自然愛好家は巡る   作:コロガス・フンコロガシ

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Endその2


後日談:機械仕掛けの神

 ブルー・プラネットは第六階層に向かった。

 そこにはかつて心血を注いで作り上げた夜空と森林が広がっていた。

 

「全部……全部、偽物なんだ……」

 

 ブルー・プラネットは白い霧となり、人造の夜空に浮かんで呟いた。

 星々が嘲るように瞬き、それに応えて自嘲するように口を歪める。

 紛い物を作り続け、挙句の果てには自分まで紛い物になったとは――最悪のジョークだと。

 

 今までの記憶を振り返る。

 老いて滅びゆく世界の中、気休めに過ぎない薬を作り続けた虚しい日々の記憶。

 その現実から逃げるように偽の夜空を作り続けた記憶。

 人間であった頃の苦い記憶――コピーに過ぎなくとも、その心は胸を締め付けた。

 この世界に来て出会った自然の美しさに惹かれ、それを守ろうとしたこの10年間の記憶。

 しかし、それは独り善がりに過ぎなかった。自分が為したことは、偽りの自然でこの世界を塗りつぶしていただけだった。

 

 どうしたらいいんだ――答えの出ないまま、ブルー・プラネットはじっと星を見つめていた。 

 

「お帰りでしたか」

 

 背後から自分を呼ぶ声にブルー・プラネットはビクリと身を震わせた。

 声の主は分かっている。この第六階層で暮らしている人間の女――アルシェだ。

 この地下世界に閉じ込めた人間。

 そしてナザリックの食事を摂り続けてきた人間。

 おそらく彼女も――ブルー・プラネットは振り返り、魔法で宙に浮かぶアルシェを眺める。

 背は少し伸びたが、痩せた姿は昔とほとんど変わっていない。いつものように青白い顔で微笑んでいる。

 ユグドラシル(自分たち)によって捻じ曲げられた人間を前に、ブルー・プラネットは目を伏せる。

 

「あ……ああ、式典が終わってな……」

「そうですか……」

 

 ブルー・プラネットの躊躇いがちな返答に、アルシェは少し不思議そうな顔をして首を傾げた。

 大きな式典が終わった後、その煩わしさを忘れるためにブルー・プラネットは第六階層を訪れて夜空を眺めることがある。樹の魔物が溜息をつきながら星を眺めているのはいつものことだ。

 そんなとき、アルシェが声をかけるとブルー・プラネットは振り返ってちょっとした会話をして、またどこかに転移する。

 今夜の様に何かに怯えるようなブルー・プラネットを見るのはアルシェにとって初めてのことだった。

 

(式典で何かあったのかも)

 

 アルシェは考える。だが、答は分からない。

 ことあるごとに行われる祝典に、アルシェは毎回誘われている。参加を促すのはブルー・プラネットだけではない。デミウルゴスやアルベドたちも賛成している。「人間が魔導国で幸せに暮らしている」という良い宣伝になるからだ。

 だが、アルシェはこの地下の第六階層を離れることを拒み、樹々の世話をしていた。

 アルシェの意志を尊重すると決めたブルー・プラネットは、アルシェの欠席を認めている。

 彼女は自由だ。すでに彼女の魔力を無効化するアイテムは外されて久しい。監視も特にしていない。人間社会が魔導国に屈した今、アルシェを地下に閉じ込めておく必要が無くなったからだ。アルシェ自身にも魔導国に弓を引く理由はなくなっていた。それゆえアルシェは自由にこの階層を飛び、こうしてブルー・プラネットのもとに来ることも出来た。

 

「外の世界は、いかがでしたか?」

「ああ……相変わらずだ」

 

 アルシェが小さな声で遠回しに尋ね、ブルー・プラネットもぎこちなく答える。2人の間に微かな笑い声が交わされ、すぐに沈黙に変わる。

 自由になったアルシェは外の世界に出ることは殆ど無かった。友人のツアレが町へ出ようと誘っても、アルシェは静かに微笑んで遠慮するばかりだった。そして帰ってきたツアレが子供をあやしながら楽しそうに話す町の噂を聞いて笑う。もう何年もの間、その噂話がアルシェの知る外界の全てだった。

 

 やがて沈黙に耐えられなくなったブルー・プラネットが口を開いた。

 

「すまん……アルシェ、お前達には本当に済まないことを……」

「はっ!? え、いえ、何が……!? あの、どうかお立ちください。他の方に見られたら……」

 

 ブルー・プラネットは空中で土下座の体勢になり、アルシェの足元に跪く。

 アルシェは目を白黒させて手を振り、至高者の謝罪を止める。

 ブルー・プラネット様は、いきなり訳の分からないことを始める――この10年で何度も体験し、慣れてはいたつもりだが、今のように土下座で謝罪をされるのは初めてのことだ。

 

「私は、お前たちを、この世界を捻じ曲げてしまった。私たちは居てはならない存在だったんだ」

 

 ブルー・プラネットはアルシェに構わずに続ける。アルシェが周囲を見回し、至高者の謝罪を止めようと必死で手を振るのに目もくれず。 

 

(だめだ、やはり話を聞いてくださらない)

 

 やむを得ず、アルシェは土下座するブルー・プラネットの下に移動して、空中で横たわる。こうすれば形の上では相対するように見えなくもない、と。

 姿勢の問題を解決したアルシェは、なおも謝罪を繰り返すブルー・プラネットの言葉の意味を考える。

 世界を捻じ曲げたとは何のことだろう――アルシェには皆目見当がつかなかった。

 

 最近の外の世界がどうなっているのか、詳しくは知らないし、知りたいとも思っていない。

 自分の身に限定すれば、確かにこうして地下で暮らすことになったのはブルー・プラネット達の計略に嵌ったせいだ。自分は生きてはいるが、引き離されて安否不明の仲間たちのことを思うと今でも胸が痛む。

 しかし、それも仕方が無いことだ。ワーカーという職業に就き、危険を顧みず魔物の巣窟に飛び込んだのは自分達の選択なのだから。

――そう考え、アルシェは頷く。そしてブルー・プラネットに返答する。 

 

「いえ……ブルー・プラネット様、私が今こうしてここに居るのは自然の成り行きです。私たちが愚かで未熟であっただけのこ――」

「違う、そういうことじゃないんだ!」

 

 ブルー・プラネットはアルシェの言葉を遮って叫んだ。

 

「私が……私達のせいでこの世界が変質した! 私達がこの世界の理を変え、本来の姿を変えてしまったのだ。どうしたら――」

「ブルー・プラネット様……確かに、御身のご光臨によってこの世界は変わりました。しかし、私は……私はそれで良かったと思っています」

「世界が狂ったんだぞ……人間も、お前だって私達のせいで人生を狂わされて……」

「はい――」

 

 アルシェは微笑んで静かに言う。

 

「――私は、ブルー・プラネット様に出会わなかったら妹たちのように……それに妹たちも……」

 

 ブルー・プラネットは言葉を失った。アルシェの妹たちのことを思い出したのだ。

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 帝国が魔導国の属国となりスレイン法国とリ・エスティーゼ王国も屈した翌年、アルシェは初めて人間社会に復帰した。「ナザリックは人間に対して慈悲深い」――その宣伝に使うためだ。

 どこかに潜んでいるかも知れないプレイヤーがナザリックの内情を知る人間の話を聞きに接触してくることを期待して、自爆用のアイテムを仕掛けられた上での解放だ。

 

 アルベドとデミウルゴスに教えられたように親善大使の役を果たしたアルシェは、そのまま“餌”として帝国での自由活動を許された。八肢刀の暗殺蟲(エイトエッジアサシン)の監視付きで。

 

 アルシェが真っ先に向かったのは、帝国領内の我が家だった。ナザリックに侵入する前に保護を誓った妹達に会うためである。だが、久しぶりに戻った我が家は、既に見知らぬ商人の所有物となっていた。

 

 ドアを叩く音を聞いて出てきた商人は成金趣味のゴテゴテとしたアクセサリーを付け、横柄な態度で小柄な少女を迎えた。が、それが魔導国の親善大使であることを知ると、飛び上がり、その場で平伏した。悪趣味な調度品に囲まれた応接間で商人に代わってことの経緯を説明したのは、かつてこの家でアルシェたちに仕えた執事ジャイムスであった。

 

「アルシェ様が行方不明となってすぐのことでした……金貸しが借金のかたにと家具を持ち出し、まだ足りぬと言ってクーデリカ様とウレイリカ様を連れ出したのは……」

「父は……何をしてたのっ!」

 

 激しい怒りがアルシェの髪を逆立たせた。何という愚かな男だと。一家の主が、娘たちが連れ去られるのを黙ってみていたのかと。

 

「もちろん、ご両親も必死で金貸しを説得しました。アルシェ様は必ず戻ってくる、待っていただけるように、と。しかし、奴らは何人ものゴロツキを連れ……帝国の属領化で司法も混乱し……」

「父に会わせてっ!」

「アルシェ様……お父上もお母上も、すでにこの世にはいらっしゃいません」

 

 言葉を失ったアルシェに執事は続けた。

 借金はフルト家唯一の稼ぎ手であるアルシェの名義でなされ、アルシェの名義で返済していた。

 そのアルシェが突然行方不明になった――逃げた以上、非はフルト家にあり、返済の期日を待たず全ての借金が問答無用で清算された。

 そしてクーデリカとウレイリカが連れ去られた晩、両親は毒を呷って死んだのだという。

 

「貴族としてご立派な……静かな最期でございました。ただ一つ、アルシェ様たちに貴族としての最期を迎えさせてやれなかったのが心残りだと……」

 

 主人に見届け役を命じられた元執事は、そう言って涙をぬぐった。

 主を失った家は競売に掛けられ、現在の商人のものとなった。それでも執事はアルシェがいつか帰ってくると信じ、この家に残って商人に仕えて今まで来たのだという。

 

「クーデリカとウレイリカは……」

「……私も金貸しに聞いたのですが……それは……」

 

 執事は口ごもったが、アルシェには言わずとも分かった。

 アルシェは帝都を駆けた。金貸しを問い詰め、かつてのワーカー仲間の伝手で帝国内の娼館の情報を集め、「幼い元貴族の双子」の行方を捜した。

 しかし、妹たちの行方を知ることは出来なかった。

 妹たちは幾つもの娼館を転売されたらしい。帝国が魔導国の属国となり混乱する中で幾つもの地下組織が生まれては消え、その取り扱う商品の行方を追うことは不可能だった。魔法によって見つけ出そうにも、手掛かりとなる妹たちの所有物は既に失われていた。

 

 絶望の中、アルシェは魔導国の親善大使として次の仕事を果たさねばならなかった。

 各地を回り、幾つかの公務を終え、次に向かった場所――王国に設けられた孤児院を訪れたとき、アルシェは見覚えのある顔を見つけた。

 それは偶然だった。

 孤児たちにも魔導国の慈悲を――そう案内された部屋で見つけた、痩せ衰えた傷だらけの少女たち。変わり果てた姿ではあったが、妹たちに間違いなかった。双子の姉妹という希少性が幸いし、クーデリカとウレイリカは常に二人一組として取引されていたらしい。

 一言も喋らずに部屋の隅でうずくまり、虚ろな目で一日中壁を見つめる妹たちはアルシェの呼びかけにも反応しなかった。

 

「ここに来てからずっとこの状態です」

 

 孤児院の管理人はそう言ってアルシェに説明した。

 魔導国の犯罪撲滅運動により王国内の娼館が捜査されたとき、多くの孤児が保護され集められたのだという。そのような孤児たちは皆、引き取り手もないままに、与えられる食事を食べるだけの生ける屍となっていた。

 

 アルシェは何度も妹たちの肩を揺すり、その名を呼び続けた。妹たちの顔を自分に向け、姉である自分の名を何度も伝えた。

 やがて2人の虚ろな視線がアルシェの顔に向かい、その目に精気が戻ってきた。

 

「おねえちゃん、なの……?」

「アルシェおねえちゃん……?」

 

 かすかに姉を呼ぶ声が双子の口から洩れるとアルシェは妹たちの身体を掻き抱いて号泣した。

 そして共に来ていたアルベドを通じてブルー・プラネットに連絡を取り、妹を第六階層で保護することを願い出た。

 

「ふむ、まあ、女だけ2人なら問題ないか」

「あ、妹さん2人ですか? 良いですよ。ナザリックは慈悲深いって宣伝にもなりますし」

 

 ブルー・プラネットは第六階層の維持費を計算し、問題ないだろうと判断を下した。その連絡を受けたモモンガは笑ってクーデリカとウレイリカのナザリック移管を認めた。抜かれた歯も、打撲の痣や火傷だらけの肌もペストーニャの回復魔法によって治療され、クーデリカとウレイリカは元通りの美しい少女の姿に戻った。

 

 だが、2人の心に負った傷は癒されることが無かった。

 過去の幻影に怯えて何度も身体を爪で掻き毟り、壁に頭を打ち付け、自分の目を抉ろうとする。手首をナイフで切り、危うく命を落とすところだったことも1度や2度ではない。

 ブルー・プラネットの薬がその都度、少女たちの肉体の傷を癒した。そして更なる自傷行為を無効化するためにアイテムが与えられた。

 それは、かつてアルシェがシャルティアの居室で与えられたものと同じものだった。

 もはや少女たちの身体が傷つくことは無い。しかし、妹たちは何年も経った今でも夜中に目を覚まして恐ろしい悲鳴をあげることがある。アルシェはその度に妹の身体を抱きしめて、もう恐れることは無いのだと慰めている。不眠のアイテムを身に付けたアルシェは、もう眠らない。地上に出かけることの多くなったアウラとマーレに代わり、こうして夜も昼も第六階層を巡り、妹たちの世話をしている。

 

 自分が行方を眩ませたために父も母も死に、妹たちは悪夢に苛まされている。

――そう考えるアルシェは贖罪に一生を捧げるつもりでいる。

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

「私は、ありのままの世界が必ずしも良いものだとは思えません。私も、妹たちも、ブルー・プラネット様のお創りになられたこの場所でこそ安らかに生きていられるのです。ブルー・プラネット様がこの世界に来られたのは、私たち愚かな、弱い者に避難所を与えるため……この世界を変えるならば、それは世界を正すためであると思っています」

 

 アルシェはそう言って目を閉じ、深く頭を下げた。

 

「そうじゃない……俺はそんな――」

 

 ブルー・プラネットは首を振った。

 

「――そんな為じゃない。俺はただ、自分の為に……自分を誤魔化すためだけにここを創ったんだ。そうだ、何もかも自分の為に……自己満足で」

「でも、私たちはそのために生きていけるのです。たとえ御身がそのつもりでなくとも、私たちには――」

 

 違う――ブルー・プラネットは首と腕を同時に振った。

 

「ここだけなら良かった。でも、世界まで捻じ曲げてしまったんだ。そんなつもりじゃなかった。世界を変えるなんて、分かっていたら……」

「しかし、何も為さなければ、世界はより酷いものになってしまうのではないでしょうか?」

 

 アルシェはブルー・プラネットを見上げて続けた。この世界の人間がもつ、未来を信じる若い眼差しで。

 

「ブルー・プラネット様、私たち人間は弱い存在です。魔獣に怯え、人間同士でも傷つけあう愚か者たちです。モモンガ様やブルー・プラネット様のお力に縋り、導いていただくことが必要なのです」

「やめてくれ。俺たちは神じゃない。俺たちが正しいわけがない。俺たちが手を出したら世界はダメに……」

 

 ブルー・プラネットの悲鳴にアルシェは口を噤んだ。

 ナザリックの化け物達――人外の能力をもつ強者たちに神のごとく崇められる至高の存在が「神ではない」と苦しんでいる。その姿に何故か父の姿が被って見えた。貴族の地位を奪われても貴族であることしかできなかった父、娘を救えずに毒を飲んだ哀れな男の姿が。

 

(この魔物は神になりたかったんだ。そして神になれなかったことに苦しんでいるんだ)

 

 アルシェは初めてこの化け物の――ブルー・プラネットの気持ちが分かった気がした。

 

「……神でなくとも構いません。私達には御身が必要なのです。どうか――」

「じゃあどうすればいい! 俺は、俺は何故この世界に……」

「――どうか、お心のままに」

 

 ブルー・プラネットは沈黙し、アルシェはその霧の枝を手に取ってそっと胸に抱いた。

 

「ブルー・プラネット様。どうか、ご自由になさってください。至高の御方がお悩みになることは無いのです。いかなることであれ、御身のお心に私たちは従います」

 

 その言葉を聞き、ブルー・プラネットはアルシェの忠誠心を不思議に思った。

 他のNPC達が忠誠を尽くすのは理解できる。彼らはそう創られたからだ。

 しかし、アルシェは違う。この世界で生まれた人間だ。地下世界に閉じ込められ、恨んでもおかしくはない――いや、恨んで当然のはずだと。

 

「何故だ? 何故、お前はそこまで私を信じてくれるんだ?」

「畏れ多いことですが――」

 

 アルシェは口ごもった。次の言葉を躊躇するアルシェに、ブルー・プラネットは先を促した。

 

「――私はブルー・プラネット様を信じてはおりません」

「はぁ?」

 

 決意を秘めたアルシェの眼差しに、ブルー・プラネットは目を瞬かせた。信じていない存在に向かってあえて自由にしてくれと言うアルシェの真意を掴みかねて。

 

「ブルー・プラネット様は私の祈りを……私が媚び諂っても、それを聞き届けてくださりません。神のごときお力をお持ちでも、神官たちの言う神ではありません」

「そ、そうだが……」

 

 滔々と語るアルシェに気圧され、ブルー・プラネットは頷いた。

 アルシェも頷いて続ける。ようやく得た安息の地、この第六階層を統べる魔神を鎮めるために。

 

 アルシェは父の姿を思い浮かべる。この地下墳墓に旅立つ前に、最後に見た父の姿を。

 

『もう貴族ではない』――その言葉を聞いて父は激昂した。しかし、貴族であり続けようとした父はそのために死んだ。あのとき、父とよく話し、別な道を示すことが出来ていたら、今も家族と一緒に幸せに暮らしていたかもしれない。話し合いを拒み、父に背を向けて独りで何とかしようとした自分の甘さが両親を死なせ、妹を悪夢に追いやった。

 

 あの失敗は繰り返さない。――その思いがアルシェの口を開かせた。

 

「ブルー・プラネット様は、ご自分が正しくないと仰いました。ならば、ブルー・プラネット様が思い悩んだ末に出された結論は間違っているかも知れません。御身のお力が間違った決意の下で振るわれるとき……それは世界のあらゆる者にとっての災いとなるでしょう」

 

 アルシェの身体は震えていた。一撃で自分の身体を肉片に変えることのできる魔物に苦言を呈することへの恐れに。

 だが、父や自分のように、無辜の者を巻き込んで破滅に至らないために、アルシェは精一杯の気力を振り絞り、最後まで続ける。

 

「私たちは御身に比べれば無に等しい存在……ただひたすら御身に縋って生きているのです。ですから、ブルー・プラネット様にはいつも笑っていていただきたいのです。私たちのか細い祈りが届くかもしれないと希望を持てるように……どうか、お悩みにならず……」

 

 ブルー・プラネットは押し黙った。アルシェは震えながらブルー・プラネットを見つめる。

 

「……そうだな。私は傲慢だった。傲慢すぎた」

 

 ブルー・プラネットはようやく口を開く。その言葉は後悔の重みに途切れ途切れだった。

 

「正しくないと言いながら、今もお前たちのことなど考えず、自分の気持ちを押し付けようとしていただけだった。許してくれ、アルシェ」

 

 恥ずかしさのあまり顔を枝で覆ってブルー・プラネットは謝罪する。

 神になったように思いあがり、人間ではなかったことに絶望する。全力で「間違っていた」と叫び、それを認めさせようとする……まったく矛盾に満ちた行動だと。

 

「とんでもございません。ブルー・プラネット様のそのお言葉を頂けたのは望外の喜びです」

 

 至高者の激昂を恐れていたアルシェはほっと胸をなでおろし、ブルー・プラネットを見つめた。

 

(もっと早く、言うべきだったのかもしれない)

 

 ブルー・プラネットが――この恐るべき存在が人間のように悩むとは、アルシェは今日まで考えもしなかった。ましてや人間ごときの苦言を受け入れてくれるとは、考えることすら馬鹿馬鹿しいと思っていた。

 アルシェに初めてブルー・プラネットを信じる気持ちが芽生えた。もし、もっと早くブルー・プラネットを信じていたならば違う道が開けていたかもしれないと、わずかな後悔とともに、自分の上で顔を覆ったまま土下座をしている魔物を見つめた。

 

「アルシェ、ありがとう」

 

 顔を覆ったまま、ブルー・プラネットはアルシェに感謝を告げた。

 世界を変えることの危険など、アルシェに理解できるわけはない。しかし、この世界の人間が、ブルー・プラネットが神ではなく、一個の悩む存在であることを理解してくれたことが嬉しかった。肩の荷が少しだけ軽くなった気がした。

 

 ブルー・プラネットは立ち上がった。

 アルシェもようやく横たわって浮かぶ姿勢から解放され、ブルー・プラネットの横に立って微笑みかける。その様子を見て、ブルー・プラネットは思った。

 

(俺が神ではないと分かっているなら、世界を変えることの危険も分かってくれるかもしれない)

 

 そして優しくアルシェに語り掛ける。自分を見上げる小さな存在の目を見つめて。

 

「しかし……お前にも知って欲しい。私はいつも世界のことを……人間の社会だけじゃない。蟲や草木のことも含めて考えてきたんだよ。この美しい世界がいつまでも繁栄できるようにと……しかし、それが間違いだったんだ。私たちの魔法、いや、私たちの存在自体が世界を汚すものだったんだ」

「そうなのですか?」

 

 驚いた顔のアルシェを見て、ブルー・プラネットは弱々しく笑って続けた。

 

「ああ……お前には分からないかもしれないが、私は知っているんだ。別の世界で人類は、やはり良かれと思って世界を汚した。……愚かなことだ。そう思っていながら私は、この世界でも同じ過ちを――」

「ブルー・プラネット様……私には別の世界のことは分かりません。しかし、ブルー・プラネット様が愚か者であられるはずがありません」

「いや、愚か者だよ。私も結局、人間だったんだ。人間は変わらんのだ。こんな姿になっても」

 

 そう言って、ブルー・プラネットは天井で瞬いている星々を見つめた。

 アルシェは戸惑った。何一つ理解できないことだった。目の前の超越者、樹の魔物が別の世界を語り、挙句の果てに「人間だった」と言い始めたのだから。

 

「ブルー・プラネット様……ブルー・プラネット様は人間だった……のですか?」

「ああ……いや、さあな。もう俺にも分からないよ……俺は何なのだ?」

 

 俺は何なのだ――ブルー・プラネットは繰り返し呟いた。それを見てアルシェは何かを言わねばならない気がした。

 

 だが、目の前の超越者は何なのだろうか? 神ではない。ただの魔物でもない。かといって人間とも思えない。

――考えあぐねた結果、アルシェは一つの答に達した。それは自分の願望に過ぎないと分かっていながら、アルシェはブルー・プラネットに告げる。

 

「ブルー・プラネット様は……私達にとって、世界にとっての薬師なのだと思います」

「世界にとっての……薬師?」

「はい、何と言って良いのか分かりませんが、この世界の苦しみを救ってくださると。私が御身に初めてお会いしたとき、ブルー・プラネット様は薬師のお姿をとっていらっしゃいました。私にとって、初めて見る偉大なる薬師でした。薬だけではございません。今も妹たちに家をお与えくださり、癒してくださっています」

 

 ブルー・プラネットはアルシェを見つめ、しばし沈黙した。元の世界でもユグドラシルでも、そして今も薬師か……と、奇妙な感覚で納得しながら。

 そしてアルシェに告げる。若干、皮肉を込めた口ぶりで。

 

「そうだな。薬も本来の姿を捻じ曲げるものだと言っていい」

「しかし、苦しみをやわらげ、人の命を長らえさせるものです」

「それは一時の気休めだ。使い続ければ、やがて薬は毒になってしまうものだ」

「それは使い方次第です。毒だって、少量であれば薬になることもあるのですから」

 

 賢い人だ――ブルー・プラネットはアルシェの顔を見て笑った。

 

「ははは……そうだな、毒だって少量ならば薬になる、か」

 

 俺達は、この世界に混ざってしまった毒だ。しかし、まだ手遅れではないかもしれない。

――そう思ってブルー・プラネットは頷いた。胸から重いものが取り除かれたような気がした。

 

「アルシェ、少し外に出てみないか? 嫌だったら嫌と言ってくれ」

 

 もう少し話をしたい。――その思いを込めたブルー・プラネットの言葉に、アルシェはチラリと巨大樹を眺めて考えた。

 妹たちは今夜はよく眠っている。外の世界に行くのは躊躇いもある。しかし――

 

「はい、ご一緒いたします」

「ありがとう。では、行こう」

 

 アルシェは頷いた。ブルー・プラネットはアルシェの身体を抱え、霊廟の階段に転移した。

 そしてアルシェを下ろす。アルシェは恐る恐る階段を踏みしめ、一歩ずつ登っていった。

 

「久しぶりに本物の空を見てみないか?」

 

 そう言って、ブルー・プラネットは風を切り、勢いよく夜空へと舞い上がった。

 上空で横に目を遣ると、アルシェがいない。下を見ると、はるか下界からゆっくりとアルシェが飛んで来るのが見えた。

 

「悪い、速すぎた」

「いえ……申し訳ございません」

 

 魔力の差を考えずに飛んだことを反省し、ブルー・プラネットは下に降り、アルシェの速度に合わせて再びゆっくりと上昇を始める。

 

「寒くはないか?」

「はい、<低温耐性(レジスト・コールド)>を掛けましたから」

「ははは、そうか……私……いや、俺は昔、高く飛び過ぎて酷い目に遭ってね。いや、月がきれいで思わず飛びすぎて」

 

 雲を抜けながら砕けた口調で笑うブルー・プラネットをアルシェは驚いた顔で見つめた。

 

「ブルー・プラネット様が、ですか?」

「そうさ、俺はちょっと抜けててな」

 

 何と返していいか分からないアルシェを見てブルー・プラネットは笑い、そして夜空を見渡した。もう月は沈んでしまったようだ。

 それでも夜空は美しい――そう思って、ブルー・プラネットは星空に浮かぶアルシェに言った。

 

「外は久しぶりだろう? やはり、本物の夜空はいいと思わないか?」

「はい……いえ、ナザリックの夜空も素晴らしいです」

「いやいや、お世辞はいい。お世辞はいいんだ。本物の空に勝るものなど無いさ」

 

 アルシェに笑いかけ、ブルー・プラネットは繰り返す。

 

「もっと上まで行ってみよう。<深呼吸(ディープ・ブレス)>」

 

 自分には必要ないが、人間には呼吸が必要だ――ブルー・プラネットは呼吸補助の魔法をアルシェに掛ける。

 そしてアルシェを抱えて遥か高く上昇する。この世界の人間では到達できないであろう高さに。

 

「地面が、あんなに下に……」

 

 アルシェの声に、月を探していたブルー・プラネットは下界を見下ろす。

 雲の下に大地があった。第六階層よりも遥かに広大な森が、夜の闇の中で黒々と広がっていた。

 そしてその森の外には草原が、山脈が……どこまでも続いていた。

 

(これが本物の“ブルー・プラネット”だ)

 

 眼下の大地を見渡し、ブルー・プラネットは自らの小ささを改めて思い知った。

 遥か彼方に要塞が見えた。それは森の中ではほんの一点に過ぎなかった。自分が死なせてしまった大地の周りには、まだ蟲達が棲んでいるであろう生きた大地が広がっていた。

 

 ブルー・プラネットはアルシェを見て尋ねる。

 

「最初に会ったとき……ブルー・プラネットという名は、『青い惑星』という名は、お前達には何と聞こえたのだったかな?」

「……『青い迷い星』が、ですか?」

 

 アルシェが不思議そうに聞き返し、ブルー・プラネットが苦笑を漏らす。

 

「ああ、そうだ、そうだった。私は迷ってばかりだな」

 

 そして首を傾げているアルシェを見る。

 

「ブルー・プラネット様……あなた様は一体……」

「ははは、私は、うん、ただの小さな『迷い星』だよ。それでいい。それで良かった……」

 

 そう言ってブルー・プラネットは遥か地平を眺めた。「まだ間に合う」という安堵とともに。

 

(どこまで汚染が広がっているか、まずは調査だな。それに農業のあり方を考えて……)

 

 要塞の前で暴れたことをモモンガにどう説明しようか。明日から土地改良をどうしようか。

――ブルー・プラネットの脳内で様々な考えが渦を巻く。

 世界の汚染を防ぐため、やるべきことは山積みだと活力が湧いてきた。

 

「明日から、じゃないな。もう『今日』か」

 

 地平線を見つめ、そう呟いた。彼方の空が微かに白い、もうすぐ夜が明けるのだろうと思いながら。

 


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