「黄前ちゃんは、なんでそこまでカトちゃんのことを気にしているの?」
今日は珍しくサッカー部の練習が休みであり、浩介は図書館で勉強をしていた。ひと段落がつき、思い出したようにスマホを確認すると、そろそろ吹奏楽部の練習も終わる時間である。置きっ放しにしていた荷物を取りに行くために教室にたどり着いた時、中から声が聞こえてきた。まだ練習は終わっていなかったようである。
久美子は、あすかの問いに過去の自分を思い出していた。楽器に初めて触れたのは小学四年生の時だった。
「楽器を始めたばかりで、上手くいかないのって周りが思っている以上に辛いと思うんです」
昼休みに先輩たちにチューバの話を聞いて回ったそれは葉月のことを思っての行動であった。浩介自身、内容は軽くしか聞いてはいないが、元々葉月は希望してチューバ担当になった訳ではないらしい。
言い方を選ばないでチューバを表現するのであれぱ、それは地味で目立つことない楽器。トランペットを希望していた彼女からしたら正反対と言ってもいいかもしれない。
ふと疑問に思ってしまう。そこに葉月は魅力を感じているのであろうか、と。
「だから吹くことの楽しさを伝えられたら良いなって。じゃないと、せっかく音楽やっててもつまらないですもん」
久美子は過去の自分を葉月に投影していた。
音楽に限らず、芸術であってもスポーツであっても同じなんだな。浩介は扉に背をもたれるとスマホを取り出した。
画面には昔使っていたケータイから転送した画像が映し出されていた。まだ、サッカーを始めたばかりの頃の画像。
『ほら、右足だけじゃなくて、左足も使って』
父から何度も言われた台詞。
ボールコントロールの基本練習であるリフティング。地面に落とさずに何度もボールを蹴り上げるそれは、サッカーを始めたばかりの浩介が非常に苦しんだものであった。
利き足である右足のみ使ってなら数十回は続けることはできるが、左足を交えた瞬間に、何故か思い通りにボールコントロールができなくなる。何度取り組んでもできるようにならない。十回を超えることが出来ず、脇へとボールが逃げていく。
悔しくて、でもできるようになりたくて。泣きながら日が暮れるまでずっと挑戦していた。
サッカーの練習で泣いたのは後にも先にもこの時だけである。
その泣きながらリフティングをやっている画像は、浩介が苦しい時、悔しい時に、この時以上に悔しいことはなかったはず––––そう自分を奮い立たせるためのツールとなっていた。
親は笑ってカメラを向けていたが、この時は本当に悔しい思いで溢れていたことを昨日のように覚えている。
––––上手く出来ないことは、周りが思っている以上に辛い
浩介は痛いほど知っている。いや、何事であっても経験者ならみんな知っていた筈だ。いつの間にか忘れてしまっているだけで。
久美子も葉月を見ていて思い出したのだろう。だからこそ音楽の楽しさを知ってもらいたい。その気持ちは尊いものだ。
「俺はやっぱり合奏した時かな」
「それだ!」
本人も無意識だったかもしれない、後藤の何気ない一言がこの後の方針を決定した。
香織は浩介がいるであろう三年三組の教室に向かっていた。今日の部活も無事終わった。葵が抜けた後、少し雰囲気も落ち込んだものになったが、徐々に部員も気持ちに区切りをつけられるようになり、オーディションに向け頑張り始めている。
トランペットパートのみんなも一層練習に励んでいる。それこそ誰が選ばれてもおかしくない。全員が危機感をもって練習に取り組んでいた。
階段を上がった廊下の先に浩介が一人黄昏ていた。黄昏ているという表現は香織の視点での贔屓目だ––––良い表現かは知らないけど。実際はぼーっと立っているだけである。どうして教室の前に立っているのだろうか。夕陽が差し込んでいるために遠くからではその顔色を判断することは難しい。
「こうす––––」
呼び掛けようとしたところ、こちらに気付いた浩介が人差し指を口に当てた。静かに、ということらしい。
香織は浩介の隣に移動すると声を潜める。
「どうしたの?」
無言で教室の中へ視線を送る。ソッと覗くと、久美子、葉月、緑輝がいた。既に吹奏楽部の練習は終わっているのに各々が楽器を持っている。自主練をしているのだろうか。
「上達すればするほど練習って大変になるよね」
浩介が独り言のように呟く。遠い目をする彼氏の言葉を香織は遮ることなく静かに耳を傾ける。
「時々さ、何でこんなに辛いことやってるんだろうって思うことがあって。怒られて、ひどい時は怒鳴られて……。何のためにサッカーしてるんだろうって」
教室の中から音が生まれる。たどたどしい部分はあるが、優しさを、楽しさを感じさせる。一つの楽器の音が他の楽器の音と合わさることにより一つの楽曲となる。教室が小さなコンサートホール、観客席には二人。チラリと覗くと笑顔の葉月がいた。
「でも。結局は好きだから、楽しいから続けてるんだよな」
「そうだね……。楽器を始めたばかりの頃の楽しさってこういうものだったね」
香織は頭を浩介の肩に預ける。静かな空間に心地よい音楽が流れ続けていた。
県祭り。毎年六月に行われるその祭りは、文字通り県神社にて行われる。
吹奏楽部内では誰と祭りに行くか、その話題で盛り上がっていた。
気になる人を誘おうとする人、いつもの友達たちと行こうと約束する人、あまり祭りには興味のない人……。三者三様と言ってもいい部員たちの雰囲気を余所に香織はため息をついていた。友人の珍しい姿に晴香は首を傾げる。
「香織? どうしたの?」
「いや、ね……。みんなお祭りの話で楽しそうだなって」
「香織は進藤と行くんでしょ?」
香織の顔に陰が差した。その表情を見て、晴香は地雷を踏んだことを悟る。
「ちょうど大会の予選が県祭りの日なんだって」
「あ、そうなんだ。……あれ、でも去年も試合あったけど、一緒に祭り行ってたよね?」
「去年は第一試合だから午前中には終わってたの。今度は第二試合で、試合会場も遠いみたいから少し遅れるかもって」
一つの会場では一日に二試合ほど行われる。今大会のスケジュールでは、二試合目が終わるのは午後四時くらいになるらしい。それなら問題なく間に合う気もするが、香織としては祭りの始めから一緒にいたいみたいだ。
「まあ、でも少しの遅れで良かったってことにしとこ?」
「晴香は彼氏いないからそういうことが言えるんだよ」
「喧嘩売ってるのかコラ」
腕を捲し上げると香織は呆れたようにため息をついた。駄々をこねる子供を見るような目つきである。
「浩介が来るまで一緒にいてあげるから、それで良い?」
「いやいや。なんで私が、進藤が来るまでの繋ぎ役にされてるの」
「え?」
「純粋にハテナ出されても意味分からないからね?」
頭痛がしてきたのは気のせいだろうか。晴香は眉間に手を当てた。何かドンドン香織が遠い存在になっていく。この前励ましてくれた香織は幻だったのだろうか。
元々あすかや他の人と祭りに行く予定ではあるし、途中まで香織が一緒にいることには何の問題もない。
「まあ、いいや。じゃあ、駅前に六時とかで良い?」
「大丈夫だよ」
「あすかにも伝えとくね」
香織と別れあすかの元へ行こうとし、ふと疑問が頭に浮かぶ。サッカー部の予選は一発勝負である。あたかも試合に勝つことを前提に話を進めているが、負けた場合は祭りはどうなるのだろう。
とりあえず凄く面倒なことになる気はする。また胃が痛くなるから考えないようにしよう。
晴香は自分に言い聞かせると頭を振った。
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県祭り当日。宇治駅周辺は祭りに向かう人で賑わっていた。浴衣というと夏祭りのイメージが通常だが、意外にも浴衣を着ている人もそれなりにいるみたいだ。駅から神社へと伸びていく人の道しるべは夜に足を踏み入れても途切れることがない。
浩介は大きなポストの近くにいる香織を見つけ近寄った。普段より人が多くとも、浩介にとって香織を探し当てることなど造作もないことだ。
「ごめん、待たせた」
「遅いよー」
謝る浩介に頬を膨らませる。実際はそこまで怒ってはいないが、構ってもらいたくて、そういう態度を取ってしまう。
浩介もそれを分かっているのだろう、膨らませた香織の頬を指で突き遊んでいる。
「許してくださいな」
「もう!」
突いてくる指を払うとそのまま手を掴む。こうしているのも楽しいけれど祭りの時間は有限だ。早く行かないと祭りを楽しむ時間が減ってしまう。香織は浩介の手を引くと人混みへと進んで行った。
道の両脇には様々な屋台が並んでいる。射的や金魚すくいなど祭りの定番の屋台がひしめき合い賑わいを見せていた。チラホラと学校の生徒もいるらしく、時折顔が合うと手を振る。教室で顔を合わせる時とは異なる何処かくすぐったい感じが香織は嫌いではなかった。
祭りの独特な雰囲気の中、香織は屋台には目もくれず歩みを進める。屋台に立ち止まらない理由、香織の向かっている先を浩介はなんとなしに予想はできていた。
県神社。
浩介はこの神社が何を祀っているのか知らない。もしかしたら近辺の小学校などでは学ぶのだろうか。浩介自身、去年香織と付き合い始めてから初めてお参りをした。今年もまず始めにお参りを済ませるのだと結論づける。
「私はさっきあすかと晴香と済ませたんだけどね」
「そうなんだ。ちなみに何をお願いしたの?」
「オーディションが上手くいきますようにって。そしたらそれは神様に頼ることではないって、あすかに言われちゃった」
浩介もあすかに同意する。もちろん運は大切な要素であるけれど、何よりもまず実力をつけることが第一だ。そして実力は取り組めば取り組むほど身につくものだ。
「えっと、十円あったかな」
「浩介は何をお願いするの?」
「こういう願いは口にすると叶わないっていうから内緒かな?」
「私は言ったのに」
口をとがらせる香織を横目に、浩介は賽銭を入れた。二礼二拍手一礼。
––––これからも香織といられますように。
頭を上げると香織の方を振り向く。特に言及はしていなかったが、香織は普段着であった。先ほどチラリと人混みにいた後藤カップルは浴衣を着ており、実際浩介も自分のことは棚に上げつつも香織の浴衣姿を心の何処かで期待していた。
彼女の浴衣姿は夏の花火大会に期待しよう。そう心に言い聞かせると香織の頭に手を置いた。意味はないが、いつの間にか癖になっていた。香織が嫌がらない––––むしろ喜んでいることも一因なのだろう。さらさらと指の間から艶のある髪の毛が流れていく。
「お参りも終わったし、じゃあ行こっか」
「うん」
今が一番幸せかもしれない。たかが十数年間しか生きてないくせに、そう言われるだろうけど、今はそう言える。隣で笑う香織を見て再認識した。