「ねえ、一緒に行こ? 一人じゃ心細いんだ」
「うーん……。分かったよ」
ありがとう、と喜ぶ友達を横目に香織はため息をついた。別段サッカー部の試合に興味はないし、生まれてこの方サッカーの試合をちゃんと観た記憶などほとんど無い。親がスポーツ番組を好んで視聴する訳でもないために、ニュース番組のスポーツコーナーで少し触れる程度だ。
日本でワールドカップが開催されたのもまだ物心のつく前、赤ちゃんの頃の話になる。
来週、サッカーの府大会予選があるという。何でも北宇治高校のサッカー部の三年生にカッコいい先輩がいるから観に行きたい。内心せっかくの日曜日を潰して行きたくはないが、もしかしたら良い気分転換になるかもしれない。香織はそう判断し了承した。
そして、その判断は間違っていなかったことになる。後々振り返った時にそう断言できるものであった。
「まだ試合前の練習始めたところみたい! 間に合って良かった!」
試合会場に着くと両チームとも試合前の練習をしているところであった。時間を確認すると試合の開始時刻までは少し猶予がある。
早速お目当の先輩を見つけてキャーッとテンションを上げる友達に苦笑いしつつ、ぼーっと練習の様子を見ていると一人見知った顔があった。
「ねえ、今練習している人たちは試合に出る人だけ?」
「えっとね、最初から試合に出る人はあの中の11人だよ。ただ今練習している人たちは大会にメンバー登録されている人だけのはず」
「一年生で大会に出られる人もいるんだ……」
「え?! 一年生もいるの?! どこどこ?」
「あの15番の人。違うクラスだけど。確か進藤くんって言ったかな」
「ふーん、カッコ良くないね。やっぱり先輩だよ!」
この友達は応援する対象を容姿で判断するらしい。いや、もちろんそれだけではないのだろうけど。それくらい理由が明確でないと応援は続けられないのかもしれない。
香織は再度浩介を見た。この前晴香と三人で公園に話した時に、サッカー部に所属していると聞いて驚いたことは記憶に新しい。本人も初対面では、サッカーをしている人間にみられることはないとのことだ。そんな浩介が一年生ながら大会のメンバーに選ばれている。彼には驚かされてばかりかもしれない。
ピーーッ!
ホイッスルが鳴り響く。そろそろ試合が始まるみたいだ。両チームの選手がベンチに戻り試合に出場する選手たちがユニフォーム姿になった。まだジャージ姿のままでいるということは、浩介は試合の始めからは出ないらしい。まだ一年生だ、ベンチには入れても試合には出ない可能性もある。
予想通りか予想に反してか、香織には分からないけれど試合は膠着していた。友達の話では相手は去年の大会でベスト8の強豪とのことだ。強豪校が相手ともなれば北宇治高校が負けてもおかしくないために、この試合はどうしても観たかった。その言葉から簡単には勝つことのできない相手のようだ。
両校ともに一進一退の攻防を繰り返しているが、どちらもゴールを決めることが出来ずに前半を終えた。サッカーにそこまで興味はなかったが、いつの間に手に力が入っていたことに気付く。意外にミーハーなのかもしれない。そんな自分に笑ってしまう。
「あれ? うそ……」
試合について友達に色々聞いていると、そろそろ後半が始まるために選手がグラウンドへと戻っていく。その中に15を背につけた浩介の姿もあった。
こんな緊迫した展開の試合に一年生で出場する。つまりは実力が拮抗している中に入って、もしそれが劣っているのであれば試合に負けてしまうかもしれない。果たしてどれだけの緊張があるのだろうか、他人事なのにまるで自分のことのように心臓が高鳴る。
浩介はコートの真ん中辺りに立っていた。友達によるとそのポジションは攻撃と守備の両方をバランス良く担当する人らしい。一年生だからか、他の選手より細身に見え、簡単に倒されたりしないか心配になってくる。
しかし、その心配は無用とでもいうように浩介はプレーをしていた。
香織はずっと浩介を目で追っていた。いや、それは多少語弊がある表現だ。正確にはボールのある所に浩介がいることが多い。
浩介がボールを持つと北宇治高校の選手––––特に攻撃をする人たちが一斉に動き出す。浩介はその中で相手が近くにいない選手にパスをしている。
「あの15番すごいな」
「ああ、15番がポイントに顔を出して形を作ってる」
「パンフに載ってるけど、こいつまだ一年か。久しぶりに立華倒すとこが出てきたんじゃないか?」
後ろにいた観客の会話が耳に入ってくる。話によると浩介が攻撃を組み立てているらしい。香織にはサッカーのことは全くもって分からないが、浩介がボールを持って他の選手を動かしている––––それはまるで演奏する時の指揮者のようであった。
大げさな表現かもしれないが、香織の目にはそう映っていた。
そして、試合の均衡を破ったのは北宇治高校であった。浩介のパスをコートのサイドで受け取った選手がさらに相手のゴール前にパスを出し、それを攻撃の選手が放ったシュートがネットを揺らした。
「キャーッ! 先輩!」
ゴールを決めたのはお目当の先輩だったみたいだ。友達ほどではないが香織も自然と手を叩いていた。友達と目が合うと自然とハイタッチしていた。
サッカーってワクワクする。それとも同じ一年生が頑張っているからワクワクするのか。まだ香織には判断出来ない。でもこの胸の高鳴りは本物で、目はただ浩介を追っていた。
「いやー! よかったね! これでまだ先輩の夏は続くよ!」
観客席に向かって挨拶をする選手たちに拍手を送る。試合はそのまま北宇治高校が一点を守りきり勝利した。選手達が喜びを爆発させている姿が今日の試合の激しさを印象付けていた。
「初めてちゃんとサッカーの試合観たけど……。うん、とても面白かったよ」
「でしょ?! また次も行こうよ!」
「予定が無かったらね」
前に浩介と話した時はそこまで印象に残るタイプではなかったけど、香織は話を聞いてみたいと思った。彼には試合中どのような視界が見えているのだろう。
––––今思うとこの時、初めて浩介に興味を持ったんだ。
「悔しくない筈がないのに……!」
香織は涙が止まらなかった。
香織はあの日から知っている––––どんなにサッカーが好きなのか、どんなに辛い思いをしていたのか。
私は知っているんだ。浩介の喜びも悔しさも、全て隣で見てきたのだから。
私はそんな浩介が好きなんだ。
「このまま引退するなんて嫌だよ……」
辞めてほしくない。身勝手な考えかもしれないけど、このままなんて良いはずがない。浩介にとっても、そして私にとっても。
「じゃあ私にしてくれたように、進藤にも香織の気持ちをぶつけるべきだよ」
「晴香……」
晴香はハンカチを差し出した。マドンナに涙は似合わない。似合うのは笑顔だ。
「私は香織の言葉がとても嬉しかったし、とても助けられたよ? だから今も部長を続けていられると思ってる」
「でも、顔見て思ったけど決意は固いと思う。私の言葉は届くのかな……」
「届きます! 香織先輩の気持ちが届かないはずないです!」
「優子ちゃん……」
「私だって! 私だって進藤先輩にはもっとサッカーやってほしいです……」
ありがとう、香織は涙を拭うと笑った。親友と後輩に励ましてもらって、いつまでも泣いている訳にはいかない。
まずは浩介に気持ちを伝えよう。素直な想いを伝えるんだ。
ハンカチを強く握り締めた。
「あ、それ私の……」
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「まずはお疲れ様。……正直なところ、俺には予想外だった。お前らならもっと上まで行けるとは思っていた」
サッカー部顧問山田は部員を見渡した。顔を上げている部員は誰一人としていない。
「お前らは弱かった。精神的に弱かった。全員自覚しているはずだ」
敢えて厳しいことを伝える。ここで慰めの言葉など成長に繋がらないと信じて。
「三年生は予想以上に早い夏の終わりになった。今後のことをまだ考えられない者も多いだろう。引退するのか、冬まで続けるのか、七月までに結論を出してくれ」
冬までサッカー部に残っていると受験勉強の本格的な始動が遅れるために、夏に部活を引退する三年生は毎年一定数存在する。年によってはレギュラー組の半数以上が引退することもある。
決してサッカーだけが人生ではない。
「俺は引退すると決めたなら、その決断を尊敬する。辞めることは恥でも逃げているでもない。それだけは先に伝えておく」
では解散。一、二年生は今後の話があるから残れよ。
山田の解散の言葉に動ける部員はほとんどいなかった。悔し涙を零し、すすり泣く音が部室内にイヤに響いていた。
「失礼します。進藤戻りました」
静寂を破ったのは病院から戻ってきた浩介であった。まだ頭には氷嚢を当てている。部室内のあまりの沈み様に戸惑いが見える。
「進藤戻ったのか」
「はい。とりあえずは異常はなく大丈夫でした」
「そうか。……進藤から部長として一言あるか?」
「一言ですか?」
浩介は数秒の間思案する。
「一つは感謝です。こんな俺についてきてくれてありがとう。佐藤先輩みたいに上手くまとめられなかったことは後悔ですが、それでもみんなはついてきてくれた。それはとても嬉しかったです」
浩介は一区切りし、氷嚢を強く握る。
「もう一つは謝罪になります。試合を途中でリタイヤすることになってすみませんでした。たら、ればの話はするべきではないですが、俺がしっかりしていれば防げた事故だと思います」
深々と頭を下げる浩介に誰もが反応出来なかった。
グラウンドで練習する野球部の掛け声がかすかに聞こえる。
「以上です」
「ありがとう。進藤は今後どうするか決めているか?」
「まだ考えていないです。ただ、キャプテンはもう二年生に譲るつもりです」
––––そんな!
––––まだ辞めないで下さい。キャプテン続けて下さい。
部員の、後輩の言葉が次々と挙がる。それはとても嬉しい意見だ。浩介は優しく微笑んだ。
「どちらにしろ夏が終わったらキャプテンは譲るつもりだったんだ。このままだと冬も同じ結果になり兼ねないからね。俺は後方からサポートする役目になろうって」
その言葉に下級生は言葉を続けることはできない。
まだ蝉も鳴き始めていない時期。こうして北宇治高校サッカー部の夏は終わったのだった。