特殊カーボン。
これのおかげで戦車道の試合は安全が保障されている。
画期的な発明だと私は素直に敬服する。
この先達の偉業なくして戦車道は成立しなかったのだから。
私たちの青春もそもそも存在しなかった。
私たちの青春は英智の結晶によって守られている。
実弾使用を世に承認させた脅威の信頼性。
感謝せざるを得ない。
けれども絶対はない。
それはどんなことにも付き纏う世の常だ。
いかなる武道スポーツでも事故はつきもの。理屈では、わかっている。
しかしわかっていても私たちはどこかで「自分には無関係だ」と思い込んでいるふしがある。
まさか自分がそんな目に遭うはずがないと確証もなく天の加護を信じ込んでいる。
実際、私は戦車道で大怪我をしたことはない。
軽いすり傷を負ったことなら何度もあるが、その程度ならむしろ穏やかなものだ。
柔道や剣道といった武道のほうがよっぽどひどい怪我を負うリスクが高いと言える。
どんな武道よりも一番安全なのは実は戦車道という声まである。
そう思うのも仕方がない。
実弾を使って試合をしていても、かすり傷ぐらいで済んでしまうのだから。
だから私は思ってしまったんだ。
今はそんな
私は……私たちは知った。
天の残酷なまでの気まぐれは、いつだって身近にあるということを。
──────
陸に上がってショッピングをしようと提案したのは小梅だった。
気分転換をするなら学園艦から離れたほうがいいと思ったのかもしれない。
確かに、その日は少しだけ隊長としての重圧から解放された。
普通の女子として有意義に遊べた。
わざわざヘリに乗って陸に来たわけだが、たまにはこういう日もいいかもしれないと思った。
公園にいると、小さな子どもたちのはしゃぐ声が聞こえてくる。
学園艦では聞けない幼い歓声。
陸にいるんだなと実感する。
楽しそうに遊んでいる姿が容易に浮かぶ。
私にもあんな風に無邪気にはしゃぐ時期があったのだろうか。
そんなことを考えながら私は小梅の話を待った。
「エリカさんは好きな小説家さんはいらっしゃいますか?」
小梅はそう尋ねた。
予想していた問いとは異なる内容に、私は一瞬唖然とした。
唖然はすぐに安堵に変わった。
張り詰めていたものが一気に緩やかになっていく。
浮上して欲しくないものが再び深く沈んだことで、私はホッとする。
「……特には、いないわね」
私はそう答えた。
「あまりフィクションは好んで読まないわ。そんな暇があるのなら実用的な戦術書やエッセイとかに目を通すから」
「エリカさんらしいですね」
私の答えに小梅は特に残念がる様子もなく、笑みを浮かべながら話を続ける。
「私は小さい頃から物語が好きなんです。『星の王子さま』とか『銀河鉄道の夜』とか」
「知ってるわ。今日も随分買ったものね」
小梅の傍らには数冊の本が入った紙袋がある。
彼女はこの量を僅かな日数で読破する。大したものだ。
よほど好きでなければ、そんなことはできない。
小梅はどこか照れくさそうに紙袋に視線を向けた。
「自分とは違うモノの考え方に触れることが楽しくて、ついつい買っちゃうんですよね」
小梅は袋から一冊の本を取り出す。
ペラペラと小気味のいい紙の音。
秋の風景に実に馴染んだ。
「世の中にはこんな凄いことを思いつく人がいるんだなぁって思うと、なんだかワクワクするんです」
昂揚を含んだ瞳がページに注がれる。
一枚いちまいは薄っぺらい紙面にしか過ぎなくても、そこには文字による広大な世界がある。
「私一人じゃ一生かかっても気づかないことを気づかせてくれる。そんなきっかけを読書で求めているんでしょうね」
「それなら物語じゃなくて論文でもいいじゃない。どう違うの?」
我ながらつまらないことを言っているなと思う。
こんな調子だから友人ができにくいのだ。
「もちろん、そういうのも読みますけど」
小梅は気を悪くすることなく応じてくれる。
本当に良い娘だ。
「でも、物語だからこそ……物語でしか気づけないものがあると思うんです」
「そういうものかしら」
「はい。論文とかは最初から結論がひとつに決まっているけど、物語は読者が自由に結論を見つけていいものですから。そういうところが私、好きなんです」
「自由に……」
「ええ。それが物語の魅力だと思うんです。作者は敢えて答えを出さないで、読者に答えを委ねるんです。『こういうことかもしれない』『いや、ひょっとしたらこうかもしれない』っていう具合に。チェーホフも言っています。『小説家とは問題を解決する人間ではない。問題を提起する人間である』って」
どこぞの『紅茶を持った隊長』みたいなことを言うな、と私は思った。
「逆に言えば、伝えたいことを押しつけがましく書いたらいけないってことですね。作家はあくまでも疑問を投げかけて読者に考えさせる。だから人は何度もその物語を読みたいって思うんでしょうね。読むたびに新しい発見があったりしますから」
「……」
読むたびに発見がある。
それは記憶を思い返すときでも同じこと。
モノの見方が変わってから追憶すると、そのときでは気づけなかったことが初めてわかったりする。
当時ではまったく見えなかったものが、照明を当てたようにアッサリと見えてくることがある。
そしてだいたいの場合、気づいた頃にはもう手遅れだ。
そんな思いをするぐらいなら気づかないままでいたほうが間違いなく幸せだ。『あのときはあれが最善だった。他に選択肢はなかった』。そう断定したままでいれば、後悔なんてすることはない。
だから──
「……私は、結論はひとつだけっていうシンプルなほうがいいわ」
込み上がってくるものを誤魔化すように私はそう言った。
「答えは人それぞれっていうの、どうもダメなのよ」
「エリカさん、国語すごく苦手ですものね」
「……それ以外はバッチリよ」
からかうようにクスクスと微笑む小梅を私はムッとした顔で睨む。
苦手なものは苦手なのだからしょうがない。
数式や図式のように『正解はひとつだけ』という問題を解くのは大得意だ。
けど自由研究のような『正解はありません。どうぞご自由に』みたいな課題を出されると困惑する。
地図や方位磁石もなしに深い森に放り出されるようなものではないか。
秩序がないと人は道を見失う。
だから模範中の模範でいることが最良の安息だと私は信じている。
個人の感情で公平でない結論を導き出すのは愚かなことだと思っている。
……だけど、心のどこかでは考え始めている。
そんな生き方は本当にお前を幸せにするのか?
そう問いかける自分がいる。
「……」
ふと私は小梅が買った本の山に視線を向けた。
あの数々の本には、いったいどのような問いが眠っているのだろう。
そこには私がこれまで導き出せなかった答えの兆しがあるのだろうか。
思わず手を伸ばしそうになる。
視界の隅でサッカーボールが転がっていった。
幻から覚めたように跳ねるボールを目で追う。
釣られるように小さな男の子がボールに向かって走っていった。
大人しそうな子だった。
どこか
懸命にボールを追いかける男の子の姿を、小梅もまた優しい目で見ていた。
爽やかな風が吹く。
「私どの本も好きです。だけど中でも特別な作家さんが一人いるんです」
「どんな作家なの?」
いつのまにか私は小梅の話題に興味を示していた。
小梅が作家の名前を口にする。
聞いたことのない名前だった。
「知らないのも無理ありません。なにせ、一作しか作品を残せなかった方ですから」
「……たった一作?」
「はい。たった、一作です」
私は驚きを隠せなかった。
有名な文豪の一作ならともかく、どうすればそんな無名の作家の作品を知る機会があるのだろうか。
「いまでは確かに無名の作家ですけど、作品が世に出た当時はすごい反響を呼んだそうですよ」
小梅は語る。
大まかに言えば、それは変わりゆく時代について疑問を投げかけた作品だった。
情熱と活気に溢れながらも、諦観による抑制でバランスをたもち、蓄積した経験による鋭い洞察と、幼心を残した新鮮な視点に満ちた力作。
と当時の評論家は言及したそうだ。
「多くの作家や評論家が期待していました。『彼はこの先その鋭利な感性で文学界に新たな風を吹かせるだろう』って。ヘタをしたら時代を変えるかもしれないとまで」
「大したものじゃないの」
「ええ。ご本人もあとがきで『これからもっと視野を広げてこの時代に疑問を投げかけていくつもりだ』って明言していて、やる気に満ち溢れていました」
「……そう言いながら一作しか書かなかったんでしょ?」
「はい。書きたくても書けなかったんです」
「なによソレ。スランプにでもなったの?」
小梅は首を振った。
愛らしい顔に一抹の哀愁を張り付けて彼女は口を開く。
「一作目が出た後、亡くなられたんです。心臓発作で」
「……」
「五十歳でした」
五十。それは人の一生で充分な数値と言えるだろうか。
人によっては長すぎるかもしれない。何かを成し遂げたいと思っている者には短すぎるかもしれない。
ただ小梅の語る作家は間違いなく後者だ。
「別の作家さんが言っていました。『彼は作家として書き始めるのが遅すぎた』って。実際デビュー当時は四十代でした」
「遅咲きだったのね」
「入念に取材する人だったんですよ。デビュー作を書くために、二十代からずっと研究を続けていたそうです。むしろ書き手として早くスタートを切ったはずだったんです」
「……」
「ただ妥協を許さない人だったんでしょうね。一点の欠陥もあってはならないと完璧を求め過ぎたんです。でもその拘りの結果、彼の一作目は見事名作として賞嘆されました」
数年の歳月を費やして生み出された渾身の一作。
確かにそれは多大な評価を受けなければ、あまりに無惨だ。
長い期間を犠牲にしてまで熱意を捧げるほどの価値が、その作品にはあったということなのだから。
報われなければ嘘だ。
……しかし私は、それほどまでに信念を燃やしたはずの作家の名を知らない。
「別の作家さんはこう言っています。『彼の作家としての最大の過ちは、命の線引きをしなかったことだ』って」
「命の線引き……」
「四十でデビューした彼は残りの一生を使って作品を書き続けようとしたのは間違いありません。『この寿命が尽きるまで可能な限り生み出す』と。三十年、四十年……それだけあれば充分だと勘定に入れていたんでしょう」
現代の平均寿命の統計はいくつだったろうか。
だが少なくとも、五十代になっても「まだ先はある。まだ書く時間はある」と安心できる数値だったはずだ。
……でも、もし厚生省が「実はその数値は誤りで本当は戦国の時代と同じ五十です」と訂正したらどうなるだろうか。
「生き急ぐことって、なんだか悪い印象を持たれがちですよね?」
遠くを見ながら小梅はそう呟いた。
視線の先では、先ほどサッカーボールを追いかけていた男の子が一人でリフティングの練習をしていた。
「でも、作家さんたちはわかっているのかもしれませんね。生き急がなければ手遅れになるかもしれないということを」
「生きている内にいったい幾つの作品を残せるか。作家はそれを念頭に置かなくちゃいけないってこと?」
「そういうことですね」
男の子は退屈そうに一人でリフティングを続けていた。
一緒にボールを蹴り合う仲間はいないのだろうか。
見知らぬ男の子のその姿に私はなんだか寂しさを覚えた。
「エリカさんはご存知ですか? 宮沢賢治は三十七歳っていう短すぎる一生を終えているんですけど、それでも百以上の作品を残しているんです。それも農業や音楽活動、宇宙や鉱物の研究を続けながらです。──確かに、四十で書き始めるのは遅すぎるのかもしれませんね。作家の世界では」
「……いたたまれないわね、作家って」
男の子がリフティングに失敗して、ボールが芝生に落ちる。
コロコロと転がるボールを男の子は切なげに見ていた。
小梅はベンチから立ち上がった。
品性を感じる後ろ姿を向けて、話を続ける。
「いままでは私も生き急ぐことなんて考えもしませんでした。何十年も先のことなんて、想像もできない彼方のことだって思っていました」
「普通はそうよ。誰だって」
数十年後の自分がどうなっているかだなんて、誰にも予想できない。
「そうですよね。普通なら、そうです。でも……」
明日は当然やってくる。
誰もがそう思っている。
だけど、私の目の前にいるこの娘は……
「私は、怖くなったんです。あの試合から。
「……」
日の光が雲で遮られた。
「今も夢に見ます。もしあのとき、みほさんが川に飛び込んでくれなかったら、どうなっていたんだろうって」
それは遠まわしに動けなかった私たちを責めているようにも感じられた。
もちろん小梅にそんな意図はないだろう。
だが、胸が痛くなった。
「あの日を境に私、急に読書の量が増えたんです。自分でもどうかしているって思うほど物凄い勢いでたくさんの本を読みだして。頭の中をとにかくいっぱいにしたかったのかもしれません」
「……」
「一度は、本気で戦車道を辞めようと思っていました」
辞める。
それは私にとっては『逃げ』と同義だ。
だからそんな中途半端なことをする奴は許せなかった。
……だけど、目の前の少女を責める気にはなれなかった。
「私と一緒だった乗員の子と同じように転校も考えました。もうここにいる資格は私にはないって本気で思っていましたから」
大粒の涙を流しながら頭を下げ、黒森峰を去っていった少女たちの姿が思い出される。
誰も止めなかった。
引き留めようとも思わなかった。
でなければ、彼女たちが罪悪感で押し潰されてしまうのは明白だったから。
小梅もいずれそうするだろうと誰もが思っていた。
しかし、彼女はいまもこうして黒森峰に残っている。
その理由は……
「でも、そんなときに知ったんです。たまたま読んだ小説のあとがきにあった『私が生涯尊敬する作家』という文章から」
人の意思を変えるのは、いつだって不意による出会いだ。
私自身が、そうだったように。
「たった一作で燃え尽きて、結局無名のまま終わってしまった不遇の作家がいた。書きたいことがたくさんあったはずなのに、伝えたいことが山のようにあったはずなのに、きっとたくさんの人々に読まれて、たくさんの感動を与えるはずだったのに……そのどれもついぞ叶えられず予兆もなく終わりを迎えてしまった人がいた。……それで思ったんです。──『私は、まだ生きている。生きているのに何もしていない』って」
雲に遮られていた太陽が再び顔を出した。
「私だけは、残らなきゃいけないって思ったんです。もしも私までが転校してしまったら、みほさんのしたことが本当に無意味になってしまうような気がして……あの人の戦車道は間違っていたと証明してしまうような気がして……」
「……」
あの日、なにが最善の行動だったのかは誰も断定することはできない。
それでもひとつだけ間違っていなかったと言えるのは、
赤星小梅の命が今もここにあるということだ。
「だから決めたんです。私は黒森峰で戦車道を続けなくちゃいけないって。あの人ともう一度会うべき瞬間は、きっと戦車道を通じてじゃないといけないって。それで会えたそのときは……」
そして、小梅は戦車道の聖地でその機会を手に入れた。
「本当は怖かったです。私にみほさんと顔を合わせる資格があるのかって。……だけど、ここで伝えなきゃいけないって思ったんです。この機会はもう二度とないかもしれない。次は一生ないかもしれない。だから……」
「……あなたは立派よ」
みほの笑顔を取り戻したのは大洗だ。
だけど、あの子の黒森峰への後悔を消し去ったのは間違いなくここにいる小梅だ。
あの子が迷うことなく自分の戦車道を進もうと思えたのは、小梅の言葉があったからこそだ。
『みほさんが戦車道をやめないでよかった……』
そのひと言に、あの子はどれだけ救われたことだろう。
だから私は小梅を尊敬する。
柔らかな風が、小梅の赤毛をなびかせる。
「私自身はそんなに強い人間じゃありません。ただ今こうして生きていることがどれだけありがたいことなのか。それを頭じゃなくて肌で理解したから、もう後悔だけはしたくないって思ったんです」
「そう」
「私はこれからも戦車道を続けます。みほさんが黒森峰で残したものを、私なりの力で守っていきたいんです。そしていずれは……」
こちらを振り向いて、小梅は微笑む。
眩しい笑顔だった。
「あの人のお傍で、あの人の戦車道を、支えていきたいと思っています」
それが、赤星小梅の戦車道。
彼女が決めた人生の形。
人は彼女の選択を自己犠牲的だと言うかもしれない。
他人に依存した愚かな決意と野次を飛ばすかもしれない。
でも私は小梅のそんな意思を尊重する。
小梅を罵倒する者がいたら私は絶対に許さない。
彼女の瞳には、どんな宝石よりも勝る尊い光が宿っている。
「私はもう、後悔なく前に進んでいくつもりです。でも、エリカさんはどうですか?」
「私?」
「本当に、もう思い残していることはないんですか?」
まるで明日にでも私が死にそうな聞き方だ。
たが小梅は真剣だ。
わかっている。
人の未来に、絶対の保証はない。
こうしている今も、見えないところで運命の輪は回り続けている。
いつかはやろう。いずれはできるだろう。
そう安穏として先延ばしにしたことが、とつぜんの不幸で実を結ばず終わるかもしれない。
私とみほの関係性が、大きく変わったように……。
「エリカさん……」
嘆願にも似た声色で、小梅は私を見つめる。
素直に心を開いて欲しいとその瞳が訴えている。
純粋で真っ直ぐな彼女の視線に、私は……
「あ……」
私が声を上げて目線を向こう側に投げると、小梅も合わせて同じ方向を見る。
サッカーボールで遊んでいた男の子が芝生に倒れた。
鬱憤を晴らすように強く蹴りあげようとしたところで、バランスを崩したのだ。
「たいへん」
小梅は真っ先に男の子の傍に駆けていった。
土で汚れた顔は、今にも泣きだしそうだった。
小梅はそんな男の子に優しく「だいじょうぶ?」と声をかける。
小梅を見ると男の子の泣き顔は一変、小生意気にも恍惚とした表情になった。
あ、恋したなあの子と思った。
小梅が「よしよし」と言いながら男の子を立たせる。
幸い怪我はなかったようだが、男の子を安心させるためか小梅は「痛いの痛いの飛んでけ」と頭を撫でながらニコリと微笑んだ。
男の子はもう顔が真っ赤。
その反応は実に『あの子』に似ていた。
だからか小梅はやけに優しく男の子をあやしていた。
その光景を見て私は、本当に小梅は理想的な淑女だなと思った。
そして私が知る中で誰よりも心が強い少女だ。
去年の決勝から本当に一番苦しんでいたのは小梅だったのかもしれない。
大事な場面での失態。そして恩人の消失。
そんな押し潰されそうな罪悪感と後悔の中で、彼女は何度眠れない夜を過ごしたことだろう。
でも彼女は立ち上がった。
そして誰よりも成長した。
あの男の子がひと目惚れするのも無理がないほど、彼女は素敵な女性なんだ。
しばらく小梅と男の子を二人きりにさせてあげようかと私は考えた。
どうせ一人で寂しくサッカーボールで遊ぶぐらいなら、初めてときめいたであろう相手と素敵な時間を過ごしたほうがいい。
しかし私の気遣いは無用だった。
公園の入り口から複数の男の子たちが手を振りながらやってきた。
男の子の顔がパッと明るくなる。
遅いぞ、と言っているところ、どうやら待ち惚けを食らっていたらしい。
ちゃんとサッカーをする仲間がいたのだ。
私は安心した。
男の子は照れくさそうに「ありがとう」と小梅にペコリと頭を下げて、ボールをかかえて友人たちの輪に向かっていった。
小梅はニコニコと手を振ってその小さな背中を見送った。
当分あの男の子が歳の近い女の子に恋をすることはないだろうと私は思った。
「子どもって本当にかわいいですね」
戻ってくるなり小梅はウキウキとそう言った。
あの男の子の気持ちには気づいていない様子だ。
罪作りめ。
「ふふ。もし子どもができたら、私は男の子がいいな。エリカさんはどうですか?」
「さあ。よくわからないわ」
子持ちの自分なんてちっとも想像できない。
まず結婚すら念頭にない。
「私、将来は自分の子どもだけじゃなくて、いろんな子どものお世話をしたいなあ」
子どもの愛らしさが彼女の中の変なスイッチを入れたらしい。小梅はポヤッとした顔でそんなことを言った。
私は若干引き気味になりながら「保育士とか?」と尋ねた。
「うーん、それもありですけど、やりたいのは子育てですね。お母さんではないけど、同じくらい懐かれるっていうのに憧れちゃいます」
「なら乳母や家政婦にでもなったら?」
「いいかもしれませんねー」
冗談のつもりだったが小梅は本気にした。
でも彼女が家政婦になって子どもたちに懐かれる姿は容易に想像できた。
ぴったりだと思った。
案外天職かもしれない。
「……こんな風に夢を語れる時間を作れるのも、みほさんのおかげですね」
目に見えるもの、感じるものすべてが愛しいとばかりに小梅は空を見上げた。
鳥の群れが綺麗な陣形を作って、乱れなく飛んでいた。
「エリカさん。たくさん一方的に話してしまって、ごめんなさい。お気を悪くしませんでしたか?」
「いいえ。興味深い話だったわ」
そして一本取られた、とも思った。
結局小梅が伝えたいことはすべて私の胸に深く浸透した。
話したいことは終えたらしい小梅は、申し訳なさそうに顔を俯かせた。
「私、もうこれ以上偉そうなことは言いません。よく考えて欲しいだなんて身勝手なことも言いません」
小梅は決して自分の価値観を押し付けたりしない。
彼女はそういう人間だ。
「……ただ、ひとつだけ約束してくださいますか?」
そんな小梅が決して譲らないものがあるとすれば、それはたったひとつ。
私は「なにを?」と聞き返す。
わかっていて聞き返す。
小梅は笑顔を消して、ひたむきに、請うように告げた。
「なにもしないまま後悔する。それだけは、絶対にやめてください」
「……」
強い風が枯れ葉を落としていく。
絵の具で塗りたくったような紅葉の色彩が目の前にいっぱい広がっている。
『ねえ、エリカさん。秋になったら一緒に紅葉狩りしようよ』
ある日みほは私にそう言ってきた。
随分気の早いことを言うなと思った。
『ほら、夏は練習や大会とかで忙しいからゆっくりできる暇なんてないし……だから秋になったら一緒に行こうよ。ね?』
『紅葉なんてわざわざ観賞するものでもないでしょうが』
私がそうぶっきらぼうに答えると、みほは頬をぷくっと膨らました。
『もう! エリカさんは《風情》ってものがないよ!』
『失礼ね。無駄なことに時間を使いたくないだけよ』
『無駄なんかじゃないよ! 大切な時間だもん!』
『なんでよ?』
『だって……』
みほは手をもじもじとさせながら、しかし強い意志をその目に宿して言った。
『きっと、大切な時間になると思うから。
『……』
『ねえ、エリカさん。ダメ?』
『……わかったわよ』
『ホント!?』
『ええ。……だけど! その前に全国大会で優勝するのが最優先よ! 約束覚えてるでしょうね!』
『うん! ぜったい、ぜったいに優勝しようね! そしたら……』
──わたしたち、きっとどこにでも行けるよね?
全国大会が始まる前の出来事だ。
私とみほは、そうしてもうひとつの約束を交わした。
一緒に紅葉を見に行く。
些細な約束だ。
でも彼女にとっては、それが活力の源だったのだろう。
紅葉を見に行くこと自体ではなく、きっと私と心置きなく出かけることがあの子にとっては何よりも……
赤と黄の彩色が目に眩しいほどに広がっている。
そうだ。
この光景は、私とあの子が今頃見ているはずのものだったんだ。
きっと、私はその時間を無駄とは思わなかっただろう。
「……」
私はまた心の中で燻るものに蓋をしたくなった。
「エリカさん」
柔らかな掌が私の手の甲に触れる。
蓋はやはり閉じられなかった。
暖かい。
とても安心する手つきだった。
「小梅……」
包み込むような笑顔で、小梅は手を重ねてくれた。
「エリカさん。これからは私が副官としてエリカさんを支えていきます。どんなことでも力になります。あなたの危機にはなんとしても駆けつけます。苦しいときや辛いときは私が慰めます。……でも、誤解しないでください。それはあくまで副官としてです」
暖かな手が離れていく。
私は惜しむように視線でその手を追う。
小梅の笑顔と目が合った。
とても深い慈愛の込もった笑顔だった。
そんな笑顔で小梅は言った。
「私は、エリカさんの友達にはなれませんから」
「……」
「あなたの特別には、絶対になれません」
「……そう」
私も同じように笑顔で受け止めた。
清々しい風が通り抜けていった。
「──ありがとう、小梅」
口から出てきたのは、感謝の言葉だった。
小梅が黒森峰に残ってくれたことに、私は心の底から感謝した。
私ではまほ隊長にしてあげることのできなかったことを、小梅はきっと叶えてくれるだろう。
その真摯な優しさと実り始めた母性で。
「……エリカさん」
小梅は立ち上がって、私を抱きしめてくれた。
彼女の柔らかく大きな胸に包まれる。
「だいじょうぶ。きっと、だいじょうぶですよ」
子どもにそうするように、小梅は私の頭を優しく撫でてくれた。
間違いない。彼女に家政婦は天職だ。
彼女に抱きしめられるだけで、こんなにも安らかな気持ちになるのだから。
「だいじょうぶ。きっと、できますよ。今の、エリカさんなら」
小梅の背中に片手を回して、私も彼女を抱きしめた。
心の中で何度も感謝を繰り返しながら。
勇気を持とう、と私は思った。
伝えよう、と決心がついた。
長年の思いをあの人に。
そして本当に言いたかったことを、あの子に……。
秋の風は、やがて冷たくなっていく。
季節は確実に移ろっていく。