私の人生で最大の失敗。
それは西住みほと深く関わってしまったことだ。
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「モタモタしないで早く準備しなさいよ」
「わわわ、待ってエリカさん!」
「待てない。もうすぐ点呼の時間よ? だから早くなさい」
更衣室に響く私の鋭い声と、西住みほの「ふぇ~」という情けない声。
戦車道の訓練は基本的に15分前集合だ。ゆっくりしている余裕はない。
私は腕時計の針を確認しながら、急かすようにブーツの底で床をトントンと鳴らす。
迅速に準備した私と違って、みほはまだアタフタとパンツァージャケットに着替えている。
無駄が多く落ち着きのないその動きは私をイライラさせた。
そして一段ズレているボタンも。
「ちょっと、ボタンつける場所間違えてるじゃない!」
「え? わっ、ホントだ」
「ったく、しょうがないわね!」
見るに堪えなかった私は一段かけ間違えているボタンをすべて外した。
瑞々しい肌色と純白の生地が明るみに出る。
「エ、エリカさん!?」
私が赤いシャツに手をかけると、みほはシャツの色彩に負けないくらいに顔を真っ赤にする。
「なによ?」
「ダ、ダメだよ、女の子同士でそんな……」
「なに勘違いしてんのよ。このままじゃ日が暮れそうだから私が着替えを手伝ってるんでしょうが」
「……あ、そういうこと? あ、ありがとう……」
みほは居心地悪そうに真っ赤な顔を逸らした。
まったく何を考えたのやらこの天然娘は。
いや天然というよりムッツリか。
私が同性にがっつくようなマネをするとでも思ったのだろうか。
バカバカしい。そんなことするものか。
まほ隊長相手ならともかく。
私は幼い子どもを相手するようにシャツのボタンを手早くつけていく。
みほは恥ずかしそうにしながらも素直に従っている。
ボタンをつけていく合間、必然的に彼女の半裸を目に納める形になる。
「……ちっ」
意外と私よりサイズが大きいことに少し敗北感を覚えた。
着痩せするようだ。
しかし華やかさでなら私のほうが勝っている。
(地味なデザインのもの着けてるわねこの子)
淑女を志すのならば、こういう見えないところにも気を遣うべきだというのに。
私が贔屓しているメーカーを教えようかと考えたが、そこまでする義理はないと思い、言うのを控えた。
「はい、できたわ。さっさと行くわよ」
「う、うん」
着替えを手伝い終えると私は速足で練習場に向かう。
その後ろをみほが子犬のようについてくる。
歩行の作法を心得ている私と違って、みほの歩き方はどこかオドオドしている。
細腕を胸の前に持ってきて、縮こまるように背を前に傾けている。
所作のひとつひとつに自信のなさが窺えた。
そんな些細な仕草でも、私を苛立たせる。
西住流の娘ならもっと堂々と歩けと怒鳴ってやりたくなる。
言ったところで彼女は「ご、ごめんなさい」とさらに縮こまるだけだが。
(これが本当に隊長の妹なのかしら)
ひょこひょこと背中にはりつく西住家次女を尻目で見つつ、私は改めて疑問をいだく。
隊長と同じ環境に生まれながら、ここまで西住流らしくない人間が育つものだろうか。
戦車道の流派に生まれた以上、彼女は幼少時から過酷な訓練を受けてきたはずなのだ。
しかし普段の態度からでは蓄積された武勇の兆しは見受けられない。
まほ隊長からはビシビシとそれが伝わってくるというのに、妹のほうはなんというか『ぽわぽわ』としている。
隊長の凛々しさはまさに良家の令嬢と呼ぶにふさわしいけど、妹の場合は庭の花とたわむれる箱入りお嬢様という感じだ。
正直、戦車道よりも華道や香道やっているほうがサマになりそうである。
「エリカさん、どうかしたの?」
どうやらいつのまにか彼女を睨むように見ていたらしい。
きょとんと首を傾げるみほに私は「別に」と素っ気なく返す。
「あなたみたいに大人しい子がよく戦車道を続けられているわね、って思ったのよ」
完全なる皮肉を飛ばす。
しかし何故かみほはそれを褒め言葉と受け取ったらしく、照れくさそうに「あ、ありがとう」なんて言っている。
調子が狂うったらありゃしない。
「エリカさんってさ」
「なによ?」
不機嫌な私に反して、みほは妙にニコニコしている。
「最初は怖い人かと思ってたけど、着替えを手伝ってくれたりするし、すごく優しいね。なんだかお姉さんみたい……あいたっ!」
間髪を容れずアホなことを抜かすみほの額にデコピンを食らわす。
「あなたが頼りないから私が手間を取る羽目になってるんでしょうが! ていうか誰がお姉さんよ!? 同い年でしょうが!」
「ご、ごめんなさい~!」
入学以来、私は繰り返しこんなやり取りを彼女と交わしている。
まったく、本当にどうしてこんなことになってしまったのだろう。
私が思い描いていた黒森峰の生活は、こんな天然娘のお守りではなかったはずなのに。
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晴れて黒森峰女学園に入学した私にとって、学園生活は薔薇色に満ちるはずだった。
憧れのまほ隊長と同じ学び舎で共に戦車道に励む。
隊長の指揮に従い、彼女が突き進む道を私が切り開く。そして築かれていく深い信頼関係。
想像するだけで素敵な光景だ。
けれど予定していた学園生活はひとつの異分子がまぎれこんだことで瞬く間に瓦解した。
私の学園生活の大部分は敬愛するまほ隊長ではなく、妹のほうに占められることとなった。
──妹と仲良くしてやって欲しい。
隊長にそう頼まれた以上、断るわけにはいかない。
私のことを信頼して言ってくれたのだ。だから最初のうちは喜んでいたけど……まさかこんなに気苦労を背負うことになるとは思わなかった。
みほはとにかく気の弱い娘だった。
そのせいで一人も友達ができなかったらしい。
わからないでもない。
彼女のようなタイプは男受けするかもしれないが、そういう子ほど同性からは嫌われるものだ。
狙ってそんなキャラを演じているわけでないことは、一緒にいてイヤというほど理解している。
みほの天然ぶりは素だ。
よそ見して電柱にぶつかるなんてしょっちゅうだし、かわいいものを見つけるとすぐ意識が逸れたり、鞄やノートをよく忘れたりする。とにかく頭の中がフワフワしているような娘だ。
よほどのお人好しか心の広い人物でもなければ、彼女と友好を結ぼうとは思わないだろう。
女子の社会とは基本的に利益が重視されるからだ。
一緒にいて得をするかしないか。
そういう目に見えない謀略を私は小学生時代で学んだ。
私が友人だと思っていた連中は、クラスの中心人物の取り巻きに加わることで優越感を覚えていたに過ぎなかった。
その手の人種は、相手の立場が急落すれば無慈悲に去っていく。
無条件の友情というのは、本当にひと握りのケースなのだ。
そのことを知って以来、私は友人が欲しいと思うことはなくなった。
尊敬する相手さえいれば充分に心の支えになる。
けれど、まほ隊長はとにかく妹に友人を作ってあげたかったらしい。
──みほは大人しすぎるんだ。だから、エリカが支えになってあげて欲しい。
確かに私がいなければ、みほは黒森峰でも孤立を深めたことだろう。
軍事的気質のある校風に、みほのような小動物的な娘は明らかに場違いだった。
もちろん控えめな性格をした娘は何人かいるが、みほほど消極的ではない。
環境によってはみほのような娘はかわいがられるかもしれない。しかし厳格な黒森峰でそんな生易しいことは起こりえない。
だから隊長は気心の知れた私に頼ったのだろう。少しでも妹が黒森峰に馴染めるように。
みほは初めて親密な学友ができたことで随分喜んでいる様子だった。
『エリカさん、一緒にお昼食べよう!』
『エリカさん、よ、よかったら今度のお休みお出かけしない?』
『エリカさんお疲れさま。このタオル使って?』
『エリカさん、何でもできてすごいなぁ』
『エリカさん! エリカさん!』
こんな具合に私はみほにとても懐かれていた。
だが生憎だが、私は彼女に友情を覚えたことはない。
彼女に向けるのは純粋な嫉妬だ。
私が尊敬するまほ隊長の愛情を一心に受けている存在。
その事実が私の心をざわつかせる。
隊長はとにかく妹を溺愛している。私にお守りのような役目を頼んだ時点でそれは明白だ。
けれどそれだけならただ見苦しく羨ましいと思うだけで済んだだろう。
私がみほに対して明確に複雑な感情をいだき始めたのは、彼女の秘められた才能を知ってからだ。
悔しさを認めた上で断言しよう。
みほの戦車道における才能は『本物』だ。
姉のまほ隊長にも負けない、ヘタをしたらそれ以上かもしれない素質を彼女は持っている。
戦車に乗るときのみほは、まるで別人だった。
小動物から狩りをする獣に切り替わる。
まさに豹変だ。
普段のオドオドした態度からは想像もつかない的確な指示。合理的な判断力。隙のない陣形。
同級生は疎か、上級生ですら彼女に勝てる者は隊長を除いて存在しなかった。
みほが戦車道の世界で孤立する最大の理由はそこにあったのかもしれない。
異質なのだ。
つかみ所がなく、それでいて圧倒的な実力を持っていながら、それを日常面では匂わせない。
それがどこか不気味に映るのだ。
まほ隊長のようにカリスマ性があれば尊敬の眼差しを向けられたかもしれない。
しかしあまりにも態度の落差が激しいみほに対し、隊員の誰もがどう接していいものか悩んでいた。
常に彼女の傍にいる私だってそうなのだ。
ただハッキリ言えることは、私にとってみほは気に食わない存在ということだ。
どうしてそれほどの実力がありながら自信を持たないのか。
どうして素晴らしい姉に恥じをかかせないよう堂々と振る舞わないのか。
──どうしてそう簡単に私に心を許すのか。
隊長はよく言っていた。
みほは誰よりも純粋で優しい。だから、本来なら戦車道をやるべき子ではないと。
事実、みほは好きで戦車道をやっているわけではないのだろう。
家元の子として生まれたから、義務としてやっているだけで。
実際戦車に乗っているときの彼女はどこか機械的で感情がなかった。
それが余計不気味で、隊員の心を遠ざけていることに彼女は気づいているだろうか。
感情を押し殺さなければみほは戦車に乗れないのだ。
その反動なのか、私の前ではどこまでも感情豊かだった。
──わたしね、エリカさんがいてくれて本当によかったって思ってるんだ。
邪気のない笑顔でみほはそう言う。
その顔を目にするたび、私は思う。
彼女はきっと普通の学園生活を望んでいるのだろう。
友人に囲まれた平和で穏やかな学園生活。
そんな憧れを私に求めているのだ。
だからこそ、私は西住みほを嫌う。
ふざけるな、と声を大にして言いたい。
私にとって戦車道は生き甲斐だ。
なのに嫌々やっているような奴に実力で負けている。そんな奴に馴れ合いを求められている。
それが腹立たしくてしょうがない。
まほ隊長の要望がなければ、私はどこまでもみほに敵意をぶつけたことだろう。
その半端な心構えを捻り潰そうとしただろう。
私はいつも一番になるために努力をしてきた。
競い合う相手によく挑発的な態度を取っていたが、最低限の敬意は評していた。
形はどうあれ彼女たちは勝負に本気で臨んでいたからだ。
けれど、みほにはそういう信念といったものがない。
そんな人間に私は負けている。
屈辱でしかない。
これほどまでに誰かに対して憎しみを覚えたのは初めてだった。
みほもとっくに気づいていたはずだ。
私が嫌っていることを。
いくら天然でも、そこまで鈍感ではないだろう。
なのに、
──ねえエリカさん……わたしのこと好き?
現実から目を逸らすように、縋るように、みほは事あるごとにそう聞いてきた。
ハッキリと言ってやりたかった。
私はお前が大嫌いだと。
言ってやりたい、はずなのに……
その決定的なひと言を、私はついぞ口にすることができなかった。
本心なのに。心から思っていることなのに、私の唇は動かなかった。
──わたしはね……
言ってしまえば楽になれるのに。
この関係に終止符を打てるのに……どうして、
──わたしはね、エリカさんのことが大好き
どうしてあなたは、そんなに私の心をかき乱すの。