手を引いて歩き出す。特に行き先は伝えられていない。聞いても答えてくれないなんて香織がこんなに強引なのは久しぶりな気がする。
目的地に向かう途中、意識しているのか香織はサッカーの話題については全く触れなかった。吹奏楽部の話題もあまりすることがない。部活のことについても話題にすることを遠慮しているのかもしれない。徐々に背景はオレンジ色から黒へと移り変わっていく。街灯がなければ浩介から香織の顔色を伺うことは難しい。
「それで今日はどこに行くの?」
「それは着いてからのお楽しみだよ」
「こっちってお店何もないし……、ご飯って訳でもないか」
本当に到着するまで教えるつもりはないようだ。
何が目的か、それすら分からないが今までに感じたことがないくらいには香織は真剣であった。隠しているつもりかもしれないが表情も固い。
さらに数分歩いたところで目的地に到着した。
「あー、結構久しぶりに来たな」
「うん。最近はこっちの方に来ることなかったからね」
そこは公園であった。学校の近くの方の公園ではなく、学校からは少し歩いたところにある遊具もブランコくらいしか置いていない小さな公園。
––––そして、二人の思い出の場所である。
一年生の秋。
浩介はこの公園で香織に告白した。あの時の緊張感、フラレるかもしれないことへの恐怖感は昨日の事のように記憶に刻まれている。
それは一生忘れることのない大切な記憶。
「それで、どうして急にここに連れてきたんだ?」
「私と浩介はここから始まったから。ここが私たちのスタート地点。そして、今日これからのスタートを切るために」
これからのスタート。浩介にはそれが何を意味しているのか分からない。視線で続きを促した。
香織は一つ深呼吸をし、グッと手を握る。
「私は全国に行く」
それは香織の告白。
浩介に気持ちを伝えるための告白。
「……本気で言ってるの?」
浩介は香織の真剣な顔に本気を感じていた。
そして気付く––––香織が断言したのは今回が初めてのことに。
「今までは行けたら良いなとか、行きたいな……。そんな風にしか言えなかったの。それは吹奏楽部が去年みたいにならないように、何も起きなければ良いと思っていたから」
でも、と香織は続ける。浩介は香織の目から視線を外すことが出来ない。
「この前気付いたんだ。私は浩介の隣に立っていないって」
そんなことはない。
浩介は断言できる。むしろ前を行く香織に追い付かないといけない。そう思っていた。
「私は浩介の隣に立ちたい。浩介が私を支えてくれたように、私も浩介を支えたい。そのためには同じ景色を見なくちゃいけない」
吹奏楽部のみんなと一緒に頑張って全国に行きたい。もちろんその思いも強い。ただ、それ以上に浩介と同じ景色を見たい。同じ景色を見れたなら、気持ちが––––嬉しさや悲しさ、悔しさがもっと分かるかもしれない。
「だから。……だからね、浩介もサッカーを続けて欲しいの」
「俺は……。サッカー部を引退する。もう決めたんだ」
「駄目」
「決めるのは俺だ。俺が辞めるって言ってるんだよ」
「駄目」
「なんで!」
浩介は声を荒げる。香織に対し語気を強めるのは思えばこれが初めてかもしれない。大きな声に香織の肩が跳ねる。
「だって……、浩介が辞めたくないって言ってる」
「そんなこと––––」
「ある! 私は浩介の彼女だよ?! それくらい分かるよ!」
香織も負けじと声を張り上げる。
その勢いに浩介は怯む。もしくは本心を突かれたことによるものか。
「辞めちゃ駄目だよ。一生後悔する」
「俺だって本当なら続けたいよ……」
浩介の目から涙が溢れる。我慢していた想いが溢れる。
何も考えずに続けられたのなら、どれだけ楽なことか。
「でも三年だから、行けるか分からない全国のために時間を使うより、将来のために引退して勉強に取り組んだ方が良いんだよ」
「そんな将来に生きる浩介に魅力はないよ」
香織は浩介の手を取る。浩介の手は予想以上に冷たくなっていた。その手を暖めるように、両手で優しく包み込む。
「今を全力で頑張れない浩介は嫌い。私はサッカーに全力な浩介に心惹かれたの」
初めて浩介の試合を見た時の胸の高鳴り。振り返るとあの時から浩介に惹かれていた。
「悔いはない、そう思えるくらいサッカーやるべきなんだよ。次のステージに進むのはそれからでも遅くないよ」
「……人の人生を勝手に決めるんだな」
「私たちの人生だもん。私の意見も聞いてくれて良いと思わない?」
香織は笑っていた。笑っているのに泣いていた。
怖かったのだ。
今日伝えることは全て自分勝手なこと。もしかしたら呆れられるかもしれない。それこそ別れ話をされるかもしれない。
それでも香織は自分の意見をぶつけた。
前を向けない浩介なんて嫌だ、その想いを伝えるために。
「ハハハ……。なんだよそれ」
浩介から乾いた笑いが漏れる。
怒らせたか、呆れられたか。香織は俯向く。
しかし予想と裏腹に香織の頭に暖かい感触を感じた。
恐る恐る顔を上げると、それは浩介の手であった。
「香織にそんなこと言われたら辞められないわな」
「え……」
「まったく……、彼女にここまで言わせないと気付けないなんて情けないよな」
「じゃあ……!」
「うん。サッカー続けるよ。冬の全国目指す」
ありがとう。
浩介の言葉に香織の緊張は切れた。
涙が止まらない、声が漏れる。浩介の胸に顔を当てると気持ちをぶつけた。
––––そして二人は新しいスタートを切った。
こんなに熱い香織もマジエンジェル