どうしてこうなった?
――引きつった笑顔で白目を剥き口から泡を吹いて硬直する少女を前に、ブルー・プラネットも固まる。
「いやまあ、そんなに緊張するな」
どうも硬さが残るアルシェにそう言って頭を撫でてやろうとしたら、いきなりこれだ。
こんな状態で――しかも変態的な格好をさせて、どうしてヘッケラン達に会わせられるか。
人間としての記憶の中、ブルー・プラネットの脳はこの事態を打開する方法を探し求める。
元の世界において研究者として選抜されて以来勉強に明け暮れてきたこの身には、噂に聞く「思春期の少女」というモノの扱いは分からない。ただ、過去の友人と鑑賞した娯楽作品においては、このぐらいの年齢の少女というモノは――もっとこう、都合がイイもののはずだった。
『リアルの女って、怖いっすよ』
ヒステリーがどうのこうのとペロロンチーノは言い、非実在の少女に逃げた。ぷにっと萌えも深く頷き「そうなる前、いまだ開かれざる蕾の儚さを愛でたいのですよ」と更に良くない方向に行ってしまった。
ブルー・プラネット自身、怖い女は何人か知っている。奴らは殴ってくる。
だが、目の前の少女が醸し出す恐怖は、奴らとは異質なものだ。
怖い――人間としての感性がそう訴える。
こんなのを自分の部屋に置いておきたくない。背中を見せたら、やられそうな気がする。
かといって、また何か言ってそれに反応されたら如何すべきか分からない。
『どうした?』
『キィィィッ』
そんな感じで飛び掛かられたら腰を抜かす自信がある。
これが明確な敵であれば問題はない。ユグドラシルにはもっとグロい敵が沢山いた。
だが……目の前の“ソレ”はモンスターではない……はずなのだ。その認識のズレがブルー・プラネットに未知なるものへの恐怖を呼び起こす。
しばらく、アルシェとブルー・プラネットは硬直したまま対峙する。
だが、アルシェは人間だ。どうしようもない体力の限界というモノがある。
グラリと体が揺れ、アルシェは崩れ落ちる。床に頭を打ち付ける寸前――仮にそうなっても物理ダメージを防ぐアイテムがある限り問題はないのだが――ブルー・プラネットは枝でアルシェを支える。
「うひっ、うひっ、うひっ……」
アルシェは真っ青な顔で半ば失神しつつも痙攣するように笑っている。魔法のアイテムを着用している限り失神というバッドステータスは訪れない。しかし、かといって体力の限界によって極度の貧血になった状態で明晰な意識を保てるわけでもない。
ブルー・プラネットは<体力回復>のポーションを合成する。そして、アルシェの口に注ぎ込み、その蒼い顔に血の気が戻るのを確認する。
「しっ、失礼しました!」
はっきりとした意識を取り戻したアルシェは、血の気が戻った顔を再び蒼くして土下座をする。
南方の民族が行う謝罪の姿勢らしいが、実際に見るのはシャルティアのシモベたちが初めてだった。
『シャルティア様、どうかお許しを!』
――粗相をしたバンパイア・ブライドがそうやって床に這いつくばるのを何度も見た。
「ブルー・プラネット様、どうかお許しを!」
――この地獄のような墳墓において、それが正式な謝罪なのだと聞いてアルシェは真似をする。
「だからさ、そこまで卑屈になることはないって」
やや苛立った声でブルー・プラネットは、この扱い難いイキモノに命令する。
「お前は、過剰な緊張のせいで体力を異常に消耗している。もっと力を抜け。とりあえず……そうだな、メシでも食って落ち着け」
「はい、御身がそうお望みでしたら……」
体力に余裕ができたためか、再び微笑みを無理に作り、媚びるアルシェに対し、ブルー・プラネットは諦めたように首を振る。
ブルプラ達、シモベも似たようなことを言って体力の限界まで頑張った。しかし、それはこちらが命じた仕事による疲労であり、自分で勝手に緊張してぶっ倒れるのとは違う。
(やはり、そう創られた者でないと無理があるよなあ)
おそらく、シャルティアのところでもナザリックのシモベ基準で過剰な忠誠心を教え込まれたのだろう。
『寝ないで働くのが当たり前』
――元の世界でもそういう階層があり、そういう低所得階層は寿命が極端に短かった。折角保護したこの人間をみすみす死なせるのももったいない気がする。
(ナザリックの外に解放するわけにはいかないが、やはり自然の中が一番か)
もともと、実験もかねて第六階層の森林地帯に移して生活させるつもりだったのだ。
広いとはいえ自分の居室で人間を飼育するのは無理がある。ユグドラシル時代の貴重なアイテムを触って壊されても困る。アルシェがいかに賢いといっても、この部屋にあるものは皆、この世界においては規格外のシロモノだ。
(なるべく早く現在の状態を確認して、第六階層への適合を見なければな……)
モモンガの話では、デミウルゴスも外界で牧場を運営しており、ナザリックに羊皮紙を供給しているらしい。そこであれば、外界とはいえ管理も問題ないだろう。もし第六階層に適合しないのであれば牧場に送ることも選択肢の一つだ。デミウルゴスの牧場で働いているのは彼の配下たち――悪魔たち――が中心だろうが、人間の羊飼いがいてもいいかもしれない。
ブルー・プラネットが計画している実験は、この世界とナザリック、それぞれの生態系がいかに相互作用するかであり、「ナザリックの者と人間が共に働く」という極度に単純化された系とは設計思想が根本的に異なるのだが――
そんなことを考えながらアルシェを見ると、アルシェもこちらを見つめている。
ブルー・プラネットは一瞬疑問に思い、すぐに自分のミスに気が付いた。
「すまない、すぐに食事を手配しよう」
自分はすでに食事が不要な体になっているため、他者の食事にはどうしても鈍感になってしまうのだ。元の世界でもビールを飲めないため他者のビールを注ぐタイミングがつかめなかったブルー・プラネットは反省する。
料理長に<伝言>で人間用の食事を依頼する。消化が良く栄養価の高いものを自室に持ってくるように、と。
至高者から直々の依頼を受けた料理長は歓喜し、叫ぶ。
『しょ、承知いたしました。最高の料理をご用意いたします!』
ブルー・プラネットは頭の中で響く叫びに内心「うるさい」と思ったが、料理長の喜びに水を差すのもためらわれ「よろしく頼む。期待しているぞ」とだけ言って<伝言>を切る。
◇◇◇◇◇◇◇◇
暫くしてノックの音がした。
ドアを開けると一般メイドの一人、シクススが料理を盆に乗せて立っている。
「ブルー・プラネット様、お料理をお持ちいたしました」
ブルー・プラネットを見上げるシクススの顔は、至高者の前に直接立つ栄誉への喜びで輝いている。通常であれば掃除を主たる仕事とする一般メイドが至高者の前に立つことなどあり得ないのだ。
バンパイア用の設備しかなかった第二階層の死蝋玄室に人間用の食事を運ぶようシャルティアから手配されて以来、「あの人間の女」関連のことはシクススが取り持つことに、メイドたちの間では何となくではあるが決まっていた。
至高の御方々に尽くすよう創造された身が人間のために働く――それは屈辱であり、同じ境遇のインクリメントと愚痴をこぼしあったものだ。それでもインクリメントは直接ブルー・プラネットから色々と仕事を仰せつかったことを自慢しており、シクススはそれが妬ましかった。
今日まで耐えてきた甲斐がありました。
――シクススはそんな顔をして、背筋をピンと伸ばしてドアの前に立っている。
「失礼いたします」
ブルー・プラネットに促され、シクススは食事の入ったトレーを前に構え、頭を下げて入室する。その表情は、貴重な宝物を運ぶ名誉に与った騎士のように誇らしげであったが――
「アルシェ様、お食事をお持ちいたしました」
――アルシェに対して投げかけられるその声は事務的であり、視線には冷たいものが宿る。それは、この神聖な部屋に紛れ込んでしまった場違いな愛玩動物に投げかけられる侮蔑の視線である。
「ありがとうございます」
アルシェは顔見知りのメイドと一瞬視線を交差させ、目を伏せる。
美しい少女が蔑んだ目で見つめている。
シャルティアの玄室でも感じていた雰囲気が、今日は特に攻撃的に感じられる。
それも仕方がない――アルシェはそう思いを巡らす。
シャルティアのところでは、基本的に着衣は許されず獣のように裸で床を這っていた。
しかし、今は腰までしかないピンク色の服と、華美な刺繍が施された黒い下着だけの姿である。
獣と娼婦の違いだ。
メイドが蔑み、攻撃性を向けてくるのも仕方がないだろう。
だが、この墳墓の化け物たちにとっての切り札を、アルシェは学んでいる。
「これは至高の御方に与えられたものです」
どんな恥知らずな衣装であろうと、そう言えばこの墳墓の化け物たちは引き下がる。
そして、このメイドは今のアルシェの衣装が本来のものでも、シャルティアから与えられたものでもないことを知っているはずだ。
アルシェが弁解の声を上げようとしたとき、先にメイドが口を開いた。
「このお料理は、どちらに置けばよろしいでしょうか?」
シクススの視線はすでにアルシェには向けられていない。質問はブルー・プラネットに対してであり、その声は明るく可愛らしく、純粋な敬意がこもっている。
「ああ、そうだな……もうちょっと奥に動いてくれ」
ブルー・プラネットの関心もアルシェから外れているようだ。
シクススが料理を持ったまま奥の本棚まで移動すると、ブルー・プラネットはドアから入ったところの空間に長いテーブルを出現させる。ギルドメンバーが訪れたとき、奥にある本棚から持ってきた資料を広げたりする応接間用に作ったものだ。
「では、ここに置いてくれ」
「はっ! かしこまりました」
ブルー・プラネットが示し、シクススはそこに料理を並べる。
銀のトレーに乗せて運ばれてきた食器には覆いが掛けられ、料理がすぐには冷めないようになっている。
その覆いを外すと、湯気とともに食欲を誘う良い香りが部屋中に漂ってきた。
器の中にはアルシェが見たことのない食材で作られた豪勢な食事が盛られている。
ブルー・プラネットに促され、席に着いたアルシェの腹がグゥゥと音を立てる。
思わず腹を押さえたアルシェに、シクススは更に冷さを増した視線を向ける。
「アルシェ様はご空腹であられるようですね。これだけしかなくて申し訳ございませんが、どうぞ、召し上がりくださいませ」
シクススの事務的な声に蔑みが混じっている。意地汚い女だと嗤うように。
――そう感じ、アルシェは恐る恐る上目遣いにブルー・プラネットを見上げる。シャルティアが自分のシモベを失態とは言えないような失態で滅ぼすのを何度も見た記憶が蘇る。
「はは、食欲はあるか。良いことだ」
横に立つブルー・プラネットの声は呑気だ。
「はっ、アルシェ様には是非、精を付けていただきたいと、料理長が腕を振るいましたから」
アルシェを見ながら明るい声で答えつつ、シクススは必死に考えを巡らせていた――
料理長は至高の御方からの依頼で舞い上がり、人間向けに最高の料理を出すといっていた。
ブルー・プラネット様からの<伝言>の内容は分からないが、料理長の態度からすると、シャルティア様から引き取られたあの女を「最高位として扱え」と言われたのだろうか?
しかし、いかに最高位を――至高の御方の寵姫の座を得たとはいえ、人間ごときがナザリックにおいて至高の御方と同室で最高の料理に舌鼓を打つことなど許されるだろうか?
この女は、シャルティア様の下で教育を受けていた時は獣と変わらぬ扱いだったではないか。
「私の好きに教育してよいと仰ったでありんす」とシャルティア様は仰っていた。ならば、ブルー・プラネット様にとってもアルシェは守護者より格下、眷属と同等ということになるのでは?
――そんな考えを。
第二階層にいたときからアルシェの処遇はメイドたちの間でも話題になっていた。
だが、肝心のブルー・プラネットから指示がない以上、その議論に結論を出せるわけもない。
とりあえずは「寵姫候補」として扱うのが無難であろう。だが、人間である以上、アルベドやシャルティアのような他の寵姫候補とは絶対的な差があるはず。ならば、アルベドやシャルティアの手前、たとえ寵姫候補であってもあまり手厚く扱うのはよろしくないだろう。
「丁寧に接するが、人間の分をわきまえさせるべきである」
堂々巡りの議論の末、そんな曖昧なところに落ち着き、それが慇懃無礼な態度へとつながっていた。
今日、初めてブルー・プラネット様がアルシェを直接お取り扱いになる。そのご様子を観察し、あらためて今後の方針を決めよう。
――それが仲間たちと下した結論だ。
シクススはその重責を担っていた。その緊張もあり、アルシェを見るシクススの視線は鋭い。
「それで、この料理は何なのかな?」
ブルー・プラネットの好奇心に満ちた声に、シクススは回想から覚める。
「はい、こちらがスッポンの血入り北欧風中華スープ、こちらが豚肉とカボチャの煮込み、牡蠣とタコの酒蒸しニンニク風味山芋短冊添え、そして、デザートにザクロのゼリー、スイートポテトの裏漉しに蜂蜜漬けマカのみじん切りを和えたもの、お飲み物にはジンジャーティーをご用意しております。お好みでレモンと蜂蜜をお使いください」
「ほぉ……うん、良いな。元気が出そうな料理だ。アルシェはどうも貧血気味だから」
淀みのないシクススの説明に、ブルー・プラネットは食材に含まれる各種栄養素を考えて頷く。この世界の人間に元の世界の栄養学が通用するのだろうかと考えながら。
「はい、料理長も是非、アルシェ様にはお元気でいらして欲しいと申しておりました」
料理に合格点が出され、シクススは笑顔になり明るい声を出す。
「はは、『アルシェ様』か。良かったな、アルシェ。みんなに大切に思われて」
ブルー・プラネットの言葉を聞き、アルシェは身震いする。
シャルティアと獣の神官の言葉――「大事な賜りもの」という言葉を思い出して。
そんなアルシェを見つめるシクススの目が細められる。
(ふぅん、やはり、ブルー・プラネット様はこの女をお気に入りなのだ)
メイド仲間に知らせなければ。――シクススは微笑みを作りながら心のメモ帳に書き留める。
「それでは、お食事がお済みになりましたらまたお呼びください」
「うむ……それから、アルシェの服のことは……その、なんだ、事情があってな。誰にも言うな」
「はい、事情があるのですね。アルシェ様のご衣裳の件は忘れます」
シクススは深く礼をして退室する。
彼女はアルシェの服のことは口外すまいと誓う。それは至高者の命令であり、絶対なのだ。
だが、その服が意味するという「事情」……それは是非、仲間と共有しなくてはならない。
(ブルー・プラネット様は、あの女と御子を御つくりになられる御積りかもしれない)
アルシェがシャルティアの下で教育されているときから、そういう噂は囁かれていた。他でもないシャルティアによる教育……それは愛妾としての訓練に他ならないではないか、と。
そして今日、シクススが確認したところ、アルシェの装いは明らかに愛玩用のモノであった。
では、なぜ外界の人間ごときを愛妾にするのか?
その疑問に答えるカギとなったのが、もう一人の外界から来た人間の女だ。ツアレという名のその女は、自分たちと同じメイド服を与えられ、メイドとしての職務を果たしている。
だが、その裏の目的も囁かれている。デミウルゴス様は、ナザリックの者が人間の女と子をなすことが可能なのかを知りたいらしいのだ、と。
ならば、ブルー・プラネット様が人間の女を自分の部屋で飼うと決めたのも……
メイドたちの噂を反芻しながらシクススは足早に、それでも決して聖域を騒がすことなく控室に戻る。そこでは仲間たちがスナックを摘まみながら情報を待っており、その目が一斉にシクススに集まる。
シクススは後ろ手でドアを閉め、声が聖域に漏れないようにしてから深呼吸をし、顔の前に人差し指を立てて低い声で仲間に告げる。
「やっぱり、ブルー・プラネット様は、あの女を寵姫にされる御つもりのようよ!」
「ええー!」
仲間たちから声が上がる。やはりという思いと、人間が何故という疑問が混じった声だ。
「でも、その、うん、やっぱり至高の御方のご決定には疑問は無いのだけれど……」
「う、うん、そうよね」
現実を受け入れようと努力するメイドたちに、シクススは爆弾を投下する。
「しかも、私が部屋に入ったときはもう、御子を御つくりになる寸前のところだったの!」
「きゃぁー!!」
騒々しい悲鳴が上がる。
「え、なに、その、つまり、あんたが部屋に入ったときには、そういうことをブルー・プラネット様は始められていたと……」
「ええ、詳しい様子はブルー・プラネット様から直々に口止めされているから言えないけど」
「な、なに? そんなすごいことになってたの?」
「ゴメン、こればっかりは言えない……あの女があんな格好をさせられて、なんて」
「ぎゃぁぁぁぁぁー!!」
メイドたちの肺から空気が最後の一滴に至るまで絞り出される。
「どうしようどうしよう」呟きながら足早に部屋をグルグル回りだす者。
読んでいた本を放り投げ、テーブルに突っ伏して微動だにしない者。
空いた食器を手に取り、一枚ずつ、無言で床に叩きつける者。
暫くはメイドたちの狂騒が控室を覆った。
そして、その狂騒は控室のドアが開く音でピタリと止まる。ドアを開けて入ってきた者にメイドたちの視線が集まる。
それはアルシェと同じく人間の身でありながら執事の庇護下にあるメイド見習い――ツアレであった。
「あら、皆さん、どうしたんですの?」
ドア越しに聞こえた絶叫、散らかった部屋、いつも以上に混乱しているメイドたちの行動、そして彼女たちの微妙な視線を感じ、ツアレが首を傾げ、硬さを帯びた笑顔で問いかける。
「いえ、何でもないの。……ほら、あのシャルティア様の所にいた女……そのことでちょっと」
他のメイドたち――人間そっくりに創られた、人間ではない者達が微妙な表情で言葉を濁す。
そして、彼女たちの視線はツアレの腹のあたりを探る。
ツアレは、メイドたちの上司にも当たる執事セバスが王国の町から拾ってきた女だ。
今は一般メイドの見習いとして働いており、徐々にナザリックの者達とも打ち解けてきた。
そして、セバスとは上司と部下を超えた関係になりつつあると見られている。やがては結婚し、ひょっとしたらセバスとの子を作るかもしれない――そう囁かれている女だ。
メイドたちの間でツアレの評価は揺れている。
やはり人間に過ぎないと下に見る気持ち、同じ職場の仲間意識、そして「結婚退職」を実現しうる存在への憧れと敵意の中で。
「そう……ですか」
微妙な空気をツアレも察する。自分は他のメイドたちに完全には受け入れられてはいないのだ。
個人的には仲が良いメイド友達も出来た。しかし、そんな仲間とも食事の時はめったに同席はしない。これは悪意によるものではなく、人外の存在である彼女たちとは食事のペースが合わないので自然とそうなってしまうのだが。それでも、そういった物理的な距離が心理的な距離になってしまうのもまた自然なことなのだ。
「同じナザリックで暮らすに……者として、そのうちお会いしたいものですわ」
あえて波風を立てることはない。ツアレは当たり障りのないことを言う。
「そうね、人間は人間同士でお話しするのが良いのかもしれませんね」
「そうよ。私たちには人間のことなんて良く分からないし……」
かすかに棘を匂わす声でメイドたちの誰かが言う。
そして、かすかに嗤いが起き、それを窘める声もする。
「そうですね……ああ、雑巾を取りに来たんでしたわ。それでは皆さん、また……」
ツアレは手早く用事を済ませ、会釈して部屋を出る。
そして、足早に廊下を進み、その角を曲がって深い溜息をつく。
彼女のことを親身になって考えてくれるのは、この世にセバスしかいない。だが、そのセバスすら、絶対の主人の命とあらばツアレの命を絶つと明言している。
ナザリックにおいてツアレはあまりにも寄る辺のない存在だ。だが、それでも彼女が元いた人間社会より遥かにマシなのだ。だから、ツアレはここで生きていくしかない。
「赤ちゃんが出来れば、変わるのかな……」
ツアレは自分の腹を撫でる。あまりにも不確かな立場を確たるものとしてくれる存在を思って。
あの方の子を宿していれば、他のメイドも自分を無下に扱うこともないのでは……そう思って。
◇◇◇◇◇◇◇◇
『シクススか、食事が済んだ。片づけを頼む』
シクスス宛にブルー・プラネットからの<伝言>が届く。
「……ブルー・プラネット様がお済ましになられたようですので行ってきます」
控室の雑談が止む。メイド仲間がゴクリと唾を飲み込む音が聞こえる。
シクススは緊張した面持ちで部屋を出て、足早に廊下を移動しながら考える。寵姫となり、いずれは聖母となられるかもしれない人間の女にどんな表情を向ければいいのだろうかと。
「シクススでございます」
ノックに応えてドアが開く。
シクススが恐る恐る中に入ると、アルシェは先ほどと変わらず愛玩用の衣服を身に着けていた。
そして、ブルー・プラネットはローブと王冠以外に何も身に着けていない。
だが、ブルー・プラネットがほぼ全裸なのはいつものことだ。
シクススは深呼吸して、テーブルの上の食器を銀製の盆の上に集める。
「あの……誠に申し訳ございませんが……もう、お済みになられたのでしょうか?」
食器を乗せた盆を両手で持ちながら、シクススはブルー・プラネットに質問する。
「ん? ああ、済んだよ」
シクススの質問に、ブルー・プラネットは怪訝な声で答える。
食事は済んだ。そう言ったから来たんだろうし、お前がその手に持ってるのは何なのだ、と。
「はい、失礼いたしました。それで、アルシェ様……その、いかがでしたか?」
「ええ、最高でした。私、こんなに素晴らしいものをいただいたのは初めてで……心の底から感服いたしました」
ふぅ……アルシェは息を吐き、満足そうな顔で腹に手を当てる。血の気が戻った顔でぎこちなく微笑むアルシェを見て、シクススは手に持った盆を思わず取り落としそうになる。
「さ、左様でございますか。それはその、私からもお喜び申し上げます……」
シクススの彷徨う視線がアルシェの腹に止まる。丈の短い服に隠されているが、先ほどよりもやや膨らんでいるようだ。
もう一度見る。気のせいではない。先ほど会ったときよりも、明らかに腹が大きくなっている。
シクススは絶句する。
シャルティアの部屋で見たときとは見違えるように血色の良いアルシェの顔が、その微笑みが、女として勝ち誇っているかのように見える。
「そ、それでは失礼いたします。アルシェ様はくれぐれもお体をお大事になされますよう……」
よろめきながら退席するシクススを、アルシェとブルー・プラネットは心配そうに見送る。
他人のことより、まずは自分の体に気を付けるべきではないのかと。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「た、大変なの……!」
従業員食堂に戻ってきたシクススは、食器を回収棚に放り込むと仲間たちのテーブルに息を弾ませて飛び込む。そんなシクススを、食事中のメイド仲間は驚いた顔で迎える。
シクススのグループ以外のメイドたちも何事かと集まってくる。
ホムンクルスである彼女たちは人間よりも遥かに大量の食事を必要とし、暇さえあれば何かしら食べている。この時間であれば食堂はほぼ彼女たち一般メイドの貸し切りになっているのだ。
「どうしたの!? あの女がどうかしたの?」
「それが、あの女……いえ、アルシェ様が、どうやらご懐妊なの!」
シクススの報告を聞いたメイドたちの上げたそれは、もはや声ではなかった。
荒れ狂う獣たちの咆哮だった。肺の空気を絞り出し、深呼吸して再び肺の奥まで絞り出す。
それは獣の群れが未知の敵に対して挙げる威嚇の叫びに似ていた。
あまりの音量に、普段は奥に引っ込んでいる料理人や男性使用人たちが何事かと顔を覗かせる。
「そそそそそれははははほほほほんんととううううななななのの?」
周囲のことなど眼中にないメイドたちは一斉に声を上げ、席を立ち、シクススに詰め寄る。
「間違いないわ! だって、アルシェ様のお腹がこんなに!」
シクススは両手で腹のあたりに丸く山を描く。
「お顔だってもう……真っ赤な顔して仰るのよ! あんな……あんな格好で――」
息が切れ、シクススは誰かが差し出したコップの水を一口飲んで絶叫する。
「――ブルー・プラネット様のソレは最高だったって!」
バタリ――何人かのメイドが倒れる音がする。
ダンダンダンッ――誰かがテーブルを殴りつけている。
「どうしましょうどうしましょうどうしましょうどうしましょう」――何かの呪文のように繰り返す声がする。
「だ、誰かに相談を……アルベド様に……?」
「馬鹿ね、そんなことアルベド様がお耳にしたらどうなるか、分からないの!」
「絶対ヤバいって!」
「じゃぁ、じゃぁ……そうだ、ツアレさん、ツアレさんに!」
「そ、そうね、私たちでは分からないから……」
「ツアレさんにお任せしよっ! 私たちは知らなかった。気が付きませんでした!」
「そうよ、だって私たち、人間の体のことなんて分からないもん!」
「これ、秘密よ! 絶対秘密!」
要するに、ツアレに責任を押し付けようということである。
だが、これは仕方がないことでもある。人造人間ホムンクルスとして創造された彼女たちは人間の生理のことなど本当に知らないのだ。
顔を覗かせていた料理人たちは「やれやれ」という顔で奥に引っ込む。
力の限り叫んで何が秘密だと。
彼女たちが秘密と言ったことが秘密であり続けたことなど一度もないだろうがと。
面倒ごとに巻き込まれるのはお断りだ。
――男性使用人たちは知らぬ顔をして食器を回収したり目玉焼きをひっくり返している。
「ともかく、これからは『あの女』じゃなくて『アルシェ様』ね!」
「あたしはずっと『アルシェ様』って言ってたわよ?」
「アルベド様やシャルティア様よりも、アルシェ様が一歩リードってこと?」
「それは……どうかしら? お二人はモモンガ様お目当てでしょ? 比べるのはちょっと……」
「絶対あのお二人、『次は私』って暴走するわよ。こわいこわいこわいこわい……」
「だから、絶対に秘密なの! いい? 抜け駆けしてポイント稼ごうだなんてダメだからね」
「分かってるって。私は絶対言わないから。誰にも!」
「あたしも言わないから。先に言っとくけど、バレたらそれは誰か別な人のせいだからね!」
衝撃から立ち直り、メイドたちは思い思いのことを吐き出して徐々に騒ぎは落ち着いていく。
「ともかく、これからはアルシェ様のご健康には細心の注意が必要ね」
「そうね、お食事は……たったあれだけじゃ絶対足りないわ!」
「ええ、そうよ、いくら細身とはいえ、せめてあの3倍は召し上がっていただかないと」
「2人分必要になるとか言わない?」
「ツアレさんには、それとなく言っておいた方がいいと思う。ほら、ツアレさんって少食だし」
「アルシェ様は何がお好みなのかしら? 差し入れとか、ダメかな?」
「それこそツアレさんに聞いてもらおうよ!」
今後の方針も、なんとなくだが、まとまっていく。そして、時間になったところでメイドたちは自分の受け持ちの場所に散っていく。
「あー、落ち着いたらお腹が減っちゃったわ」
シクススはテーブルに着き、食事と今後の予定を考える。
今日も食事が遅くなったしまったが、それもどうやらこれで最後になりそうだ。
人間の世話のためにわざわざ第二階層まで行くことになったときはどうなることかと思ったが、結果的にはブルー・プラネット様のお役に立つことも出来たし、今後、寵姫となり御子を産まれるであろうアルシェ様に顔を繋いでおくことは出来たし……良かったのだろう。
あとは、ツアレさんにアルシェ様関係の仕事を引き継いでもらい、その伝手でアルシェ様の好物などを聞き出す。アルシェ様にはこれまで色々と尽くしてきたつもりだ。この縁でブルー・プラネット様とその御子のお世話のお仕事も増やしていただけるに違いない。
――そんなことを考えながら、食堂のメニューを開く。
「お疲れさま。じゃあ、ツアレさんを呼んでくるから、引き継ぎはよろしくね」
「はーい」
仕事に戻る友人に手を振りながら、シクススは何を食べようかとメニューの写真に目を移す。
小倉餡と生クリームの2色ソーススパゲティの特盛にケチャップたっぷりのソーセージをトッピング、サイドメニューにクリームパンとチョコパンを1個ずつ、ついでにコーンポタージュをLサイズで。それと、本日のスペシャルデザート、チョコミントアイスのクアドラカップを……
ペコペコになったお腹をさすりながら、シクススは舌なめずりをする。
今日は本当に驚きっぱなしでお腹が減った。もう1時間も何も食べてないのだ。
ナザリック最大の不幸……「ツッコミ役が不在」