自然愛好家は巡る   作:コロガス・フンコロガシ

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未だに「俺の頭がおかしくなった」と悩むブルー・プラネット。


第7話 不安と望郷

 食事をしていないのに腹が減らない――これは「腹が減った」以上に深刻な問題だ。生理的欲求が認識されていないということなのだから。

 

 考えてみれば、喉も渇いていないのだ――今朝の幻覚以外には。

 昨夜ログインしてから本物の水を飲んでいない。ユグドラシル標準時を示す時計では、もう12時を回っている。この時刻は現実の日本標準時と同じだ。ユグドラシルの9つのワールドは常に真昼であったり、逆に常夜であったり、あるいは昼夜が逆転していたりといったバリエーションがあり、プレイ中に時間を忘れて現実の生活に支障をきたさないよう、標準時が用意されている。

 

 12時間以上飲み食いしていないのに、喉の渇きすら感じないのは異常すぎる。

 そして……考えたくなかったことだが……トイレの感覚もない。終了前にちょっと挨拶をするだけだと考えてアダプターも付けていないまま来たのだから、これも異常事態だ。

 ユグドラシルのシステムでは、空腹感も喉の渇きも、そして排泄欲も、隠蔽されることは無い。

 生きていれば当然生じるはずの感覚が無くなっていることは、脳へのダメージがユグドラシルのナノデバイスが影響する範囲を超えて広く深刻なものになっている可能性を示唆している。

 

「おいおい……治るんだろうな?」

 

 ユグドラシルにおいてプレイヤーの思考をトレースし、フィードバックを行うのは脳に取り込まれたナノデバイスによる。それは時間が経てば自然に排出されることになっており、異常が起きてもナノ医薬によって取り除けるということになっている。

――研究所の仲間たちなら鼻で笑うだろうが。

 

 この時代においても脳の働きは完全に解明されたとはいえず、ナノデバイスの動態には未解明の部分も多い。注入されたデバイスの効力が時間とともに減っていくことは確かだが、それは体外に排出されたことを意味しない。分解されたナノデバイスの残骸が脳に付着しているという論文もある。

 

 脳に残った残骸のせいで食欲が湧かないのだとしたら――

 水を飲むことも、トイレすら忘れるようでは――

 

 楽観的なブルー・プラネットもさすがに不安を強める。

 意識を取り戻したとしても、まともに生活できないのではないか、と。

 

(視覚や聴覚の昂進は、ナノデバイスの排除に関与するミクログリアの異常で脳細胞が活性化してしまったことに起因するのかも知れない……)

 

 ブルー・プラネットはそんなことを考え、どう対処すべきかに悩む。

 自分は脳科学については素人だ。専門家がいてくれれば――そう考えて、もう1つの重要なことに気が付く。

 

 無断欠勤なのだから9時と10時に自室に連絡が入るはずだ。

 それから2時間以上経っているのだから、現実世界の体はとっくに確認されて医療機関に搬入されているだろう。

 ユグドラシルのサービス終了時には他にも多くのプレイヤーがいたはずで、彼らが同じように意識を失って幻覚を見ているなら、昨夜から大騒ぎになっていると考えられる。

 

 ならば、現実では医療機関で処置を受けているのに、この幻覚が続いているということだ。

 様々なチューブが接続され、脳に電極が取り付けられて医者たちが必死にショックを与えている自分の姿が思い浮かぶ。

 点滴で水分や栄養が補給されているならば、喉の渇きも食欲も湧いてこない理由になる。その場合、脳は無事なのかもしれないが、意識が戻らないことに変わりはない。

 

「まさか……治らねぇのかな……」

 

 ブルー・プラネットは肩を落とす。菩提樹に肩があればの話だが。

 

「ユグドラシルの親会社が賠償して、それで……」

 

 入院が続けば医療費だって膨れ上がる。ユグドラシルの経営母体は対応してくれるだろうか?

 あくまでゲームタイトルが1つサービスの終了を迎えただけで、会社自身が潰れたわけではない。おそらくは入院費は出ているだろう。何人の犠牲者が出たかにもよるだろうが。

 

「まさか、一生、この世界の中で!?」

 

 恐ろしい可能性が突如として目の前に突きつけられる。

 この風景は美しいが、他の人間がいないこの孤独な幻覚の中で過ごさねばならないのか?

 妄想であっても会話の相手が欲しい。

 

 妄想であっても――試しに念じてみる。何度も繰り返しイメージしたものを。

 

「胸のおっきな、眼鏡っ子、来い!」

 

 ほら来い……来るぞ……『広くーん、遅れてごめんねー』って。

 お弁当のサンドイッチを詰めたバスケットをもって……来てくれ……

 

 アインズ・ウール・ゴウンのアニメ上映会で見た風景だ。若者たちが緑あふれる公園でピクニックやデートをするのが当たり前だったという、そんな人類の黄金時代に作られた名作アニメのワンシーンを思い出す。

 

――だが、何も起きない。

 

 落胆し、ブルー・プラネットは1つの仮説を立てる。この妄想世界はユグドラシルの世界が脳に焼き付いて生まれた可能性が高い。この世界に顕現する物体は自分の空想ではなく、ユグドラシルに登録されたものに限るのではないか、と。

 如何に理想の女性を思い描いても、それがユグドラシルで実体が無ければ現れないのだ。

――ならばこの見慣れない風景は何かという疑問は残るが、それは別のワールド由来だと考える。

 

「ベルー、来てるかー?」

 

 現実世界でもユグドラシルでも仲の良かった友人の姿を思い浮かべ、<伝言>を送る。

 何の反応も無い。

 

 本物のベルリバーが現れることは期待していなかった。もうユグドラシルは終わったのだから。

 しかし、ユグドラシルの幻影ならば――せめて友人の幻影でも現れるかと期待したが、それも無理のようだ。

 ブルー・プラネットは溜息をつき、困惑して天を仰ぐ。

 

 召喚モンスターは現れるのに、人間は無理か……?

 魔法もスキルも再現できるのに、ギルドの友人は再現できないのか……?

 土の中の蟲さえいるというのに……一体、何がどうなっているんだ?

 

 あらためてブルー・プラネットは自分の設定を振り返る。何か原因を探るヒントが見つからないかと期待して。

 

 種族はトレントを基本とするプレイヤー向け上位植物系異業種「邪霊樹の影(イビルツリー・シャドウ)」。そして、クラス(職業)はドルイド系の「聖森の守護者(フォレスト・ガーディアン)」と薬師・秘術師系を取っている。

 この「聖森の守護者」というクラスは、植物系異形種かつドルイド職でハイ・ドルイド以上のクラスを修めた者が森林系ギルド長になったときに転職できる特別職だ。

 

『死せるドルイドの魂は深淵の真理に触れ、愛する森を守護する精霊へと転生した。その全能たる大地の魔法は、聖なる森を冒す者達に大いなる災厄をもたらす』

 

 そんな感じの説明がついていたな、と思い出す。

 ドルイド職として最高レベルとみなされ、ドルイド魔法の第10位階まで使うことが出来る。実際には31レベルしかなくても100レベルのドルイドとして300種類以上の魔法を使うことが出来るのだ。しかも、ドルイド魔法には植物系異形種の特殊能力と被るものが多い――例えば、周囲の植物を操る<植物操作>(アニメイト・プランツ)はトレントの基本能力でもある――ため、上手く選択・登録していけば、ほぼ全てのドルイド魔法が使えることになる。

 魔法職として最高レベルに達したのと同等以上の種類の魔法を使用可能であり、さらに他のクラス・種族特性を併せ持つ、非常に強力なクラスと言える――説明上は。

 

 問題は、魔法を使用する場合に現れる。

 

 100レベルのドルイドとみなされて最高の第10位階まで魔法を使えると言っても、MPは実際の魔法職レベル相当しかない。植物系異形種の種族レベルでもMPは伸びるが、やはり専門職に比べれば少ない。

 第10位階の魔法を使いこなすには、MPが圧倒的に不足するのだ。

 そのMP不足を補って魔法を使いこなすため、ギルド武器の装備によるMP加算が許される。

 つまり、負けたらギルド崩壊というリスクを背負う、拠点防衛に特化した「お留守番」職だ。

 

 ギルド<シャーウッズ>を解散した後も、クラスとしての「聖森の守護者」の能力は残った。しかし、MP加算のために「元ギルド武器」を装備する必要があることに変わりはない。

 さらに、元のギルド拠点以外でドルイド魔法を使用するには「元ギルド武器」を地面に突き立て、効果範囲を宣言する2段階の手間がかかる。高レベル同士の戦いでは、その手間は命取りだ。

 このような制限があるためクラス「聖森の守護者」は人気が無かった。

 

 それでもブルー・プラネットがこのクラスを残したのは、仲間と共に守り抜いた<シャーウッズ>の思い出を消したくなかったからだ。

 その<シャーウッズ>の仲間たちに、「聖森の守護者」を取得したとき言われた言葉が蘇る。

 

『ははは、お前、死んで魔法使いに転職かよ。植物系リッチ?』

 

 ゲームであれば笑い話だったが、今となっては不吉な予言でしかない。

 まさかな――ブルー・プラネットは頭を振る。

 現実の世界では死んでいて、魂がユグドラシル世界の幻影を彷徨っているなど――

 自分は科学者なのだと、ユグドラシルの都市伝説に基づく考えを打ち消す。

 

 だが、これはヒントになった。

 実際に魂が存在するという話ではなく、そのような設定の幻覚世界に入っている可能性だ。

 人間の侵入を許さない森の守護神――その設定が脳に刻まれたなら、人間が来ないのも当然か。

 

 ならば、その設定がどこまで生きているかを確認せねば。

 すでに簡単な魔法、スキルは確認した。身体能力も100レベルに相応しい。

 では、細かい設定はどうか? 自分でも忘れかけていた職業の設定は?

 

 まずは魔法だ。

 魔法の行使を意識すると、脳裏に呪文のリストが浮かぶ。設定通り、ほぼ全てのドルイド魔法が、その効果や必要なMPなどの情報と合わせて本能的に理解できる。そして、現在の自分がもつMPも。

 そして、本来の装備「星の王笏(アース・セプター)」が無い現状では、第10位階の魔法なら1度に1発が限度――連射が出来ないことも理解する。

 これは重要なことだ。今の自分はドラゴン上位種と独りで戦うことすら覚束ない。

 

 その限界にあえて挑戦してみる。

 ただのトレントでは不可能な魔法の行使――「聖森の守護者」ならば可能な第10位階の魔法を放ったら何が起きるか。

 選んだ魔法は、今一番必要な魔法だ。

 

<帰還>(ワード・オブ・リコール)

 

 第10位階の転移魔法――拠点として設定した地点まで周囲の仲間やアイテムを一緒に運ぶことが出来る転移魔法だ。

 拠点――言うまでも無い。ナザリック地下大墳墓だ。内部は無理でも、入り口までは行けるはずだ。

 

 魔法の詠唱によって目の前の空間が歪み――バチッと弾かれる感覚があり、魔力の集中が解かれる。引き延ばされたバネが戻るように、空間に展開された魔力が自分の体に戻ってくる。

 

 失敗だ。<帰還>に失敗は無いはずなのだが……。

 転移の指輪が作動しなかったのと同じ理由によるものだろうか?

 いずれにせよ、アイテムでも魔法でもナザリックに帰ることは出来ないようだ。

 

 やはり、座標の混乱が影響しているのだろう――そう、ブルー・プラネットは結論付ける。

 なぜ自分の妄想世界にプログラム上の座標設定が影響するのか不思議だが、とりあえず思いつく理由はそれしかない。脳に座標が書き込まれてしまったのだと納得するしかない。

 

 そして、もしこの推測が当たっているならば、これ以上の試みは危険だと理解する。

 転移の指輪も高位階の転移魔法も、本来ならば失敗しないはずだが、座標そのものが狂っている以上、その効果も不安定だろう。

 ユグドラシル時代は、低位の転移魔法が失敗して地中深く、あるいは壁にめり込んだ状態で転移してしまうこともあった。その場合、そのキャラクターは死亡扱いになる。ゲームならばそれも冗談の種だが、この世界――助けてくれる友人がいない状態で地中深く埋もれてそのままになったらどうなるのか。

 

(まず、ナザリックの場所を突き止め、魔法的な手段によらずに帰ることが必要だ)

 

 ブルー・プラネットはこれを深く心に刻みつける。

 

 <帰還>は失敗した。ならば、他の高位階魔法だ。

 

 ブルー・プラネットは、なるべく開けた場所を探し、そこで呪文を詠唱する。ナザリックに帰還できない今、必要なものを作るために。

 

<自然の避難所>(ネイチャーズ・シェルター)

 

 今度は成功だ。

 放出された魔力が地面に届き、大地の姿を変えていく。

 地面から木が何本も生え、それが組み合わさって強固な小屋が出現する。

 一見すると森の一部にしか見えないが、非常に高い防御力をもつ隠れ家だ。周辺の地形に合わせた迷彩が施され、敵に発見されにくい上、内部では体力を速やかに回復する効果もある。

 

 そして、ブルー・プラネットはドサリと音を立てて地面に倒れる。

 頭の芯が痺れ、意識が半分飛ぶ。

 立つことはおろか、指先1つ動かすことも億劫なほどの疲労感――酷い貧血の症状に似ている。

 

 しばらく地面に伏したまま、身動きせずに回復を待つ。

 

(そうか、これがMPを使いすぎた感覚かぁ……)

 

 ようやく思考がまとまり、昨晩もこんな感じだったと思い出す。

 燃費の悪い最高速度で、MP補助の装備もなく、月夜に飛んだのだ。

 植物系異形種は、光の弱い場所で行動するとペナルティが発生する。余分なHPやMPを消費する上、自然回復すら遅れるのだ。

 ユグドラシルであればMPが切れたらあとは体力で戦えた。だが、今は違う。MPとともに精神力まで消耗し、それが尽きれば精神的疲労がトレントの身体能力まで奪うようだ。

 

 それにしても、たった1回の第10位階魔法でこうも消耗するとは――無駄に魔法を使うわけにはいかない。MP切れで体まで動かなくなったらどうしようもない。

 どうやら「聖森の守護者」の設定は生きているが、無駄に縛りがきつくなっているようだ。

 随分とシビアな設定だが、そうなってしまったのだから仕方がない。

 ともかく、いつまでこの幻覚の世界が続くのか分からず、何が起きるかわからない今は、ナザリックに戻って「星の王笏(アース・セプター)」を装備することが必要だ。

 

 頭痛を堪えながら考えをまとめ、地面に大の字に寝転がって、空を見上げながら回復を待つ。

 今のMPはほぼ0だ。この太陽の日差しの下でも満タンに回復するには約6時間――今からでは夕方までかかる。

 夜間の行動は、種族のペナルティ上、やめておいた方が賢明だろう。また気絶したくはないし、夜に徘徊するモンスターもいるかもしれない。

 今の自分は「聖森の守護者」らしい――勝手に戦闘イベントが発生する可能性があるのだ。

 

 しばらく青空を眺めて休息をとり、小一時間して、ブルー・プラネットは立ち上がる。

 まだMPの消耗による精神的な疲労は回復しきっていないが、肉体的な疲労は無い。ならば、夜になってHPにもペナルティが付く前に、出来るだけ肉体面での機能を確認するべきだろう。

 

 肉体面の機能――怪力は健在。戦闘スキルも防御力もある。では、他の設定された能力は?

 

 まずは、枝を伸ばす機能だ。

 かつてのトレント種が不人気だった原因は、その巨大な体躯だ。アップデートを経て、プレイヤー用トレント種はサイズが縮小し、その代わりに枝を触手のように伸ばすことが可能となった。

ブルー・プラネットの場合、種族レベルは40なので40メートル程度まで届くはずだ。

 

 右腕を伸ばす。

 目測だが確かに数十メートルの距離まで届いている。

 重力に逆らって枝の先までピンと伸びているが、それを支える重さは感じない。これは石を捻り潰す筋力のなせる業だろう。

 そして、枝を曲げる。現実の肉体の関節を無視してジグザグに、あるいは曲線的にクルクルと。

 人間として奇妙な感覚ではあったが、特に支障はなく、心に思い描いたように曲がる。

 本当に「聖森の守護者」――植物系異形種になりきっているのだなあと、ブルー・プラネットは自分の妄想力に感心する。

 

 次に、右腕を引っ込めて、代わりに分岐させた枝を体から何本か生やす。全体で長さの制限はあるが、その本数には制限はない。40メートルを8つに分割し、5メートルの枝を8本生やすことも可能なのだ。2本腕用に作られた鎧はこのスキルを阻害するため装備しないが、複数の腕に盾を装備することで防御を補うことが出来る。

 

 ただし、本数を増やせば、それだけ個々の腕の制御が疎かになる。

 プレイヤーはあくまで人間なのだ。一度に認識できる腕は二本という原則は変わらない。

 過剰な腕を操作するためにはAIを組み込むのが常道で、例えば昆虫系異形種では前の二本脚に武器やアイテムを持ち、後ろの二本で立って歩き、中の二本はAIで自動追尾する盾を設定する者が多かった。バードマンが空中で翼を羽ばたかせるのもAIだ。逆に、腕が無い種族――スライムなどの不定形種――では「布をかぶったお化け」のように、二本の腕を伸ばして抱き着くパターンが多かった。ギルドメンバーのヘロヘロなどは、敵に向かって積極的に殴りかかっていったものだ――スライムのくせに。

 

 かつてのユグドラシルの仲間、同じ植物系異形種である「ぷにっと萌え」と触手の操作を練習したときのことを思い出す。

 

『一度に認識できるのは2本、だから、枝を伸ばしたらスキルで固定して、次に別な枝を伸ばす。それを繰り返して枝を増やしていくんですよ』

 

 ぷにっと萌えは器用に触手を操った。一方、ブルー・プラネットはギルド長として物陰に隠れてNPCを操作してきたので、自分の体を使った戦闘経験は浅く、中々そのコツが掴めなかった。

 

『敵の片腕を固定しただけでは、もう一本の腕が自由ですからね。相手の攻撃を封じるために左右の腕を同時に固定。それも片方に1本ではなく2本ずつ、合計4本で捕まえるのが基本です』

 

 ぷにっと萌えが模範を見せてくれた。

 練習用のゴーレムに蔦を巻き付け、次々にその本数を増やしていく。一度に2本の蔦を伸ばして目標の左右の腕に巻き付け、一旦繋がったらそれを単なるロープとして新たに自分が操作できる蔓を生み出し、最初の蔓の上に這わせて補強する――それを繰り返し、たちまちゴーレムは無数の蔓で包み込まれた。流石は「絞め殺す蔦(ヴァイン・デス)」だと感心したものだ。

 

『ほら、ブルーさんも見てないで。ほいほい~って、リラックスして、手早くやるのがコツなんです。変に集中すると感覚を切り替えにくくなりますからね』

『はい、えっと、ほいほい~っと』

 

 ブルー・プラネットも左右で枝を伸ばし、巻き付け、別な枝を伸ばし、巻き付ける作業を繰り返した。

 

『ははは、上手いじゃないですか。そうですよ、ほら、もう一丁、ほほほいの、ほい~』

 

 触手を増やすばかりではない。全体の長さには制限があるのだ。敵に触手が切られることも想定し、制限を回避するために不要な触手を消して別な触手を生やす練習も行った。

 

『ほいほいほいほいほいほい~』

『ほいほいほいほいほいほい~』

 

 全身から無数の枝や蔦を生やし、消し、意識を順に移して揺らめかせる。

 訓練はいつの間にか「植物系ローパーごっこ」になっていた。

 そこに翼を生やしたペロロンチーノ(変態)が現れて厄介なことになったのだが――。

 

 懐かしい思い出に溜息をつき、今の体を見る。

 第六階層で夜空のエフェクトを貼っていくうちに腕の操作に慣れたが、ブルー・プラネットは元々器用な方ではない。ぷにっと萌えのような戦い方ではなく、思い切り腕を振り回す方が性に合っていた。

 

 では、今のブルー・プラネットはどうか?

 

「え、え?」――自分でやっておきながら、思わず困惑の声を上げる。

 

 まるで生まれたときからその体に慣れ親しんでいたように、10本まで増やした枝の1つ1つを同時に認識し、操作することが出来るのだ。更に、10本の枝を腕とすると、その先はそれぞれ5つに分かれて指のようになっているが、その全て――50本の小枝を同時に認識し、感覚を確かめ、器用に動かせる。

 

 ブルー・プラネットは自分の知覚が異常に亢進していることを、あらためて知る。

 聴覚から空間を認識できる。素早いネズミを捕らえる。複数の物体を同時に操作する――情報処理能力が大幅に向上していることは確かだ。

 現状を説明するために、システムの異常で脳がダメージを負い、妄想の世界に囚われたという仮説を立てた。その副作用で感覚が昂進していることも納得は出来る。

 しかし、ダメージを負った脳がここまで超人的な認識力を得ることなど、あるのだろうか?

 

 いや、結論を出すのは早計だ。逆の可能性もある。

 実際には時間を掛けて2本ずつ動かしているのに、それを認識できていない可能性だ。

 脳の外傷で時間経過を認識できなくなった症例を聞いたことがある。

 

 ブルー・プラネットは川辺に戻り、小石を幾つか掴み、放り投げる。そして、空中に散らばった小石の位置を認識し、10本の腕を伸ばして同時に掴み取る。

 各々の腕は5本の指を使って正確に小石を挟み取り、他の小石はそのまま地面に落ちた。

 

 指で捉えた小石の位置は、認識したときのままだ。時間をかけて順に掴み取ったのではない。

 時計で確認すると、小石を放り投げてから掴み取るまで2秒以内――腕を伸ばした時間はコンマ1秒もないだろう。

 10本の腕の50本の指は、本当に「同時に」動いたのだ。

 

 もう一度、試してみる。今度は周囲の物音にも気を付けながら。

 周囲の音は連続していた。風の音が一瞬止まったりすることもなかった。

 脳の処理落ちではない。確かに、一瞬の内に10個の小石を認識し、掴み取っていた。

 

 処理落ちを誤魔化すために、世界そのものが辻褄を合わせているのか?

――それはどこまで疑ってもきりが無い。「世界は5分前に作られた」と同じ類のものだ。

 そもそも、そこまで整合性のある幻覚を、狂った脳が作り上げることが出来るものだろうか?

 

 先ほどのバカげた考え――転生という――が何度も脳裏にちらつく。

 

 世界の常識が崩れていき、目の前の風景がぐらりと揺れる。

 人間であった自分の方が妄想なのではないか? そんな考えすら浮かぶ。

 今の自分こそが本来の姿で、狂った邪霊樹が「自分は人間だった」と思い込んでいるだけでは?

 カブトムシになった夢をみた男の話。いや、蝶だったか?

 必死に「人間であった自分」の記憶を掘り起こす。だが、それはあまりにも儚い。

 今の自分がかつて人間であった証拠などどこにも存在しないのだ。

 

 いや――存在する! ナザリックだ!

 

 この世界がユグドラシルというゲームの延長であることは、ナザリックが証明してくれる。

 この森ではなく、どこかに――この森の守護者としてではなく、ゲームのキャラクターとして自分を創り出した場所がある。

 

 ブルー・プラネットの目の洞に宿る炎が明るさを増す。

 そうだ、俺は確かに人間だ、と。

 

 俺がもし生まれついてのトレントなら、なんで「胸のおっきな眼鏡っ子」に萌えるのだ。

 少なくとも俺は「人間」を知っている。そして、それらに惹かれる「心」がある!

 生まれついての邪霊樹、人間嫌いの森の守護神だったらありえないことだ。

 この深い森の中では「聖森の守護者」は人間を見たことはないだろう。実際、ここで人間を見たという記憶もない。昨夜上空を飛び、今朝目覚めてからの記憶がこの森に関する全てだ。

 

 ユグドラシルの記憶――ブルー・プラネットは、残されたアイテムを眺める。

 転移の指輪が働かないのは、それがただの飾り――ナザリックが幻想であるせいかもしれない。

 人間に憧れる狂った樹の化け物が、どこかで拾った玩具の指輪を自分が人間だった証と思い込んでいるだけかもしれない。

 あの友人たちとの思い出は……。

 

 ナザリックの実在――それこそが、自分が死んで転生したのではなく、人間としてこの姿を選んだことの証明だ。死んで別な世界に生まれ変わったのではなく、ユグドラシルというゲームの延長でこの世界にいるのだと。死んでないなら、いつかは現実に帰る希望がある。

 

 ブルー・プラネットの中で、ナザリックへ帰還する意義が1つ増える。

 落ち着いて考えるためでもなく、力を取り戻すためでもない。

 何より、自分は何者なのかを知るためにナザリックを見つけなければならない。

 

 ナザリックの方角は、大体分かっている。昨晩月に向かって飛んだのだから、同時刻に――0時から少したって――月を背にして飛べば良い。もし現実の世界と同じなら、自転や公転を考慮して0時50分というところか。

 

 夜間、装備無しの状態で飛ぶMPとその消費量から計算すると、飛んでいたのは最高速度で1時間足らずだろう。距離にすれば300キロというところか。速度を押さえて燃費を良くすればMP切れなしに1日で十分に往復できる範囲だ。日中ならばペナルティも無く、もっと早い。

 

 地形も覚えている。ナザリックがあったのは広い平原だ。そこから確か、山脈を1つ超えた記憶がある。

 

 今夜、月を見て方角を確認し、明日の午前中に飛んでいこう――明日もまだこの世界が存在したらの話だが。

 

 ブルー・プラネットは首を横に振る。正確には、菩提樹の体の上部を捩り、逆方向に捩る。この世界の実在、あるいは元の世界の実在に対する不安を振り払うように。

 

 まだ日は高い。時計を見ると15時を回ったところだ。

 明日は長距離を飛ぶ。夜間のMP回復は確証がもてない。もう魔法は使わない方が良いだろう――そう考え、もう少し日の当たる場所でスキルや肉体能力を確認することを決める。

 

 ブルー・プラネットは小屋の前で幾つかのスキルを確認し、そして再び渇きを覚えて川に行って水を飲む。口からではなく、体の一部、特に根にあたる足からの吸収が効率的であることに気が付いて驚いたが、再び日が暮れるまで自分の肉体的能力やスキルを確認する。

 

 そして日が暮れる。

 

 植物系異形種であるトレントにとって、夜はペナルティが付く危険な時間帯だ。この世界で夜にどのようなモンスターが出現するのか不明だが、わざわざ危険を冒すことはない。

 ブルー・プラネットは魔法のシェルターの中に<永続光>を灯す。シェルターの内部では真昼のように明るく、行動にも影響はないことが分かる。

 一方で、外から見ると光は漏れていない。シェルターの内部、あるいはすぐ近くであれば危険は低いだろう、と判断する。

 夜間はなるべくシェルターの中にいるべきだろう。疲労は全く感じていないが。

 準備が終わって、ブルー・プラネットは周囲の物音に耳を澄ませ、同時にスキルでも確認する。危険なモンスターが接近していないかを確認するために。

 

……大丈夫だ。遠くで野生動物の立てる音は聞こえてくるが、それほど大きな物はいない。ネズミやウサギ程度か、イノシシ程度――その程度ならば自分のスキルで攻撃を無効化できる。

 警戒していた強力なモンスター、ドラゴンなどユグドラシルでは80レベル以上のもの達は、少なくとも近くには来ていない。周囲の樹々が蹂躙されて倒される音もしない。静かな夜だ。

 

 ひとまず安心したブルー・プラネットは星空を見上げる。

 昨日見たのと同じ、美しい夜空だ。

 この季節なら……と、知っている星を探す。資料の中で特に印象深かった、赤く輝く大きな星、あるいは青白く輝く星を。しかし、その星は見当たらない。現実の季節とは違うのだろうかと見回すが、見知った星座もない。

 

 やがて月が昇ってくる。大きな月だ。飛行機の窓から見た月とは少し違う気がするが……地上に近い月は大きく見えるという心理学の記述を思い出す。実際には地上から月を見たことがないブルー・プラネットは、そんなものか、と納得する。

 

 腕の時計が00:50を示す。方角を確認する時間だ。

 

 森の中に月光が差しこみ、樹々が影を落とす。その影をなぞり、地面に方向を示す線を刻む。

 明日はこの線の示す方向にまっすぐ飛んでいけばいい。きっとナザリックが――人間であった証が見つかるはずだと期待する。

 その期待のせいだろうか? 目は冴えたままだ。眠気が来ない。疲労感もない。

 未だに空腹感も無い。結局、昨日から丸一日、何も食べなかったのに食欲というものが無い。

 トイレに行きたいとも思わない。

 

 それでも――ブルー・プラネットは目を閉じる――閉じることが出来ない。

 瞼が無いのだから当然だが、これでは脳への負担を減らせない。

 昔、何人かの仲間と作った瞑想の森、その参加者から聞いた瞑想法を思い出す。

 

「スー……ハー……スー……ハー……スー……ハー……」

 

 目を瞑ることは出来ないが、脳の健康に良いという、ゆっくりした呼吸を繰り返す――本当に呼吸をしているのだろうかという疑問を無理やりに忘れて。明日こそ現実の世界に戻れるだろうことを期待して。

 




能力説明回その2でした。
次からようやく話が進んで……行くけど遅い。

捏造設定
ブルー・プラネットの職業:聖森の守護者
MPタンクのギルド武器が無ければただの役立たず。

種族:
トレント系の種族は、敵モンスターは大きいまま。
プレイヤー向けに小型化した「-影」が用意されている。

※10/23 指の数を修正。アレは3本じゃなくて5本だったか……あれ?
 10/30 時間を修正。割とズレるね。 

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