深い森の中、苔むした大木の立ち並ぶ中に、小さな印度菩提樹が倒れている。
それは魔力を使い果たして墜落したブルー・プラネットだ。完全に意識を失い、ピクリとも動かない。月明りに見守られ、ブルー・プラネットは眠り続ける。
やがて東の空が白み、小鳥たちの鳴き声が聞こえ始めるころ、その菩提樹は微かに動き、呻く。
「う……気持ちわりぃ……」
森の中に差し込む日の光がブルー・プラネットの体を照らし、意識から霞が晴れていく。
「うぉ……今何時だ?」
腕の時計を見る。まだ6時半程だ。強い眠気があり、体が重い。
「あ……まだ大丈夫か……やべ、昨日寝落ちしちまったか」
以前、ベルリバーと一緒に作り上げたナザリック地下大墳墓内の温泉施設、その試験運転で味わった仮想現実の風呂の気持ち良さについウトウトしてしまい、後ろから「寝るな」と叩かれたことを思い出す。
ブルー・プラネットは起き上がり、地面に胡坐をかいて首を回す。日の光が心地よく、頭痛は次第に治まっていく。そして、頭痛に隠されていた別の不快感、渇きが強く感じられる。
「みず……みず……」
辺りを見回し、ここは仮想現実の中だということを思い出す。
仮に目の前に水があってもそれはデータでしかなく、飲んでも喉の渇きは癒されない。この渇きは現実世界の体が欲するものだ。
仮想現実に没入して遊ぶゲームが普及し始めたころ、現実を忘れて長時間遊びすぎ、健康を害する者が続出して社会問題となった。今は法律が整備され、飲食に関わる感覚――嗅覚や味覚――はシステムから除外されている。また、空腹感や排泄欲求、眠気などの生理的欲求の抑制も同様に厳しく規制されている。その他にも、ゲーム内の刺激と現実空間での火災などを区別できるように痛覚や熱感などの外的刺激に対する感覚は現実からのものが優先されている。
ブルー・プラネットは現実世界で水を飲むためにログアウトしようとする。しかし、空中をタップしてもコンソールが開かない。
「え? 困るやん!」
ブルー・プラネットは叫び、現実の感覚に集中する。今の俺は椅子に座っているはず。腕を持ち上げ……この辺りに水を入れたコップを置いたはず……。いや、その前にヘッドセットを外さなければ――。
だが、何の感覚も無い。集中すれば現実の肉体感覚も取り戻せるはずだが……それが無い。
腕に相当する樹の枝がむなしく空中を彷徨うだけだ。ヘッドセットを外そうとする空しいパントマイムを続ける間にも、ますます渇きは酷くなっていく。
水、水……と考えるブルー・プラネットに感覚が伝わってくる。それは小川のせせらぎだ。
『ここから52メートル先、幅2メートルほどの小さな川がある』
目の前の空間とは別の、もう一つの視界が情報を伝える。
喉の渇きのあまりここが仮想現実空間であることを忘れ、思わずブルー・プラネットはその方向に走り出す。ズシンズシンと太い脚で地面を踏み鳴らし、森の中の大小の樹々を掻き分けて。
3メートル近い巨体に押しのけられ圧し折られる灌木の騒めきが煩いが、それにかまっている暇はない。ともかく、その川を見付けなくては――それだけで頭が一杯になる。
そして、その川は存在した。
理性よりも生理的欲求から、ブルー・プラネットは川に身を投じる。
バシャリ
浅い水辺に投じられた菩提樹の体が水を跳ねさせる。
「ふぅー……生き返るわ……」
渇きを癒されたブルー・プラネットは、冷たい水の感触を楽しむ。しばらく動かずに水を堪能し――そして気が付く。自分の顔が水の中に浸かっていることに。そして自分が呼吸していないことに。
ここでようやく目が覚めたブルー・プラネットはガバリと身を起こし、必死で頭を働かせる。
(どういうことだ?)
川の水に顔が浸かっていたにも関わらず、呼吸が妨げられない。これは、この水が幻覚であることを示唆している――当然だ。ここはまだユグドラシルの仮想現実空間なのだ。
ならば、その水で癒された喉の渇きも幻覚なのだろう。脱水によって相手の行動を阻害する魔法はあるし、逆に水を過剰に与えて相手を溺れさせる魔法もある。溶岩地帯で熱気とともに乾燥によるバッドステータスが付くこともあるし、逆に川で溺れることもある。
しかし、それらの感覚は現実の「喉の渇き」とは区別でき、それ程の苦痛はもたらさず、動きが遅くなる等の行動阻害が主だったはずだ。
先ほどの渇き――激しい生理的な欲求――とは明らかに違う。
(現実とゲームを隔てる感覚がおかしくなっている?)
あらためて現状を整理する。
昨夜はユグドラシルの最終日だったこと、
時間が来ても強制ログアウトされなかったこと、
ナザリックの外の光景が変化しており、草が生えて匂いまであったこと、
月の美しさに惹かれて飛び、突然の不快感に意識が霞んだこと、
――昨夜の記憶はそこで途切れている。だが、現在の異常事態は昨夜の異変の影響だろう。
あらためて自分の姿を見る。
ユグドラシルのキャラクターのまま……いや、目を凝らしてみるとゲーム時よりもさらに生々しい「樹木」の姿となっている。葉の葉脈は細かく、瑞々しく、柔らかにカーブを描く。
腕に生えている葉の一枚を弄ってみる。研究所で触った現実の植物の葉と同じに見える。いや、遥かに細かいところまで良く見える。ゲームでは作りえない、1つ1つの細胞までも――
「痛ッ!」
弄りすぎ、葉の一枚が取れる。同時に腕の毛を抜かれたような、ささくれた指の皮を引っ張って取ったときのような、軽い痛みを感じる。
ブルー・プラネットは取れてしまった葉をしげしげと眺める。どう見ても本物の葉だ。指でそれを磨り潰すと青臭い匂いが鼻をつく。口に入れて噛んでみると、わずかに苦い。
「嗅覚と味覚もか……」
喉の渇きに加えて、ユグドラシルではサポートされないはずの幻覚にブルー・プラネットは困惑する。そして、視覚と聴覚の異常な亢進にも。
触覚についても、ユグドラシルでは葉の一枚ごとのダメージ判定などなかったはずだ。
ありえない――そんな思いを押さえつけ、現状を説明する幾つかの可能性を考える。
ユグドラシルを引き継いだ新ゲーム?
否。ここまで細かいテクスチャを再現できる技術は無いし、設定した覚えもない。味覚や嗅覚をコントロールすることは法律で固く禁じられている。何より本人の承諾なしに新しいゲームを始めさせることは誘拐とみなされ、厳罰が科される。
では、夢か?
否。夢というにはハッキリしすぎている。光景も、意識も。
では……考えたくないが……精神を病んで妄想の世界に?
これは否定できない。ゲームをやりすぎて一時的に現実との区別がつかなくなった症例は報告されている。だが、自分はユグドラシルにログインしたのは数年ぶりだ。それも30分間程度で「ゲームのしすぎ」にはならないだろう。
サービス終了時の影響で脳に変な負荷がかかったか……?
その可能性が高い。詳しいことは分からないが、ユグドラシルの設定や世界観が脳に焼き付いて、現実と幻覚との区別が曖昧になっている可能性だ。
ブルー・プラネットは何度も顔を叩き、森の中を歩き回り、正気を取り戻そうとする。
しかし、この世界は消えない。目を擦り、体を動かしても目が覚めない。現実世界の体の感覚を必死に探り、見えないプラグを抜いてヘッドセットを外そうとしても枝は虚しく空を切る。
やがて、ブルー・プラネットはへたり込む。肉体的ではなく、精神的に疲れ果てて。
「もう……今、何時よ?」
時計を見ると、8時を回っている。とっくに出勤の時間だ。
研究室の皆が昨夜の報告を待っているだろうに――唇を噛もうとして、唇が無いのに気が付いた。
「くそっ!」
空を仰いで悪態をつく。誰に文句を言えばいいのか……そして、GMコールを思い出す。
昨晩、ユグドラシルの終了時刻が延期されたと考え、連絡を取ろうとしたが、通じなかった。
だが、未だに現実世界の自分はヘッドセットを被っているはずで、ログアウトせずに寝落ちしたならば回線を通じてユグドラシル運営に救援を要請することだって可能かもしれない。
精神を集中し、GMを呼び出す。ユグドラシルのシステムはヘッドセットによって思考を読み取り、ゲームにフィードバックする。パニック状態のプレイヤーを助けるためにも、緊急時にはコンソールを開く予備動作無しに意志だけでGMが呼び出されることになっている。
『どうなってるんですか? 会社に遅刻ですよ!』
そんな文句を考えながら、ブルー・プラネットは何度か救助を求める思考を送る。
しかし、運営からの返答はない――ブルー・プラネットは、一縷の望みが途絶え、頭を抱える。
だが、返事が来ない以上は仕方がない――そう考えると、奇妙なほどに気分が落ち着く。
ブルー・プラネットはGMコールを諦め、しばらくはこの世界を観察しようと考える。
自分の精神が異常をきたして幻覚を見ている状況は、確かに恐ろしい。しかし、それを恐れる心が更に恐ろしい幻影を生み出し、事態を悪化させることも考えられる。
今見ているこの景色は美しい。悪夢を見ているのではないのだから、心を落ち着けよう。
そうだ、まずは
例えユグドラシルのサービスが終了していても、ここが自分の脳に焼き付いたユグドラシルの残滓ならば、ナザリックが消えているはずがない。それは最も強固な妄想として残っているはずだ。
あの部屋、そしてあの夜空が消えるはずがない――現に昨夜、そこから飛んできたのだ。自室でゆっくり休んで正気を取り戻す方法を考えよう。待っているうちに救助が来るかもしれないし。
ブルー・プラネットは転移の指輪を発動させる。
しかし、指輪は一瞬だけ力の揺らめきを感じさせ、そして沈黙する。
ブルー・プラネットも沈黙し、指輪を眺める。
アイテムは使えないのだろうか? 時計は動いているようだが。
他のアイテムは、と考えて自分の体を眺める。転移の指輪と時計以外、何も身に着けていない。
溜息をついて首を横に振り、おおっ、と思い出してアイテムボックスを開く動作をする。
コンソールは開かないが、胸の前の空間に戸棚があるかのように右手を滑らせる。
予想通り空間に窓が開き、幾つかのアイテムが並んでいるのが見えることに安堵する。
アイテムボックスの中のアイテムは、
「ろくなものがねぇ!」
ブルー・プラネットは呪いの仮面を取り出して地面に叩きつけ、再び落胆する。
呪いの仮面は所有者の放棄の意志を感知し、地面から消滅して再びアイテムボックスに戻る。
この仮面はそういうものだ。嫌がらせのように与えられ、捨てても戻ってくる、無価値な物……
そうだ。ゲームを離れる際に、価値があるアイテム類は仲間たちに譲ってしまったのだ。
旧ギルド<シャーウッズ>から引き継いだ装備は部屋に置いてある。
仲間たちがすでに所持していたアイテム類――時間停止対策の時計とか各属性攻撃への耐性の指輪とか――も引き取り手のないままに部屋の中に置いてあるが、外部から取り出し出来ない鍵付きの箱の中だ。
今のアイテムボックスに残っているのは、いわゆるゴミアイテムだけ。
――これで何をしろというのか。
妄想ならもっと都合良くっても良いやん――ブルー・プラネットは力なく呟き、天を仰ぐ。
だが、実際にそうなのだから仕方がない。手持ちのアイテムで使える物は……と考え、回復のポーションを取り出す。
先ほど毟ってしまった葉の跡が少し疼く。では、このポーションで治療できないだろうか?
赤いポーションを飲み干すと、先ほど葉が取れた場所に新しい葉がピョコリと生える。
「ほう!」
ブルー・プラネットは明るい驚きの声を上げる。ポーションは効くんだ、と。
そして、まてよ、と首を捻る。
あの葉は自分で毟ったものだ。ユグドラシルでは自傷行為は起きなかったはずだが。
ごく一部の例外を除き、自分に対する攻撃、あるいはギルドのメンバー同士の攻撃は効果が無い。それがユグドラシルの常識だった。
だが、今は、自分で自分を傷つけた。
ならば――
トレントのスキルを発動させて、植物系モンスターを召喚してみる。万一のことを考えて低レベルのものを。やり方は……心の奥底から浮かび上がってくる。
目的のモンスターを心に描き、指先に精神を集中させ、地面を指さし、スキルを開放する。
――植物系モンスター召喚
目の前の地面に生えている草が揺らめき、その間からチューリップの花が咲く。そして、その根元の地面が盛り上がり、大きな球根の下に小さな胴体と手足が付いたモンスター――癒し系モンスターと呼ばれる、身長50センチ、5レベルの「
チュートリアルで最初に出会うモンスターの1つで、攻撃力は無く、フィールドを短い脚で駆けまわる。プレイヤーがそれを追っかけ、身体の操作を覚えるためのキャラクターだ。
なにか目に見えない糸のような……奇妙な絆で繋がった感覚を覚え、ブルー・プラネットは球根人を見つめる。球根人は、その顔に相当する球根についた小さな黒い目をこちらに向けてお辞儀をしてくる。Uの字に刻まれた口は動かないが、その笑顔が無くてもこちらに親愛の情を抱いていることは直感的に、そして十分に理解できる。
ユグドラシルとは出現の仕方が異なる。だが、姿や性質は概ね変わらないようだ。
しかし、召喚したモンスター――
――こんなに可愛かったら攻撃できないじゃないか。
ゲームの時であれば割り切って攻撃しただろうが、今、目の前にいるそれはあまりにもリアルであり、まさに生きている。妄想が創り出したものだと頭では分かっていても、目の前で微笑んでチューリップの花を揺らしている小さな花の精を叩き潰すほど非情にはなれない。
ならば――叩いても良心の痛まなそうな別のモンスターを呼び出す。
今度は同じチューリップでも黒いものが出現する。花弁に刻まれた吊り上がった目とヘの字口、茎の下には球根ではなく大きな葉と短い脚がついて動き回る、「
しかし、シモベとして召喚されたこの意地悪草も、球根人と同じく糸で結ばれたような絆が感じられ、ブルー・プラネットに最大限の親愛の情を向け、茎を曲げて花の頭を下げてくる。
(攻撃しにくいなぁ……しかし……)
もっと醜い植物系モンスターも召喚できる。しかし、それらは高レベルなモンスターであり、今から行う行為がモンスターに対する攻撃とみなされ、反撃を受ける可能性を考えると躊躇せざるを得ない。同士討ちが可能なら、召喚したモンスターが襲ってくることも考えるべきだ。万が一抵抗されたら、そして反撃されたらどうなるか――現状ではなるべく危険が無いと考えられるモンスターで実験するしかないだろう。
ブルー・プラネットは意地悪草の葉を半分ほど切り取る。意地悪草は驚いたように体を――茎を反らし、花に刻まれたへの字口がWの形に変わる。吊り上がった目が下がって、その端に涙のような水滴が現れる。
「ごめん」
あわててブルー・プラネットは意地悪草に謝り、
「ほう……」
ブルー・プラネットは再び感心する。これで色々なことが分かった。
仲間のモンスターを生み出すスキル、回復魔法、そして、仲間への攻撃が有効であることを。
「ごめんね、もう一度」
意地悪草はへの字口を精一杯持ち上げて笑顔を作り、ブルー・プラネットに葉を差し出す。モンスターにもここまで明確な意思や知性があることに、ユグドラシルでは設定されていなかった表情があることに、ブルー・プラネットは改めて驚く。そして、召喚されたモンスターの痛々しいまでの献身ぶりに胸を痛ませる。
ブルー・プラネットは意地悪草に笑顔を向ける。自分の妄想が生み出した幻覚だと分かっていても、なんとなく無下には出来ない。笑顔――自分の顔も動くのが感じられるが、それが「笑顔」に見えるのかは分からない。だが、どうも心と心が通じ合っているようで、笑顔を向けられた意地悪草の安心感が伝わってくる。
まずアイテムボックスから取り出した空瓶に薬師系スキルで分泌した濃い緑色の液体を満たす。先ほどの赤いポーション――標準的な回復系ポーションとは異なる、植物系モンスターからの抽出液で作られる回復薬だ。この場合、植物系モンスターとはトレント種であるブルー・プラネット自身のことだが。
もう一度、遠慮がちに、それでいて素早く意地悪草の葉を千切り、今度は魔法ではなく緑の回復薬を振りかける。
先の植物回復魔法
ブルー・プラネットは実験に満足し、球根人と意地悪草に礼を言って召喚を解く。2体のモンスターはピョコピョコと二回跳ねてお辞儀をし、その場で回転しながらシュルリと細くなって地面に吸い込まれるように消える。これは、ユグドラシルでの演出とほとんど同じだ。
やれやれ、とブルー・プラネットは溜息をつく。
ゲームのようでもあり、妄想世界のようでもあり……もっとこの世界を知ることが必要だ、と。
アイテムは使えるようだ。ただし、ろくなものが無い。
転移の指輪が作動しなかったのは、何か原因があるのだろう。ひょっとしたら昨晩のナザリック近辺の地表テクスチャの変化と同じ――座標の異常のせいかもしれない。
アイテムの他に、モンスター召喚、回復魔法、スキルも使える。だが、この状態で敵――例えばドラゴン――が現れたらどうするか。
自分は、ユグドラシルの設定通りならば100レベル。大抵のモンスターは恐ろしくはない。
だが、この世界でもその設定は生きているのか?
自身の戦闘能力を確認しなくてはならない。まず、手始めに――
ブルー・プラネットのすぐ隣に大木が生えている。樹高は3,40メートル、樹の幹の直径は2メートルはある、齢を経た巨木だ。
その巨木に向かってブルー・プラネットは躊躇いがちに力を加減して自分の枝を叩きつける。
ゴグシャッ
森に湿った音が響き、ブルー・プラネットは跳び上がる。
あまりにも抵抗なく、その巨木の幹が大きく抉られたことに驚いて。
そして、抉られた樹が上げた断末魔の悲鳴を聞いて。
硬そうな木の幹を叩くのだから痛いだろうと予測していた。
しかし、実際の感触は何か柔らかいモノ――例えば布団――を叩いたようだった。
自分には何の痛みもなく、指先の小さな葉にも傷すらついていない。
一方で、叩かれた巨木は幹の半分以上を抉られ、メリメリと音を立て、ゆっくりと傾いている。
その木の苦痛の声を、ブルー・プラネットは確かに聞いた。
「
ブルー・プラネットは慌てて倒れる巨木の幹に自分の細い枝を巻き付けて支え、回復魔法を唱える。
巨木から吹き飛ばされた破片が消滅し、抉られた部分が現れ、再びその木は自力で立った。
ブルー・プラネットは信じられない思いで自分の枝を見つめる。倒れる巨木を指先1つで支え、その重みもほとんど感じなかったのだ。
先ほど渇きを癒した川に行き、川底から握りこぶしほどの大きさの石を拾って指で挟む。
石は軽い音を立てて砕け、弾け飛ぶ。ブルー・プラネットの指には何の抵抗も、痛みもない。
半信半疑で試したこの結果に衝撃を受け、しばらくは身動きできない。
確かにユグドラシルの物理シミュレーター上は、100レベルのトレントの腕力をもってすれば、そういう現象は起きるだろう。フルプレートアーマーを装備した人間型キャラクターを数十メートル吹き飛ばし、空を飛ぶ巨大なドラゴンに向かって自動車ほどもある岩を投げつけ、城壁に一撃で大穴を空ける力をもってすれば。
しかし、その力はユグドラシルにおける「
昨夜の「ただの草」を毟ったことから予想はしていたが――「対象物」の範囲が変化している。
いずれにせよ、100レベルのトレントとしての腕力は保っているらしい。そしてその力はこの世界では恐るべき影響を周囲に、しかもゲーム上の制限を受けず、自分が認識した物体に及ぼすのだと理解する――そう理解せざるを得ない。
では、力以外の戦闘用スキルは使えるのか?
もう大木を的にするのはやめよう――先ほどの悲鳴を思い出し、ブルー・プラネットは川に沿ってしばらく歩く。少し上流に行ったところに数メートルの段差の滝があり、人間程の大きさの岩が幾つか落ちていた。
ちょうど良い目標だ――岩に目がけて枝を構え、飛び道具のスキルを放つ。
「
構えた枝の先に数センチの棘が何本も生え、岩に向かって勢いよく飛ぶ。
棘が当たった岩は穿たれ、続いて棘が当たった個所を中心にして幾つかの塊に割れる。
ブルー・プラネットは頷く。ブルー・プラネットの攻撃手段として最低に近い牽制用の飛び道具だが、戦闘用スキルも使えるようだ。もっと強力な戦闘用スキルもあるが、それらは対生物の即死攻撃であったり攻撃に対するカウンターであるため、今は試せない。
では、防御力はどうか?
試しに自分の腕に向かって棘を飛ばしてみる。自分で自分に攻撃できるのは先ほど確認済みだ。「棘嵐」は50から60レベルの雑魚敵が群れてきたときに連射して追い払う程度の攻撃だが、岩を砕く程度の力はあることも分かった。
(大丈夫だ、万が一怪我をしても回復が効く)
そう信じて、伸ばした掌――枝先――に向かって棘を発射する。
棘が当たったところに、ペシペシと指で弾かれる程度の痛みが感じられる。
見ると枝の薄皮が剥がれ、小さな葉が傷ついている。少し疼くが、ユグドラシル基準でダメージ量を計算すると治療しなくてもパッシブスキルの「
一通り自分の力を試して、ブルー・プラネットは安堵の息を吐く。
この、未だに覚めない妄想の世界で碌な装備もなく彷徨う悪夢を予想していたが、腕力、戦闘スキル、および防御力はユグドラシルと同じ――魔法も使え、全くの無力というわけではないようだ。
いや、本当にユグドラシルと同じなのか?
――別の可能性に気づく。モンスターとの遭遇率、そして強さについては保証が無いことに。
ブルー・プラネットは周囲の森を見渡す。
見た限り、大型の動物によって森の木々がなぎ倒されている様子はない。
念のためにスキル「
同時に
今のブルー・プラネットは巨体ではないが、あれほど簡単に樹々が吹き飛び、さらに断末魔の声を上げるのだ。
やってられない――ブルー・プラネットはそう思う。
ブルー・プラネットは川に沿って歩き、敵となるような動物を探す。そして見つからないので今朝の感覚――視覚と連動した聴覚――を使ってみることにする。
意識を集中し、耳を――今の体に耳は無いはずだが――そばだてる。
カサカサという音が届き、その情報がもう一つの視界となって脳裏に浮かぶ。
『ここから5メートル下った岩陰に、10センチほどの小動物がいる』
その情報に従って移動し、岩陰に目を向ける。隙間を動く白いネズミのような動物がいる。
(敵とは思えないが、この周辺の動物のサンプルには違いないか)
ブルー・プラネットは、そのネズミに向かってそっと枝を伸ばす。
ネズミはその気配を感じてサッと隠れる。そして、岩の隙間から鼻をひくつかせ、こちらの様子を窺っている。
ブルー・プラネットは、今度は素早く枝を伸ばしてネズミの前足に絡みつかせる。ネズミは反応できずに細い枝に絡めとられ、キイキイとかん高い鳴き声を上げる。
「捕まえた捕まえた」
ブルー・プラネットは興奮して小躍りしながら歌うように言う。自分でも驚くほど、枝が素早く正確に動いてネズミの前足という小さな目標を捕らえたのだ。
そして、そのネズミをよく観察しようと手元に寄せる。
ネズミは逃れようと必死に身をよじり、枝の先に噛みつく。だが、ブルー・プラネットは何の痛みも感じない。
先ほど大木を叩いたときに予測していたが、パッシブスキル「上位物理無効III」が効いているのだろう。これは中位までのモンスターならば物理攻撃を無効とするスキルだ。
トレントなどの植物系異形種には昆虫や小動物・鳥たちの姿をとる妨害用モンスターが集りやすい。気が付いたらモンスターに食われていたという事態を避けるため、防御スキルの常時発動は植物系異形種には必須である。
更に、ブルー・プラネットはドルイド職であり、金属製の武具を身に着けられない制約がある。装備が貧弱なため防御系スキルを充実させていたのだが、装備を全てナザリックに置いてきた今はそれが幸いしている。
どうやら、寝ている間にネズミに齧られる心配はない様だ――もっと巨大なネズミが現れた場合は知らないが。
グニグニと噛みきれない葉を必死に噛み続ける白ネズミを開放し、ブルー・プラネットは深呼吸する。
時計を見る。もう、12時近い。
現実の俺の体はどうなっているのだろうか――その心配が頭をもたげる。
研究所から無断欠勤を咎める連絡が行っているだろう。ひょっとすると、病院に搬送されているかもしれない。だが……
『ユグドラシルのせいです。最終日の終了作業で異常が起きて、そのせいで……』
そう説明すれば、こっちが被害者だ。最終日に最後までいただけなのだから。
無断欠勤で怒られることもないだろうし、上手く行けば賠償金で生活も潤う……かも知れない。
(研究所の皆には申し訳ないが、この特別休暇をもう少し楽しませてもらうよ)
ブルー・プラネットはそう考えて鼻歌を歌い、森を散歩する――我ながらお気楽な性格だと呆れながら。
森の中で小さな空き地を見つける。日の光が降り注ぐ、美しい草原だ。
ブルー・プラネットはその空き地の中央に座り、青空を眺める。
日差しが心地よい。朝の不快感が嘘のように消え、体が温まり、力が漲ってくる。
「美しい世界だ……」
そう呟き、枝を地面にサクリと突き刺し、土を掬いとって匂いを嗅いでみる。
化学薬品と金属臭のする現実世界の土とは違う。黴臭い、それでいて心地よい、生きている土の匂いだ。目を凝らすと、小さな蟲たちが蠢いているのが見える。線虫だろうか、環形動物だろうか、それとも節足動物か――環境学者であるブルー・プラネットにも見たことがない蟲達だが、必死に生きているのが分かる。
現実世界ではどうしても回復できなかった、生きている土だ――
ブルー・プラネットは土を元の場所にそっと戻し、枝先で土を均す。
そして空を見上げ、この世界が本物ならばと思い、苦笑する。
夢をみても――これは夢だが――仕方がないと。
夢の中で夢をみる――日の光を浴びながら昼寝でもするかと考えたとき、ブルー・プラネットは一つの事実に気が付いた。
俺、昨夜から何も食べてないのに、ちっとも腹が減ってない!
この美しい世界に祝福を……(次回の前振り)
ブルー・プラネットのポンコツ化が進みます。
捏造設定
ブルー・プラネットの職業:ドルイド+薬師・秘術師(詳しくは次回)
例によってモンスターやスキル名は捏造