君の名は。 四葉アフター《完結》   作:山中 一

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第八話

 私とお姉ちゃんは新幹線と電車を乗り継いで、岐阜県Z郡S町にやってきた。駅舎から街並を見れば、高層ビルがほとんどない田舎町だという事が分かる。それでも、和泉君が住んでいるような限界集落よりはずっと都会だ。住宅街もあれば、商店街もある。一応はオフィスビルがある地区もあるにはある。

 雲がかかってしまっているが、目を凝らせばすり鉢状の盆地を形成する山並みが見て取れる。どうして、その山並みがすり鉢状を呈しているか知っているのかというと、そのすり鉢の中に糸守町があったからだ。今はもう、山の一部が消し飛んでひょうたん型の湖となってしまったが、昔は綺麗な円形をした盆地だったのだ。

 そう、ここは糸守町の隣町だ。

 仮設住宅が建てられたのも、多くはこの町だったので、私にとっては第二の故郷とも言うべき場所だった。

 二年ほど前に改装されて、リニューアルされた駅舎を出ると、見慣れた風景が私達を待っている。駅舎は新しくなったけれど、周囲に広がる下町風の雰囲気は何年経とうと変わる事はない。多分、この町が地図から消えるその日まで、ずっとこのまま続いていく景色なのだろうと思ってしまう。

「相変わらず、何もない場所やね」

 「地元」の空気に当てられたのか、素でなまりが出てしまう。こういうのは言ってから気が付くのだ。花の東京女子高生としては、田舎っぽい口調はできるだけ抑えておきたいところだ。普段は意識的に使わないようにしているけれど、お姉ちゃんといる時や都会を離れた時など、気が抜けてなまりが出てしまう事は希によくある。

「昔はここを都会だと感じてたかと思うと不思議よね」

 お姉ちゃんもにこやかにそう答える。

「ま、糸守には何にもなかったしね」

 カフェはおろか本屋も病院もなかった故郷での生活は、ある程度の年齢を超えたら不便に思うのだろう。当時の私は小学生だったから、行動範囲が狭くて不便さをさほど感じなかったけれど、今にして思えば気軽に買い物に行けないだけでなくて、病院にも隣町に行かなければならないというのは致命的ではないか。バス一本で行けるにしても、そのバスの本数も少なかったと記憶している。

 駅前の無駄に綺麗に整えられたロータリーの外周を歩きながら、お姉ちゃんに尋ねる。

「バスまでどれくらいある?」

「んー、ちょっと待って」

 足を止めたのはバス停の前だ。

 時刻表を眺めてお姉ちゃんは腕時計と見比べる。

「後、五分もないね」

「ちょうど良かった。さすがに、この暑さの中延々と待ちたくないからねー」

 私はベンチに座り込んだ。

 焼けるような暑さに音を上げそうだ。

 予想最高気温は三十五度という灼熱世界。オマケに蒸し暑い。日本の夏の過ごしにくさは常軌を逸していると思う。

「ベンチもあつーいぃ」

「直射日光じゃないだけまだましなんだろうけどね」

「照り返しがきついよ」

 バス停はアーケードのようにロータリーの外周に備え付けられた屋根に守られていて、太陽光は遮られている。しかし、だからといって地上に降り注ぐ熱量が消え去るわけではない。アスファルトに反射した熱が顔面を焼いているのが分かる。空気そのものが熱を帯びて、呼吸する度に喉が焦げてしまいそうだ。

「これも人生の試練だ……」

「何それ」

「小学校ン時の先生の口癖」

「そんな人いたっけ」

「お姉ちゃんの時にはいなかったんじゃない? お爺ちゃん先生」

 思い出すのは白川でお坊さんをしていたという小学校の頃のお爺ちゃん先生だ。あの時点でそこそこの高齢だった。どういう経緯でお坊さんから先生に転身したのか知らないけれど、もしかしたら再任用みたいなヤツだったのかもしれない。当時は全然、そんな事を気にしていなかったから聞きもしなかった。今、どうしているのだろうか。

 さすがに、もう教師を続けてはいないだろう。

「あ、あれじゃない?」

 エンジン音を響かせてロータリーに入ってきたバスを見てお姉ちゃんが言った。

 私は立ち上がって手提げカバンを肩に担ぐ。

 案の定、バスは私達の前で止まった。

 整理券を取って乗車する。

 時間が時間だからか、バスの利用者は私とお姉ちゃんを除けば、腰の曲がったお婆ちゃんが一人だけだった。

 途中、街中を通った際に多少賑やかになったバスの車内も郊外に向かうに従って静かになっていく。気が付けば窓の外には田畑が広がっていて、利用者は私達二人だけになっていた。

 この田んぼだらけの土地に、ぽつんと五階建ての建物が建っている。田舎の安い土地をでかでかと利用した老人ホームだ。

 糸守の関係者が多く入所しているという話を前に聞いた。

 お祖母ちゃんも、その一人だ。

「おお、三葉、四葉。よく来たなぁ」

 面会室で、私はお祖母ちゃんと久しぶりに再会した。

 車椅子の上でにこやかに笑うお祖母ちゃんも、もうすぐ九十歳に手が届く。二年前に脳梗塞を患って倒れた後は、手足に若干の麻痺が残ってしまった。車椅子での生活が推奨されるくらいで、マンションではとても生活できない。当時中学生の私と大学生のお姉ちゃんしか満足に頼れる人間がいない状況ではお祖母ちゃんに何かあっても対処できない。それに要介護認定までされては施設の門を叩くしかなかった。

「お祖母ちゃん、元気そうだね」

 お姉ちゃんが荷物をソファの横に置いて、お祖母ちゃんの目の前で話しかけた。

「まあまあやな。寄る年波には勝てんわ」

「そんな事言って、ご飯食べる量増えてるんでしょ。聞いたよ」

「おや、口が軽いのがおるんやね」

 小さく驚いたような顔をするお祖母ちゃん。食欲があるのは良い事だ。

 それから二言三言お姉ちゃんはお祖母ちゃんと話をした後で、面接室から出て行った。相談員さんと話があるのだそうだ。

「四葉も久しぶりやね」

「うん、久しぶり」

「前に会った時は、三月やったかな」

「そうだね。春休みだったと思うよ」

 まだ、桜が咲く前に一度私はお祖母ちゃんに会っている。それからだから、実に四ヶ月もお祖母ちゃんと会っていなかった事になるのか。

「お祖母ちゃんは、もう慣れた?」

「ああ、みんなよう喋るわ。そうそう、ずっと連絡がつかんかった小学校の頃の同級生がこの前入所してな」

「え、小学校って。戦前?」

 その友人はお祖母ちゃんの同い年で中学校に上がる頃に、疎開のために親戚を頼って糸守を離れたのだという。

 お祖母ちゃんが生まれたのは、歴史の教科書的には満州事変の辺りで中学校に上がる頃となるとそれこそ太平洋戦争の末期に当たる。糸守は当時から田舎だったし、軍需工場もなかったので、むしろ疎開してくる人が多かったらしい。お祖母ちゃんは宮水神社の跡継ぎとしてひいお祖母ちゃんやひいひいお祖母ちゃんと一緒に少ない食料を餓えた人に分け与えたり、不安に苛まれる人達の相談に乗ったりと大忙しだったらしい。

 その頃は、今よりもずっと信仰の力が大きかったから、千年続く宮水神社の影響力はかなりのものだったのだろうと想像できる。

 それにしても、実に半世紀以上も音信不通だった同級生と老人ホームで再会する事になるなんて。

「びっくりするやろ。ここは糸守の人が多いから、そういう事もあるんやろうけどな。結局、わしら年寄りは糸守からは離れられんという事なんやさ」

「これもムスビ?」

「そう、ムスビ。人の繋がりも時間の流れも見えない糸で結びついとるでな、四葉にとって良いムスビやと思ったんなら、それは大事にせないかん」

「悪いムスビもあるって事?」

「そうやな。ムスビはすべての物事と繋がっとる。四葉が悪い事をすれば、悪いもんと結び付く。良い事をしていれば、良いもんと結び付くもんやさ」

「……それって当たり前の事なんじゃないの?」

「そうや。そんな当たり前の中に、ムスビがあるんやよ」

 小さい頃から度々言い含められてきたムスビ。

 神道の家に生まれ、神を祀る社を切り盛りしてきた宮水家の役割は多分彗星が落ちたあの日に終わったのだろう。お祖母ちゃんも、それをどことなく察しているように思う。具体的な何かがあったわけではない。だけど、お祖母ちゃんも私もあの日を境に何かが終わったと感じていた。漠然とした重荷のようなもの。知らないうちに私達を糸守にムスビつけていた糸の一つが、あの日、切れたのだ。

 だけど、人生の大半をあの土地で過ごし、宮水神社のために捧げてきたお祖母ちゃんはそれで終わる事などできないのだ。少しでも故郷の近くで終わりを迎えたい。そんな思いがお祖母ちゃんの言動の端々から伝わってくる。

 今のお祖母ちゃんは、いや、この老人ホームで暮らす多くのお年寄り達は糸守とムスビついているのではない。ムスビついていたいのだと感じた。

「四葉のほうは何か変わった事はないんか? 高校に上がって三ヶ月は経ったんやないか?」

「変わった事……あー、いや、うん。順調」

 一応、という副詞を内心でくっつけて私は答えた。

 高校生活については問題は何もない。友達はできたし、中間テストは成績上位に食い込めた。まだ、始まったばかりだけれど、スタートダッシュはばっちり決められたのだ。

 だけど、夏休みになってから心配事が増えた。まったく余計な煩わしい心配事である。田舎の男子と夢の中で入れ替わるという謎現象。これがいつまで続くのか、原因が何なのか何も分からないのが不安で仕方がない。それに、あの男は学校で色々とやらかしたらしいし。得意科目の古文の小テストで出鱈目な回答をしたのは許せん事だ。

「何やずいぶんと楽しそうやな」

「え?」

「充実しとるって顔や。気付いてないんか」

「そんな事、ないよ。全然。むしろ、先の事が心配なくらいや」

「良い事や。あんたくらいの時はそれくらいがちょうどええ。三葉にも二葉にもそんな時期はあったもんや」

「まあ、お姉ちゃんはねえ」

 お姉ちゃんが、当時かなり色々と悩んでいたのを覚えている。

 「思春期前のお子様」だった私は特に気にしていなかったけれど、口噛み酒の儀式は今振り返ってみるとやっぱり気まずい思いはするだろう。それでも東京のイケメン男子になりたがるのはどうかと思う。男子の身体って弱点丸出しだし、すぐおなか減るしやっぱり女子が良いと思うのだ。

「お祖母ちゃんも、そういう時期はあった?」

「そりゃ、あったさ。ちょうど、四葉くらいの頃か。戦争が終わったばかりで、食べる物にも事欠くような時代だったんやけどなあ、ああ、そらもう良い夢を見とった気がするんやさ」

「夢?」

「ああ、夢や。その夢の中で、わしは知らない誰かになって、知らない人生を送っとった」

 夢の中で知らない誰かになって、知らない人生を送った……?

 その話を聞いて、私の背中に氷塊が滑り落ちたような気がした。

「知らない誰かになった……」

「信じられんかもしれん。わし自身最近までずっと忘れておったわ。いつの間にか、不思議な夢を見とったくらいにしか思い出せなくなった。何せ、夢やからなぁ。夢は覚めれば、いつか消えるもんなんやさ」

「覚めれば、消える。夢だから……」

 お祖母ちゃんが言っている事が果たして私が経験している謎現象と関わりがあるのかどうかははっきりとしない。けど、お祖母ちゃんは夢の中で知らない誰かの人生を体験したと言っている。私に起こっている事と符合する点が多いと思う。

「ねえ、お祖母ちゃん」

「ん?」

「その夢の人と、会えたりした?」

 ちょっと、声が震えているような気がする。だって、ほら、これは核心にかなり近いじゃないか。もしかしたら、入れ替わりという謎現象の解明に役立つかもしれない。

 お祖母ちゃんは少しだけ悩んでから、

「もう覚えとらんな」

 と答えた。

「覚えてない」

「ああ、何せ何十年も前の事や。夢は消えて、思い出にもならん。ただ、感情だけが残る。楽しかった、良い夢やったという感情だけがわしにはあるんや。あの人がどこの誰で、今どうしているのか、それはわしには分からん事やさ」

「寂しくないの? 何ていうか、身体を交換してたようなものでしょ。もう一人の自分っていうか、片割れみたいな感じにならない?」

 どうしてか分からない。けど、私は焦ったような口調で尋ねた。自分でも何を尋ねているのか判然としないくらいに私は早口で問うたのだ。

「そうやな。わしは寂しくはなかったなぁ。多分やけど、良い別れ方をしたんやと思う。お互いが納得した上での別れは、むしろ清清しいものや。きちんと覚えとらんのが残念やなぁ」

「そういうもの……」

 うーん、何と言うか今の私には理解できない考え方だ。

 別れっていうのは、悲しさとか怒りとか負の感情が必ずあるものだと思うから。

 別れた方がいいから別れるというようなプラス思考の別れ方は、どうにもイメージできないのだ。

 まあ、あくまでも一般論としてだけど。

「四葉、あんた」

「ん?」

「あんたも、夢を見とるんやな」

 お祖母ちゃんの優しい視線が、妙に胸に突き刺さる。言葉は私の心の真ん中を射抜き、喉から変な声が出てしまった。

「あ、いや、別に」

「身体を交換するなんて表現するのは、夢を見とるもんしか言わん」

「う」

 口が滑ったと思った。

 お祖母ちゃんのここぞという時の鋭さを私は失念していたらしい。迂闊だった。

「まあ、あんたの夢はきっと良い夢なんやろうなぁ」

「良い夢? どうして」

「そりゃ、もちろん勘やさ」

「勘て」

「宮水の女の勘は伊達やないで。いつか覚めるにしても、その夢は大事にせないかん。それは四葉のためだけの夢なんやからな」

 

 

 

 ■

 

 

 

 いつか覚めるにしても――――、

 その言葉が妙に心に残った。

 今、この瞬間も私を悩ませている入れ替わり現象。それがどのタイミングで終わりを迎えるのか、私にも和泉君にも分からない。

 でも、多分ある日突然、終わりを迎えるのだろう。次が最後だとかそんな兆候もなく終わってしまうのだとすれば、やっぱりそれは――――寂しいと思う。

 お祖母ちゃんの反応からすると、入れ替わっていた事すらも忘却の彼方に飛んでいく。

 それはいやだなと思った。

 何となく。

 あの集落での暮らしも、あの家族とのふれあいも、私にとってはとても大切な思い出の一つとなっているのだから。

 お祖母ちゃんの言葉は私の中に刻み込まれてしまったみたいに脳みそに反響している。何がそんなに気にかかるのだろうかと東京に戻ってからも考えている。

 お姉ちゃんの家のいつものソファに座った私はスマホのスリープ状態を解除する。表示される時刻は午後十一時二十三分。もうすぐ日付が変わってしまう。

 ラインを起動して目的の相手トーク画面を呼び出した。

 

『今、何してる?』

 

 たった五文字を入力するのに何秒もかからない。

 入れ替わらない状態で連絡を取った事は一度もない。普通は入れ替わったその日を乗り切るための情報交換と互いの愚痴、あるいは文句の応酬だからだ。日常を普通に過ごせるのならば、連絡を取る理由がない。だから、このラインメッセージも入力はしたが送信はしなかった。急に気恥ずかしくなって、五回、一息に削除キーを連打した。十一時過ぎてるし、何してるって寝るとかネットするとかその程度に決まってるじゃないか。

「アホやなぁ」

 スマホを投げ出した私は、重くなる瞼を擦った。

 入れ替わっていない時、つまり普段の和泉君があの家で何をしているのか。私は何も知らないのだと、この時初めて気が付いた。

 なんでもなしにため息をつき、私は今日一日持ち歩いたカバンを漁る。

 取り出したのはゼロカロリーのコーラだ。あとほんの一口分だけ残っている。寝る前だけど、明日に持ち越しても仕方ない。

 私は蓋を開けて残りのコーラを一気飲みする。

「あー、生ぬるい」

 冷蔵庫に入れていなかったのだから当然だろう。生ぬるいコーラは美味しくない。

 歯を磨いて寝よう。

 そう決めて、私はソファを下りた。

 明日は、入れ替わっているだろうか。もしも入れ替わったら、何をしようか。そんな事を考えながら、私は洗面所に向かった。




母親からして魔性の女だから宮水家の女はみんなうっすらおかしいんだろうね。
四葉ですら小学生の時点で男子が身を捩って悦ぶ方法知ってるくらいだからね。

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